嫌われ者と人気者との恋愛は修羅場である
月曜日。アキラの住むボロアパートに朝日が差し込んだ。
目覚まし時計が鳴り響き、アキラの耳をつんざく。轟音を阻止したアキラは体を起こした。
ジャージを着たまま顔を洗い、髪型を整えた。
こんがり焼いた食パンを平らげた後は、歯を磨いて制服に着替えた。緑色一色のブレザーと緑色チェックのズボン。この服装は、言わばアキラにとっての勝負服だ。
「じゃあ母さん、行って来るぜ」
アキラは洋服棚の上に置かれている母親の写真に向かって手を合わせて呟いた。母親が死んでからは、写真に向かって声をかけてから出掛けるのがアキラの習慣になっていた。そうでもしなければ、母親の事を忘れそうになる。実の母親を記憶に残しておくために、アキラはこのような習慣を毎日行っている。
「さてと……」
準備を済ませたアキラはアパートを出ようとするが、咄嗟に回れ右をする。
「っと、大事なものを忘れるところだった」
枕元にある青色の蛇がデザインされたリストバンドを手に取り、右手首に着けた。マキナとの決意を示す、大切な品物。今度こそ準備は万端だ。
その時スマホが振動する。画面を見るとマキナからメッセージが来ている。
『おはよう! 昨日は楽しかったね。学校の校門前で待ってます』
アキラはメッセージに対して返信をすると、急ぎ足で学校へ向かう。マキナを待たせてはいけないし、何より早めに学校に行き、この事を伝えたかった。
空は相変わらず晴れ渡っており、朝日はアスファルトの上を明るく照らしている。春の終わりの暖かい風は、学校へ行くアキラを後押ししているようだった。
ワクワクする気持ちと不安な気持ちを胸に、学校前の坂を一気に登りきる。途中、登校中の生徒が坂を駆け上がるアキラを見て怯えている。今日のアキラの顔色はいつもほど悪くはないのだが、生まれつきの目のクマだけで悪人面に見えてしまったのだろう。
しかし、先天的に授かった顔を今更気にするアキラではなかった。
坂を登り少し進むと、巳川高校の校門が見えてきた。
大きな門の端に居たのは藤野マキナとその親友、星野ミサだった。アキラは二人に向かって手を振って挨拶をする。
「よっ」
「おはよう、アキラ君」
マキナが手を振った際に、制服のブレザーの右袖からピンク色の蛇のリストバンドが覗いていた。
アキラはこの時、返事をしてくれた二人の声に覇気がない事に気づく。近くに行ってみると、何だか不安そうな面持ちをしていた。
「? ん? どうかしたのか、二人とも」
二人の様子がおかしいと察したアキラは、丁重に声をかける。
するとミサはブレザーのポケットからスマホを取り出す。しばらく操作をしていたが、やがて画面をアキラに見せてきた。
「……なあ、宮葉はこれを見てどう思う?」
そう言ってミサが見せたのは、ツイッターのメッセージ画面だった。アキラはそれを見て眉をひそめる。
「な、なんだこりゃ!?」
思わずツッコミっぽい声を出したアキラが見たものは、「くたばれ、クソヘビが!」という短い本文と、昨日アキラとマキナがデートをしている時の画像がいくつも添付されていた。
ゲームセンターで二人でガンシューティングをプレイしているもの。
