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【アップしました】男山教会2022年5月15日礼拝説教/『思記』より〜

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(不思議のパルプンテ)

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782


【カクヨム】

https://kakuyomu.jp/my/works


【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪


【本日のメッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=SbxihfSqCzI&feature=youtu.be


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12744341295.html

(ブログを見てくださると聖書を閲覧できます)



子ども説教 主題と暗唱聖句


イエスさまは、水の上から沈んで、助けを求めて叫んだ、ペトロ(ペテロ)を助けられたイエスはすぐに手を伸ばし、ペテロつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

マタイによる福音書14章31節[新改訳2017]



前奏 

招詞 ヨハネの黙示録19章5~8節

詩 編 歌 119番(35節)

開 会 祈祷

主 の 祈り

十戒・祈祷

子ども説教

マタイによる福音書14章31節

こどもさんびか どんなときでも[改129(1節)]

牧 会 祈祷

聖書

使徒言行録11章25~30節(新P235)

詩編37編16~29節(旧P869)

説教

「主に守られた教会の歩み

~キリスト者たちの援助と奉仕」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 312番(1節)

みことばの交読文

フィリピ2章1~5節

感謝のささげもの・祈祷

頌 栄  546番

祝 祷

執り成しの祈祷

報 告



讃美歌~♬


讃 美 歌 312番

https://www.youtube.com/watch?v=tjbyanYNDBs


いつくしみ深き 友なるイェスは

罪咎とがうれいを 取り去りたもう

心の嘆きを つつまず述べて

などかは降ろさぬ える重荷おもに

いつくしみ深き 友なるイェスは

我らの弱きを 知りてあわれむ

悩み 悲しみに しずめる時も

祈りに応えて なぐさめたまわん

いつくしみ深き 友なるイェスは

変わらぬ愛もて 導きたもう

世の友のわれを 捨てさるときも

祈りに応えて いたわりたまわん



2022年5月15日 礼拝説教 中心聖句


そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、…長老たちに届けた。

使徒言行録11章29,30節


若いときにも老いた今も、わたしは見ていない 主に従う人がすてられ 子孫がパンを乞うのを。生涯、憐れんで貸し与えた人には 祝福がその子孫に及ぶ。

詩編37編25,26節


はじめに

キリストの支配の中で、日々の歩みが、守られていることを感謝しつつ。

「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」。かつてバルナバは、サウロを連れて、エルサレムの使徒たちに案内し、「サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明し」「それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった」(9章27,28節)。

 この時、「ギリシャ語を話すユダヤ人」(ヘレニスト)たちが、サウロの命をねらい「それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り」「タルソスへ出発させた」(9章30節)。バルナバは「慰めの子、預言の子」として、その名のとおり、神の備えられた良き協力者を求めた。サウロ(パウロ)自身、互いに「神の協力者」であることを覚え、主にある教会と兄弟姉妹たちへ手紙を書き送った(コリント二6章1節、フィリピ4章3節、テサロニケ一3章2節、フィレモン1章24節)。

「二人は、丸一年の間そこの教会(の中)に一緒にいて多くの人を教えた」。教会は、御言葉による礼拝、交わりと奉仕、愛の業と施し、真実の証において、健全に成長していく。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者(クリスチアノス:ユダヤ人と区別された、キリスト派の者たち)と呼ばれるようになった」。「この道」(9章2節)、「ナザレ人の分派」(24章5節)と異なるローマ支配下における正式の呼称。「この名」は、じつに、御使いによって告げられた、救い主の御名(ルカ2章11節)であり、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」、十字架の死から、死者の中から復活された、「ナザレの人、イエス・キリストの名」(使徒4章10,12節)。「イエス」ではなく「キリスト」の名で呼ばれるようになったことは、聖書の預言の実現と伝えられた福音を証しする。「わたし(たち)は、信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎにあず」かり、「この方の御名を告白し、生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ、この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、ついには全被造物をこの方と共に永遠に支配するため」に「キリスト者」(クリスチャン)と呼ばれる(ハイデルベルク信仰問答問32)。唯一の救い主、復活の主「生けるキリスト」という幹につながる「キリスト者たち」こそ、地上における「真のキリスト教会」(ヨハネ15章)。

「そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た」。この「預言」とは「予言」よりむしろ「先見」。それは、ただ「霊(聖霊)による」。主イエスは、「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えれられる。それから、終わりが来る」(マタイ24章11~13節)と約束された。クラウディス帝の時に起こった「大飢饉」の中、弟子たちは、主の先見的な備えの中で、母教会エルサレムを助けた。

