水売り
炎天であった。
強い日差しがジリジリとむき出しの肌をあぶり、目を霞ませた。白っ茶けた風景の中、緩やかな丘陵や窪地の間をうねうねと続く街道は踏み固められた砂土ごと熱せられていて、そこを歩くものの体力を奪った。
「あの木のところまではがんばろう」
緑の枝を大きく広げた木を目当てに、少年は疲れ切った足を引きずった。焼け付いた喉と干からびた唇の間を、切れた息が出入りする音ばかりが耳に響く。クラリとする脳天に直接あたる日光がなけなしの思考をも焼く。
「水はいかがかね」
ようやく木陰にたどり着いたとき、かけられた言葉が何を意味しているのか、咄嗟に分からなかった。
ただ、柄杓になみなみと入った水が茶色い大きな水瓶に零れるポチャリという水音と、水の面に広がる波紋が脳を揺らした。
「一椀、1エクだよ」
相手の手にあった水椀を奪い取り、わずかな水を貪るように飲んでから、その意味に気づいた。
「お金……ない」
身一つでここまで歩いて来た少年が身につけているのはあちこちかぎ裂きができ泥に汚れたボロだけだ。金などない。
一目見たときから、それは察していたのであろう。大柄な水売りは溜息を一つついて、少年にしばらく仕事を手伝うよう言った。
水売りの仕事は簡単だった。
街道を行く旅人に一椀一銭で水を売る。水瓶の脇に置かれた籠には小ぶりの甘瓜も入っていて、そちらも売っている。
乾いた丘陵の間の浅い窪地に立つこの木は三叉路の目印で、街道を行く旅人の恰好の休憩所だ。数は多くはないものの通りがかったものは皆、一休みしていく。
「水はいかがかね」
粗末な身なりの水売りの売り口上はそれだけ。
大男に低い声でボソリと声をかけられて何事かと身構える者もいたが、水売りとわかると皆、一椀、二椀と水を買い求めた。
「甘瓜も……」
少年に割り振られた仕事は甘瓜売りだ。
最初のうちは、おずおずと小さな声しか出せなかった。しかし、一つ売れたとき、水売りは瓜をナタで切って客に渡し、そのときに落とした端を少年に片付けるように命じた。
こっそり口に含んだ甘瓜の端っこは瑞々しくて甘かった!
「甘瓜もどうぞ。1個5エク。甘いよ! 生き返るよ!」
少年の売り口上には熱が入った。
§§§
「水を2杯」
「はい。ただいま」
男は椀の水をゆっくりと噛みしめるように飲んだあと、もう一椀は自分の水袋に慎重に注いだ。
「おじさん、甘い瓜も食べなよ」
「いや、瓜はいらん」
無精髭を生やした男は、使い込まれたしっかりした造りの革ベルトに下げた硬貨入れから通商古銭ではない硬貨を1枚取り出して水売りに渡した。
「釣りはエクでくれ」
「旦那、こりゃ西国の新銀貨じゃないか。これに出せる釣銭の手持ちなんてあるもんか。うちは両替屋じゃない」
「ならば足すから、そこのロバを売ってくれ」
男は木陰で草を喰んでいるロバを指さした。水売りはとんでもないと首を振った。
「あのロバがいなけりゃ、水をここまで運べない」
だいたい、旦那は立派な馬をお持ちだと水売りは男が連れている馬に目をやった。馬は男の体格に合わせて大きく、良い鞍も付いていたが、元気がなく具合が悪そうだった。
「こいつはしばらく休ませねばなるまい。替え馬がいる」
「お急ぎなんですかい?」
男は口を引き結んで「先のあてがあるわけでは」と言葉を濁した。
「ならば、旦那も馬もしばらく休んでいきなさるといい」
「では、馬にも水を」
「これは人用なんでご勘弁を。馬に口をつけさせた水を売るわけにはいかんので」
それも道理だと男は思った。男はふと、水売りの茶色の水瓶とは別に、木の脇に大きな黒い瓶があるのに目を留めた。
「あっちはどうなんだ?」
「あれはうちの売り物じゃないんでさ。器は大きくて立派だが、中身は溜まり水で悪くなってる。飲用じゃないが、馬なら腹を壊さんと思うなら試してみるのは旦那の自由かと」
「ふむ……」
