14
気づくと眠っていた。
温かく甘い匂いと、何かを貪り食うアイシャの気配で、薄ぼんやりと目が覚めた。
まだ、半分眠っているような視界に、椀にかじりついているアイシャが見えた。
粥か何かを必死で啜り込んでいる。
なんという、慎みのない、女らしい嫋やかさの欠片もない姿かと、ジェレフは感心した。
アイシャは全身全霊で粥を食っていた。飢え餓えた野生の生き物のようだった。
それを見ていると、腹が減ってきた。もともと、空っぽになっていた胃が、初めてそれを自覚して、縮み上がったようだった。
それが苦痛で、ジェレフは微かに、身を捩り、呻くような息をもらした。
「お目覚めですか」
こちらに気付いたのは、アイシャではなく、ハディージャ夫人だった。
アイシャが、さらに粥を求めて突き出した椀を受け取りかけたところで、ジェレフに気付いたのだった。
女ふたりは、膳をはさんで向き合っていた。そこから、やや離れた居間の隅で、ジェレフは床に倒れて眠り込んでいた。
どうしてそうなったか、記憶にないが、壁際に敷き詰められた、素朴な刺繍のある褐色のクッションに埋もれて横たわるジェレフの体には、細かな針仕事で刺繍された、薄い綿入れの布団がかけられていた。
ジェレフは驚いて身を起こした。
どういうことかと我ながら思った。ハラルの家にたどり着いたままの、血塗れの服を、さらに皺くちゃにして、居眠りしていたらしい。束髪のままだった髪も、寝乱れて崩れ、だらしがなかった。
「お粥を用意しましたが……あのう、早く召し上がりませんと、こちらの娘さんが、全部食べてしまいそうです」
アイシャから受け取った椀に、黒い釉薬のかかった土鍋から、粥をよそいながら、ハディージャ夫人は苦笑していた。
「美味しいよ、これ。先生。すごく美味しいよ……」
感動したふうに、アイシャが振り向いて教えてきた。
その顔からは、昨夜見たような、哀れな激昂は消え、いつも通りの、他人の膳から飯を貪り食う無遠慮な様子が見えた。
ジェレフは安堵して、ため息まじりに苦笑した。
そして、ようよう身を起こし、座り直すと、ハディージャ夫人に一礼した。
「こんな失礼な体たらくで申し訳ありません」
「いいえ、お疲れでしたから。夫は、エル・ジェレフは昼までお目覚めにはならないだろうと申しておりました」
ハラルは居ないようだった。
ジェレフは目を瞬いた。
「今、何時でしょうか」
「まだ、日が上がったところです。お粥が煮える間、眠っていらしただけですわ」
では、ほんの、うたた寝だったのだ。
その割には、深く眠ったようだった。
泥のように疲れていたが、ここで少し休んだだけで、頭も体もすっきりとしていた。しかも、焼け付くような空腹だ。
遠慮していたら、アイシャに何もかも食われてしまう。
「どうぞ」
大ぶりな椀によそった粥を、ハディージャ夫人はジェレフのための膳に置き、アイシャの隣に据えた。
寝起きの面を他人の奥方に晒す羽目になるとは、何の罰があたったのかと思いながら、ジェレフはアイシャの隣にいって座り、木の匙が添えられた椀を、押し戴いてから一口食った。
押麦を、砂糖を入れた乳で煮た粥だった。ほの甘く、麦の味がして、微かに塩の味もした。
ただそれだけだったが、空きっ腹には、途方もなくしみる美味さだった。
ひと匙食って、確かに貪りたいような気がしたが、ジェレフは堪えた。
すでに全く英雄的ではない有り様だが、ここで粥を貪り食うのでは、あまりに面目がない。夫人にも非礼だろうと思った。
しかしハディージャ夫人は、そんな様子のジェレフを面白そうに見つめた。
「お口に合いませんでしたか」
「いいえ、とても美味しいです。急に押しかけまして……」
恐縮して言いかけるジェレフに、ハディージャ夫人は、ふふふと堪えた声で笑った。
なぜ夫人が笑っているのか、ジェレフには分からなかった。
戸惑って口ごもると、夫人は口元を袖で覆い、まだ微笑したままだった。
「夫が、あなたを、放っておけないと申しました」
こちらの話には一切気を向けず、真剣に粥を食っているアイシャを眺めて、ハディージャ夫人は話した。
「わたくし、実は、身籠っております」
にこにこと微笑みながら、夫人はアイシャがお代わりを要求するのを待ち受けている様子だった。
ジェレフはぽかんとして、思わず不躾に夫人の腹を見た。ゆったりとした普段着の長衣を着ているが、妊娠しているとは、着衣の上からは分からない。
「夫には、もう少し確かになってから、話すつもりでしたが、夫に思いとどまって欲しくて、私、話してしまいました」
