グラヴェル街
【魔法国家アストリア王国】
かつて廃れていたこの地を一夜にして木々を生やし、魔物を産み、川をひき、山をつくったとされる
〈 大魔法使い ヴァルディナ 〉を祖とし栄えた世界屈指の魔法大国である。
ヴァルディナ失踪後この王国はヴァルディナの血縁とされる王族が統べ、魔術を極めんとす数多の種族が星々に守られしこの地で暮らしている。
失踪以前にヴァルディナが残した手記にはこう記されていた。
「魔術の研鑽を怠り血の系譜に酔いしれる者たちが、己の業に呑まれる時、この国は、やがて内より崩れるだろう。
──我が血を引く者に幸多からんことを。」
アストリア王国郊外スラム街グラヴェル。
魔法で満ちた煌びやかな王都とは対照的な光届かぬ貧民街。
石畳はひび割れ、雨が降れば泥水が溢れ、腐敗した臭いが路地を覆う。
住むのは身寄りをなくした孤児、職を失った労働者、そして、罪を逃れたならず者たち。
昼は子どもたちが飢えをしのぐために小銭を稼ぎ、夜は盗賊と娼婦が闇にまぎれて生き延びる。
それでも彼らにとってはここが「故郷」であり、弱者同士が寄り添う、もう一つの街なのである。
このお話は、そんな街で生まれた1人の少年の物語だ。
タッタッタッ
「おぉい、ルカ坊!昼間っからなぁに焦ってんだい?」
「どーせ、また金にもならない面倒ごと押し付けられて走り回ってんだろ?ガハハッ」
「あっ、ベルテオおじさん!ヴィオラおばさん!おはよう。違うよ‼︎今日はダリオンさんの酒場で息子さんが帰ってくるから宴をするんだって!手伝ったらご馳走食べに来ていいって言われたんだ!」
この大量の荷物を抱え込んで駆けて行く少年の名はルーカス。
もっとも、このお話の主人公である。
カランコロンッ
「ダリアンさん、言われたもの買ってきたよ!」
「おう、ルーカス!今回はちゃあんと手ェ付けずに持ってきたんだろうな?」
「うっ……今、今度はちゃんと持ってきたよ!ほら!」
ダリアンが袋の中を覗き込むと、確かに全部そろっている。
「おお、珍しいな。毎度つまみ食いする小僧がよ」
「……そうじゃなきゃ、ご馳走もらえなさそうだし(ボソッ)」
「ん?なんか言ったか?」
「な、なんでもない!なんでもないよ!」
ニヤつくダリアンに、ルーカスは慌てて両手を振った。
「フッ、まぁ、毎回頼んで悪いな。今晩はアンナちゃん連れて食べに来な。」
「ヤッタァーーッ!!」
カランコロンッ
ルーカスが喜びの舞を舞っていると2人の男が入ってきた。
「なんだぁ?今夜はルーカスも来んのか?」
「お前今晩ルーカスにいい女の落とし方教えてやれよ?」
「いいぞ!ルーカス!此度の冒険でいいエルフの女を落とした俺様の秘法をとくと教えてやる!」
「ほんとう?……で?その人はどこにいるの?」
ルーカスは呆れながら尋ねる。
「借金肩代わりした途端逃げられた!」
「はぁ、、秘法を語るならまず成功例を出してよ、、」
「成功例?俺の人生にそんなもんあったら酒場で毎晩泣き笑いしてねぇ!」
「いっ……いたたた!やめろよぉ!」
ルーカスは、大声で笑いながら頭をぐりぐりと撫でまわしてくる男に抵抗していると、ダリアンが横から口を挟む。
「ライネル、ルーカスに変なこと教えるな。せっかく真っ直ぐ育ったのに台無しだ。ユリアンも暇なら手伝え。」
「はぁ、息子がせっかく生きて帰ってきたのに労いの言葉は無しか?」
「あぁ?冒険者なんかやんなきゃそうそう死ぬこたねぇんだ。死んだ時は自業自得だぁ。」
「おい!ユリアンも親父さんもやめろよ!」
「お前には関係ないだろ。」
「あ、えっとー、ぼくそろそろ帰るねー」
「お、おう、また後でな!あっ、そういや最近ここらで人攫いが多いみてぇだから気をつけろよ!」
「はぁーい!ライネルまた後で!」
火種が爆ぜる前に、とばかりに、ルーカスは逃げるように怒声が響く酒場をあとにした。
――――――――――――――――――――――