男は不承不承、木から少し離れた草地に馬を連れて行った。設えられた駒留めの杭に手綱をかけてから、大木の下に戻ってきて腰を下ろす。
木の下には先客が居た。二人連れの旅人は、男が来るとその剣呑な雰囲気を警戒したのか、少し場所を譲った。二人連れのうち細身の方は頭から被っていた日除けの布を被り直し、男と目を合わせないよう顔を伏せた。
二人連れのもう一方がそちらを庇うようにわずかに座り方を変えた。その身ごなしは訓練された者のそれだ。男は、この二人連れに興味を持った。
服装は地味で、よくある旅装。だが取り合わせがいささか不自然で職業がわからない。肩掛けの革鞄は良い品だが、ベルトは長年使い込まれた位置とは別の場所に留め具が調節されている。顔を隠した方の袖口から覗く手首は白くて華奢だ。手袋も細身で、働く男の手ではない。
「(さては駆落ち者か?)」
豪商の娘か下級貴族の娘か。
お忍びにしては所持品が少ないし、徒歩というのもあり得ない。
「(ここは一つ交渉してみるか)」
男は腰を下ろしながら、水売りの少年に声をかけた。
「瓜を一つくれ」
「はい!」
いそいそとやってきた少年は甘瓜を男に渡す前に手を出した。
「さっきの水代と合わせて7エク」
そういえば銀貨のやり取りで忘れていたが、結局、払っていなかったなと思いながら、男は少年の顔を見た。
ろくに洗っていない顔で、擦り傷もあちこちにある。だが髪はもつれきってはいないし、浮浪児には見えない。着ているものは汚れてカギ裂きだらけだが、破れは新しいものばかりだ。仕立ては高級ではないがしっかりしていて、肘の当て布なども丁寧に繕われている。女手のある家庭で育った子なのだろう。ずっとここで水売りをしているわけではあるまい。
「ボウズ、計算ができるのか」
「バカにすんな。そんくらい当たり前だ。”卵の数が数えられない鳥は巣を取られる”って言うだろ」
「ふむ」
北の山地の諺だ。そういえば、子供の服の首元の刺繍は、ここから北の山地の民が使う柄に似ている。
「……まぁ、数なんか数えられても、赤い兵隊がたくさん来たら、どうしようもないけどな」
少年は暗い目をして口を歪めた。
「7エク。……取るだけ取って村を焼くたぐいのクズじゃないなら出しなよ」
「払わんとは言っとらんさ」
男は木の下の二人連れに声をかけた。
「すまんが、そこのお人。西国銀を通商古銭か東方の通貨に両替できないか」
二人連れのうちの腕利きの方は、警戒のこもった眼差しをこちらに投げてきた。さっきからこちらのやり取りに耳をそばだてていた様子はあったから、経緯を細かく語る必要はなさそうだ。男は自分の銀貨を見せて困ったように苦笑してみせた。
「西国銀しか手持ちがない。ここいらじゃもう扱いがないようで、払いに使えん。このボウズにすっかり睨まれちまったようなんでな。ちいとばかり助けちゃくれまいか。ここから西に行くなら東方貨よりも西国銀貨の方が何かと便利だぞ」
話しかけられた相手は「西に向かうというわけでは……」と歯切れ悪く答えた。砂よけの布で顔の下半分を覆っているが、声からするとそこそこ若いようだ。
「お前さん達、東から来たんだろう。ここから北に行くのはやめておけ。このボウズの話じゃ、北ではたちの悪い軍が動いているらしい。行き合ったらつまらんことになる」
「なにっ?」
若者は身を乗り出した。
「どういうことだ」
「話は甘瓜でも食いながらしよう」
無精髭の男はニヤリと笑って、子供が持ってきた黄色い瓜を手に取って、若者の近くに座り直した。
§§§
勝手に持って行くなと怒る水売りの子に、若者はすり減った古銭を渡した。
エクと呼ばれるこの古銭は、その昔、このあたりに栄えた大帝国で鋳造された硬貨だ。質がいいのと量があるのとで、いまだに小商いの商隊やこういう国境があいまいな地域での物売りには重宝されている。特に一番少額のこの1エク銭は、ちょっとしたものの売り買いに大変便利だ。
