君は、漸近線を飛び出した。
ありがとうございます。
1
あの日君は、漸近線を飛び越えた。
いるはずのない場所に君がいた。
ヘッドライトが君を照らす。
君の顔は、逆光で見えなかった。
光源は、産声を上げて君に近づいていく。
僕は目をつぶって、全てを遮断した。
目を開ける。
止まりきれなかった電車が、いつもより少しだけ弱い風を起こして、通り過ぎる。
ホームから見える夜空も、初夏の形容しがたい蒸し暑さもいつも通りだった。
ただホームを包む空間だけが、世界から独立していたた。
2
君は風のような人だった。どうしてか、君との記憶が曖昧になっていく。
このままいけば、君のことすら忘れてしまうのだろうか。
君の顔を思い出そうとするたびに、あの瞬間がフラッシュバックする。
線路に立つ小さな背中。
僕の声をかき消したブレーキ音。
振り返らなかった君の輪郭。
1秒未満のシルエット。
思い出すことは、生きていた証を守ることだと君が教えてくれたのに。
僕にはそれすら、できないでいた。
3
「ねえ、“漸近線”ってさ、何かに似てない?」
ある日の君の声が、不意に蘇る。
いつもの放課後、校舎裏の鉄柵に腰かけて、君は空を見上げながら言った。
「なんかさ、人の気持ちみたいだよね。完全に分かってくれてるなんてことはないし、私だって人の気持ち全部は分かりっこないしさ」
「うん、でも、近づけば近づくだけ、気持ちを分かってもらえるってことじゃないの?」
「……そうだね。でも近づいても埋まらない隙間は、永遠になくならないよね」
そのときの君の横顔は、西日の逆光で見えなかった。
4
「黄色い線の内側で、お待ち下さい。」
三途の川の両岸に、機械的な声が響く。気味が悪い風が僕をなでる。
ホームから見える夜空も、初夏の形容しがたい蒸し暑さもいつも通りだ。隣の椅子に、誰も座っていないという点を除いて。
一人で電車を待っていると、どうしてもあの光景を思い出してしまう。君との思い出は今も散らばったままだ。
鞄を抱いて、僕は角の席に座って目を閉じた。
5
「ねえ、漸近線ってさ」
あの日の放課後は、僕たちは校舎の屋上にいた。
君はフェンスのぎりぎりに立って、指先で金網の端をつまみながら、遠くの街を眺めていた。
「またその話?」
「うん、でも今日思ったから話すの。」
「なにそれ。」
「…ホームの黄色い線とか、屋上の柵とかも、漸近線みたいだなって。」
僕はとなりで、風に揺れる君の髪を目で追った。
君の声は柔らかいのに、どこか淡々としていた。
「いつでも飛び越えていいのに、誰も飛び越えようとはしないじゃん」
「当たり前でしょ、そんなことしたら死んじゃうでしょ」
「でも、不思議じゃない?ホームとか歩いてて思わない?1メートル隣に死があること。こんな平和な世の中なのに、隣にそんな物騒なものがあるんだよ」
「まあ、そうだけど」
「誰も飛び越えようとしないのは、多分飛び越えようなんて考えもしないし、飛び越える必要もないからだと思うんだよね」
「うん」
しばらく沈黙が流れる。
「え、それだけ?」
「うん、それだけ。」
君の顔は、逆光で見えなかった。
6
君は、人の気持ちをよく読む子だった。
人が何を言いたいかより、何を言わずに飲み込んでいるかに敏感だった。
でも、自分のことはあまり話さなかった。
家のこと、学校のこと、将来のこと。話しかけると笑ってはぐらかした。
君から話すときは、いつも不思議なばかり話していた。
「本当に死んじゃうのっていつ何だろうね」
「急にどうしたの」
「私、織田信長って死んでないと思うんだよ」
「何いってんの、生きてたらもう600歳だよ」
「だって、日本人に織田信長知らない人なんていないでしょ。それって日本人全員の心のどこかに信長が生きてるってことじゃない?」
「うーん」
「なんというか、まだ形式的にしか死んでないっていうか、、、本人からしたら死んでるんだけど、本当に死んじゃうのって皆から忘れ去られたときだと思うんだよね。」
「?、うん」
「歴史上の人物って、大昔の誰かが本とか絵とかでその人がいたことを形にしてるから今に伝わってるだけじゃん?だから信長も皆に覚えていてもらってるわけでさ」
「うん」
「でも、何の記録にも残らないで、独りで死んじゃった人って、今生きてる人全員その人のことを覚えてないってことでしょ?」
「うん」
「それって本人にとっては生きてた期間があっても、現現実ではその真実はなかったことになるってことじゃない?」
君は話すのをやめない。
君の顔は見えなくて、重みは分からなかった。
「本当に死んじゃうのって、皆から忘れられたときだと思うんだよね」
「…分からなくはないかも」
「何の記録にも残らないで、独りで死んじゃった人って、いたってことすら証明できないじゃん? それって現実では“いなかった”ってことと一緒じゃない?」
僕は受け止めきれていなかった。
いつかは笑って流せる話の一つだと思っていた。
きっとそうやって僕と君の間に"漸近線"が引かれてしまっていたんだろうな。
7
君がいない教室。
君の笑い声がもう響かない通学路。
誰かが君の机に置いた花。
日々が、君の死を取り込んでいく。あたかも元からそうだったと言わんばかりに。
君は言っていた。
「居場所がどんどん狭くなって、漸近線の中にいられない気持ちになっちゃう人が、外側に飛び出しちゃうんだろうね」
そうだったんだね。
君の中では、あの夜、漸近線の中にいることがもうできなかったんだ。
8
君の顔はもう思い出せない。思い出すのはあの日のあの瞬間とかすかな昔の記憶だけだ。
もう一度だけ、線路の前に立つ。
足元に引かれた漸近線を、踏み越えずに、でも真っ直ぐに見つめる。
できるなら、すべて忘れてしまいたい。
でも、あの日の光景さえ忘れてしまったら、本当に君がいなくなるから。
だから、今度は僕が、君の輪郭をこの世界に残していく。
ホームから見える夜空は至って変わらないし、いつものように何とも言えないほどの蒸し暑さがホームを包む。
僕は歩き出した。風は僕の背中を心地よく押す。
限りなくでいい。君に近づくために。
初めての投稿で何も分かりませんでした。