六 寄り道
目を開けたシグルトは当初、視界に広がる光景を理解できなかった。
そこにあったのは、空虚で広大な黒。
どこまで続くかと一瞬疑ってしまいそうなほどに巨大なそれは、深く深く大地に穿たれた大穴だった。
仮に、これは地の底の国にまで繋がっていると言われれば、自分は信じてしまったかもしれない。
呆然とそう考えかけ、シグルトはようやく我に返った。
慌ててその場から身を起こして辺りを見回すと、やや離れたところで己の側近たちが倒れているのが見えた。
奇妙なほどに重怠い体を引き摺るようにしてシグルトは彼らの元へと近付き、その肩に触れて軽く揺さぶる。
「う……」
軽い呻き声とともに、一人の青年の目蓋がゆっくりと持ち上げられる。
「でん、か……?」
次いで、もう一人の側近ものろのろとした動きで上半身を起こしてきた。
「殿下、これは……。ここは一体……」
その問いに、眉をひそめたシグルトが分からないと言いかけたときだった。
先に目を覚ました赤髪の青年が、弾かれたような勢いで周囲を見渡しだす。
それから彼はその琥珀色の双眸を大きく見開き、呆然とした様子で呟いた。
「召喚の、魔法陣が……」
その掠れた響きは、辛うじて耳に届く程度の小さなものだったが、それがシグルトにもたらす衝撃は比較にならないほどに大きなものだった。
わずかな間を置き、彼はようやくその意味を理解する。
そうして、改めて目線を下へと落としたシグルトは、ただただ愕然とした表情でその巨大な空白を見つめた。
高い蒼穹の下、草原の中どこまでも続く細い道を、二つの人影が歩いていた。
獣道とまではいわないまでも、かといって街道と呼ぶには思わず首を傾げてしまいそうになるくらいにささやかな道だ。
晴れた空から注がれる陽光はほどよく暖かだが、緑の草を揺らしていく風は涼しい。
暑くもなく寒くもないこんな日は、徒歩で行くには最適だろう。
だが――……。
そんな周囲の麗らかさとは完全裏腹な、なんとも苦り切った声音が、青空の下に響いた。
「それにしても、信じられないわよ……」
聞こえて来たその声に、ノアは深めに被っていた帽子のつばを持ち上げ、ちらりと顔を横に向けた。
その黒い瞳に映るのは、ノア同様に髪を帽子の中に押し込み、動きやすい男物の衣服に身を包んだ細身の姿だ。
ノアと同じく、背中に背負っている袋はそれなりに中身が入っている筈なのだが、その割にしっかりとした足取りで歩いている。
箱入り娘の筈なのにと感心しつつも、ノアは首を傾げて相手の言葉を反復した。
「信じられないって?」
色々と心当たりがありすぎるので、確認もかねて聞き返すと、相手はげんなりとした様子でノアに言った。
「……いえね、まあ、確かにあれこれあるんだけど。最たるものなんて決まってるでしょ?」
紫の双眸の少女が口にした、呆れ果てたようなその一言に、ノアも即座に頷いた。
「確かに、あれはちょっとありえないわよね……」
「でしょう?」
名称を出さずとも、『あれ』という単語だけで分かるくらいには、自分と彼女は共通の認識を有していた。
「完っ全に、想定外だったわね……」
溜息まじりにぼやくノアに、隣で足を進めていたエヴァンジェリンも同感とばかりに強く首を振る。
頭が痛いといわんばかりに苦々しい顔をしているが、とはいえノアも人のことは言えないだろう。ここに鏡はないので、己の目で確かめることはできないが。
本当に、ありえない話である。だが、まぎれもなくこの目でその光景を見てしまった以上、否定することは出来ないというのもまた事実だった。
「こんな冗談みたいなこと、言っても誰も信じないわよね」
「と、いうか……。むしろこの話を聞かされて、すぐに信じてくれたらそれはそれで怖いんじゃないの?」
「………………………………………」
エヴァンジェリンに真顔で返され、ノアは無言になった。
正直、それは否定できない。
