馬車の中で
ゴトン、ゴトン――。
軋む音とともに身体が大きく揺さぶられ、ルーカスはうっすらと目を開けた。
硬い板の床。鼻をつくのは藁の匂いと、人の汗と血の混じった湿った臭気。
薄暗い箱のような空間の中、窓の代わりに打ち付けられた鉄格子から、かすかな月明かりが差し込んでいた。
「……ここは……」
あぁ、頭がまだくらくらする。声を出すと、喉に張り付いた布の味がする。なんでこんなことに......。
その時、隅のほうで弱々しい声が響く。
「目が覚めた……?」
声がしたほうを振り向くと、そこにはアンナと同じくらいの年頃の少年がいた。
小綺麗で値の張りそうな服を纏った体を藁に寄りかからせ、淡い金髪が無造作に乱れている。
しかし、その碧い瞳だけは妙に澄んでいて、どこか遠くを見ているようだった。
「……君、攫われたの?」
「……あぁ。」ルーカスは顔をしかめるが、そんなことは気にせず少年は尋ねる。
「名前はなんていうの?」
「......ルーカス。そんなの聞いてどうするの?」
「短い間だろうけど君も神のお導きによって出会えた人の一人だからね。」
神...?何言ってるんだ。そんなのいるわけない。
「……そっちは?」
「ラシェル。ラシェル・エリシア・ヴァルモンド。......だった。」
「だった?」
「ヴァルモンドはもう…名乗れない……。」
ラシェルは視線を少し落とし、眉間に軽く皺を寄せた。口元は硬く引き締まり、拳を軽く握って言葉にできぬ思いを胸の内で押さえ込むように、静かに息をついた。
ラシェルの言ってることの意味のわからないルーカスは周りを見渡した。この馬車にはどうやら十人ほどが押し込まれているようだ。
大人も子どもも関係なく、呻き声をあげ、片腕を失った傭兵風の男がうずくまり、喉を焼くような咳をしている。
また耳の長いエルフの女は子どもを抱きしめ、震える唇で歌とも祈りともつかぬ声を紡いでいた。
その子どもは泣き疲れて眠り、青ざめた頬を母の胸に押しつけている。
すると、ラシェルは小さく息を吐き、胸に吊るした木製の小さなペンダントを握りしめた。
「大丈夫だよ。神がきっと救ってくださるから。」
今まで必死に生きてきたルーカスはその他力本願な言葉に憤りを感じた。
「なに言ってんだよ。こんな状況で助かるかどうかを決めるのは神じゃなくて、自分でどうするかだろ。」
ラシェルは弱々しくも真剣な目で返した。
「違う。人の力には限りがあるんだ。だからこそ、神に祈るのだよ。信じていれば……きっと救いは訪れる。」
ルーカスが声を荒げる。
「信じるだけでお腹は膨れるのか?ここを出れるのか?そんなの待ってたら、僕たち死ぬぞ!」
ラシェルは唇を噛み、言い返そうとする......が。
「……でも、信じなきゃ、信じなきゃ...。」
いつのまにか、ラシェルの瞳は潤み、声は震えていた。
やがて、外から御者の掛け声と馬の鳴き声が聞こえ、馬車が大きく揺れて止まった。
荷台には外で騒ぐ御者達の声だけが響いていた。
――――――――――――――――――――――
がたん、がたん……。
夜が明け、再び馬車が動き出した。
木の車輪が石畳を踏むたび、狭い荷台は大きく揺れる。窓のない空間は薄暗く、相変わらず湿った藁の匂いと汗臭さで息苦しかった。
――アンナは大丈夫だろうか。
一人にしてしまった。父さんと母さんが出て行った時、アンナには寂しい思いをさせない、二人の分まで育てようって誓ったのに……こんなところに連れてこられて、僕は……。
ルーカスが壁にもたれながらそんなことを考えていると、隣に座っていたラシェルが青白い顔で小さく咳き込んだ。
「……っ、げほっ」