思いとどまるとは、おそらく、町長の娘の手術のことを言っているのだろう。ハラルの妻が、泣いて止めたと、ネフェル婆さんが話していた。
「でも夫が、あなた一人に押し付けては、医師として、男が廃ると申しまして」
「巻き込んでしまい、ご迷惑を……」
夫人は面倒な問題を持ち込んできた自分を、良くは思っていないだろうとジェレフは思った。
しかし、重ねて詫びるジェレフの言葉を、ハディージャ夫人は首を振って遮った。
「いいえ。これは本来は、夫の仕事でございました。巻き込まれているのは、貴方の方です、エル・ジェレフ」
「いえ……俺は地方の患者を救うべく、玉座の命を受けて、ここへ来たので、巻き込まれているわけでは」
慌てて訂正するジェレフから、口元を袖で覆い、目を逸らして、夫人はまたくすくすと堪えた笑い声を漏らした。
「本当に、良いお方なのですね、エル・ジェレフ。英雄譚の英雄というのは、もっと威張っていて、恐ろしいお方かと。夫も、貴方を医院にお迎えする前は、気が重い、気が重いと申しておりました」
俺が来るのが気が重かったのか、ハラル先生は。ジェレフは驚いた。
「わたくしも、巡察でほんの一月ほど居るだけの方が、気まぐれに治療をするというのに付き合って、夫がパシュムでの立場を悪くするのは、良いこととは思えませんでした」
ハディージャ夫人は微笑んでいたが、憂いのある笑みだった。
「エル・ジェレフ。ご存知とは思いますが、川からやってくるこの街の風土病は、治りません。昔からそう言われておりますし、実際にそうです。治療しても、放っておいても、町長のお嬢様は結局は亡くなられるかもしれません。そのために、夫はこの街での医師としての生命を、賭けるべきでしょうか」
話しながら、ハディージャ夫人は気まずいのか、土鍋の蓋にかぶせた保温のための布を、弄っていた。布には、細かな刺繍と、縁飾りが編まれており、それはハディージャ夫人の気の長い精緻な手仕事の成果と思われた。
「わかりません。俺には」
椀の中の粥を混ぜ、ジェレフは悩んだ。
ハラルには、この街での将来がある。子を育て、年老いて死ぬまでの、長い長い時が。自分とは違って、この街で根付き、守らねばならぬものがあるのだ。
それを妨げる権利が、自分にはあるだろうか。
そう悩むと、ジェレフは胸のどこかに、じわりとした迷いを覚えた。
だがもう、腹は決まっているのだ。迷うふりをしてみたところで、結局のところ、自分の中にある信念は、常に一つだけだった。
「結局は、死ぬ定めのものを、今日一日、救ってはいけないでしょうか。戦場では、命がけで癒やした兵も、次の突撃で死ぬかもしれません。それでも、目の前で苦しんでいるものを、放ってはおけないのです。それ以上、深く考えたことが、俺にはありませんでした。俺がどうなろうが、困る者や、泣く家族が、いるわけではないので」
「まあ……」
何と受け応えるべきか困ったのだろう。ハディージャ夫人はただ、短く声を上げ、嘆息しただけだった。
「ハラル先生には、奥方と、お子さんも……おられるわけで、ここへ協力を求めたのは、軽率でした。申し訳ありません。どこか他に、頼れるところがあれば良かったですが、この街で、令嬢の施術後の経過を診るのに相応しい場所は、医院をおいては他にありません」
「仰るとおりです……」
しゅんとした様子で、ハディージャ夫人は答えた。
「夫にも、叱られました。お前も、医師の妻になったのだから、覚悟を決めるようにと」
「覚悟ですか」
なぜか、ぎくりとして、ジェレフが聞き返すと、ハディージャ夫人は無意識のように、赤子が居るという腹の方へ手をやりながら、力なく頷いた。
「医師が、患者を見捨てて逃げるのでは、敵前逃亡する兵のようなもので、世間に顔向けができぬのだそうです。それに、貴方を一人で戦わせるのでは、男が廃ると」
「でもハラル先生は散々迷っていましたよ」
そうだったはずだと、昨夜までの経過を脳裏に描きつつ、なかなか覚悟の決まらないハラルが鬱々《うつうつ》とこちらに話しているのを、ジェレフは思い出した。あんなに、くよくよと優柔不断だったくせに、家では奥方にそんな、威勢のいい大見栄を切ってみせていたとは。ハラル先生。どういうことなんだ。
そう思うジェレフの顔を見て、ハディージャ夫人は吹き出すように、くすくすと笑った。
「まあ……」
よほど面白かったのか、夫人は堪えた笑い声で、くすくすと身を折って笑った。
どうも、よく笑う人のようだった。ころころと、少女のような声で笑っている様子を見ると、可愛い女とジェレフには思えた。
