第8話 泥濘(ぬかるみ)の安息
レオンハルトが嵐のように去ってから、倉庫の空気は以前にも増して刺々しいものに変わっていた。一度は死を覚悟した監督役たちは、その恐怖を晴らすかのように、最も立場の弱い私たちへの締め付けを強めていた。
特に、私への視線は日を追うごとにねっとりと、嫌悪感を催すような色を帯びていった。
「三番、……おい、三番。お前、よく見ればやはりいい肌をしているな」
夕暮れ時、作業が終わる直前を狙ったかのように、監督役が近づいてきた。彼は私の背後に立つと、わざとらしく汚れを払うふりをして、掌で私の肩から背中をなぞった。その指先が震えているのは、怒りではなく、獲物を前にした下劣な高揚のせいだ。
「この汚れきった集積所には、お前のような『しおらしい女』は場違いなんだよ。……どうだ、今夜俺の詰所に来い。お前のその細い腕を壊すような重労働から、外してやってもいいんだぞ」
彼の低い声が耳元でうごめき、吐き気が喉元までせり上がる。私は恐怖で身をすくませ、石畳を見つめて拳を握りしめた。ここで拒絶すれば、明日からはさらに苛烈な罰が待っている。かといって、この男に触れられるくらいなら――。
「――監督、そんなところで何をしているんですか?」
その時、静かだがよく通る声が、粘ついた空気を切り裂いた。
ルカだった。彼は数冊の古い帳簿を抱え、軽やかな足取りで私たちの間に割り込んできた。
「監督、困りますよ。王都から連絡があったばかりじゃないですか。総督閣下の直属部隊が、近々『抜き打ちの再監査』に来るかもしれないって。もし、そこで労働者への不適切な接触が見つかったら……今度こそ、監督の立場がなくなっちゃいますよ」
「な、何だと……? そんな話、聞いていないぞ!」
「僕が今、耳にしたんですよ。それとも、僕が代わりに総督府へ『監督は忙しくて、監査の準備どころではないようです』って報告しておきましょうか?」
ルカはいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。監督役は顔を真っ青にして私の体から手を離すと、吐き捨てるように「……ちっ、興が削がれたわ!」と叫び、逃げるように去っていった。
残されたのは、泥だらけの床に立ち尽くす私と、ルカだけだった。
「……また、助けてくれたのね」
私は掠れた声で呟いた。ルカは肩をすくめ、帳簿を脇に抱え直した。
「助けたなんて、大げさだよ。……でも、あんな人に触れられるのは、気分の良いものじゃないだろ? 抜き打ち監査の話も、まあ、半分は嘘だしね」
事もなげにそう言ってのける彼に、私は目を見開いた。
ルカは私を救うために、総督の名前を出し、監督役の恐怖心を巧みに操ったのだ。
「どうして……。そんなことをしたら、あなたまで疑われるかもしれないのに」
「言っただろ、三番さん。あんたが倒れると、僕の仕事が増えて困るんだよ。それに……」
ルカはそこで言葉を切り、私に一歩近づいた。
彼は懐から、汚れのない真っ白な手ぬぐいを取り出すと、監督役が触れた私の肩を、払うようにそっと拭った。その動作は驚くほど丁寧だった。
「あんたは、泥の中にいても、そういう汚いものに染まっちゃいけない気がするんだ。……理由は自分でもよく分からないけどね。あんたが何者なのか、僕には関係ないよ」
ルカの瞳は、穏やかに笑っていた。
けれど、以前夜中に感じた、あの私の心を探ろうとするような鋭い熱が、その瞳の奥に微かに明滅しているような気がして、私は咄嗟に視線を逸らした。
私を「不要な物」として切り捨てたレオンハルト。
そして私を「守るべき物」として甘く包み込もうとするルカ。
私は、ルカが差し出した手をすぐには掴めなかった。誰かを信じるということが、今の私には、再び裏切られるための準備のように思えてならなかったから。
それでも、翌朝、私の枕元に置かれていた、昨日とは違う瑞々しい「野いちご」の輝きを前にしたとき、私の心は初めて、小さな音を立てて震えた。
「三番さん。今日も一日、何とか生き延びようね」
作業場に向かう途中でそう言って笑いかけてくるルカに、私は消え入りそうな声で
「……おはよう」
とだけ、初めて自分から挨拶を返した。