積み重ねられた石の壁、雨を防ぐための布や錆びた鉄板が、風に揺れていた。
壁のあちこちには泥の跡が残り、道には溜まった水たまりが光を映す。
窓代わりの小さな穴からは、夕飯の匂いや子どもの笑い声が漏れている。
煤で黒ずんだ壁に寄りかかりながら、薄汚れた白い髭を伸ばした老人はぼんやりと陽の落ちる空を眺め、細い路地では子どもたちが、木片を剣に見立てて遊んでいた。
「あっ!」
その中の一人の子どもが少年に飛びついている。
「お兄ちゃん!!」
「アンナ!いい子にしてたか?」
「うん!」
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。」
夕暮れ時、子どもたちに別れを告げ二人の兄妹は古びた小屋に帰っていった。
「お兄ちゃん、ご飯はー?」
「今日はダリアンさんとこでご馳走食べに行こう。」
「うぇ?!ほんとに?!やったぁ!」
この二人の兄妹、ルーカスとアンナには親がいない。
いや、いないわけではないが、二年前、いきなり幼い二人を置いて「冒険者になって一攫千金してくる」と軽い調子で出ていったきり、消息は途絶えた。
母親はちゃらんぽらんで当てにならなかったが、父親は彼女と違いしっかりしており、向かいのベルデオに古い小屋を使わせてもらえるように話をつけ、二人には資金として家の売却金を残していった。
そのおかげで幸いにも二人は死と隣り合わせのスラムで今まで生きてこれたのだ。
――――――――――――――――――――――
空には月が昇り、通りにある数本の電柱が点滅しだした。
淡い灯りが染みわたると、崩れかけの壁や錆びたトタン屋根が、影を落とす。
どこかで怒鳴り声が上がり、すぐに笑い声にかき消される。
影と灯が入り混じる、スラムの夜が動き出した。
「アンナ、そろそろ行こうか。危ないから俺から離れちゃダメだよ。」
「うん!何があるのかなぁ?けーきとかあるかな?」
「ケーキはないんじゃないかな?酒場だし。豚獣の煮込みとか、グリフォンの串焼きとか。」
「ふーん、いっぱい食べようね!」
二人が路地を抜けると、くたびれた二階建ての建物が見えてきた。
壁板はところどころ剥がれ、看板に描かれた酒樽の絵も半分以上掠れている。それでも扉の隙間からは温かな橙の光が漏れ、賑やかな笑い声や、どんと卓を叩く音が外まで響いていた。
近づくにつれ、鼻をつくのはエールの匂いと、香辛料のきいた肉の焼ける香り。中からは怒鳴り声や嬌声が聞こえてくる。
お腹を空かせた二人は吸い込まれるように店の中に入っていった。
カランコロンッ
扉を押し開けた瞬間、むっとするほど濃い酒の匂いと、人々の笑い声が一気に押し寄せた。
「おう、ルーカスじゃねぇか!座れ座れ。」
「アンナちゃんますます別嬪さんになってきたな!目元なんか母ちゃんそっくりだ!ほら、こっち来て座んな!」
「おーいダリアン! こいつらが来たんだ、飯は山盛りにしてやれ!」
「ルーカス来たか。今回の礼だ。これ持って帰って二人で食べな!」
油の染みついた木の床はべたつき、あちこちにこぼれた酒が乾ききらずに光を反射している。粗末な丸テーブルには、山盛りのパンと肉の切れ端が並び、皿の隅には食べ残しが無造作に積み上げられていた。
店主のダリアンが菓子の入った袋をルーカスに渡してきた。
ルーカスはダリアンに礼を言うと、声をかけてきた酔っ払いたちと話しだした。
「ガロス!今夜はたっぷり武勇伝語ってくれるんだろ?」
「あったりめぇだ!途中で寝るんじゃねぇぞ!」
「マルロうちのアンナ、かわいいだろ? ここらで一番なんだから!」
「おお、言うじゃねえか!」
ルーカスが話しながら店のなかを見渡すと酔っ払いの冒険者たちが樽を片手に歌をうたい、喧嘩腰の声が飛んだかと思えば、すぐ隣で誰かが大声で乾杯を叫ぶ。怒号も笑い声も渾然一体となって、酒場全体がひとつの生き物のようにうねっていた。
そのざわめきを胸いっぱいに吸い込みながら、ルーカスはふと微笑む。
