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悪役令嬢アルベルティーヌの優雅なる日常

『悪役令嬢アルベルティーヌの優雅なる日常・六』―若獅子を盾にすんな―

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/17

前作のあとがきで、アルベルティーヌに次回をせっつかれました。


ちょうど週末です。


ならば、このビッグウェーブに乗るしかない。


ということで、あまり間を空けずに第六弾です。


今回は、かつてマルタに「育つ」と見込まれた若獅子・クラリスのお話。


正しくあろうとするほど、相手の顔が見えなくなることがある。


教えた言葉が、少し違う形で育ってしまうこともある。


そんな時、アルベルティーヌはどこまで優雅でいられるのか。


今回は、内心の猛虎がいつもより早めに檻を蹴っております。


どうぞお楽しみください。

 クラリス=フォン=ローゼンタールは、完璧に準備していた。


 完璧すぎて、アルベルティーヌは帰りたくなった。


 ローゼンタール侯爵家で開かれる、春の茶会。


 白い花で飾られた客間には銀のティーセットが並び、窓から差し込む午後の日差しが、磨き上げられた床へ淡く反射している。


 焼きたての菓子からは、蜂蜜とバターの甘い香りが漂っていた。


 そこまではよかった。


 問題は、客間の中央に一脚だけ離して置かれた椅子と、その正面に据えられた長机だった。


 机の上には紙束、インク壺、予備の羽根ペン。侯爵家の書記官までが、背筋を伸ばして座っている。


(なんで茶会に書記官がおんねん)


 アルベルティーヌは完璧な微笑みを浮かべたまま、扉の前で足を止めた。


(焼き菓子より記録用紙の方が多いやないか)


(誰や。若い子の茶会を事情聴取の会場に改装したん)


「お待ちしておりました、アルベルティーヌ様」


 クラリスが晴れやかな顔で歩み寄ってくる。


 淡い金色の髪を丁寧に結い上げ、若草色のドレスを身につけた姿は、以前よりも随分と堂々としていた。


 その手には、質問事項と書かれた紙がある。


(持つな)


(茶会の主催者が最初に客へ見せるもんちゃう)


(しかも、なんでそんな分厚いねん。菓子の献立より力入っとるやないか)


「本日はお越しいただき、ありがとうございます」


「お招きいただき、光栄ですわ」


 アルベルティーヌは優雅に礼を返した。


 背後に控えたマルタが、客間を一度だけ見渡す。


「本日は、随分と厳格な進行でございますね」


「はい。本日の茶会が始まる一刻ほど前、庭園でミレーヌ様のブローチが見当たらなくなりまして」


 クラリスは長机へ視線を向けた。


「このまま曖昧にしては、皆様が疑心暗鬼になります。ですから、誰が、いつ、どこにいたのかを確認することにいたしました」


(教えた)


(確かに、曖昧な伝聞で人を疑うなとは教えた)


(誰が、いつ、どこで、何したか確かめろとも言うた)


(せやけど、全部いっぺんに茶会へ持ち込めとは言うてへん)


「伝聞と事実を分け、当事者全員から話を聞き、記録を残します。ミレーヌ様と侍女への確認は、先ほど済ませました」


「よく学んでいらっしゃいますのね」


「ありがとうございます」


(あかん。素直に喜んだ)


(この子、褒めたら進む。しかも止まらん方向へ進む)


(今すぐ訂正するべきか。いや、皆の前で出鼻を折るんも違う)


(どうすんねん、うち)


 一脚だけ離された椅子には、リディア=ベルノー男爵令嬢が座っていた。


 十六歳になったばかりの小柄な少女で、青ざめた顔の前で両手を固く組んでいる。


 その正面には、サファイアのブローチを失くしたミレーヌ伯爵令嬢。


 長机の脇には、ローゼンタール侯爵夫人と、侯爵家で若い令嬢たちの礼法指導を務めるサヴァン夫人が座っていた。


 二人とも、クラリスの成長を見守るかのように穏やかに微笑んでいる。


(おるなぁ)