自分だって、他の人からこんな話をされたなら、間違いなく耳を疑うだろう。
一笑に付すとまではいかずとも、確証もなく信じるとまではいかない筈だ。
ノアは深く息を吐き出した。
「でも、現実にそうなのよねえ……、嘆かわしいことに」
「……嘆かわしいというよりも、腹立たしいという方が正しいような気もするけど」
「まあね」
目を上げると、こちらを見ていたエヴァンジェリンの紫の瞳と己のそれとがぶつかった。
そして次の瞬間、示し合わせたようにノアと彼女は同時に深い溜息をついていた。
本当に、信じられないにも程がある。
心の中でそんな台詞を呟きながら、ノアはこうして自分たちが旅立つことになった決定的なあの日の出来事を思い出した。
これまで散々振り回された前世からの因縁に、ようやくこれで区切りをつけることができる。
――そう、思っていたというのに。
さすがに死人を出すのは寝覚めが悪いということで、意識不明の三人の男たちを安全な場所へと移動させた後、自分とエヴァンジェリンは魔法陣の破壊へと取りかかった。
一体何時から生み出され、どれほど長くこの場にあったのかも知らないが、それでもゆうに百年間は作動することのなかった魔法陣である。
完全に力を失っている以上、床ごと壊し尽くせばそれで終いだろうと、ノアもエヴァンジェリンもそう信じ込んでいた。
なのに、である。
たとえどれほど頑強な石造りの床であれ、自分たち二人がかりで魔力を叩きこめば片が付く――、その筈だったのに。
しかし、これで全てが終わると確信したその目前で、それまで砂粒ほどの反応もなかった魔法陣が突如として動き始めるだなんて、誰が思うというのだろう。
がらがら、がらがらという轟音を立てて、下手すれば一辺がノアの身長ほどにある大きな敷石が、砕けていくその最中に、その異変は生じたのだった。
かつての自分、そしてかつてのエヴァンジェリンが刺し違えたあの日のように、魔法陣は雷光のような光を突然放った。そして――……。
――逃げられると、そう自分たちが気づいたときにはすでに遅かった。
次の瞬間、床上に描かれていた筈の魔法陣は、幻のようにこの場から消え失せていた。
おそらくは前回の召喚から百年の間に、蓄えられていた力を使ったのだろうが、とはいえその推測は後になってから思いついたものでしかない。正直あのときの自分たちは、余りにも想定外の事態にただただ唖然とするしかなかった。
人間、あまりにもぶっとんだ出来事を目の当たりにしたら、硬直するしかないものである。
「「…………………………………え?」」
言葉を失うノアとエヴァンジェリンの目の前で、淡くきらめく魔法陣は瞬く間に宙へとかき消えていった。そして、自分たちはその光景を為す術もなく見つめるほかなかったのだ。
それからどさくさにまぎれて王都を発ち、今日で三日目となる。
ノアは緩やかだが、主要な街に向かうにはかなりの遠回りとなるため、使用者の少ない――、つまり人目のない道をてくてくと歩き続けていた。
急がば回れということで、同行者と話し合って出した結論であるので、この道程そのものに不満はない。ないのだが――。
「本当に、こんなのあんまりすぎるわよ」
「同じく」
どこまでも広がる青空を睨みながら思わずノアが恨み言をこぼすと、横にいたエヴァンジェリンが深い同意を示して来た。
短い言葉ではあったが、そこにこもった感情はきっとノアのそれに勝るとも劣らないものだろう。
声には出されなくとも伝わって来る共感に、ノアは幾度となく覚えた親近感を再び感じながら、これまで躊躇っていた問いを口に出すことにした。
「ねえ、訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「何?」
エヴァンジェリンは不思議そうに軽く首を傾げる。
その静かな紫の目を見返して、ノアはゆっくりと唇を動かした。
