第10話「移譲と漂流」
いったい、何が起こったんだ。
アランは呆然と、襲いかかってくる波を見ていた。
「中尉! 逃げてください! 波がやってきます!」
軍曹の叫ぶ声が、アランを現実に引き戻す。
重たい身体に鞭を打つように、高さのある場所へ逃げた。
波は港の船を陸に持ち上げたが、人工的に引き起こされただけあって、津波のような凶暴さはなかった。
ただ、アミアンたちを乗せた船は、夜闇も相まって、目視できなくなっていた。
「中尉、大丈夫ですか?」
「あぁ……」
軍曹の言葉をきっかけに、アランは部下たちを眺める。
連日の張り込みから、夜通し虚像者を追跡した部下たちの緊張感が、疲労に現れていた。手負いの者もいる。
「国際出版局に……」
アランの掠れたような呟きは、軍曹の耳に上手く届かなかった。
「すみません。なんとおっしゃいましたか」
「軍曹。国際出版局に要請を頼む。今回の任務失敗は、全て私の指示、責任のもとにあると告げてくれ」
「中尉。責任は私にもあります」
「軍曹、私の指示は絶対だ」
「中尉……」
「今日はもう、みなを解散させろ。すまないが、負傷していない兵を何人か残し、乗り上げた船と、港周辺の後処理を頼む」
軍曹は逡巡の末、敬礼し、兵たちがいる場所へ歩きだした。
何人かの地元漁師たちが、ざわめきながらこちらに近づいてくる。
地平線には、薄らと朝日が昇りはじめようとしていた。
ーーー
インク瓶から筆先を放す。
手慣れたように、報告書にサインしていく。
途中でオリフィスは、羽置きに筆を置いた。
「……」
なんだ、昨晩からやけに右眼が疼く。
オリフィスは眼帯を外し、右眼の周囲を指で揉む。
疲れているのか。いや、疲労は常にある。
だが、それ以上に何か、嫌な予感がする。
感覚的に、人が来ることを察知した。ため息をつき、眼帯を結び直す。
その後すぐ、国際出版局イーローブ支部に存在する部屋の中で、もっとも豪奢な扉がノックされる。
「入れ」
「失礼します」
クジア人の女が、早足で赤い絨毯を歩いてくる。
「どうした」
ナギサ・アサギリは、急いでやってきたものの、どう伝えようかと逡巡していた。
「……オリフィス・フランク筆聖にご報告があります」
「かしこまらなくていい。さっさと要件を告げろ」
このキルナミー人の力強い目を見ていると、ナギサはいつも緊張してしまう。吸い込まれそうな感覚に陥るのだ。
年こそ二十九歳と、ナギサの三つしか変わらない。それなのに、自分とは生きてきた何かがまるで違うことを、この瞳は物語っていた。
「昨夜、フリマ共和国ヌクルプロムからナルジエールにかけて、虚像者が暴れ、逃亡。フリマ軍が対応していたものの、現在は奪った船で、地中海へ逃亡したようです」
「単独でか」
「いえ。フリマ軍の報告によると、元々この地域では連続殺人事件が起こっていたようで、その犯人かと思われます。さらにもう一人、同じ孤児院で暮らしていた少年が、逃亡を幇助しているとのこと。また虚像者は」
ナギサは、アミアンとノアの個人情報や関係性から、事件の全貌や経緯を手短に話した。
「なお虚像者には、病期2の症状が、すでに確認されています」
「孤児院のガキが……二人」
オリフィスは、眼帯の周囲を何度も押しながら呟く。ナギサは心配そうに、その様子を窺っている。
「エドワードの班を派遣しろ」とオリフィスが言ったのと同時に、「ただ」とナギサが同時に口を開く。
「ただ? なんだ?」
「すみません。一つ不可解な報告が上がっておりまして。逃亡を幇助したと思われる、ノア・エッシュラインという少年についてなんですが」
ナギサは、どのように伝えるか迷ったが、ノアが羽筆を使用した時の状況を、なるべくわかりやすく話した。
「ノアという少年は、日常的に羽筆を使用していたのか?」
「それが、孤児院を運営しているマドレーヌ・バラチエという女性によると、彼が羽筆を持っていたことさえ知らなかったようです」
「羽筆の入手経路は?」
「わかっておりません」
オリフィスは口元に手をやり、「孤児院のガキ」と再度呟き、考え込みはじめる。
沈黙のまま、一分が経過した。
「あ、あの……」
わかりやすくナギサは動揺していた。
オリフィスは、表情一つ変えず、冷酷にナギサを見つめ返す。
「オ、オリフィスさん?」
その後、オリフィスはがくっと椅子にもたれかかり、目を瞑った。息をはき、目頭を抑えている。
誰よりもこの男が激務であることは、オリフィス班の一員であるナギサが、一番理解していた。
ゆっくりと目を開いたオリフィスは、肘置きにもたれ、手で頭を支えた。
「ミロンとカルロを招集しろ」
オリフィス班のメンバーの名が、告げられる。ナギサの身体に、緊張感が駆け巡る。
「夜になったらナルジエールから海に出る。準備を怠るな」
ナギサは早足で部屋を出た。
その姿が完全に消えたのを見届けたオリフィスは、再度ため息を吐く。
「まさか……」
ガキがたまたま焦って、筆力を暴発させただけのことだ。
軍人の子どもたちが、家で興味本位で握ったりするよくある事例だ。
だが素人のガキが、軍を撃退させただと……。
いや、考えすぎだ。もっと単純でいい。
さっさとガキと虚像者を捕まえる。逆らうなら容赦はしない。
ただ、それだけのことだ。
ーーー
あれから何日経っただろうか。
とにかく水が飲みたい。喉が乾いて仕方がない。
空腹が襲ってきては、何度も過ぎ去った。
日中の日照りが、ノアとアミアンの体力を奪い、夜の潮風に身が堪えた。
「ノア……生きてるかい」
返事はない。だがノアのもとに向かうのも辛くて、アミアンは眼球だけを動かした。
甲板にぐったりと座り込み、もたれかかっている。
ゆっくりとノアの右手が動いた。
フリマ軍から逃げおおせたのは良かった。だが途中、激しい潮の流れにのまれた。
簡素ながらも丈夫に作られていた船のお陰で、奇跡的に転覆することはなかった。
しかしこのままでは、船乗りたちの命が先に尽きようとしている。
元々、船に乗る予定も、その後の進路もろくに決めていない。
当然、食料も水もなかった。
あるのは、漁師が船に捨てていた、サイズの悪い干物になった魚だけだ。
「おぉ、神よ」
普段から信仰心の薄かったアミアンが、最後は神を口にする。
そんな都合の良い自分に、呆れを感じられずにはいられない。
だが同時に、この世界に神が生まれた理由が、ほんの少しだけ理解出来たような気がした。




