常識を求めて三千メートル
ラファエロがミカエルを育て始めて数週間。三時間毎にミルクを飲ませる生活にも慣れてきました。
市場で買った山羊は庭で放し飼い状態ですが、自力で食料となる草を探して食べてくれるので、手が掛からなくて助かっています。
購入時に「この子の名前は『ユキちゃん』です。白い山羊は、そう呼ぶと決まっているんです」と頑なに主張されましたが、ラファエロが「ミルク、ミルク……!」と駆け寄って乳搾りしていたからか、山羊はすっかり「ミルク」が自分の名前だと思い込んでしまいました。
色的には似たようなものなので改名したところで違和感は無いのですが、「ミルク(名前)のミルク(乳)」と微妙にややこしい感じになってしまいました。
「食事を与えて、体を清潔にする。はたして子育てとは、それだけで良いのかのう」
生活に余裕ができると、あれこれ考える余裕も生まれます。
「情操教育って言うんじゃっけ。あれって何歳から始めるんじゃ? というかどうやるんじゃ?」
赤子の世話については副院長にみっちり指導を受けましたが、教育については後回しになっていました。
「わしの場合はどうじゃったっけ……?」
ラファエロは両親と山で暮らしていた頃に思いをはせました。
絵本なんて貴族の子どもくらいしか持っていません。ラファエロの母親は、地元に伝わるお伽噺を語り聞かせてくれたものでした。
「カトラリーの使い方とか、文字は気がついたら覚えてたのう。特に教えられた覚えがないのは、記憶に残らないほど幼い頃に叩き込まれたからじゃろうか」
単に覚えていないだけなのですが、思い違いをしたラファエロは、こうしちゃいられないと小屋を飛び出したのでした。
*
「誰かおらんのかー?」
ラファエロがやってきたのは貸本屋でした。
店の扉が開いていたので入ってみたはいいものの、薄暗い店には先客どころか、店員の姿すらありません。
「お客さん!? いっ、いらっしゃいませ!」
騒がしい音を立てながら、店の奥から眼鏡をかけた青年が出てきました。
「お待たせしてすみません。店主のジョンです」
「……若いのう。おぬし何歳じゃ」
「十八歳です」
落ち着いた雰囲気なので二十歳前後を想像していたラファエロは、実年齢を聞いて驚きました。
「ほう。その歳で店の主になるとはやるのう」
平民なら独り立ちしていてもおかしくない年齢ですが、自立したばかりの若者が持てる店など屋台くらいのものです。年季が入っていますが、こんなにしっかりした建物で、充分な蔵書を持つ貸本屋を営むなんて並ではありません。
「ここは祖父の店だったんです。俺は継いだばかりの新米店主ですよ」
「そうじゃったんか。お悔やみ申し上げる」
「もう一年以上前の話ですから、お気になさらず。それよりも、この店にお客さんが来てくれてよかった!」
「うむ。ずいぶん立派な閑古鳥が棲み着いておるようじゃが、国の支援があるとはいえやっていけるんか?」
「正直ギリギリです。代替わりした直後ということで、去年は大目にみてもらえましたが、今年も変わらなければ移転指示が出るかもしれません」
オズテリアは貧しい国ではありませんが、貸本屋を各村に配置するほど豊かなわけでもありません。利用者の少ない地域は閉店させて、別の土地に移転させるのです。
「先代の頃はどうだったんじゃ?」
「この辺りに住むご老人の社交場になっていたみたいです。店先にテーブルと椅子があったでしょう。あそこでお茶を飲みながらおしゃべりして、場所代として本を借りていたようです」
本を返しに来たときに、またお茶を飲んで駄弁る。
借りた本を読んでいたかは怪しいですが、貸し出し件数は安定していたとのことです。
「その言い方じゃと、おぬしは先代が存命の頃には店におらんかったのか?」
「うちの家族は、祖父とは離れて暮らしていました。ある日突然訃報と、店についての通達がきたんです。普通の店と違って貸本屋は国への届け出が複雑で、資格返上して閉業するよりも継いだ方が楽だということで、長男の俺が……」
「家の事情なら他人が口出しすることではないが、長男だからと夢を諦めて祖父の跡を継いだのか?」
「あ、それはないので、ご心配なく。特にやりたいこともなく、とりあえず働いて自立しなきゃと思っていたので、これも縁だと思っています」
「ふむ。ここでの暮らしはどうじゃ?」
生前の祖父と疎遠だったのなら、新しい土地に馴染むのは難しいでしょう。
特に祖父が慕われていたのなら、どうしても比べられてしまうはずです。
「良い村だと思います。ここも以前と同じように使ってもらって構わないんですが、祖父の人柄もあって人が集まっていたようで……。俺じゃ力不足みたいです」
「おぬしはおぬしの方法で、客を増やせば良かろう。少なくともわしは、この店をちょくちょく利用させてもらう気じゃよ」