実は若者にとっては、手持ちが心許ないエクを、こんな場所で無駄遣いはしたくないというのが正直なところだった。が、ここはわずかな金を惜しまず話を聞いておくほうがよさそうだという判断が勝った。
目の前の男はいささかくたびれた風貌で胡散臭い面相だが、その体格と身ごなしは軍人のそれだ。連れていた馬も軍馬なのは間違いない。貧乏騎士には一財産のはずの馬を、替え馬だなんだといって乗り継ぐ習慣があるということは、伝令か相当偉い役職だろう。とすれば年齢からして、こんなところで、こんなよれた恰好で単独行動をしている理由が思いつかない。
とはいえ、ただの騙り屋や詐欺師にも思えなかった。
半割りにして渡された甘瓜を、若者は自分のナイフで櫛形に切り分けた。薄く切った一つを慎重に口に運ぶ。
水気が多く青臭いが、ほんのり甘い。
厚めに切った真ん中の一切れに、さらに切れ込みを入れて食べやすくしてから、傍らの主人に渡す。
慣れぬ旅で疲労の色が濃い主人のホッとした気配が労しい。
「そこの少年にも分けてやりなさい」
静かな声に頷き、子供に目をやると、水売りの子は、ハッと顔を上げた。若者が食べる前に地面に落とした瓜の種をじっと見ていたらしい。
櫛形に切った残りを手渡すと、子供は「え、こんなに?」と目を丸くした。
「おう。いいから、もらっとけ。他に客もねぇし、歩いてくるやつも見当たらねぇ。一緒に座って食っていけ」
無精髭の男は、まるで自分が甘瓜を手渡したかのように偉そうにそういうと、子供を自分の隣に座らせた。
「ボウズ、お前、言葉の感じからすると、北の山村の出だろう。どうしてこんなところにいる。なんか苦労があったってんなら、いいから話してみろ」
促されても、子供は黙って甘瓜にむしゃぶりついていた。しかし甘瓜で舌の滑りが良くなったのか、そのうちポツポツと身の上を話し始めた。
聞けばその子のいた村は、突然やってきた兵士の一団に焼かれたのだという。兵どもは村の食料などの蓄えを一切合切盗んで、村人を皆殺しにしたらしい。
「君はどうやって助かったのだ?」
「先生の使いで薬草を集めに山に入っていた。戻ろうとしたら村の様子が変で……」
しばらく物陰から様子をうかがっていたが、家に火がかけられるのが見えたとき、父親が猟で使う”逃げろ”の意味の指笛が聞こえたので、そのまま山に入って、とにかくがむしゃらに逃げたのだという。
猟師の父親に連れられて山にはよく入っていたそうだ。だから彼は、単独行動時の合図の指笛を教えられる程度には、山には慣れていた。が、その時は気が動転していて道を見失い谷川に落ちたらしい。
かなり下流に流されて死にかけたが、運良く岩の間から伸びた木の枝に引っ掛かって一命を取り留めたのだと、子供は語った。そこからはもう自分がどこにいるかもわからぬので、ただ南へ南へと歩いてきたそうだ。
「ようやく見つけた道に沿って歩いていたら、最初の辻であった爺さんが、こっちにこれば大きな街に行けて運が開けると言ったから」
こんなに荒れ地が続くとは思わなかった。川で溺れかけて水っ腹になった分が全部干からびたとボヤいた子供に、無精髭の男は自分の手元の瓜を差し出した。
「そいつは大変だったな。……赤い兵隊と言っていたが、どんな奴らだった?」
「遠目だったから詳しくは見ていない。なんだか赤く塗った鎧や兜を身に着けている奴が多かった……思い出したくない」
それはすまなかったと男は詫び、渡した瓜は全部食べていいと言って子供の背に軽く手を添えた。
子供は黙って頷いて、汁椀を啜るように半割りの甘瓜の中央に溜まった汁を種ごと飲んだ。
男は若者の方に向き直り、声を落とした。
「聞いてのとおりだ。北にはゆかぬ方が良い」
「赤い武具揃えというと西国の朱炎軍か? そのような無法な野盗働きをする軍だという噂は聞いたことがないが」
「率いる長が変わったのでしょう」
奥で話を聞いていた若者の主が静かにそう言った。
「そうですね。炎蛾将軍」
