第6話 再会
その日は、夜明け前から不穏な静寂が倉庫を支配していた。
普段は怒鳴り散らしているだけの監督役たちが、今日は幽霊のように青ざめた顔で、執拗に床の汚れを磨かせている。王都から「影の近衛局」による緊急監査が入るとの報せは、この吹き溜まりに生きる者たちにとって、死神の訪れにも等しい衝撃だった。
私は、ルカと目を合わせないよう、深く俯いてその時を待っていた。泥にまみれた手足を隠すように、ボロボロの裾を握りしめる。石畳から伝わる底冷えが、ひび割れた膝を無慈悲に刺した。
やがて、数台の漆黒の馬車が、乾いた音を立てて倉庫の正面に止まった。
馬のいななき、重厚な扉が開く鈍い音。そして、複数の軍靴が硬い石畳を規則正しく、残酷な律動で叩き始める。私はただ、地面のひび割れを見つめ、自分がただの風景の一部であることを願っていた。
「――物流の滞りは王国の損失だ。王太子殿下の名により、すべての物資および管理体制を厳密に監査する」
その声が、静まり返った倉庫の天井に鋭く響き渡った瞬間。
私の世界は、音を立てて砕け散った。
心臓が、喉元までせり上がるような衝撃。
忘れるはずがない。あの日、私の隣で「春には湖へ」と甘い未来を囁いた、あの低く澄んだ声。耳の奥に心地よく残っていたはずのその響きが、今は氷の刃となって私の鼓膜を切り裂いた。
(……カイル、様……?)
名前を呼ぶことさえ許されないのに、唇が震える。私は、してはいけないと分かっていながら、ゆっくりと顔を上げた。
埃の舞う高い天井。天窓から差し込む薄汚れた光の中に、銀色の甲冑を纏った騎士たちの中央に、その男は立っていた。
かつての柔らかな髪は短く冷徹に切り揃えられ、その輪郭は以前よりも鋭く、人を寄せ付けない高貴な威圧感を放っている。彼は、カイルという偽名を捨て、私からすべてを奪い去った執行者
――レオンハルトだった。
監督役が額の汗を拭い、卑屈な笑みを浮かべて彼に歩み寄る。
「はっ、レオンハルト総督! このような辺境までご足労いただき、光栄の至りに存じます。物資の管理に一点の不備もございません。労働者どもも、厳格に統制しておりますゆえ!」
「管理、か」
レオンハルトは監督役が差し出した分厚い帳簿を、黒い手袋を嵌めた手で無造作に受け取った。パラパラとページをめくる指先は、かつて私の指に琥珀を滑り込ませた時と同じ、驚くほど長く、形が良い。
「国家の物資を預かる身でありながら、わずかな私欲のために数字を書き換える者が後を絶たない。……帳簿に一文字でも事実と異なる点があれば、それが何を意味するか分かっているな?」
「め、滅相もございません……!」
監督役の声は震えていた。レオンハルトは冷淡な眼差しで、検品される荷物のように倉庫内の労働者たちを端から一瞥していく。
そして。
彼の琥珀色の瞳が、労働者の列の端にいた私を捉えた。
時が、静止した。
泥に汚れた頬、寒さと重労働で節くれ立った指先。今の私は、彼がかつて微笑みかけ、大切に名を呼んだ「エリザ」の残滓でさえない。
一瞬、本当にわずか一瞬。
彼の瞳の奥が、鋭利な刃物のように細められた。
私は息をすることさえ忘れ、その瞳を見つめ返した。その瞳の奥に、かつてのカイルを探そうとしたのか。それとも、今の私を蔑んでほしかったのか。
けれど、次の瞬間。
「……異常なし。次へ行く。滞りは許さん」
彼は何事もなかったかのように、氷壁のような冷たさで視線を外し、背を向けた。
そこに一片の感傷も、動揺もなかった。
まるで、検品の途中で見つけた、使い道のない壊れた瓦礫を視界から排除したかのような、完璧な無関心。
軍靴の音が遠ざかっていく。
彼が去った後の倉庫には、ただ冷たい隙間風と、より深く重くなった静寂だけが取り残された。
「……三番さん。大丈夫……? 顔色がひどいよ」
隣で跪いていたルカが、そっと私の袖を引いた。その声には案じる響きが混じっている。
私は答えられなかった。
一瞬だけ合った、あの琥珀色の瞳。
あれは、私を「知っている者」の目ではなかった。
価値のない「物」を視界の隅で確認し、そして捨て去っただけの、硝子の瞳だった。
私は震える自分の手を、そっと膝の上で重ねた。
泥だらけの指先は、もう何も掴むことができない。
死にきれない私がまだこの世界に存在しているという事実だけが、ただ静かに、重くのしかかっていた。