(本人より満足そうな顔した大人が、後ろに二人もおるなぁ)


「では、確認を始めます」


 クラリスが席についた。


 茶会は始まらなかった。


 事情聴取が始まった。


「リディア様。庭園から客間へ戻る際、ミレーヌ様のお席へ近づきましたね」


「は、はい」


「何のためですか」


「ミレーヌ様の侍女が手袋を落とされたので、拾おうと……」


「質問にだけお答えください」


 クラリスの声は落ち着いている。


 言葉遣いも正しい。怒鳴ってもいないし、最初から犯人と決めつけてもいない。


 ただ、質問の途中で事情を切った。


(切ったらあかんところを切った)


(事情を聞く場で、事情を削ってどうすんねん)


(うちが教えたんは、余計な決めつけを捨てろいう話や。説明まで捨てろとは言うてへん)


「ミレーヌ様のお席へ近づいた。これは事実ですね」


「はい。ですが、わたくしはブローチには触れておりません」


「触れていないことを証明できますか」


(悪魔の証明を十六の子に投げんな)


 アルベルティーヌは紅茶を持ち上げた。


 口元へ運びかけて、止める。


 リディアの椅子は、他の令嬢たちが作る輪から一歩分だけ離されていた。


 ほんの一歩。


 けれど、その一歩が、彼女を客人ではなく疑われる者へ変えている。


(質問より先に、この椅子がもう結論言うてしもてる)


(正しい手続きの顔して、答える前から立場決めとるやないか)


「お嬢様。紅茶が冷めます」


 マルタが小声で告げる。


「ええ。いただいておりますわ」


(飲めるか。目の前で若獅子が尋問官に進化しとるんやぞ)


(しかも材料の一部は、たぶんうちが与えた)


(責任者、うちか?)


(いや、書記官まで呼んだ覚えはない。そこは絶対ほかにおる)


 クラリスは質問書へ目を落とした。


「先ほど、ミレーヌ様のお席へ近づいた理由は、手袋を拾うためとおっしゃいました。しかし侍女の証言では、手袋はすでに侍女自身が拾っていたそうです」


「わたくしが屈んだ時には、そうだったのかもしれません。ですが、本当に――」


「推測ではなく、確認できた事実だけをお願いいたします」


 リディアの唇が震えた。


 客間にいる令嬢たちは、誰も口を挟まない。


 ここで余計なことを言えば、次に一脚だけ離された椅子へ座らされる。


 そう思わせるには十分な配置だった。


「庭園から客間へ戻るまでに、ミレーヌ様の近くにいたのは、あなたと侍女だけです」


「はい」


「ミレーヌ様の胸元からブローチがなくなっていることに、気づいていましたか」


「い、いいえ。気づいておりませんでした」


「本当に?」


「はい」


「では、なぜ先ほどから言葉に詰まるのですか」


「わ、わたくしは、その……」


「質問が聞こえませんでしたか」


「聞こえております」


「でしたら、お答えください」


(ちゃう)


(正しいけど、ちゃう)


(質問聞こえてへんのと違う。怖くて頭回らんようになってるんや)


 アルベルティーヌは、クラリスの横顔を見た。


 真剣だった。


 意地悪をしているつもりはない。


 家格の低い令嬢を侮っている様子もない。


 だからこそ、止めなければならない。


 自分は公平だと信じている者ほど、自分が相手へ与えている圧力に気づきにくい。


「リディア様」


 クラリスが少し身を乗り出した。


「黙っていては、何も分かりませんわ」


 アルベルティーヌの内側で、檻の扉が一枚外れた。


(黙ってるんちゃう)


(喋れんようにしたん、あんたや)


(止めろ、うち)


(今止めんかったら、この子、ほんまに殿下と同じ場所まで行くぞ)