おわりに

キリストの苦難を証しする「キリスト者たち(教会)」は、苦難の中にキリストの祝福を信じ見る「先見者」として、真の柔和と謙遜、寛容の道を共に歩む。



思記〜『使徒の記』より〜


部屋に物が散乱して居て、それ等をぎゅうぎゅう詰めに押し込めるように隠して仕舞えばそれが虫の巣に成る。そして見える奇麗な表面の所に、その巣から這い出て来た虫が現れるのだ。表面の美しさに感けて人は何故と言うだろう。その部屋に初めて入った人なら尚更の事。そして時にその虫は物を食い荒らしたり、人に害を及ぼす事もある。人が生活して居れば物は自然に増えて行く。これも或いは欲望によるもので、あれも欲しいこれも欲しいと、その物を山積みにして仕舞うのだ(時に貧しさがこの状況を救う事もあるが、裕福なら裕福で、便利な道具を使いその問題を片付ける事も出来る)。片付ける理性・清潔感がきちんと働いて居れば良いが、怠惰に成ればそれも叶わない。そう成った時が問題に在る。或いは状況の多忙によりそう成る事も在ろう。表面の問題よりも根底の問題から片付ける事・解決する事、これが大事に在る。その「物が散乱し虫が巣食う状態」が長引けば、何処に問題が在るのか、億劫からも判らなくなる事が在るからだ。


夫々の才能は夫々にあり、解釈の仕方も夫々にある。能力の発揮の仕方も夫々に在り、その力を引き出すまでの手間ひま、その方法の在り方や所要時間の違いだけで時に差が出る。そこから妙な競争も生まれるのである。そのスピードは世界が用意したものか、他人が用意したものか?


電子を見て自然を見て居ない。偽物を見て本物を見て居ない。平面を体験し奥行きを体験して居ない。


今でも太宰治の自死を「単なる身勝手且つ我儘な死」と断定する人が居る。「苦しんだ人達は他にもっと大勢居る…」とか何とか言いつつ。自死する者の心の悩みは誰にも分からない。内向的な処に個人的な理由が在るのなら、一般論でしか言えない感想は避けるべきである。気持ちが在れど一般論の一辺倒により非難する事は、その自死を遂げた人への非礼に当たる。これはもう十代の頃に告白して居た事だ。


(或る男女の会話)

「僕の中には悪魔が住んで居るから、君と一緒には成れない」

『天使は住んで居ないの?』


二秒で決議。ちょっと迷ったんだね。一秒の理性。


賢い人なら馬鹿の振りをする。巧い事を言う。「先見の明を具える輩は時と場合により盲目の振りをする」。


平和とは、人々の譲歩で成り立っている。


その昔、まだユーチューブが無かった頃。その歌のタイトルだけを知って居て、結局CDを借りるにもお金が掛かり、聴くタイミングも無く、そのまま十年ほど聴かなかった歌も沢山ある。でもユーチューブが出てからそれ等が殆どアップされ「なるほどこんな歌だったのか!」と知らされるタイミングも可成り増えてきた。本当に感謝な事である。


自分を小説にした男。


ファックスとはメールの前身である。


昔は足りなかったから良かった。足りなければ足そうとする。それが仕事に成る。


もう可成り前になるがインド、パキスタンへ行った時、日本から行って見ると何か七〇年代に返った気がした。これは正直だ。でもそっちの方が、インド、パキスタンで味わったあの空気の方が安心出来た。何か暖かい気がして、時間がゆっくりのんびり進んでる気もして、気持ちが穏やかに成れたと言うか、とにかく、うむ、そうだったのだ。売ってる物も古い気がして、何か昔に返れた気がする。とにかく空気が(気候の所為もあるが)暖かく、それに不思議だけど明るい気もして、何処に居ても行っても暖かい誰かが待っててくれるような、そんな錯覚すらして嬉しかった。和みが在ったし、レトロが在ったし、懐古を包容してくれるやはり懐と言うか、深みの様なものが在ったのだ。それは今でもきっと変わらないだろう。でもこの感動の土台は、俺が過ごした昔の日本に在るのだ。


余り便利ではなく物が足りないとなれば、目の前の事・身の周りが世界の全てになる。今ほど電子メディアが発達せず、その場所から遠い場所までワープ出来ないとなれば(連絡・意思疎通が出来ないとなれば)、諦めの気持ちが湧いて来て、そこで幸せと充実を見付けようとする。となれば周りの人や環境を大事にしようとし始める。これが良いのだ。おそらく人間の本来の感覚に合って居る。無理が無く、許容範囲で物事を把握する事が出来、手に負えない物事がかなり軽減される(無くなると言って良いかも知れない)。確かに不便ながらの困難はあるが、それでも無ければ無いで何とか出来るもの。今までそれでやって来たのだ。人には順応力が有りその環境に適応する。便利な現代に適応した人間の姿と、不便で物が無かった昔に適応して居た人間の姿と、果してどちらが良いか?