「……大丈夫か?」
思わず声をかけると、ラシェルは震える唇を結び、弱々しく首を振った。
「だ……大丈夫。神がお守りくださっているから……」
「はぁ、その顔色でまだそんなこと言ってるのか?」
ルーカスはため息をつき、自分の残り少ない水を差し出した。
「ほら、水。飲みなよ」
ラシェルは一瞬ためらったが、皮袋を受け取ると口をつけずに何やら呟き始めた。
「深淵の水脈よ、汝の掌に従い、清き流れとなって渇きし者を潤せ――アクア・フロー」
「おい、何やって……え?」
ルーカスが咎めようとしたその時、ラシェルの掌の上に小さな水の渦が現れ、静かに皮袋へと注がれていった。
水の渦は光を映して揺らめき、その弱った小さな身体には不釣り合いなほど力強さを感じさせる。
注ぎ終わると、ラシェルはごくごくと水を飲んだ。
ルーカスは言葉を失い、ただその光景を凝視するしかなかった。
「……ふぅ。器がなくてね。君のおかげで喉の渇きが癒えたよ。ありがとう」
「……今の、なんだ……?」
目を丸くしたまま、ルーカスの声がかすれる。
「へ? 水をちょっと作っただけだけど…?」
「作った……? どうやって?」
自分の手をかざしてみても当然何も起こらない。ルーカスは眉を寄せた。
「どうって、魔法だよ。知らないの? こう、詠唱を唱えて……ほら、こうやって……」
ラシェルが掌を広げると、再び小さな水の粒がふわりと浮かんだ。
何もない空間から生み出された水は自在に形を変え、青白い光をまとっている。
ルーカスがそっと手を伸ばすと、冷たい水滴が甲に落ち、しみ込んでいった。
「なんだ、坊主。魔法が使えるのか」
ルーカスが呆然としていると、片腕のない傭兵風の男がラシェルに声をかけてきた。
「坊主、おめぇ、貴族だろ?」
「……そうですが、なぜ?」
「そんな高そうな服きてりゃ馬鹿でもわかる。まして王都の人間以外で魔法使えるのは貴族ぐれぇだ。……良かったなぁ、おめぇ。まずい飯食って肉体労働させられる心配はねぇ。……まぁ、いいとこに買われるとは限らねぇがな。貴族の坊主を買うのは変態貴族か、異端宗教の連中ぐれぇだからな。何されるか知ったこっちゃねぇが、少なくとも飯はうめぇだろうよ」
「……」
ラシェルの小さな拳がわずかに震えた。
顔を伏せ、長い前髪が表情を隠す。だが強張った肩が動揺を物語っていた。
「……ご飯、なんて……そんなの…」
かすれた声で呟き、唇を噛んで言葉を飲み込む。
自分の身に降りかかる運命を思うのが恐ろしくて仕方がない。
けれど、恐怖を顔に出すことはしたくなかった。必死に口を結び、男の視線をやり過ごす。
その瞳には怯えと、消えかけた反抗心が入り混じり、かすかな光を宿していた。
――――――――――――――――――――――
カタンッカタンッ……
夜が明けて間もない、二度目の朝。
馬車の揺れは少し落ち着き、王都に近づくにつれ、荷台の中には重苦しい沈黙が広がっていた。
ルーカスは藁の上に座り、まだ顔色の悪いラシェルをじっと見つめる。
あの、水を生み出した奇跡の瞬間が、頭から離れなかった。
「なぁ、ラシェル……昨日のあれ、魔法って言ってたよね」
ルーカスは小さな声で切り出す。
ラシェルはこくりと頷き、少し戸惑った表情を見せた。
「そうだよ。神に祈り、力を借りることで、水を呼んだんだ」
「……僕にも、できるかな」
その一言に、ラシェルの目が見開かれた。
「え……ルーカスも?」
「うん。あんなの見せられたら、試したくなるよ。すごく……綺麗だったんだ。光って、水が生まれて、まるで生きてるみたいでさ」
ルーカスの真剣な眼差しに、ラシェルは小さく笑った。