「クラリス様」


 声は、驚くほど穏やかに出た。


「少し休憩にいたしましょう」


「ですが、まだ確認すべき点がございます」


「休憩ですわ」


 クラリスが言葉を止める。


 マルタは無言で、アルベルティーヌの手元へ蜂蜜飴を一つ置いた。


「まだ不要ですわ」


「念のためでございます」


 客間の隣にある小さな談話室へ、アルベルティーヌはクラリスを連れていった。


 扉が閉まる。


 クラリスはすぐには口を開かなかった。


 背筋を伸ばし、胸の前で両手を重ねている。姿勢は整っていたが、指先だけが強く組まれていた。


「……わたくしは、何か間違えましたか」


「ええ」


 アルベルティーヌは即答した。


 クラリスの顔が固まる。


 もう少し言葉を選ぶべきだったかもしれない。


 だが、隣の客間には今も、一脚だけ離された椅子へ座らされている少女がいる。


 悠長に遠回しな話をしている場合ではなかった。


「どこがでしょう」


 クラリスの声が硬くなる。


「わたくしは、アルベルティーヌ様から教わった通りにいたしました。伝聞と事実を分け、当事者の言葉を聞き、記録を残しています」


「そうですわね」


「誰か一人の証言だけで決めつけてもおりません。ミレーヌ様にも、リディア様にも、同じ質問項目を用意しております」


「同じ質問項目を用意した、という意味ではそうでしょうね」


「では、何がいけなかったのですか」


(怒っとるな)


(そら怒るわな。うちの言うたこと真面目に覚えて、準備して、完璧にやったつもりなんやから)


 クラリスは遊び半分で、あの場を作ったのではない。


 正しくあろうとした。


 身分や感情で人を裁かず、事実によって場を収めようとした。


 だからこそ、厄介だった。


「質問は、事実を確認するためのものです」


 アルベルティーヌは静かに言った。


「ですが、相手が答えられる状態かどうかを確かめることも、手続きの一部ですわ」


「リディア様は答えていました」


「最初は」


「途中から黙ったのは、説明に矛盾があったからです」


「怯えたからではなく?」


「怯えているからといって確認をやめれば、真実には辿り着けません」


「そうかもしれませんわね」


 アルベルティーヌがあっさり認めると、クラリスはわずかに勢いを削がれた。


 それでも、すぐに顔を上げる。


「でしたら――」


「なぜ、リディア様の椅子だけを離したのです?」


 クラリスが言葉を止めた。


「あれは、ほかの方から余計な助言を受けないようにするためです。証言が周囲の言葉に影響されてはいけませんので」


「なぜ、皆様の前で質問したのです?」


「密室で話を聞けば、後から内容を捻じ曲げられるおそれがあります。公開の場なら、誰も勝手なことはできません」


「書記官を置いた理由は?」


「記録を残すためです。言った、言わないを防げます」


「なるほど」


 アルベルティーヌは頷いた。


「一つずつ聞けば、どれももっともらしい理由ですわ」


 クラリスの表情が、わずかに緩む。


「では」


「ですが、それを全部まとめた結果、どうなりました?」


 その緩みが消えた。


「疑われた令嬢だけを皆様から離して座らせ、大勢の視線へ晒し、発言を一字一句記録させる場ができました」


「それは、正確さを保つために必要な――」


「その席へ、あなたが座らされたとしても?」


 クラリスの唇が止まった。


「皆様に囲まれて、自分だけ一脚離されて。目の前には質問書を持った方がいて、横では書記官が、あなたの言葉を一つ残らず書き取っている」


「わたくしなら、事実を話します」


「本当に?」


「はい」


 答えは早かった。


 けれど、目はわずかに揺れた。


「言い間違えたら、どうします?」


「訂正します」


「訂正した瞬間、先ほどの発言と違うと言われても?」


「それは……理由を説明します」


「説明の途中で、『質問にだけ答えてください』と止められても?」


 クラリスの指が、さらに強く組まれた。


「わたくしは、リディア様が余計な話で事実を曖昧にしないように――」


「手袋を拾おうとした理由は、余計な話ですの?」


「結果として、手袋には触れていませんでした」


「結果が違ったから、話す必要がない?」


「そういう意味ではありません」


「けれど、あなたは聞かなかった」


 談話室に沈黙が落ちる。


 クラリスは視線を逸らした。


 それでも、まだ折れなかった。


「わたくしは、殿下のように決めつけてはおりません」


(出た)


