接近
「えー、つまり殺人遺伝子撲滅法の制定過程には今言ったような瑕疵がありまして、殺人遺伝子撲滅法が違憲であることは、手続的な観点からも裏付けられるわけであります」
楡よりも50期も上のお爺ちゃん弁護士は、法律事務所の狭い一室にギュウギュウに詰まっている5人の司法修習生の誰とも目を合わせることなく、滔滔と語った。
棒読みとも捉えられそうな語り口だが、台本やメモには一切目を通していない。おそらくは殺人遺伝子についての講演を過去にいくつもこなしているため、話すべき内容は完全に頭に入っていて、それを今は楡たちの前で再現しているだけなのだろう。
これが大学の講義で、聞いているのが大学生の頃の楡だったならば、あまりの退屈さに机に突っ伏して居眠りをしていたと思う。
しかし、今日のこの場は希望者だけが集う勉強会であり、今の楡は殺人遺伝子についてのどんな瑣末な情報であっても摂取したいと願っている。睡魔はちっとも襲ってこない。
勉強会が終わり、講師のお爺ちゃん弁護士が杖をつきながらのそのそと部屋を離れたときには、机に広げた楡のノートは小さな字でびっしりと埋まっていた。
「ねえ、楡君」
黙々と荷物をまとめ、帰り支度を進めていた楡は振り返り、声の発信源を確認する。
そこには茶色いマッシュルームカットの女性が立っていた。
「えーっと、その……」
「うちは横粂いちか」
横粂いちかは早口で名乗った。
「あーっ、あれですよね。あの……」
「いつも勉強会で一緒になる修習生。東京修習。出身は大阪やけどな。あ、楡君とは同期やから、敬語は使わなくてええで。横粂って名字も噛みそうやから、いちかって呼んでや」
いちかは楡が話し切る前に早口でまくし立てた。
しかも、楡が話そうとしていた内容を先取りして答えているようである。頭の回転がかなり速い。
「横粂さ……」
「せやない。いちかって呼んでや。うちら同志やろ」
「同志?」
「人権課題に興味を持って、同じ勉強会に参加している同志や。この御時世、弁護士が社会正義を実現するっていうのは有名無実で、みんな金儲けのことばっかり考えとる。その中で、金にならない人権問題に取り組もうとしているうちらは奇特な存在同士。仲間。同志やで」
「別に僕は人権課題全般に興味があるわけじゃないんだけど……」
「せやせや。たしかに楡君は殺人遺伝子の勉強会でしか見かけんわな。逆に殺人遺伝子の勉強会にはどこにでもおるってイメージやけど」
司法修習生を対象にした勉強会は、殺人遺伝子をテーマにしたもの以外にも多く開催されている。
大体が弁護士事務所が主催する、採用活動を兼ねたものだ。
「楡君は人権系事務所に就職したいわけちゃうん?」
「就職は特に考えてない」
「それはなおさら奇特な存在やなぁ」
いちかは感心するように大きく手を打った。
実際に今日の勉強会に参加している楡以外の修習生は就活目的で勉強会に参加しているに違いなかった。質疑応答の時間に、講師に対して積極的に質問をする姿には彼らの必死さが滲み出ていた。
「楡君、今日の懇親会には参加せえへんの?」
「え……あ、そうだね。今日はもう帰ろうかなって思ってる」
「『今日は』ちゃうよな?毎回おらんよな?」
大抵の勉強会の後には懇親会と称した飲み会が付いている。
弁護士事務所の採用活動という面では、司法修習生のコミュニケーション能力が露骨に分かる飲み会の方が勉強会よりもウェイトが大きいといえるだろう。
「懇親会の方には興味がなくて……」
「就職に興味あらへんからか?でも、就職とか関係なく弁護士先生から話聞くのはオモロイで?楡君が殺人遺伝子に興味あるんやったら、殺人遺伝子についての話も聞けるで?今日の講師の先生も、殺人遺伝子撲滅法違憲訴訟の弁護団の立ち上げメンバーやし」
「それはそうなんだけど……」
殺人遺伝子について造詣のある弁護士の話を直接聞けるということには魅力を感じる。
他方で、酒の席で殺人遺伝子について語り合うことにはリスクを感じる。
お酒に酔った勢いで柊のことを話してしまうかもしれない。