ゲームセンターでマキナが突き指をして、(可愛らしく)悶えているもの。
公園のベンチでマキナがアキラに向かって、カレーの入ったスープジャーを見せびらかしているもの。
口にだし巻き玉子を頬張りすぎて喋れなくなったアキラを見て、マキナが大笑いしているもの。
そして、百貨店の階段の踊り場でお互いに「好意の確認」をしている時のもの……などなど、実に十四個もの画像が添付されていたのだ。
「だ、誰なんだこんな事しやがったのは……!」
画面をスクロールするアキラの右手がわなわなと震えている。
「分からん、だが昨日宮葉とマキナがデートをするという事を知っていた者であることは間違いない」
「俺達の後をつけてきた奴が居るって事かよ!?」
「宮葉やマキナがそれに気がつかなかったということは、よほどストーキング能力が高いと見た」
「じょ、冗談じゃねえぞ!」
ミサの冷静な分析に対してアキラはパニック気味に頭をガシガシかいている。
「ねぇ、ミサちゃん。私達が付き合っている事、学校に知れ渡ったのかな?」
マキナは不安そうにミサに尋ねる。
「まあ、少ないともウチのクラスでほとんどのヤツがツイッターを始めとしたSNSやってるからなー。この情報が拡散されてるのは、火を見るより明らかだろうな」
「うう、こっちから伝えずとも、自然と伝わるって訳ですか……」
マキナは不安、というより疲れたという表情をしている。
確かに百貨店の踊り場であれほどの力強い決意をしたというのに、ネット上で勝手に広まったとなっては、空しくなるのは無理もないのかもしれない。
アキラにとっては二人が付き合っている事が知られるよりも、自分たちが後をつけられている事に怒りを覚えた。
そして、マキナがあんなに楽しそうにしている画像に対して「くたばれ」などというメッセージを送った人間が許せなかった。怒りがじわじわとこみ上げてくる……
「どうせクラスの誰かがデートの話を聞きつけて、こっそり後をつけてきたんだろ! クソッ、こうなったら連中に問い詰めてやる!」
アキラはそう言って、校門の奥へ突っ走って行く。
「アキラ君!?」
「おい、宮葉待てよ!」
二人は慌てて声をあげるが、アキラは既に校舎の中に入った後だった。
「ミサちゃん、あのままだと……」
「ああ、二年二組は大惨事だ!」
マキナもミサもアキラが怒るとどうなるかを熟知していたのだ。
「とにかく、わたし達も教室に急ぐぞ!」
ミサは戸惑うマキナの手を引いて、アキラの後を追った。
●
昇降口を通り過ぎて階段を駆け上がり、二年二組の教室を目指す。途中に居る生徒や教師には目もくれずに、ただひたすらに教室に向かった。
ネット上にマキナの画像を流布した人間が誰なのかは知る由もなかったが、アキラはこんな事をされるのが悔しかった。
マキナはただ、アキラの事が好きになっただけなのだ。そしてそんなアキラと楽しく遊んでいただけなのだ。
無邪気で感情豊かで、ちょっとドジで、だけど常に自分よりも相手の事を考えられる人。差別とか分け隔てという概念など恐らく持っていない、それほどまでに人と話すのが好きな人。そして、持ち前の笑顔で周囲を和ませる事ができる人……
そんな彼女がどうしてネット上で貶められなければならないのか?