(『自分はあいつとは違う』思うた瞬間が、一番危ないんや)


「ええ。決めつけてはいませんわ」


 アルベルティーヌは微笑んだ。


「殿下は最初から答えを決めておられました。あなたは、リディア様が怯えていることに気づかないまま、自分が納得できる答えを得るまで質問を続けました」


「わたくしは、自分が納得する答えを求めたのではありません!」


 クラリスの声が初めて大きくなった。


「誰も不当に扱わないために準備したのです。お母様にも、サヴァン夫人にも相談しました。お二人とも、曖昧な情けを挟まず、厳正に進めるべきだと――」


 アルベルティーヌの眉が、わずかに動く。


(お母様と、サヴァン夫人)


(やっぱり後ろにおるんか)


 だが、今はそこではない。


 大人に促されたとしても、客間で質問していたのはクラリスだ。


「クラリス様」


「わたくしは、間違ったことをしたくなかったのです」


 クラリスはアルベルティーヌの言葉を遮った。


「以前のわたくしは、何も知らず、何も考えず、ただ家の教えに従っていました。けれど、アルベルティーヌ様にお会いして、それではいけないと知りました」


 声が震える。


 怒りだけではなかった。


「誰かが偉いから正しいのではない。皆が言っているから事実になるのでもない。きちんと確かめなければならないと、教えてくださったではありませんか」


「ええ」


「だから確かめました!」


「いいえ」


 アルベルティーヌは、今度ははっきり否定した。


「あなたは、問い詰めました」


 クラリスが息を呑む。


「違いが、分かりません」


「確かめる者は、答えを聞きます。問い詰める者は、自分が納得する答えが出るまで質問を続けます」


「わたくしは、そのような――」


「リディア様が黙った時、あなたは何を見ていました?」


「何を、と申されましても」


「彼女の顔を見ましたか」


 クラリスが黙る。


「手が震えていることに気づきました?」


「……」


「呼吸が浅くなっていたことは?」


「……いいえ」


「では、何を見ていたの?」


 クラリスの視線が、ゆっくりと下がった。


「質問書を……」


「そうですわね」


 アルベルティーヌの声が、少しだけ柔らかくなる。


「あなたは、相手ではなく、手順を見ていた」


「ですが、手順を守らなければ、公平には」


「公平とは、誰の顔も見ないことではありません」


 クラリスが顔を上げる。


「全員の顔を、同じように見ることですわ」


 その言葉は、クラリスの中へすぐには入らなかった。


 彼女は俯き、唇を噛んだ。


「……では、わたくしは、どうすればよかったのですか」


 先ほどまでの反論とは違う。


 少し投げやりで、悔しさの混じった声だった。


「皆の前で聞けば圧力になる。別室で聞けば密室になる。記録を取れば威圧になり、取らなければ後で争いになる。相手が怯えたからと質問をやめれば、何も分かりません」


「全部やめろとは申しておりません」


「ですが、何をしても間違いになるではありませんか」


「ならへん」


 クラリスが目を見開く。


 アルベルティーヌは、自分の口から漏れた音を聞き、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


(あかん。今のは出た)


 だが、ここで優雅に言い直しても遅い。


「一個ずつ選べ言うてんねん」


「……アルベルティーヌ様」


「全員の前で聞く必要があるんか。書記官を置く必要があるんか。一人だけ席を離す必要があるんか。全部いっぺんにやったら怖いやろって話や」


 クラリスは呆然としている。


「手続き覚えたからって、相手の顔見んでええわけちゃうで」


「……今、虎が」


「出ておりませんわ」


「先ほどより明確に」


「気のせいです」


「ですが、アルベルティーヌ様ご自身が――」


「気のせいですわ」


(半分どころか、肩まで出たな)