マッコウクジラとは、真っ向から勝負を挑んで来るからマッコウクジラである。あの大きい鼻(上顎)も何となく魚雷と言うか、何か突っ込んで来る弾頭の様な攻撃用武器に見えるではないか。俺のイメージはそうだった。だから今はそうして置くのである。本当は「抹香」と書く。これは粉末状の香の事で、これまで沈香やビャクダンが用いられ、仏塔で蒔いたり焼香用に使われて居る。古代のアラビア商人が扱う品に香料・医薬・媚薬にもなる龍涎香りゅうぜんこうと言う物が在り、これがマッコウクジラの体内で生成される事が判り(龍涎香が抹香の香とよく似て居た事から判明)、その儘「抹香鯨」と呼ばれるように成った。やはり名称と言うものには夫々、歴史に於いてそれなりの理由を以て人から名付けられたものが多い。


空創物真似。芥川龍之介の真似が出来るか。それを人に上手いと言わせる事が出来るか。太宰治の真似が出来るか。それを人に上手いと言わせる事が出来るか。瓜二つと言わせる事が出来るか。誰も声も聞いた事も無ければその素振りを生で見た事が無い。その上で上手い・そっくりだと言わせられるか。新しい分野であろう。


人間は生まれ付いた時点で「何だこれは?」の状態に在る。自分に何も約束されず、気付いたら既存のものがそこに在った、既存のもの?この既存はどこから来たのか?何にも分からないこの現実・現状、目に見えるもの、体感出来るもの、知覚出来る全ての範囲、時間や空間、言葉を使って居る、風が吹く、水が流れる、流れる時間は何処へ向かって居る?この人間が生まれる環境を創られたのは誰なのか、生き物が居ても良い範囲・関係を創られたのは何なのか?この「何」を土台にした訳の解らない空間・土台・環境・時空…時空と言う言葉もよく分からない、何か解らないけど喋ってる、考えてる、考えられる力が在る、言葉を話せる力が在る、感じられる力が在る、これを与えられたのは何なのか、生き物は、人間は、その土台を以て生活して居る。丸ごと解らないものを以て生活して居る。生かされて居る。生活させられて居る。また訳の解らない外部情報・刺激がやって来る。これによって生きる者と死ぬ者とが分けられる。何故か解らないけど争いが起き、それが国同士の争いに発展し戦争と成る。眉間に皺を寄せて考えて居る。やはり言葉を話す。自分の生まれる前から在った書物がそこに置かれて居る。事物が在る。こんなもの、俺は(私は)認めた覚えが無い、此処に在ると約束した覚えが無い、知らず内にそれが存在して居た、それを存在させたものは何なのか、生前・現在・死後に就いても説明出来ない人間、虫や動物も説明出来ないのか、植物も説明出来ないのか、この現在が分からない。このように話しながらも確信的な部分が解って居ない、土台を理解して居ない、与えられた生命保存の土台の上で生かされて居る、妊娠も然りである。これを以て全ての生き物は誕生し生かされて居る。宇宙の果て、地球、惑星、銀河、生き物はこれ等をどう説明付ければ良いものか。これ等は膨大過ぎる。しかし空間に在る一点の規模と、宇宙に在る膨大な規模は同じである。それが分からないからだ。既存のものとしてそこに在ったからだ。その既存を人間は知らず、理解出来ず、既に与えられたものとしてそこに在ったから、だからこの様に言う。これ等のハテナを含めた説明付けられない・理解出来ない本当に訳の解らない事象に対し「何だこれは?」と言う言葉が生まれるのである。これを例えば岡本太郎はずっと言って居た。彼だけではない。全ての人が心でそれを言って居る。古来、人間はずっと言って来て居る。虫や昆虫や植物もそう言うものか。これを理解したい本能が人間には在る。此処まで考えただけでも神様へ辿り着くのだ。信仰へ辿り着く。


昔の季節の読み方は、一月二月三月これが春、四月五月六月これが夏、七月八月九月これが秋、十月十一月十二月これが冬、こんな風に簡単に決められて居た。と言うのは、昔には今のような天気予報が無かったからだろう。今ほど天気を出来るだけ確実に調べられる機器が無く、科学的な技術発展もして居ない。だから目視や体感、そんな原始的な身体的観測・観測計器でしか調べる事が出来なかった、だから何となくで決めて居たのだろう。決め手が何となくに成って居たと言う事である。


イカした歌詞の醍醐味は、女性を生け捕るボーイッシュな口調にあるのさ。昔それを試した事が何度かあった。まぁ、出来栄えはもう一つだったけどね。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?v=MCyjy8BuIIw&t=2s


「SEIZE THE DAY / 今を生きる」

https://www.youtube.com/watch?v=A7Aobi9nmWM


イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)

https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)


少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬



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