「何のことでしょう」
「3年前に園遊会でお見かけしたことがあります」
「そういうことは貴殿の身元も明かすことになるから言わぬ方がよろしいですぞ」
「西国で何がありました?」
動じずにそう問うた貴人に、無精髭の男は苦笑した。
「面白くない話です。王と縁戚を結んで日の出の勢いの貴族におもねらない、政治に疎い不調法者が、無能と言われて失脚しただけで……よくある話です」
「そういうことがよくある国は早晩滅びます」
「これは手厳しい」
男は、日除けの布の奥を見通すかのような鋭い視線を向けた。
「だが、勢いのついた権勢というものは、そんなに清い理念通りに潰えたりはしない。東も似たような有様なのでは?」
「……そうですね」
男は腰を上げながら、もう一段声を落として、ほとんど独り言のように呟いた。
「東を出たのは良い決断だった。朱炎軍の行き先は東の王都だ」
「なんだと!?」
思わず一緒に立ち上がり、声を荒げた若者を男は静めた。
「そうイキるな」
「しかし……」
「落ち着け。すぐにここに西国の軍団がやってくるわけじゃない。まだ数日は猶予がある。お前がそこのお方を連れて自由国境地域を抜けるぐらいはできる」
男は、北の山中をろくな輜重隊もなしで”現地調達”しながら進軍している朱炎軍が、密かに東の王都の北辺に着くにはまだ時間がかかるだろうと説明した。
「この街道沿いに正規軍が出るのは、そちらの伏兵の準備が整ってからだ」
おそらくは騎馬隊中心の速さ重視の少数編成で、一気に肉薄する気だろうと言われて、若者は「それでは王都は落とせない」と抗弁した。
「いくら伏兵が出たとしても王都だぞ。城壁のある攻城戦が騎馬中心でできるものか」
「だが内応があればどうだ?」
若者の顔色が変わった。
「東の王宮……ここ最近で急に王太子の寵を得た女がいるのではないか?」
「あの毒婦め。西の間者か!」
「西の……というよりは、西も似たような手口でやられたといったところだな」
気づいた時には手遅れだった。身分剥奪の上、追放された元将軍は苦い自戒の笑みを浮かべた。若者は苛立たしげに眉を歪めた。
「貴重なお話をありがとうございます」
涼やかな声がし、向かい合う男と若者の後ろで、若者の主である貴人が立ち上がった。
「直ちに王都に戻りましょう」
「何をおっしゃいますか!」
「お父様にこの窮状をお伝えしなければなりません」
「しかし! それでは折角あなた様をあのボンクラの悪巧みから秘密裏に逃してくださったお父上の配慮が無駄になります」
「私個人のことでしたから、どうせ無駄に罪を着せられて罰せられ、家名に傷をつけるぐらいなら……と、急病で死ぬ狂言にも乗りましたが、これは国家の大事です」
「あんな無情なボンクラ王家など潰されてしまえば良いのです」
「いいえ。形ばかりでも、戦で占領となれば民に被害が出て国の政が滞ります。そうなれば王都のみならず国全体の民の生活に悪しき影響があるでしょう」
「いや、もうそういう悪しき影響っていうのは、あのボンクラ王子が立太子して、あの毒婦を娶って跡を継ぐ時点で確定していたも同然なので、今さらあなた様がお心をくだかれるようなことでは……」
高潔な主人は若い従者の手を取って、祈りを捧げるように両手で包み込んだ。
「お願い。お父様やお母様を見捨てるわけにいかない」
「しかし、今、あなた様がお戻りになったところで……」
「そうだな」
脇で主従のやりとりを興味深そうに見ていた男は、無精髭を擦りながら提案した。
「要するに、そちらの家人に知らせを入れればいいだけなら、死んだはずの立場の者が帰ったところで邪魔なだけだ」
「だが……」
「ボクが行く!」
甘瓜の汁で汚れた口元をぐいっと手の甲で拭いて、少年は立ち上がると大人たちの方へやってきた。
「ボクはこの先行く宛もない。ボクが東に知らせに行く。子供なら怪しまれない」