 クラリスは何か言おうとして、やめた。


 しばらくして、小さく息を吐く。


「……リディア様は、わたくしを怖がっていましたか」


「ええ」


 アルベルティーヌは誤魔化さなかった。


「とても」


 クラリスの肩が落ちる。


 そこへ、控えめなノックの音がした。


「失礼いたします」


 マルタが談話室へ入ってくる。


「先ほど、ミレーヌ様が庭園でお召しになっていた外套と、使用された膝掛けを確認していただきました」


 クラリスが顔を上げる。


「ブローチは、外套の裏地から見つかりました」


「裏地から?」


「外套を脱いだ際に留め金が外れ、ほつれていた裏地の隙間へ入り込んでいたそうでございます」


 クラリスの顔から血の気が引いた。


「わたくしたちは……外套を確認していません」


「庭園と客間だけを捜索されたと伺いましたので、念のため侍女へお願いいたしました」


(ほら見ぃ)


(人ひとり座らせる前に、服一着ちゃんと見ぃや)


 アルベルティーヌは内心で頭を抱えながらも、クラリスから目を逸らさなかった。


 クラリスは、組んでいた指をほどいた。


「リディア様に謝ります」


「ええ」


「まず、皆様の前で、リディア様を疑う根拠がなかったことを訂正します。そのうえで、謝罪はこの場で申し上げることと、別室でお話しすることのどちらをお望みか、リディア様に伺います」


「それがよろしいでしょう」


 クラリスはしばらく黙った後、俯いた。


「……わたくしが今戻って謝っても、怖がらせた事実は消えません」


「消えませんわ」


「許していただけないかもしれません」


「ええ」


「それでも、謝るのですか」


「許していただくためではありません」


 アルベルティーヌは静かに首を振った。


「あなたが壊したものを、直し始めるためですわ」


 クラリスは長く黙った後、扉へ向き直った。


「椅子を戻します」


「ええ」


「書記官にも、一度筆を置いていただきます」


「それがよろしいでしょう」


「そして、リディア様に伺います。どうしてほしいのかを」


 アルベルティーヌは、ようやく微笑んだ。


「まずは、そこからですわ」


 客間へ戻ると、ミレーヌ伯爵令嬢は見つかったブローチを前に、真っ赤になっていた。


 リディアはまだ、一脚だけ離された椅子に座っている。


 クラリスは書記官へ筆を置くよう告げ、自分の手で椅子を元の輪へ戻した。


 そして、その場にいる全員へ向き直る。


「リディア様を疑う根拠はございませんでした。ブローチは、ミレーヌ様の外套の裏地から見つかりました」


 クラリスはリディアの前まで歩き、膝の上で固く組まれた手を見つめた。


「そのうえで、わたくしから謝罪させてください。この場で申し上げることと、別室でお話しすること。どちらをお望みですか」


 リディアは驚いたように顔を上げた。


 しばらく迷った後、膝の上で手を握り直す。


「……皆様の前で、お願いいたします。疑われたのも、皆様の前でしたから」


「分かりました」


 クラリスは深く頭を下げた。


「わたくしは、ブローチが見つかっていないというだけで、あなたを疑われる側へ追い込みました。答えにくい状況を作り、怖がっていることにも気づかず、質問を重ねました。わたくしの確認不足と、不適切な進め方によって、あなたの名誉を傷つけました。申し訳ありません」


 主語がある。


 行為も、結果もある。


 言い訳はない。


(よう言うた)