「今更と言えば今更だけど、貴女の実家は大丈夫なの?」
成り行き上で行動を共にすることになったものの、気楽な天涯孤独の身であるノアに対し、エヴァンジェリンは子爵令嬢で、しかも第一王子の婚約者だ。
召喚の魔法陣を破壊しようとしたときは深くは考えなかったが、改めて思い直すと、その行動は臣下でありながら王家に叛くものでしかない。
勿論そもそもの原因は独断で召喚を行おうとした第一王子なのだが、そのような理屈はまず通用しないのではないか。
ノアが口にしたそれらの疑問に、何故かエヴァンジェリンは苦笑した。
「ああ、それね。ええと、どう言ったものかしらね。結論から話すと……、実はもう、うちはランディアージェ国から独立してるのよね」
「……はあ!?」
ノアの声が引っくり返った。
「そもそも私があの馬鹿と婚約することになったのは、我が家の財力と戦力を取り込みたかった王家からのごり押しによるものなのよ。かつて没落させておきながら、自力で盛り返したらすり寄って来るなんて恥知らずにも程があるんだけど、現陛下と私の父は昔それなりに交流があったみたいでね。国王直々に頼まれた父は、本当に渋々了承したそうよ。でも、政略の意味も考えないどこかの馬鹿が何時までも私のことを蔑ろにするものだから、さすがに堪忍袋の緒が切れたみたい。『息子一人まともに育てられない奴はもう知らん!』ですって。学園をやめて領地に戻って来るようにって手紙があの日の前日に届いてたから、うちのことは気にしなくても大丈夫」
そう言い切るエヴァンジェリンの笑顔は、この上なく晴れやかなものだった。
「はあ、まあ、それでいいならいいんだけど……」
よくよく考えればかなり物騒な話のような気はするのだが、けれどもこの少女がそう言い切るのならあまり心配することもないかとノアは思い直した。
「だから、領地に帰るまで多少の寄り道をしたところで、たいしたことじゃないのよね」
エヴァンジェリンの軽い口調に、ノアは少しだけどう言ったものかと考え込む。けれども、多少悩みはしたものの正直に思うところを告げることにした。
「でも、いくら寄り道が可能だとしても、肝心のその目的対象がどこにあるのかは全く分かってないわけでしょう? 多少どころでは済まないかもよ」
しかしそんなノアの懸念に対し、エヴァンジェリンは笑ってみせた。
「あら忘れた? かつての私はあれを使ってこの国に来たんだけど?」
簡潔だが意味深なその台詞に、ノアは小さく息を呑む。
「……っ! え、それって……」
「何となくだけどね、あれがどの方向にあるのかくらいは感じ取れるの。さすがに何の当てもなく探し回るのは無謀だけど、勝算がないわけじゃないわ」
自信ありげなエヴァンジェリンの表情に、ノアもつられて笑った。
「確かに、それなら心残りを片付けて帰った方がすっきりするわね」
「でしょう? あんな風に虚仮にされて、黙って引き下がったりなんかするものですか」
冗談めかすようにエヴァンジェリンは言うが、その眼差しは強く、揺らがない光を宿している。
それを見たノアは、遠い昔に見た黒い双眸を思い出した。
あのときは絶望の色に染め上げられていた瞳。それは今、真っ直ぐに前を見据えている。
……けれど、未だノアの中には鮮やか過ぎるほどの緋色の記憶が焼き付いているということも確かで。
そして、おそらく生涯、これがノアから消え失せることはない。
でも、だからこそ。
「――そうね。なら今度こそ終わらせましょう」
ノアはそこで一度言葉を切り、正面からエヴァンジェリンを見た。
「私たちで」
その一言に、エヴァンジェリンの目が大きく見開かれる。
ふつり、と落ちた一瞬の沈黙の後、二人の少女たちは、悪戯っ子のように笑いだした。
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