「バカ。怪しまれなくとも、信用もされないだろう。お屋敷に近づくことすらできんぞ」
「お屋敷ってのがどんなところなのかは知らないけれど、人が住んでいるなら下働きの出入りはあるんだろ。村長んちだって裏口はあったし、先生と一緒なら表からも入れた」
「山村の村長の家と一緒にするやつがあるか」
「同じだよ」
少年は強い眼差しで若者を見上げた。
「村長の家は赤い兵隊に焼かれた。次はあんたのところのお屋敷だ」
ハッと息を呑んだ大人達の前で、少年は決意に満ちた声でゆっくりと言った。
「ボクは救える人がいるなら救いたい」
その真っ直ぐな眼差しを受け止めた貴人は、己の顔の日除け布を取り、少年の前で腰を落とした。少年は布の下から現れた顔の美しさに唖然とした。
「少年、私の父を救ってくれるか」
「……あなたの母も。きっと皆」
麗人は艶やかに微笑んだ。
「身の証になるものを渡そう。この短剣を持って行くが良い」
少年は柄頭と鞘に紋章の入った銀の短剣をまるで騎士の受勲のように両手で受け取った。
「おいおい。世間知らずの無茶にもほどがあるだろう。公爵邸の場所どころか王都までの道もろくに知らない無一文のガキが、そんな役目を負ってどうする気だ」
呆れたと言いながらも、ニヤついている男を見て、少年は同じようにニヤリと笑ってみせた。
「だから、ボクはあなたを雇う」
「なに?」
思いがけないことを言い出されて、男は目を丸くした。
「おじさんは大人だ。王都に行ったことがある。この短剣を見ただけで、”お屋敷”が”公爵邸”だってわかったのだから、きっと目的地を知っている。そして、ボクが知らなくて、この人のお父さんが知らなきゃいけないことを、この中で一番よく知っている」
少年は真面目な顔で男を見上げた。
「赤い兵隊のことを一番よく知っているのがあなたで、奴らを皆殺しにする以外の方法で戦いを終わらせる方法を知っているのもあなたなら、あなたはボクと一緒に来たほうが後悔しない」
雲があるわけでもないのに日差しが陰ったように感じられて、体の芯が震えた。
炎に吸い寄せられる蛾のような性分だと評されたことのある男は、突きつけられた強く激しい輝きに分別を焼かれた。
それでも、かつて激情に身を任せた結果、すべてをむしり取られた男は、つい口先だけ逃げ道を探した。
「ほざけ、ほざけ。雇うと言ってもなにもないお前に払える報酬はない」
「おじさんが欲しいのはお金? 目先の欲で足る程度ならこの短剣を渡すよ。銀だ。鋳溶かして食いつぶせば、いい具合に肥太れる。でも……」
少年は貰ったばかりの白銀の短剣を半分抜いて、男と自分の間にかざしてみせた。
「そこについている頭がニヤニヤ笑いを貼り付けるための飾りじゃないのなら、この紋章の家を国ごと救ったら、相手がどれだけの報酬を用意できるか考えてみるといい」
おまけに真に打ち払うべき相手は、己からすべてを奪った奴らときている。
男は眉根を寄せて口を引き結び、それからつくづく嫌そうに息を吐いた。
「山村の小僧にこんな知恵をつけやがったのが、お前の親や”先生”なら、わずかばかりの食料目当てで、そいつらを殺した軍の上官は無能すぎる」
「罪は償わせる」
男は長い長い溜息をついて、己の心の澱を吐き切ると「しょうがねぇなぁ」と呟いた。
「おい、そこのお二人さん。今、東方の通貨でいくら持ってる」
固唾をのんで状況を見守っていた主従は、男から突然、金の話をされて戸惑った。
「あるだけ出してみろ」
「なにを……」
「両替だよ。最初の話だ。忘れたか」
「あ、ああ……両替か」
そういえば。という顔をした若者に、男は自分の革ベルトから外した銀貨入れをポンと渡した。
「どうせここから西ではそいつの方が役に立つ」
「しかし、我々は西国に伝手のない身だ。先ほどの貴殿の話によれば西国の宮廷も、あの毒婦の縁者に乗っ取られている有り様のようではないか。そのようなところに向かうぐらいならば、慎重に北から迂回して海に出て、沿岸小都市群を目指したほうが良い」
