第5話 灰色の繭と陽だまり
私の世界は、完全に灰色の繭に包まれていた。
朝、夜明け前の冷たい空気の中で目を覚まし、ひび割れた手足に古い布を巻きつける。
仕事は、朝から晩まで終わることのない荷運びだ。一日に運ぶ革袋の数は、私の空虚な記憶よりもずっと多い。
誰とも目を合わせず、誰とも口を利かない。
そうしていれば、いつか私という存在そのものが、この倉庫の石畳に同化して消えてしまえるのではないか。そんなことばかりを考えていた。
けれど、その静寂は、隣に配属されたルカという青年によって、無残にもかき乱されることになった。
「三番さん、おはよう! 今日の朝焼け、見た? 雲がオレンジ色で、すごく綺麗だったよ」
朝一番、ルカの弾んだ声が飛んでくる。
私は答えず、黙って泥のついた革袋を肩に担ぐ。肩に食い込む重みが、私が生きている唯一の証明だった。
「おっと、それは重そうだ。半分、こっちに分けなよ。僕はこれでも力が自慢なんだ」
ルカは私の返事も待たず、軽々と荷物の半分を奪い取っていく。
彼は不思議な男だった。この荒んだ集積所には似つかわしくない、育ちの良さを感じさせる端正な顔立ちをしていた。けれど、その振る舞いはひどく気さくで、誰に対しても分け隔てがない。
最初は、私から何かを奪おうとしているのかと身構えた。
けれど、彼は何も欲しがらなかった。ただ、私の隣にいて、他愛もない話を一方的にし続けるだけ。
「昨日のスープ、少しだけ塩気が強かったよね。でも、たまにはあんな刺激も悪くないかな」
「……仕事に、集中して」
私がようやく絞り出した一言に、ルカは
「あはは、怒られちゃった」と嬉しそうに笑う。
彼は、私がどんなに無視をしても、どんなに冷たい視線を向けても、決して私を「物」としては扱わなかった。それが、今の私には酷く痛かった。
ある日、作業中に指先を鋭い木枠で深く切ってしまった。
血が溢れ、石畳に赤い点を作る。けれど、私は痛みを感じなかった。ただ、汚してしまった荷物の心配をして立ち尽くす私に、ルカが飛んできた。
「三番さん! 血が出てるじゃないか。じっとしてて」
彼は迷いなく自分の清潔な手拭いを取り出し、私の指を包み込んだ。
その手の温かさに、私は反射的に身を引こうとした。
「……触らないで。汚れるわ」
「汚れるもんか。君の手は、こんなに頑張って働いてる、立派な手だよ」
ルカの瞳に、一片の軽蔑も、同情もなかった。そこにあるのは、純粋な案じだけだ。
私の喉の奥が、熱く、苦しくなる。
やめて。優しくしないで。
一度でもその温もりを知ってしまえば、また「明日」を期待してしまう。
裏切られた時の、あの焼けるような絶望を、私はもう二度と引き受けられない。
「三番さん……エリザ、さん」
ルカが、囁くような小さな声で、私の名を呼んだ。
その瞬間、私の全身を鳥肌が駆け抜けた。
「……どうして、その名を」
「あ、いや! 監督が帳面を見て言ってたのを聞いたんだ。ごめん、勝手に呼んで」
ルカは慌てて取り繕ったが、その瞳には一瞬だけ、深い、深い悔恨の色が混じった気がした。
けれど、今の私にはそれを追求する気力さえなかった。
「エリザ」――。
ルカがその名を口にした瞬間、心臓を直接掴まれたような衝撃が走った。
監督役の帳面を見たのだと彼は言ったが、どこまでが真実で、どこからが罠なのか。誰かが私の素性を探っているのか、それとも過去から追手が来たのか。一度すべてを失った彼女にとって、「信じる」という行為は、今や身を滅ぼす毒でしかなかった。
翌朝、重い足取りで現場に向かった彼女の隣に、ルカは昨日と変わらぬ屈託のない笑顔で現れた。
「三番さん、……じゃなかった。やっぱり三番さんって呼ぶね。嫌な思いをさせてごめんよ」
彼は深く反省したように眉を下げたが、その瞳にはどこか温かな色が宿っている。エリザは何も答えず、ただ黙々と重い荷を運び続けた。
作業の合間、ルカは周囲を警戒するように見回すと、彼女の作業着のポケットに何かを素早く滑り込ませた。
「……何?」
「内緒。あとで、一人の時に食べて」
昼の短い休憩時間。倉庫の影で配給の硬いパンを噛みしめながら、エリザはポケットの中身を取り出した。
それは、小さな紙に包まれた「砂糖菓子」だった。
王都の高級店にあるような洗練された形ではない。けれど、包みを解いた瞬間に漂った甘い香りは、この泥にまみれた世界のどんなものよりも鮮やかに、彼女の記憶を揺さぶった。
『エリザ様、王都で一番評判の菓子です。きっとお気に召すと思って』
かつてカイルが屋敷に持ってきてくれた、あの甘い声と柔らかな微笑み。
(……やめて)
エリザはこみ上げる吐き気を堪えるようにして、砂糖菓子を口に放り込んだ。
甘い。あまりに甘すぎて、目の奥が熱くなる。
もう二度と、あんな幸福を信じてはいけない。ルカの真っ直ぐな優しさは、今の彼女にとって、最も恐ろしい「毒」だった。
その日の夕刻、空は急激に色を変え、激しい雨が降り出した。
トタン屋根を叩く雨音が騒がしく響く中、エリザはずぶ濡れになりながら、中庭の物資に防水布をかけようと必死に動いていた。
「三番さん、危ない!」
突風に煽られた布が彼女の体を巻き込み、バランスを崩した。
石畳に叩きつけられると思った瞬間、逞しい腕が横から彼女を強く抱き寄せた。
「っ……大丈夫かい? 無茶しすぎだよ」
雨に打たれながら、ルカが彼女の肩を強く支えていた。
あまりの距離の近さに、エリザは息が止まった。泥と雨の匂いの中で、かつて庭園で転びそうになった自分を支えてくれたカイルの体温が、残酷なほど鮮明に重なったからだ。
「放して、ルカ。……放して!」
エリザは悲鳴に近い声を上げ、彼を激しく突き放した。
ルカは驚いたように目を見開き、雨の中でずぶ濡れになったまま震えている彼女を見つめていた。
「ごめん……。ただ、君に怪我をしてほしくなくて」
「……優しくしないで。お願いだから」
エリザは震える肩を抱きしめ、逃げるように倉庫の奥へと消えた。
頬を伝うのが雨なのか涙なのかも分からぬまま、彼女は暗闇の中で、二度と戻らぬ琥珀色の光を思って、声もなく泣き続けた。
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