こういう人を妻にして、共に生きていく生涯は、きっと楽しいのだろうな。
そう思い、ジェレフはほろ苦い笑みになった。
「夫は、もともと、気の弱い人なのです。わたくしと結婚しましたのも、父が、夫を脅しつけて娶らせたのです。わたくしの治療を夫がしまして、それでも傷が残りましたので、嫁の貰い手がないと、父が心配しまして。わたくしも、夫にするには良い人と思いましたので……」
ハディージャ夫人は照れくさいのか、うつむいて話していた。
「ハラル先生は、いい人だと思いますよ」
ジェレフは微笑して頷いた。
「でも夫は、わたくしを娶ったせいで、この街で一生を過ごすことになってしまいました。夫は本当は、王都に戻りたいのではないのでしょうか。それで、パシュムを追われ、ここから出てゆくために、この治療をすることに決めたのではありませんか?」
袖で隠した口元から、ハディージャ夫人が小声で問うので、ジェレフは、ああ、と思った。そうか。そういう考え方もある。ジェレフがハラルに王都の施療院での職を口利きしてやれるのなら、これは王都に戻りたい者にとっては、好機だ。英雄の推薦があるとなれば、家族を連れて関所を通過し、王都タンジールに向かうための手形を、地方官も発行するに違いない。
「ハラル先生が、そこまで考えているでしょうか。そういうふうには全く見えなかったんですが」
ジェレフが思わず正直に答えると、ハディージャ夫人はまた、吹き出して笑った。
「わたくしの考えすぎでしょうか」
「いや……俺の考えなさすぎかもしれないですが。そういう事に疎いもので……」
苦笑して、ジェレフはすっかり冷めた粥の椀に目を落とした。
「それは……夫と馬が合うわけですわね」
にっこりとして、ハディージャ夫人は残念そうに言った。
ジェレフは言葉に詰まった。
「これも何かのご縁でしょう。夫を、よろしくお願いします、エル・ジェレフ。これが故郷の見納めになるかもしれませんが、貴方のお人柄に触れて、わたくしも覚悟を決めました」
仕方がないな、という顔を、ハディージャ夫人はしていた。昨夜は泣いて止めたのかもしれないが、今、目の前にいる夫人は、迷っているようには見えなかった。
「いいんでしょうか」
貴女と、その、お腹の子を巻き込んでも。そういう意味合いでジェレフが口ごもると、ハディージャ夫人はまた、くすくすと笑った。
「いいも何も、もう始めてしまわれたんでしょう? 男の方って、本当に、勝手ですのね」
呆れたふうに笑っているハディージャ夫人の向かいで、アイシャが派手な音で、突然げっぷをした。それに驚き、ジェレフは隣で黙って食っていたアイシャを、やっと見つめた。
「お腹いっぱい」
空の椀を、座った膝の上にだらんと持ったまま、アイシャは眠そうに言った。
「先生。いつやるの?」
どことなく酔ったような、据わった目つきで、アイシャはこちらを見ていた。粥に酒でも入っていたのか。そんなはずはないが、アイシャは異様な目つきをしていた。
「やるって……何を?」
思わず怯んで、ジェレフは用心深く答えた。
「何をって、決まってるよ。お嬢様の足を切るのをよ」
アイシャはまるで、自分が執刀するかのように、気迫をみなぎらせていた。
粥を貪りながら、この娘なりに、何か考えを巡らせていたのか。
ジェレフが何か答えようと口を開いた時、居間の戸を開けて、ハラルが慌ただしく入ってきた。
「エル・ジェレフ。お目覚めでしたか」
ほっとした風に言うハラルの表情は強張っていた。
「亡き夫人の葬儀の件で、神殿に相談に行っていました。そこで奥方の侍女を見かけたんです」
ハラルは、まだ粥の椀を持ったままだったジェレフの向かいに、どさりと座った。
「令嬢の容体が悪いようです。昨夜、急変したのではないかと思います。侍女は奥方とともに令嬢の世話をしていたようですが、今朝、病床に食事を運んだところ、令嬢が瀕死のように見えたので、恐ろしくなって、神殿に祈りに来たと……」
早口に伝えるハラルの話の切れ目を見計らったように、ハディージャ夫人が水を注いだ杯を差し出した。ハラルはそれを何も言わず受け取り、一気に飲み干した。
空になった高杯を、ハラルはジェレフの膳に音高く置いた。
「行きましょう、エル・ジェレフ。令嬢を医院に運び、手術をしなければいけません。手遅れになって令嬢が亡くなれば、奥方も犬死です」
間近にジェレフの目を見つめて、ハラルは迷いのない声でそう言った。
ハラル先生、なんだか、いつもと違うな。まるで戦場に向かう兵士のようだ。
ジェレフはそう思いながら、黙って、ただ頷いた。