「あほう。お前はともかく、お前の主人に山道は無理だろう」
慣れぬ徒歩の長旅で、足を痛めている様子の麗人は恥ずかしそうに目を伏せた。男はその様子を見てつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「もののついでだ馬もつけてやる。二人は乗れんだろうが、お前が引いていけ」
「ご配慮いたみいります」
「ただし、山は止めておけ。馬で行けば距離は稼げても後を追われやすい」
追っ手が来る可能性はあるのだろうと聞かれて、主従は顔を曇らせた。
本来はここでそう長居をしているのも良くない状況らしいと男は察した。
「よし。いいことを教えてやろう。この街道を西に行って途中で南に下がったあたりに変わり者の辺境伯がいる」
街道を道なりに行くと小さめの湖がある。そうしたら街道を外れて、その湖畔の森の外縁をまわり、流れ出ている川沿いに南下。しばらく行ったあたりが辺境伯領だと、男は説明した。
「辺境伯は無愛想だが人の良い男だ。奥方はおっとりしているが勘が良い女だから、無駄に騙そうなどとしなければ、悪いようにはならんだろう」
「しかし、このような身の上で突然押しかけて、匿っていただけるとは思えませぬ」
男は先ほど渡した銀貨入れの方に無精髭の生えた顎をしゃくってみせた。
「そいつをガワごと渡して、”ある男がそちらから借りた金を返すから、その男が貸した金じゃないものを受け取りたい”と言ってやれば、話ぐらいは聞いてくれるだろう。そこから先は自分でなんとかするんだな」
「このクソガキみたいによ」と、男は子供を嫌そうに見下ろした。
「ありがとうございます」
主従は深々と感謝の礼を示し、わずかばかりだがと、男と少年に東方の金子を渡した。
§§§
「お話はまとまったかね」
突然、声をかけてきた水売りに一同はギョッとした。
変な話だが、今の今まで水売りがいることを忘れていたのだ。
「おい。今の話は……」
「ええ、うちの手伝いの小僧が大変ご無礼申し上げて、申し訳ない」
水売りは臆しもせずにそう言ってのけた。
一同はこのあまり賢くはなさそうな大男は、ことの重要さがわかっていないのだろうかと思った。それならばよいが、半端にこの水売りから話が漏れると危険だ。荒事に長けた男と若い従者はいささか鋭い眼差しで水売りを値踏みした。
男と目が合った水売りは、その眼光を恐れる様子もなく、「ああ、旦那。そういえば」と、切り出した。
「水はいかがかね」
「いや、俺は」
もう要らぬと断ろうとした男に、水売りは続けた。
「いやいや。一椀、二椀という話じゃない。一式全部いかがかね」
「全部とはどういうことだ。言ってみろ」
水売りは、水瓶、椀、甘瓜の籠、ロバ、ロバの背に水瓶や椀を積む鞍と荷籠……と指を立てた。
「それに、街に出入りするための商い証」
水売りは懐から、丁寧に油紙に包んだ身分証を取り出した。
「人の出入りの多い大門なら、それがあれば見慣れぬ顔だと誰何もされないはずだ」
今なら手伝いの小僧もつけると水売りは笑った。
「そんなことをして、この先、お前はどうする」
「なあに、気楽な身の上なんで。水売り一式のお代をいただいて、しばらくはのんびり過ごしまさぁ」
男は自分が先ほどまとまった額の東方の金を手に入れたのを、水売りが見ていたらしいと気づいた。
「それはいい。どこかの田舎でゆっくりしてこい」
ロバと古雑貨の代金には多すぎる金を、男は水売りに渡した。
水売りは機嫌良く礼を言い、今日はこれで終いにするから、残った水瓶の水は皆さんの水袋を満たしたあとは、馬とロバにやりましょうと言い出した 。
「そこの岩のくぼみが馬桶代わりに丁度いい塩梅なので」
惜しまず瓶を空けた水売りは、これも持っていけと、水を飲んでいる馬とロバの荷袋に甘瓜のあまりを詰め込むことまでした。
「ささ、支度が済んだらさっさと行くのが吉だ」
