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壊れた約束の、その先で  作者: 月詠


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偽りの春

ご訪問ありがとうございます。

毎日朝6時に更新しております。

ひと時の間、物語をお楽しみいただければ幸いです。

 エリザ・パピアの毎日は、驚くほど静かだった。


 伯爵家の一人娘として、王都の喧騒から少し離れた屋敷で暮らしている。朝は鐘の音よりも早く目を覚まし、侍女に手伝われながら身支度を整える。淡い色のドレスを選び、髪をゆるくまとめ、装身具は最低限。派手さはないが、清潔で落ち着いた装いだった。


 朝食は父と二人きりだ。

 広すぎる食堂で向かい合って座り、必要なことだけを短く言葉にする。


「今日は来客がある」


 父がそう告げたのは、スープを半分ほど飲み終えたころだった。


「……どのような方ですか」


 エリザが尋ねると、父はナイフでパンを切りながら答える。


「仕事の関係者だ。紹介を受けてな」


 それ以上の説明はない。

 エリザはそれ以上、聞かなかった。

 父は昔からそういう人だ。必要なことしか語らず、娘にも仕事の話を持ち込まない。エリザ自身、それを不満に思ったことはなかった。

 自分は、父の仕事とは別の場所にいる。

 その距離が、心を穏やかに保ってくれていた。


 昼前、屋敷の玄関が慌ただしくなった。執事の足音、低く落ち着いた男の声。エリザは居間で刺繍をしていたが、呼ばれて立ち上がる。


「お客様が到着なさいました」


 居間に通された男は、思っていたよりも若かった。背は高く、姿勢が良い。外套を脱いだ姿は派手ではないが、よく仕立てられた服に包まれている。肩にかかるほどの長さの髪はきちんと整えられ、顔立ちは穏やかで、どこか柔らかさを残していた。


 視線が合うと、彼は自然に微笑み、軽く頭を下げた。


「初めまして。カイルと申します」


 名乗り方は丁寧で、声は低すぎず、耳に残る。


「娘のエリザです」


 父がそう紹介すると、カイルは改めてエリザに向き直った。


「お会いできて光栄です」


 形式的な言葉のはずなのに、不思議と冷たく感じなかった。

 それだけのやり取りなのに、胸の奥が静かにざわめいた。理由は分からないまま。

 その日から、カイルは何度か屋敷を訪れるようになった。父と書斎で話すことが多かったが、時折エリザも同席する。


「退屈ではありませんか」


 そう声をかけられたのは、三度目の来訪だった。


「いえ」


 短く答えると、彼は少しだけ安心したように笑った。


「それなら良かった」


 会話は多くない。けれど、沈黙が重くならない。

 エリザは気づいていた。この男は言葉を選んで話している。相手の反応をよく見て、踏み込みすぎない距離を保っている。それが、心地よかった。



 ある日、庭を歩いていると、偶然カイルと鉢合わせた。


「散歩ですか」


「はい。少し気分転換に」


「この庭は静かでいいですね」


 二人で並んで歩く。花の名前、天気の話、本当に些細なこと。それでも、エリザは自分がよく話していることに気づいた。

 母のこと。昔読んだ本のこと。一人でいる時間が好きなこと。

 カイルは遮らずに聞いた。


「……あなたは?」


 そう返すと、彼は少し考えてから答えた。


「今は、ここに来るのが楽しみです」


 それ以上は言わない。

 けれど、その言葉だけで十分だった。



 その夜、エリザは寝台に横になりながら、昼間の会話を思い返していた。特別なことは何もない。触れたわけでも、甘い言葉を交わしたわけでもない。それなのに、胸の奥に温かいものが残っている。


(……変ね)

 そう思いながら、目を閉じた。



 カイルが屋敷を訪れる日は、エリザの一日が、わずかに違って流れた。朝の身支度の最中、今日は来るだろうかと考えている自分に気づき、そのたびに小さく首を振る。


(ただの来客よ)


 そう思い聞かせても、午後になると自然と居間に長く留まるようになっていた。


 その日、父とカイルの話は長引いた。エリザは同席を求められず、書斎の外で待つことになる。廊下の窓を開け、風を入れていると、背後から声がした。


「お待たせしてしまいましたか」


 振り返ると、書斎から出てきたカイルがいた。


「いいえ。今来たところです」


 自然と、そう答えていた。


「それなら良かった」


 彼はそう言ってから、一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。


「……少し、歩きませんか」


 庭のことだろう。エリザは短く頷いた。

 庭は午後の光に満ちていた。

 石畳の小道を並んで歩く。以前よりも、距離が近い。


「最近、よくここに来るでしょう」


 エリザが言うと、カイルは苦笑した。


「そうですね。迷惑ではありませんか」


「いいえ」


 即答だった。

 それに気づいて、少しだけ視線を落とす。


「……父も、信頼しているようですし」


 言い訳のような言葉だった。


「それは光栄です」


 彼は冗談めかして言ったが、声は穏やかだった。


「でも、あなた自身は?」


 その問いに、エリザはすぐ答えられなかった。


(私は、どう思っているの)


 沈黙が流れる。


「……話しやすい方だと思っています」


 ようやく出た言葉は、思っていたよりも素直だった。

 カイルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。


「それは嬉しいですね」


 歩いているうちに、エリザは自分が笑っていることに気づいた。

 何が可笑しいわけでもない。ただ、隣にいることが自然だった。


「あなたは、王都が長いのですか」


「いえ。ほとんど旅をしていました」


「……大変そうですね」


「慣れています」


 少し間を置いてから、彼は続けた。


「でも、ここは落ち着きます」


 その言葉が、胸に残った。



 夕方、別れ際。

 玄関まで見送ると、カイルは立ち止まり、エリザを見た。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ」


 一瞬の沈黙。


「……エリザ様」


 名を呼ばれた音が、耳に残る。


「また、来てもいいでしょうか」


 当たり前の問いのはずなのに、胸がわずかに跳ねた。


「……父が許せば」


 そう答えると、彼は安堵したように笑った。

 扉が閉じたあと、エリザはしばらくその場に立っていた。

 心臓が、少し早い。

 理由は分からない。

 けれど確かに、彼が来る日を待っている自分がいる。



 その夜、寝台に入ってからも、庭での会話が何度も思い返された。

 名前を呼ばれた声。

 隣を歩いた距離。

 穏やかな視線。


(……これは、何)


 まだ答えは出ない。

 けれど、この静かな日常が、少しずつ形を変え始めていることだけは、はっきりと分かっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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皆様の応援が、物語を完結させる力になります。

よろしくお願いいたします!

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