偽りの春
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エリザ・パピアの毎日は、驚くほど静かだった。
伯爵家の一人娘として、王都の喧騒から少し離れた屋敷で暮らしている。朝は鐘の音よりも早く目を覚まし、侍女に手伝われながら身支度を整える。淡い色のドレスを選び、髪をゆるくまとめ、装身具は最低限。派手さはないが、清潔で落ち着いた装いだった。
朝食は父と二人きりだ。
広すぎる食堂で向かい合って座り、必要なことだけを短く言葉にする。
「今日は来客がある」
父がそう告げたのは、スープを半分ほど飲み終えたころだった。
「……どのような方ですか」
エリザが尋ねると、父はナイフでパンを切りながら答える。
「仕事の関係者だ。紹介を受けてな」
それ以上の説明はない。
エリザはそれ以上、聞かなかった。
父は昔からそういう人だ。必要なことしか語らず、娘にも仕事の話を持ち込まない。エリザ自身、それを不満に思ったことはなかった。
自分は、父の仕事とは別の場所にいる。
その距離が、心を穏やかに保ってくれていた。
昼前、屋敷の玄関が慌ただしくなった。執事の足音、低く落ち着いた男の声。エリザは居間で刺繍をしていたが、呼ばれて立ち上がる。
「お客様が到着なさいました」
居間に通された男は、思っていたよりも若かった。背は高く、姿勢が良い。外套を脱いだ姿は派手ではないが、よく仕立てられた服に包まれている。肩にかかるほどの長さの髪はきちんと整えられ、顔立ちは穏やかで、どこか柔らかさを残していた。
視線が合うと、彼は自然に微笑み、軽く頭を下げた。
「初めまして。カイルと申します」
名乗り方は丁寧で、声は低すぎず、耳に残る。
「娘のエリザです」
父がそう紹介すると、カイルは改めてエリザに向き直った。
「お会いできて光栄です」
形式的な言葉のはずなのに、不思議と冷たく感じなかった。
それだけのやり取りなのに、胸の奥が静かにざわめいた。理由は分からないまま。
その日から、カイルは何度か屋敷を訪れるようになった。父と書斎で話すことが多かったが、時折エリザも同席する。
「退屈ではありませんか」
そう声をかけられたのは、三度目の来訪だった。
「いえ」
短く答えると、彼は少しだけ安心したように笑った。
「それなら良かった」
会話は多くない。けれど、沈黙が重くならない。
エリザは気づいていた。この男は言葉を選んで話している。相手の反応をよく見て、踏み込みすぎない距離を保っている。それが、心地よかった。
ある日、庭を歩いていると、偶然カイルと鉢合わせた。
「散歩ですか」
「はい。少し気分転換に」
「この庭は静かでいいですね」
二人で並んで歩く。花の名前、天気の話、本当に些細なこと。それでも、エリザは自分がよく話していることに気づいた。
母のこと。昔読んだ本のこと。一人でいる時間が好きなこと。
カイルは遮らずに聞いた。
「……あなたは?」
そう返すと、彼は少し考えてから答えた。
「今は、ここに来るのが楽しみです」
それ以上は言わない。
けれど、その言葉だけで十分だった。
その夜、エリザは寝台に横になりながら、昼間の会話を思い返していた。特別なことは何もない。触れたわけでも、甘い言葉を交わしたわけでもない。それなのに、胸の奥に温かいものが残っている。
(……変ね)
そう思いながら、目を閉じた。
カイルが屋敷を訪れる日は、エリザの一日が、わずかに違って流れた。朝の身支度の最中、今日は来るだろうかと考えている自分に気づき、そのたびに小さく首を振る。
(ただの来客よ)
そう思い聞かせても、午後になると自然と居間に長く留まるようになっていた。
その日、父とカイルの話は長引いた。エリザは同席を求められず、書斎の外で待つことになる。廊下の窓を開け、風を入れていると、背後から声がした。
「お待たせしてしまいましたか」
振り返ると、書斎から出てきたカイルがいた。
「いいえ。今来たところです」
自然と、そう答えていた。
「それなら良かった」
彼はそう言ってから、一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。
「……少し、歩きませんか」
庭のことだろう。エリザは短く頷いた。
庭は午後の光に満ちていた。
石畳の小道を並んで歩く。以前よりも、距離が近い。
「最近、よくここに来るでしょう」
エリザが言うと、カイルは苦笑した。
「そうですね。迷惑ではありませんか」
「いいえ」
即答だった。
それに気づいて、少しだけ視線を落とす。
「……父も、信頼しているようですし」
言い訳のような言葉だった。
「それは光栄です」
彼は冗談めかして言ったが、声は穏やかだった。
「でも、あなた自身は?」
その問いに、エリザはすぐ答えられなかった。
(私は、どう思っているの)
沈黙が流れる。
「……話しやすい方だと思っています」
ようやく出た言葉は、思っていたよりも素直だった。
カイルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「それは嬉しいですね」
歩いているうちに、エリザは自分が笑っていることに気づいた。
何が可笑しいわけでもない。ただ、隣にいることが自然だった。
「あなたは、王都が長いのですか」
「いえ。ほとんど旅をしていました」
「……大変そうですね」
「慣れています」
少し間を置いてから、彼は続けた。
「でも、ここは落ち着きます」
その言葉が、胸に残った。
夕方、別れ際。
玄関まで見送ると、カイルは立ち止まり、エリザを見た。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
一瞬の沈黙。
「……エリザ様」
名を呼ばれた音が、耳に残る。
「また、来てもいいでしょうか」
当たり前の問いのはずなのに、胸がわずかに跳ねた。
「……父が許せば」
そう答えると、彼は安堵したように笑った。
扉が閉じたあと、エリザはしばらくその場に立っていた。
心臓が、少し早い。
理由は分からない。
けれど確かに、彼が来る日を待っている自分がいる。
その夜、寝台に入ってからも、庭での会話が何度も思い返された。
名前を呼ばれた声。
隣を歩いた距離。
穏やかな視線。
(……これは、何)
まだ答えは出ない。
けれど、この静かな日常が、少しずつ形を変え始めていることだけは、はっきりと分かっていた。
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