 アルベルティーヌの内側で、虎が一度だけ座った。


「わたくしも、申し訳ありませんでした」


 ミレーヌもリディアへ頭を下げる。


「ブローチがないと気づいて動揺し、あなたが近くにいたと申し上げました。疑いを向けるきっかけを作ってしまいました」


 リディアは二人を見た。


「すぐに許せるかどうかは、分かりません」


「はい」


 クラリスは顔を上げた。


「すぐに許していただけないことも、受け止めます。お答えくださり、ありがとうございます」


 客間に張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。


 これで終わればよかった。


「まあ、クラリス」


 ローゼンタール侯爵夫人が、困ったように微笑んだ。


「やはりあなたには、まだ少し早かったようね」


 サヴァン夫人も扇を広げる。


「若さゆえに、張り切りすぎてしまったのでしょう。アルベルティーヌ様も、どうか寛大にお考えくださいませ」


「今回は失敗でしたが、よい経験になりましたわ」


 侯爵夫人が娘の肩へ手を置く。


「わたくしたちは、クラリスに成長の機会を与えただけですもの」


 アルベルティーヌは、ゆっくりと二人を見た。


(わたくしたち?)


 視線を、長机へ移す。


 人数分に整理された質問用紙。


 あらかじめ呼ばれていた書記官。


 疑われた者だけを孤立させるように置かれた椅子。


(この子ひとりで用意したんちゃうんか)


「クラリス様」


「はい」


「質問事項は、どなたがお作りになったの?」


 クラリスが母親を見た。


「サヴァン夫人に、確認すべき項目をご助言いただきました」


「書記官を呼んだのは?」


「お母様です」


「席の配置は?」


「皆様の前で曖昧にしない方がよいと、お母様とサヴァン夫人が」


 アルベルティーヌの前へ、マルタが蜂蜜飴を置いた。


 今度は二つだった。


「アルベルティーヌ様」


 クラリスが小さく首を振る。


「これは、わたくしの失敗です」


「ええ。あなたの失敗ですわ」


 アルベルティーヌは、はっきりと言った。


「リディア様の顔を見ず、覚えた手順だけを振り回した。それは、あなたが謝り、あなたが直すべきことです」


「はい」


「ですが、あなた一人の責任ではありません」


 侯爵夫人が眉を寄せる。


「公爵令嬢様。クラリスを庇ってくださるお気持ちはありがたいのですが――」


「誰が庇う言うた」


 客間が凍った。


 アルベルティーヌ自身も、内心で凍った。


(あ)


(出た)