「……わかった。少しだけなら、教えてあげる」
彼は両手を膝の上に置き、深呼吸をする。
「まずは、心を静かにして。世界の奥に流れる力に耳を澄ませるんだ」
ルーカスは言われるまま、目を閉じて息を整えた。
すると、狭い荷台の中でも、不思議と外の風や土の匂いを感じる気がした。
「次に、水を思い描いて……冷たくて、澄んでいて、触れると指先をすり抜けるような流れを」
ラシェルが掌を広げると、透明な粒がぽつりと浮かび上がった。
その粒は朝の光を受けて虹色に輝き、まるで小さな宝石のようだった。
「……っ」
ルーカスは思わず息をのむ。
「ほら、こうやって……」
ラシェルは優しく笑い、両手を組むようにして小さく詠唱を唱える。掌に淡い光が集まり、やがて水が生まれた。
それをふわりと浮かせてルーカスの手に移す。冷たさと同時に、不思議な温もりが指先へと広がった。
「どう? 世界はね、祈れば応えてくれる。ちゃんと心を澄ませば……誰にだって」
ルーカスは水滴を見つめ、震える声を漏らした。
「すごい……ほんとに、綺麗だ」
その横顔を見て、ラシェルの頬にわずかな赤みが差す。
「お、僕もやってみたい!」
興奮したように両手を組み、ラシェルの真似をするルーカス。ぎこちなく呟いた詠唱に光が少し集まる――が、すぐにぱちん、と青白い光を散らして消えてしまった。
「っ……! あれ……?」
ルーカスは手を開いたまま目を丸くする。
ラシェルは思わず笑いだしそうになるのをこらえ、柔らかく言った。
「うん、最初はみんなそうだよ。焦らないでいい。きっとできるから」
ルーカスは悔しそうに視線をそらす。その横顔には、不貞腐れた幼さと、羨望が入り混じって
コトンッコトンッ
外から差し込む光は赤みを帯び、馬車の中の空気はさらに淀んでいた。湿った藁の匂いに混じって、緊張と不安の気配が漂っている。
荷台に押し込められた十数人の奴隷たちは、誰もが無口だった。昨日までは呻き声や弱音も漏れていたが、今日は違う。これから向かう先を悟っているのだ。
「……」
ルーカスは朝からずっとラシェルに教わった魔法を練習している。
練習の末、不恰好な水の塊を作れるようになったがまだラシェルのように形や大きさを変えることもできない。本人はそれがもどかしいようだ。
一方、ラシェルは両手を胸の前で組み、小さく祈りをつぶやいていた。
「また祈ってるの?」
ルーカスが声をかけると、ラシェルはわずかに頷いた。
「神は必ず救ってくださる……そう信じてる」
その声がかすれているのを聞いて、ルーカスは小さくため息をつき、藁の中から探し出した乾いたパンのかけらを差し出す。
「ほら、少しだけど……食べなよ」
ラシェルは目を見開き、驚いたようにルーカスを見た。
「……これ、君が?」
「まぁね。昨日の夜に見つけたんだ。祈るのもいいけど、食べなきゃ元気も出ないよ」
ラシェルは一瞬ためらったあと、そっとパンを受け取った。
「……ありがとう。神が君の手を通じて与えてくださったんだ」
ルーカスは苦笑して肩をすくめる。
「いいよ、もうどっちでも。ラシェルが食べて少し元気になったら」
二人のやりとりを見ていた、ガタイのいい男がくぐもった声で笑った。
「坊主ども、仲いいな。俺ぁもう何年も家族に会えてねぇ。お前ら見てると、兄弟みてぇで羨ましいぜ」
ラシェルは照れたように目を伏せ、ルーカスも顔を赤らめる。
一瞬だけ、荷台の中に明るい空気が生まれた。
ちょうどその時、外から鞭の音が響く。
「着くぞ!気を抜くな!」
がたん、と馬車が大きく揺れる。
重い門の向こうに待つものを思い、荷台の全員が息をのんだ。