どんなにみすぼらしくても、どんなに汚れた路地に囲まれていても、この雑多な温かさが、彼にとっては何より心地よかった。
ルーカスは喧騒と笑いの入り混じるこの場所が、この街が好きだった。
ルーカスとアンナもテーブルの上のご馳走を食べながら、大人たちと一緒になって歌い騒いでいた。
「お楽しみのようだな。ルーカス。」
「ライネル!」
「悪いがちょっと話せるか?その、......いつものやつだ。」
「…うん。」
ライネルとルーカスは騒ぐ酔っ払いたちの間をかき分け奥のカウンターに座った。
「その、お前たちの親のことだが……。今回も見つからなかった。…すまん。まぁ、あの二人のことだから大丈夫だろうが、人に聞いた目撃情報でも2年ぐらい前で止まってる、だからもうここらの迷宮にはいないんじゃねぇかと思う。2年も経ってるから結構遠くまで行ってるだろうしなぁ……。」
ルーカスは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに肩をすくめて笑ってみせた。
「だろうね。あの二人のことだし、どっかで好きにやってるんだろう。心配したってしょうがないさ。」
口では軽く言い放ちながらも、その小さな手は膝の上でぎゅっと握られていた。
「……まぁ、話ってのはそんぐらいだ!せっかく楽しんでたのに辛気臭いこと言ってすまんな。どうだ、俺様の冒険譚でも聞かせてやろうか?」
「聞きたい!」
ルーカスが元気に答えると、ライネルは豪快に笑い、空いたジョッキを片手で振り上げた。
「よし、なら語ってやろうじゃねぇか!俺様が北の山脈でドラゴンに追いかけられた時の話をな!」
「またそれかよ!」
「まえも聞いたぞ!」
周りの酔っ払いが口々に野次を飛ばすが、誰も止めようとはせず、むしろ待ち構えているように耳をそばだてる。
賑やかな笑いと歓声の渦に巻き込まれ、ルーカスとアンナはテーブルに肘をついて、夢中になって話に聞き入った。
酒と肉の匂いに混じって、鉄臭い冒険の気配が、ルーカスの胸を高鳴らせる。
やがて夜も更け、語り部が声を張り上げるたびに、酒場の窓が小さく震えた。
最後の笑い声がひと段落した頃、ルーカスは隣で舟を漕ぎはじめたアンナの肩を軽く揺すった。
「アンナ、そろそろ帰ろうか。」
「ん……もうちょっと……」
眠そうに目をこする妹を抱き起こすと、周りから「なんだ、帰るのか」「気をつけろよ」と声が飛んでくる。
ルーカスは片手を上げて応え、重たい扉を力一杯引いた。
すると、即座に夜気が流れ込み、酒場の熱気が一瞬で遠ざかる。
背後ではまだ笑い声と歌が響いていたが、二人の足音だけが石畳の上で軽やかに響いた。
石畳を踏みしめながら歩く帰り道。
アンナはルーカスの手を握ったまま、もうほとんど夢の中だった。
家に着き、敷布団にそっと寝かせたとき、何か忘れている気がすることに気づく。
「あ……ダリアンさんにもらった菓子袋……酒場に置いてきたかも。」
小さくため息をつき、眠るアンナの寝顔を見て、肩をすくめる。
「アンナも寝たし取りに行こうか。皆まだ騒いでるだろうし。」
ルーカスはアンナの毛布を直してやると、そっと立ち上がり、扉へ向かった。
ルーカスは月明かりに照らされた通りを橙色の光が漏れる酒場に向かって歩いていた。
「あのお菓子アンナが楽しみにしてたからな〜。」
アンナの喜ぶ顔を思い浮かべていると、ギシ、と背後の板塀がきしみ、影が二つ三つ飛び出した。
ルーカスが振り返るより早く、荒布が口に押し当てられる。
「んっ……!?」
鼻腔を突く薬臭さに、視界がぐらりと揺れる。
必死に抵抗しようと腕を振るうが、がっしりした大人の腕に絡め取られ、地面が遠のいていった。
「こりゃ珍しく上物じゃねぇか。」
「無駄口叩くな!見つかるぞ。」
「ガキひとりだ、すぐ運べ。」
闇に沈んでいく意識の中ルーカスのかすかに開いた目には、遠ざかる酒場の灯が滲んで揺れていた。