 だが、出たものは戻らない。


「この子が間違えたんは事実や。そこは本人が謝って、本人が直す。せやけどな」


 アルベルティーヌは長机を指した。


「椅子並べたん誰や。書記官呼んだん誰や。質問書いたん誰や。この子に『侯爵家の令嬢として場を収めろ』言うたん、誰や」


 侯爵夫人の頬が引きつる。


「それは、教育のために――」


「うまくいったら『我が家の若き才媛』。失敗したら『若さゆえ』。えらい都合ええ教育やな」


「そのようなつもりではございません」


「ほな、どんなつもりやったか、自分の口で言うてみ」


 侯爵夫人は黙った。


 サヴァン夫人が代わりに口を開く。


「わたくしたちは、クラリス様に実践の機会を差し上げただけです。すべてを周囲が整えてしまっては、ご本人の成長になりませんもの」


「整えてるやろが」


 アルベルティーヌの声が一段低くなる。


「質問書も作った。席も決めた。書記官まで置いた。前へ出すところまで全部整えといて、失敗した時だけ『本人の経験』で済ますんか」


「ですが、最終的に進行を決めたのはクラリス様です」


「せやから、この子の責任は消えへん言うてる」


 アルベルティーヌはクラリスを一度見た。


「この子がしたことは、この子が背負う。あんたらがさせたことは、あんたらが背負え。それだけの話や」


 誰も答えない。


「前に出すんやったら、後ろに立て。背中押したんやったら、倒れた時に手ぇ出せ。責任取る気もないくせに、若い子の正しさを自分らの道具にすんな」


 サヴァン夫人が扇を握り締める。


「わたくしたちは、クラリス様の成長を願って――」


「願っただけで書記官は来ん。椅子も勝手に並ばん。質問書も空から降ってこん」


 アルベルティーヌは、机の紙を一枚持ち上げた。


「行為には、やった奴がおる。結果には、背負う奴がおる。若い子だけ前に置いて、自分らの主語消すな」


 マルタが静かに蜂蜜飴の包みを開いた。


「若獅子を育ててる顔して、その子を盾にすんな!」


 声は客間を突き抜け、開け放たれた窓の外まで届いた。


 花壇の手入れをしていた庭師が、驚いた顔でこちらを振り返る。


 アルベルティーヌは、その姿を視界の端に捉えた。


(……やってしもた)


 客間は静まり返っていた。


 侯爵夫人は扇を開くことも忘れ、サヴァン夫人は質問書を握ったまま動かない。先ほどまで俯いていた令嬢たちも、目を見開いてアルベルティーヌを見ている。


 マルタだけが平然と、開封した蜂蜜飴を差し出した。


「お嬢様」


「……いただきますわ」


 アルベルティーヌは蜂蜜飴を口へ入れ、何事もなかったように姿勢を正した。


「クラリス様。あなたは、リディア様にしたことについて、ご自身で責任をお取りなさい」


「はい」


 クラリスは真っ直ぐに答えた。


「今後、わたくしが誰かから事情を伺う時には、質問の内容だけではなく、場所と人数と相手の状態まで考えます」


「ええ」


 クラリスは母親とサヴァン夫人へ向き直った。


「お母様。サヴァン夫人」


 二人から返事はない。


「今日の場を、わたくし一人の判断で設けたことにはしないでください」


「クラリス」


「質問書を作った理由と、書記官を呼んだ理由と、あの席を選んだ理由を、リディア様へ説明してください」


 侯爵夫人の顔に、初めて明確な動揺が浮かんだ。


「それは、後ほど家族で――」


「リディア様のいない場所で説明しても、リディア様には届きません」


 クラリスは、わずかに声を震わせながらも母親を見続けた。


「わたくしだけに責任を取らせないでください。けれど、わたくしの責任も奪わないでください」


 アルベルティーヌは、口の中で蜂蜜飴を転がした。


(育つなぁ)


(やっぱり、この子は育つ)


