第4話 泥に沈む琥珀
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屋敷から父が連れ去られたあの日を境に、私の世界からは「音」が消えた。
伯爵家の資産はすべて王室に没収され、屋敷には赤い封蝋がなされた。
昨日まで私に傅いていた使用人たちは、蜘蛛の子を散らすように去っていった。ある者は罵声を浴びせ、ある者は私の首飾りに手をかけて毟り取った。
私は、ただ立っていた。
広大な玄関ホールで、埃の舞う中で、空っぽになった自分の手を見つめていた。
「……行かなければ」
どこへ。何のために。
分からないまま、私は一着の古い外套を羽織り、最低限の着替えだけを包みにして屋敷を出た。門を出る際、背中に石を投げられた気がしたが、痛みは感じなかった。心の中に空いた巨大な穴が、あらゆる感覚を飲み込んでしまっていたから。
街並みは、昨日まで見ていた景色と同じはずなのに、今の私にはまったく別の場所に見えた。
人々の話し声が、私を嘲笑う棘のように聞こえる。「売国奴の娘」「父を売って生き延びた女」。
レオンハルト――あの人があの日、大衆の面前で放った「協力に感謝する」という言葉が、呪いとなって私を縛り付けていた。
私は彼を憎むことさえ、自分に許さなかった。
騙された私が愚かだったのだ。彼にとっては私は、任務という正義を成し遂げるための、単なる「道具」に過ぎなかった。それを愛だと思い込み、頬を染めていた自分を思い出すたび、胃の奥からせり上がるような嫌悪感に襲われた。
宿を転々とするうちに、手元の金は底を突いた。
最後に残ったのは、薬指に嵌まったあの琥珀色の指輪だった。
路地裏にある、薄汚れた質屋の窓口にそれを置く。
「……これを、お金に」
店主は片眼鏡で指輪を眺めると、鼻で笑った。
「パピア家の紋章入りか。縁起が悪いが、石は本物だ。銀貨五枚でどうだ」
五枚。私の人生を狂わせ、父を牢獄へ送った代償が、たった五枚。
私は何も言わず、差し出された薄汚れたコインを受け取った。
指輪がなくなった右手の薬指は、驚くほど軽かった。それと同時に、自分の一部が永遠に死んだことを悟った。もう、誰かを信じることはない。誰かに名を呼ばれて心躍らせることも、未来を夢見ることも、二度と。
私は名前を捨てた。
エリザ・パピアという女は、あの朝に死んだのだ。
今の私は、ただ空腹を満たし、雨風を凌ぐ場所を探すだけの、名もなき塊だった。
流れ着いたのは、王都の北端にある巨大な物資集積所だった。そこは、戦地に送る乾燥肉や小麦粉を詰め込み、馬車へと積み込む、過酷な下働きの現場。
監督役の男に「働けるか」と問われ、私は一度だけ頷いた。
「名前は?」
「……ありません。何とでも、呼んでください」
「ふん。じゃあ、お前は今日から『三番』だ。西棟の倉庫へ行け」
三番。
その響きは、私にとって救いだった。
エリザと呼ばれれば、あの人の声を思い出してしまう。パピアと呼ばれれば、父の絶叫を思い出してしまう。
番号で呼ばれることは、私が「物」になれた証だった。
石畳の上を這い回り、泥にまみれて重い革袋を運ぶ毎日が始まった。
冬の寒さが、ひび割れた指先に染みる。食事は硬いパンと、具のないスープ。けれど、それで良かった。
何も考えず、何も期待せず、ただ与えられた場所で、枯れていくのを待つ。
それが、自分を売った男への、そして裏切られた父への、私なりの弔いだった。
そんな灰色の生活が始まって半年が過ぎた頃。
私の隣に、新しい作業員が配属された。
「隣、いいかな? 僕はルカ。今日からここで働くことになったんだ。よろしくね、三番さん」
明るく、場違いなほどに人当たりの良い声。
私は顔を上げず、ただ黙々と革袋の紐を縛った。
私の静かな絶望の中に、新しい波紋が広がろうとしていた。
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