「それはありがたい! ご自分で探されますか? お手伝いしましょうか?」
「この度弟子を育てることになってのう。魔法、錬金術はわしの知識で充分じゃが、一般常識とか教養面を補える本が欲しい。あと情操教育というか、人間の内面について掘り下げて書かれた物語があるとありがたいのう」
「結構な冊数になりますが、分割して借りられますか? この通り暇なので、周期を教えていただければお届けしますよ」
「ふうむ。お言葉に甘えようかの」
魔法を使えば簡単に大量の荷物を運べます。しかしラファエロは年配者として、ジョンを手助けしてやりたくなりました。
単純に彼の人柄が気に入ったのです。
大魔法使いがこの地にやってきたことは、村長を介して村人は知っているはずです。
ラファエロを前にしても大魔法使いと気付かないあたり、彼は村のネットワークに入れてもらえていないのでしょう。
彼が山小屋に通うようになれば、ラファエロと親しい人物だと尊重されるはずです。
「――……お待たせしました。取り急ぎ知っておいた方が良い分野として地理、近代史、市民法、数学。それと随筆をお持ちしました。著者はオズテリアの文化人として大陸で広く知られている人物なので、教養や歴史も同時に学べると思います」
「そりゃ一石三鳥じゃのう!」
その通りですが、どう考えても首がすわったばかりの赤子向けではありません。
しかしラファエロはジョンのチョイスを褒め、ジョンもまさか目の前の青年が背中におぶっている赤ん坊に読み聞かせる本を探しているとは思わず、中等教育以上の本をピックアップしました。
ジョンは年齢のわりにしっかりしている方ですが、初めての客に浮き足立ち、詳しい話を聞かずに推測で動いてしまいました。
専門分野以外も教える――つまり親元を離れて学ぶ弟子と聞いて、それなりの年齢だと誤解したのです。
*
「歴史って物語みたいなもんじゃよな。つまり絵本の読み聞かせと同じじゃ」
そんなわけがないのですが、ミカエルを膝の上に乗せたラファエロはしたり顔で本を開きました。
「……思ってたんと違う」
歴代国王の名前や、歴史的な事件をまとめた年表を見てラファエロは顔を顰めました。
「数学にするか。物心つく前に覚えとけば、数字アレルギーにはならんじゃろ」
近代史を諦めたラファエロは、基礎数学と書かれた本を手に取りました。
「ええと、なになに。『姉がX町、妹がY町に住んでいます。二つの町は10キロメートル離れています。同時刻に姉は分速110メートルでY町に向かい、妹はX町に90メートルで向かいました。二人は何分後に出会うでしょうか』――え、いつか出くわすじゃろ。こんなの計算する必要ある? この問題解けるようになったところで、将来絶対に使わないじゃろ」
世の学生が一度は言ったことがある台詞を口にすると、ラファエロは次に行きました。
「もっと現実的な問題は……『ある池の周りを、兄弟が同時刻に同地点から歩きます。反対方向に進むと10分後にすれ違い、同じ方向に進むと30分で兄が弟を初めて追い越します。兄が分速90メートルのとき、弟は毎分何メートルでしょうか』――え、これなんの儀式? 池の周りを歩き続けるとか不審者じゃろ。一定のスピードで同じ方向に進んだり、逆方向に進んだり何がしたいんじゃ? たしかに魔法陣を踏ませることで、効果を維持するタイプの術式はあるが、これ数学の問題よな。ええー、今時の子どもってこんな難しい問題やっとるの?」
世の親が一度は言ったことのある台詞ですが、ラファエロの場合は大きな考え違いをしています。
「もっと簡単なのはないのか……。ええと、これは問題文が短くていいのう」
文章問題の行数で難易度を判断しているところがもう色々とアレな大魔法使いです。
「『6人が一列に並ぶ時、並び方は6P6=6!ですが……』――『!』って驚いたときに使う記号じゃなくて、数学なの!? 七十年生きて初めて知る事実に吃驚なんじゃけど! これが常識ってマジ!?」
驚愕の事実に、もはやラファエロは涙目です。
自分の世間知らずぶりが情けなくて、育児に対する自信がみるみる消失していきます。
「実生活に役立ちそうで、簡単な問題。わしにも解けそうなやつはないのかの……」
震える手で頁をめくると、旅人算、順列の後に、濃度の問題を見つけました。
「『体重1キログラムあたり成分量3ミリグラム/回の薬があります。体重25キログラムの子供に1日
3回、7日間飲ませる場合、十倍散だと何グラム計量すればいいでしょうか』――こういうのでいいんじゃよ。こういうので。この手の計算なら、錬金術でよくやってるからお茶の子さいさいじゃい」
「あぶぅ」
「おや、ミカエルも興味があるようじゃの。じゃあ解説するぞ――」
こうして常識を求めた男は、非常識な行動に走ったのでした。
教育マッマもビックリな所業。