そんなことはありえないとは思いつつも、相手が殺人遺伝子撲滅法に楯突く弁護士となれば、仲間意識から油断して話してしまう可能性もゼロとは言い切れない。
「うちは楡君の話聞きたいんやけどなぁ。楡君はいつも勉強会が終わるとせかせかと帰ってまうからなぁ」
「ごめん」
「いや、謝ることはないんやで。懇親会に参加するかどうかは自由やから。でもな、せっかくの同志なんやからどっかで語らいたいわぁ、って思ってなぁ。当然、楡君は殺人遺伝子撲滅法廃止論者やろ?」
ショートカットで前歯が大きい関西人のステレオタイプ通り、いちかはよく喋り、かつ、他人の懐に簡単に入り込んでくる。決して苦手ではないものの、楡とは正反対のタイプである。
「廃止論者ではあると思う」
「じゃあ、将来弁護団とか入るん?違憲訴訟は毎年のように提起されてるで」
「その予定はないかな……」
「ええっ、もったいない。こんなに熱心に勉強しとるのに?」
いちかの視線は楡のカバンの中のノートに向けられている。
勉強会中に楡が必死でノートにメモを取るところを見ていたのだろう。
「僕は訴訟でなんとかしようとは考えてないんだよね……」
「じゃあ、どうするん?運動?ジャーナリズム?」
より正確にいえば、楡は殺人遺伝子撲滅法を廃止に追い込むことは考えていない。
もちろん、廃止できるのならばそれに越したことはないが、各地での違憲訴訟の趨勢や国会の動きを見ている限り、殺人遺伝子撲滅法が廃止される可能性があるとは到底思えない。
理屈を詰めれば、殺人遺伝子撲滅法は間違いなく憲法違反である。
ただ、国策は必ずしも正義に準拠しない。正論をいくら振りかざしたところで、一旦決まった国の判断が覆ることはないのである。
楡の目的はただ一つ。柊を救うこと。
そのためには、何も殺人遺伝子撲滅法を廃止する必要まではない。
どこかに法の抜け道を見つけ、それを利用するだけでよい。
そういう意味では、楡と、弁護士事務所が主催する勉強会とでは、需要と供給は必ずしもマッチしていない。先ほどまでお爺ちゃん弁護士が話していた殺人遺伝子撲滅法の成立過程の話だって、楡にとってはほとんど使い道のない情報だった。
「まぁ、ともかく楡君はオモロイこと考えてそうやから、近いうちに腹を割ってじっくり話したいわぁ。連絡先渡すから、携帯で連絡取り合おうや。会うなら東京と千葉の中間の錦糸町あたりがええなぁ」
楡が口を挟まずにいると、いつの間にか話は進んでいて、終いには今週末に2人で会う予定まで勝手に組まれていた。
勉強会での自己紹介や質疑応答の時間に、どの修習生よりもハキハキと喋る姿から、いちかのことは元気で積極的な子だとは思っていたが、ここまでの強引さを見せつけられると流石に面を食らう。
去り際に渡された付箋には、いちかのアドレスと「にれっち、よろしくやで〜」というメッセージが、男勝りな雑な字で書かれていた。
本日2回目の更新です。
ストックを作ると、できたてのパンをお客さんに食べてもらいたいパン屋さんよろしく、すぐに公開したくなってしまうのは僕だけでしょうか?もはやストックの意味ないですが(苦笑)
本作に感想を下さった天近嘉人さん、ありがとうございました。天近さんは僕が気に入っているなろう作家の一人です。
天近さんの作品を2つ紹介させていただきます。
「エイリアンバスターが裸エプロンで待機しているんだが」
「雪国のお姫様と裸エプロン」
両作品ともにタイトルに「裸エプロン」と付いているのは、きっと偶然であり、決して天近さんの趣味ではない…はずです(笑)
前者は、宇宙人とのバトルものというか、エイリアンバスター姉妹との間のラブコメというか、裸エプロンものです(笑)
後者は、冬の童話祭の出展作品のはずですが、教育上の観点から、決して子供には読ませたくない裸エプロンものです(笑)
裸エプロンに興味のある方もない方も、コメディー好きの方はぜひとも御覧ください。
明日と明後日は旅行で箱根に行く関係で、ともに午前10時に予約投稿させていただきます。