第9話 氷解の兆しと、招かれざる声
明日から2〜3日お休みします。
あの日、ルカに初めて挨拶を返してから、私たちの間には言葉にできない「連帯感」が芽生えていた。
過酷な労働が続くこの不毛な集積所において、彼は常に一定の距離を保ちながらも、さりげなく私を気遣ってくれた。絶望の淵に立たされた私にとって、その付かず離れずの距離感は、何よりも心地よいものだった。
ある日の午後。早春の鋭い風が倉庫の隙間から入り込み、埃を舞い上げている。太陽は出ているものの、石造りの建物内は底冷えがし、かじかんだ指先は感覚を失いつつあった。私は連日の睡眠不足と、寒さによる体力の消耗で、視界がチカチカと火花を散らしているのを感じていた。
重い木箱を抱え上げ、一歩を踏み出そうとした瞬間、頭の芯が急激に冷たくなる感覚に襲われた。
「あっ……」
踏ん張りの効かなくなった膝が折れ、私は木箱ごと地面に倒れ込んでしまった。鈍い音が響き、周囲の視線が突き刺さる。石畳の上の冷たい泥が私の頬を汚し、膝からは鋭い痛みが這い上がってきた。
倒れた私に対し、周囲の労働者たちは関わらぬよう目を逸らしたが、一人だけ迷わず駆け寄ってきた影があった。
「三番さん! ……大丈夫? 無理をしすぎだよ」
ルカだった。彼は慌てて私の脇を支えると、力強く私を引き起こした。そのままよろめく私を、少しでも風の当たらない日向へと運んでくれる。
遠くで監督役が舌打ちをしてこちらを睨みつけていたが、ルカが「すみません! すぐに休ませて戻しますから、大目に見てください!」と、いつもの明るい声を張り上げると、厄介払いするように視線を外した。
冷えた壁に背を預けた私に、ルカは自分の水袋を差し出した。
「……ごめんなさい、ルカ。また、あなたに迷惑をかけてしまって」
掠れた声で謝る私に、彼は困ったように眉を下げた。
「いいんだよ、そんなこと。それより、ほら、水を飲んで。少し休まないと、本当に倒れて取り返しのつかないことになる。……君はいつも、自分を追い込みすぎだ」
手渡された水袋には、彼の体温が微かに残っていた。それを口に含むと、強張っていた喉の奥がゆっくりと解けていくようだった。
ふと、水を飲む私の横で、膝を抱えて座るルカの手が目に入った。
かつての私なら、目も向けなかったであろう、泥と傷にまみれた大きな手。寒さで赤らみ、節々が太くなり、あちこちに重労働でできたマメがある。
その手を見たとき、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。私のような「没落した罪人の娘」だけでなく、彼自身もまた、この冷たい風の中で必死に生きている一人の人間なのだ。その当たり前の事実に、私は今さらながら気づかされた。
「ねえ、ルカ……。どうして、あなたはそんなに明るく振る舞えるの? こんな場所にいて……辛くないの?」
思わず零れた問いに、ルカは一瞬だけ意外そうな顔をして空を見上げた。高い窓から差し込む、白っぽい春の光を見つめながら、彼は穏やかに笑った。
「辛くないって言ったら嘘になるかな。僕だって、たまには美味い酒を飲んで、ふかふかの暖炉の前で寝たいよ。……でもさ、ここで腐っていても何も始まらないだろ? どんな最悪な場所でも、こうして誰かと話して、笑い合える一瞬があれば……人間は意外と、明日もやっていけるもんなんだよ」
その言葉は、あの日、高い場所から私を断罪したレオンハルトの冷徹な言葉よりも、ずっと深く私の心に染み渡った。
正論で私を断罪する者ではなく、同じ地べたに這いつくばりながら、共に寒さに耐えようとしてくれる者の言葉。
私は、自分が少しずつルカという存在に救われていることを確信していた。カイル様という、失った大きな穴を埋めるのではなく、その穴だらけの私の心の隣に、彼がそっと座って、冷たい風を遮ってくれているような……そんな穏やかな感覚。
「……ありがとう。ルカ。あなたがいてくれるから、私、今日も生き延びられる気がするわ」
私が勇気を出して、震える声で感謝を伝えると、ルカは少し照れくさそうに自分の後頭部を掻いた。
「はは……。そう言ってもらえると、凍えながら藪の中を這いずり回って見つけてきた野いちごも、報われるってもんだよ」
そう言って、彼は悪戯っぽく笑った。
この人と一緒なら。この暗い集積所での生活も、いつか終わりが来るその日まで、人としての心を失わずに耐えられるかもしれない。そう、心から信じ始めた時だった。
翌朝。広場に、再びあの不吉なほど規律正しい蹄の音が響き渡った。
集まった労働者たちの合間を縫って現れたのは、レオンハルト総督の従事官だった。彼は騒がしいざわめきを一瞥で黙らせると、重々しく一通の公文書を開いた。
「管理番号三番、エリザ・パピア。……直ちに身支度を整えよ。総督閣下が、貴殿との『直接尋問』を命じられた。馬車が待機している、速やかに同行せよ」
その宣告に、周囲がどよめいた。私は足の指先から凍りついていくような感覚に陥り、その場に釘付けになった。
隣に立っていたルカが、はっとしたように私を見つめる。その瞳にあるのは、ただ純粋な、大切な仲間を案じる不安と戸惑いだけに見えた。
「……三番さん……」
ルカの声を背中に受けながら、私は再び、あの琥珀色の瞳が待つ冷たい監察府へと連行されていった。