三階に到着し、二年生の廊下にやってきた。教室まであと少しだ。
アキラは生徒達の間を縫って廊下を走る。走行を咎める風紀委員の注意など、耳に入りもしなかった。
五組……四組……三組……他のクラスの前を通過し、ようやくアキラのクラスである二組にたどり着いた。
アキラはドアの取っ手に手をかけ、勢いよく左にスライドさせた。
●
ガタンッという音が教室内に鳴り響き、そこから目もとに黒いクマがついた男子生徒が息を切らしながら覗きこんでいる。
アキラの視線に驚く者もいれば、舌打ちをしながらアキラを睨む者もいる。睨み付ける視線がいつもより強いと感じたアキラは、既にマキナとの関係は知られていると察した。
教室の後ろを見やると、何人かの生徒が携帯の画面をスクロールしていた。まずは手始めにその生徒から問い詰めようと、彼らのもとへ足を運ぶアキラだったが……
「宮葉君、マキナと付き合ってるの?」
突然教室の窓際からアキラを呼ぶ声が聞こえた。声の主は生徒会所属兼学級委員の、梶原アユナだった。
彼女の声には抑揚がなく、表情も悲しげだった。いつもの元気なアユナとは思えなかった。
アユナは例の拡散された画像をアキラに見せようとする。質問を受けたアキラはアユナの方を向くが、目は冷静さを失い瞬きを激しく繰り返している。
「ああ、付き合ってるよ。付き合って悪いかよ!」
「何をそんなに怒ってるの?」
「べ、別に怒ってなんか……」
問い詰められたアキラの口調は、アユナに対してキレているわけでもないのに自然と乱暴なものに切り替わる。ネットを通じて二人が付き合っていることが広まった事に、アキラはひどく動揺していた。
と、その時アユナを含む全員がアキラの背後、教室の入り口を見て目を見開いた。振り向くとマキナとミサが教室に到着していた。
「……マキナ……」
アユナは不安そうな表情でマキナを見て呟く。
教室には誰も声を出せない程の不穏な空気が漂っている。
学年中で知らない者は居ない程のマキナが、学年中で最大の問題児であるアキラと付き合い始めたなんて話を聞いたのなら、不愉快極まりないのだ。
その時、アキラの背後から突然ミサが歩み出てきた。
「みんな聞いてくれ。もう知っていると思うが、宮葉とマキナは先週から付き合い始めた。両者がお互いに好きだった事は今朝マキナから聞いた」
ミサはクラス全員に向かって冷静な面持ちで話す。マキナは親友であるミサに直接伝えたのだろう。
続いてマキナもアキラの前へ歩み出てきた。
「……これまで黙っていて、本当にごめんなさい……」
マキナは深々と頭を下げた。アキラにとっては、ゆらゆらと揺れるポニーテールが可愛らしい……なんて現実逃避をしている場合ではなかった。
ここで言わなければならない。この藤野マキナという女子生徒を心から愛しているという事を。この為に、アキラは昨日決意を交わしあったのだから……
「俺からも謝らせてくれ! 今まで黙っていて悪かった! けど俺はマキナちゃんの事を本当に、心から――」
「宮葉君にマキナを下の名前で呼ぶ資格なんてないと思うよ」
アユナはアキラの決意を、ドストレートなダメ出しで遮った。アユナの顔は、普段の明るさは感じられない。
「そもそもなんで、マキナが好きならなんで、そんな大事な事を今まで隠しておいたの? あたし達に責められるのがそんなに嫌だったの? 本当にマキナの事が好きなら、あたし達にもその気持ちを伝える事ができるはずだよ! 宮葉君にはそれができないの? 意気地がないね、宮葉君は……」
アユナは少し涙目になりながら、アキラに訴えかけた。
アキラは心臓を貫かれるような感覚を覚えた。決意ならしたはずだ。お互いに愛し合っているという契りも交わした。しかしそれでも、アキラの意志はクラスメイト達には届いていない。実際、クラス中の生徒のほとんどがアキラに対して冷ややかな目線を送っている。
「アユナ、放っときな。こいつは間違いなくボロを出すから」
「ヒロヤ……」
アユナのもとに歩み寄りながら言葉を発したのは、アユナの彼氏である久坂ヒロヤだった。
