介入(1)
長い廊下に沿って一直線に並んでいる民事調停室は、病室を連想させる。
非公開の手続であるために一般人が見学することはできないものの、仮に調停室の中身まで覗くことができたとすれば、病室という例えがよりしっくりと来ることだろう。
この部屋の利用者の顔は、病人のように生気がない。離婚、親権、遺産相続といったトラブルを拗らせに拗らせ、当事者同士ではどうしようもない病理状態を作り出してしまった者だけが調停を利用するからである。
「申立人としましては、妻である沙穂さんは家事をほとんどやらない、ということを強く主張したいと思います」
楡の目の前で淡々と話す男性が気丈であるのは、彼が当事者本人ではなく、夫側の代理人だからである。
調停は当事者本人が出頭する場合と、依頼を受けた弁護士が代理人として出頭する場合がある。
「加えて、沙穂さんは気性が荒い性格で、ことあるごとに龍弥さんに対して、龍弥さんの人格を否定するような暴言を吐いています。沙穂さんが離婚に素直に応じないのも、こうしたモラルハラスメントの一環だと私は考えています」
弁護士はとめどなく話し続ける。
対面の男女2人の調停委員も、弁護士の主張を遮ることなく、短い相槌を打ちながら聞いている。
楡と並んでパイプ椅子に座っている三浦さんも小さく頷いているが、彼女の本当の心境はよく分からない。
たった今、楡と三浦さんが見学しているのは、離婚請求事件の調停である。
民法上、一方的に離婚を請求できるのは、相手が不倫をした場合や別居が長期間続いた場合等に限られている。それ以外の場合には、夫婦間での合意がない限りは離婚することができない。
髪型をポマードでかっちりと固めた弁護士は、自分の主張がさも正しいかのように堂々と述べているが、法律的にいえば、弁護士の主張は筋が良いものとはいえない。
離婚請求を正当化するのには足りていない。
このことは法律を齧っている司法修習生には反射的に分かることであり、法律畑出身ではない調停委員にもおそらく分かっている。
当然に、先ほどから縷縷主張している弁護士自身にだって分かっているはずなのだから、本件の調停での夫側の狙いは明確である。
なし崩し的に妻に離婚の合意させることである。
家事をしない、性格が悪い、といった妻の欠点をあげつらうことは、夫の離婚に対する強い決意を示すだけでなく、妻のプライドを傷つける。婚姻生活にしがみつこうとしている妻を振るい落とすための有効打となる。
「なお、龍弥さんには、離婚に伴って十分な財産分与や慰謝料支払を行う準備があります。これによって、沙穂さんは老後も心配なく暮らせるはずでしょう」
裁判官室で読んだ申立書によれば、龍弥は都心で数件の居酒屋を経営する社長である。
遊んで暮らせるとまではいかなくとも、破格の「手切金」が提示されていた。
「申立人の主張の骨格は分かりました。それでは、相手方と交代しましょうか」
調停は交互尋問方式で行われる。要するにターン制である。当事者同士が膝を突き合わせて話し合いができるような状態だったとしたら、そもそも調停になるはずがないため、当然の配慮である。
云十万とするであろう生地のしっかりとしたバッグに書類を詰め込むと、弁護士はそそくさと調停室をあとにした。
女性の調停委員によって替わりに部屋に招かれた女性は、「重病人」だった。
シワの目立つ肌、痩せこけた頬、杖の支えを要するとも思える覚束ない足取り。その女性-五十嵐沙穂は、まるで老婆のようだった。
しかし、楡が事前に記録で読んだところによると、沙穂さんは今年50歳になったばかりである。夫に離婚を迫られてからの日々のストレスが、彼女を一気に老けさせたのだろう。
調停委員が椅子に座るように指示するまで、自分が何のためにこの部屋に呼ばれたのかすら理解できていないかのように、沙穂さんは呆然と立ち尽くしていた。
いつも後書きが長過ぎるので、今日は黙ります(苦笑)