 侯爵夫人は長く沈黙した後、ようやくリディアへ向き直った。


「……わたくしが書記官を呼び、席の配置を決めました。クラリスに経験を積ませることを優先し、あなたがどのように感じるかを考えておりませんでした」


 サヴァン夫人も扇を閉じる。


「質問事項を作成したのは、わたくしです。形式を整えることばかり考え、質問される方への配慮を欠きました」


 リディアは、すぐには何も言わなかった。


 やがて、小さく頷く。


「説明していただき、ありがとうございます」


 許すとは言わなかった。


 それでよかった。


 アルベルティーヌは席を立った。


「それでは、わたくしは失礼いたしますわ」


 声も、歩き方も、礼の角度も完璧だった。


 少なくとも、侯爵家の玄関を出るまでは。


 帰りの馬車へ乗り込むと、アルベルティーヌは背もたれへ身を預け、額に手を当てた。


「……また、やってしまいましたわ」


「はい」


 向かいに座るマルタは平然としている。


「そこは少しくらい、否定してくださってもよろしいのよ」


「庭師まで振り返っておりましたので」


「見えていましたわ」


 マルタは何事もなかったように、蜂蜜飴の袋を閉じる。


「今回は、クラリス様を少し諭して、優雅に帰る予定でしたの」


「途中までは完璧でございました」


「途中までは」


 アルベルティーヌは窓の外を見た。


「……ずいぶん、響いていました?」


「庭園の端にいた御者が、門番へ確認する程度には」


「何をですの?」


「虎が出たのか、と」


「出てへんわ!」


 マルタが、もう一つ蜂蜜飴を差し出した。


「まだ出ています」


「……知っていますわ」


「クラリス様は、大丈夫でしょう」


「そうかしら」


「ご自身の失敗と、周囲の責任を分けて考えておられました」


 アルベルティーヌは、掌の上の蜂蜜飴を見つめた。


「若獅子は、爪のしまい方から覚えるものですわ」


「それを教えた直後に、お嬢様はすべての爪をお出しになりましたが」


「言わなくてよろしくてよ」


 馬車が王都の石畳を曲がる。


 道端にいた従僕が、すれ違った馬車の御者へ何かを囁いていた。


「まさか、もう噂が?」


「侯爵家の門番から、隣家の従僕へ伝わったようでございます」


「早すぎるやろ!」


 マルタが、蜂蜜飴をもう一つ差し出した。


「本日は、蜂蜜飴の減りが早うございますね」


「誰のせいやと思ってますの」


「お嬢様ご自身かと」


「……正論は時と場所を選びなさい」


「本日のお嬢様へ、そのままお返しいたします」


 アルベルティーヌは反論を諦め、蜂蜜飴を口へ入れた。


 ――ヴァルモン公爵令嬢は、若獅子へ爪のしまい方を教えた。


 その直後、若獅子を盾にした大人たちへ、自分の爪をすべて出した。


 本人は帰りの馬車で、静かに頭を抱えていた。

【作者】

前作のあとがきでアルベルティーヌにせっつかれたので、週末のビッグウェーブに乗って第六弾まで持ってきました。


【アルベルティーヌ】

書き溜めあったくせに、何言っとんねん。


【作者】

開幕から刺すやん。


【アルベルティーヌ】

しかも道民なのに、ビッグウェーブだの猛虎弁だの、ずいぶん忙しい方ですわね。


【マルタ】

海と虎を同時に扱っております。


【作者】

ジャンルが渋滞してる。


【アルベルティーヌ】

それで、波には乗れまして?


【作者】

乗ったというか、途中から原稿に引きずり込まれた。


【マルタ】

当初は五千字程度のご予定でしたね。


【作者】

クラリスが育った。


【アルベルティーヌ】

本文まで若獅子扱いなさらないで。


【作者】

でも、質問書を持たせて、尋問させて、大人の責任まで掘ったら、そら育つやろ。


【マルタ】

途中でお嬢様の爪も増えておりました。


【作者】

増えてへん。最初から全部ある。


【アルベルティーヌ】

出す予定はございませんでしたのよ。


【作者】

「若獅子を盾にすんな!」まで叫んどいて?


【アルベルティーヌ】

予定では、もう少し優雅に諭して終えるはずでした。


【マルタ】

途中までは完璧でございました。


【作者】

途中までは。


【アルベルティーヌ】

お二人とも、そこを繰り返さなくてよろしくてよ。


今回は、かつてマルタに「育つ」と見込まれた若獅子・クラリスのお話でした。


正しいことを知っていても、それを正しく使えるとは限りません。


手続きを守ることと、目の前の相手を見なくてよいことは、同じではない。


そして、若い者を前へ出した大人が、成功すれば自分たちの功績、失敗すれば本人の未熟さとして片づけるのも、やはり違うと思います。


クラリスは間違えました。


けれど、自分の責任を認めたうえで、その背後にいた者たちの責任まで曖昧にはさせませんでした。


たぶん彼女は、これからもっと強くなります。


爪のしまい方を覚えながら。


【作者】

なお、その前で見本を見せるはずだった方は、今回も全部出しました。


【アルベルティーヌ】

誰のことでしょうね。


【マルタ】

庭師と門番と御者が存じております。


【アルベルティーヌ】

広まりすぎではなくて?


【作者】

週末のビッグウェーブやから。


【アルベルティーヌ】

その波、今すぐ止めなさい。


【作者】

無理です。もう乗りました。


【マルタ】

正確には、流されておられます。


【作者】

最後まで正論で刺すな!


お読みいただき、ありがとうございました。

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