アキラより五センチ以上もの長身で、顔立ちはアキラ以上に整っている。キリッとした目つきに茶色がかった髪、そしてワイシャツの開いた胸元からは綺麗な胸板が見えている。その容姿は、さながらテレビに出るような男性アイドルのよう……
同じく彼が所属しているテニス部では、アユナと同じくエースに抜擢されている。
「宮葉、お前は僕達と関わるのが大嫌いなくせに、藤野さんが大好きって訳か――ハン、いい迷惑だ。これまで藤野さんに告白して、何人の生徒がフラれてきたか、お前分かってるのか?」
ヒロヤは腕を組んで横目でアキラを睨みながら、辛辣な言葉を発する。彼は相当モテる容姿を持ってはいるのだが、少々口が悪い。
「そんな奴等にさえ勝てないのに、藤野さんと付き合った。お前はやってはいけない事をした。お前には元々藤野さんと付き合う資格なんてない! 僕はお前が藤野さんと関わる事を認められない、認めたくもない!」
あまりに堪えたのか、アキラの口から思わず「くっ……」と小さな声が漏れた。歯をギリギリと噛みしめ、拳を強く握る。
しかしここでアキラは反抗する事ができない。マキナと付き合った事でクラスメイトから非難をされる事は、既に想定内だからだ。少なくとも自分だけに対しての非難だけならば、アキラは耐えるしかないと心の中で決意をしていた。
アユナは自分が言いたかった事をヒロヤに代弁してもらい清々したのか、表情が次第に落ち着いてきた。
クラスメイト達も「ざまあみろ」といった表情で、アキラをニヤニヤしながら見ている。
この状況、アキラの周囲は敵だらけ。正に背水の陣だ。
だが、全員がアキラの敵というわけではなかった……
「おいおい久坂、言い過ぎだろ?」
ヒロヤの発言を指摘したのはミサだった。隣に居るマキナもヒロヤを睨みつけている。
「宮葉もマキナも真剣なんだぞ。久坂はそんな二人の恋愛に水を差すってのか?」
ミサはヒロヤの近くに歩み寄る。
「真剣な恋愛に水を差すほど僕は愚かじゃないさ。僕はただ藤野さんに宮葉という虫が集らないように、本人に戒めているだけさ」
「……何!?」
アキラは今日初めてヒロヤに対して反論をした。気に入らない相手を見下す態度が我慢ならないのだ。
アキラの声でクラスメイト達は、ピシッと背を伸ばす。教室中を震撼させるには充分だった。
「そんな言い方って……」
マキナも、アキラに対して罵詈雑言を放つヒロヤが見るに堪えなかったようで、小さく呟いた。ミサは言葉を発する事なく、ヒロヤの目を見続けている。
マキナの視線はヒロヤとアキラの二人に交互に注がれていた。
「宮葉の目には真剣さが感じられない。結局藤野さんとある程度付き合って、はいさようならって結末が目に見えてる。宮葉はそういう奴なんだ。藤野さんだってそう思うだろ?」
尚も暴言を吐き続けるヒロヤは、突然マキナに振ってきた。
アキラには頭上から金槌で殴られる程の衝撃が走った。
ヒロヤに問いただされたマキナは言葉を発する事ができず、ただただ顔を曇らせるばかり……
ヒロヤは言葉を失ったマキナを見て、皮肉交じりに肩をすくめる。
「例えば勝手に家に上がりこまれて、いきなり「俺と付き合え」とか、「俺と一緒に寝ろ」って脅されたんじゃないのか? だって藤野さんの目にも真剣さが伝わってきてないもんな。絶対イヤイヤ付き合わされたに違いないさ!」
最早下品さが含まれた表情で話すヒロヤから、目を反らしたアキラは右回転した後、スライド式のドアの正面に立った。
「皆だってそう思うだろ? 宮葉に文句があるなら今この場で思う存分――」
●
教室に轟音が鳴り響いたのはその後だった。
マキナとミサは驚いて振り向く。教室に居る者は皆、アキラをただ見つめる以外できなかった。
アキラはスライド式の扉を力強く殴っていた。重たい扉は見事にへこみ、綺麗に拳の痕が付く。
「てめえは、越えちゃいけねえ一線を越えちまった!」
扉に手を押さえつけたまま、アキラはヒロヤにガンを飛ばす。ヒロヤを除いたクラスメイト達は、言葉も発せられないまま恐れおののいている。
扉から離れたアキラはそんな彼らの事など気にする事なく、手頃な椅子に手をかけ、放り投げる体勢に入った。