感謝と別れを告げ、繰り返し振り返りながら西へと旅立っていった若い主従の馬を見送ったところで、少年は「あっ」と声を上げた。
「忘れるところだった。これ、さっきお客から受け取った7エク」
「正直もんだなぁ」
水売りは少年から古銭を受け取り、「はい、確かに」と数えてから、1枚だけをしまって、残りを少年に餞別だと渡した。
「瓜では腹持ちが悪い。途中でそれで何か買って食べるといい」
「ありがとう!」
一緒に来てくれないかと言いかけて、少年は口をつぐんだ。これから自分が歩むと決めた道に、この気のいい水売りを巻き込むのは気がとがめた。
「……ありがとう」
ただもう一度それだけ繰り返して、少年は男とロバの方に走っていった。
§§§
瓜の食べカスや馬糞を土に埋めたり、辺りをさっと枝で掃いたりして、後片付けを終えた元水売りは、最後に自分用に取っておいた甘瓜を取り出した。
商売道具のナタは、水売り道具一式の一部としてロバの荷籠に入れてしまったので、かわりに男に頼んで譲ってもらった西国風のナイフで瓜を切る。
数打ちの特に銘もなにもない実用ナイフだが、切れ味はいい。
中天を過ぎても日差しのきつさは相変わらずで、白茶けた風景にはうっすら陽炎が立っている。
元水売りの大男が瓜を一つ食べ終えた頃、その乾いた景色の向こうから、騎馬の数名が三叉路の木の下にやってきた。
「若い二人連れを見たか」
あまり旅装とは言い難い黒い服を着た男達は、馬から降りもせずに偉そうにそう怒鳴った。
「いんや? どうだったかな」
「見たのか!? 見ていないのか!? はっきりしろ」
暑さで苛立ってでもいたのだろうか。
馬に乗った黒服の一人が、ちょっと知恵が足りないとみえる大男を馬用の鞭で叩いた。
「痛い、痛い。やめてくれ」
「ほれほれ、まだ思い出せんか」
「これでどうだ。少しはしゃっきりしたか」
鞭から逃れようと頭を抱えて右往左往する大男を、馬に乗った黒服達は、面白半分に小突いたり打ったりした。
大男は情けなく悲鳴を上げた。
「見た! 見た! 若いやつだろ」
「そうだ。どっちに行った」
大男は「そっちだ」と、黒服達が来た東の道を指さした。
「背丈が俺の胸までもない子供をロバに乗せた物売りがそっちの方に向かった。子供は大分と若かったぞ」
「バカ! 若すぎだ」
「そやつらなら見た」
「他には」
顔を隠した怪しい徒歩の二人連れだと言われて、大男は「そんな奴とはすれ違っていない」と答えた。
大男のベルトに挟んである西国風のナイフを見て、黒服達は大男は西から来たと判断した。
「西には行かなかったようだな」
「北か」
「山越えで海に出る気だろう」
「足弱のことだ。まだそう遠くまでは行っておるまい」
「念のために西にも一人行かせるか」
「そりゃあ、西に行く奴はちょっとした休暇だな」
この先、誰がどちらに行くか話し合っている黒服達に、大男は声をかけた。
「なあ、旦那方。相談ごとがあるなら、一度、馬から降りて休んじゃどうだ」
炎天下をはるばるやってきた黒服の男達は「それもそうか」と皆、下馬した。
鞭が怖くて彼らの機嫌を取りたいのであろう。大男はヘラヘラと間の抜けた愛想笑いを浮かべた。
「水はいかがかね」
背後をちらりと見た大男につられて、涼しげな木陰の方を見た男達は、そこにある大きな黒い瓶に気づいた。
§§§
赤い夕日が丘の端にかかって、熟れて落ちる鬼灯のように揺らいでいた。
赤く染まった地面に、大男は黒い大瓶に残っていた中身を全部流し、あらためて辺りをざっと片付けた。
「さてと。後始末も終わったことだし……」
大男はぐっと一つ伸びをして、ふらりとその場を立ち去った。
誰もいなくなった三叉の辻の木には、その夜、雨が降った。
「どこかで油でも売ってくるとしよう」
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