自己紹介
死体を見せることはできなかったが、熊岸刑事の警察手帳と、死体を目撃した男性陣の顔色を見た女性は死体がこの施設の中にあるという事実を理解したらしい。
「ま、まさか、そんな……嘘でしょ? デート中に……?」
どうやら、男女は恋人同士だったらしい。
それにしては、恋人同士の会話などは一切なかったように思える。
「現状を理解するために全員の名前とここにいる理由を教えてもらえないか?」
熊岸刑事が手帳を取り出したのと同時に砂橋の向かいの席に座った俺もテーブルの上にメモ帳とペンを取り出した。
男女の恋人はお互い顔を見合わせて、女性が男性の二の腕を両腕で掴んで引っ付いた。その様子から目を逸らして、入り口近くのテーブルの席についていた男性を熊岸刑事が見る。
視線を感じた短髪の青と濃い緑色のフィッシングウェアの男が自然と背筋を伸ばした。
「俺は、堀川淳。見ての通り、釣りをしていたら、雨が降ってきたからこの休憩所に来たんです。……他にも自己紹介は必要ですか?」
「年齢と職業とか」
砂橋が口を出すと、堀川は素直に頷いた。
「年齢は三十三歳、職業は、スーパーの正社員です」
釣りに来たというのは服と彼が持っている道具を見れば分かる。
恋人の片割れの男性も同じだ。彼もフィッシングウェアを着ているし、彼の後ろにはクーラーボックスや釣りの道具などが置かれている。
次に熊岸刑事が男女に視線を送ると、縦長の顔をした男が口を開いた。
「関小太郎……釣りをする、予定だった」
彼はそう言って、隣にいる女性に視線を送った。その意味ありげな視線に気づいた女性はカッと顔を赤らめた。
「もしかして、私のせいで釣りができなくなったとか言うつもりなの⁉」
「……歳は二十四歳、製薬会社勤務」
関は女性の言葉を無視して、ぶっきらぼうに言う。その隣にいる女性は他にも男性になにか言いたげな顔をしていたが、その前に回ってきた自身の自己紹介をすることにしたらしい。彼女は熊岸刑事の方を見た。
「山崎沙紀よ。小太郎についてきたの。デートよ、デート。年齢は……二十三歳……アパレルメイカーで働いてるの」
これで自己紹介が終わったと思っていると、自己紹介を終えた三人の目がこちらに向いているのに気づいた。
これは熊岸刑事が現状を把握するための自己紹介の場であるから、熊岸刑事の知り合いである俺と砂橋の自己紹介はいらないだろうと思ったが、巻き込まれた彼らはそうでもないらしい。
しかし、小説家と大っぴらに言うのも憚れた俺は少し考えた後にメモ帳を閉じて、口を開いた。
「松永影虎、二十五歳。ライターだ」
「砂橋庵。二十五歳、探偵」
向かいの席に座っていた砂橋は死体の写真が表示された俺のスマホから顔をあげないまま答えた。幸い、俺のライターという職業よりも死体が発見された現場に探偵が居合わせたことに、他の人間は注目した。「探偵?」と明らかに砂橋に対する不信を隠しきれていない女性の呟きが聞こえた。
「あんたたち、警察と関係してるのか?」
自分に引っ付く山崎の手を遠ざけながら、関がこちらを見てきた。砂橋は俺の向かいの席に座っているため、関には背中を見せている形になっている。関と目が合った。
「ああ、熊岸刑事とは元から知り合いだ」
「あんたが黒いコートの男の頭を後ろから掴んで、溺れさせたんじゃないのか?」
関がじっと俺のことを見ている。
確かに、死体が見つかった時、黒いコートの男が入っていた個室の扉に鍵はかかっていなかった。そして、関と堀川は、他の個室に入っていた。となると、二人がトイレに入っている間に、俺が扉を開けて、被害者の頭を掴んで便器に押し込んで溺れさせたと考えるのも無理はない。
俺はここのトイレを詳しく確認したわけではないが、果たして、トイレに顔を押し込んだところで、人間を溺れさせることはできるだろうか。
口と鼻を覆うことができる程、そして、顔を押し込んでも首に無理がかからない程度の水位がこの施設のトイレにあったか確認をしていない。死体全体の写真は撮ったが、トイレの中に入って、さらに詳細な写真を撮ることはできなかった。
きっと関は、先ほど俺が死体を前に写真を撮っていた行為を異常だと思って、気になっていたのだろう。さらに俺は死体の第一発見者だ。疑われるのも仕方ない。
ふと、砂橋が顔をあげた。
にんまりと笑った砂橋と目が合う。
こいつ、俺が疑われているこの時間を楽しんでる。
砂橋だって俺が犯人ではないことは分かっているはずだ。俺が人殺しなんて絶対にしないことを砂橋は分かっている。そう確信している上で、俺が犯人扱いされている珍しい状態を眺めている。
きっと砂橋が助けてくれることはないのだろう。
すると、にたにたと笑っている砂橋の気分をぶち壊すかのように熊岸刑事が質問を開始した。
「死体が発見される前、あなたは死体があった隣の個室にいたが、個室に入っている間に何か音は?」
関が記憶を探るように瞳孔を動かしながら、首元のウツボのネックレスを指先に触れた。
「音は……左の個室からは聞こえなかった。右の個室からは服を着替える音がした」
真ん中の個室に入っていた関から左の個室とは死体が見つかった個室、右の個室は堀川が入っていたトイレだ。
「もし、死体発見直前にだん……松永が被害者の後頭部を押さえて溺死させたとしたら、溺れる音や暴れる音などが聞こえるはずだ」
ちょっと待ってくれ。
この人、今俺のことを弾正って呼ぼうとしたか?
砂橋が堪えきれなかったみたいで「ふっ」と笑い声を漏らしたかと思うとすぐに咳き込んで、笑い声を誤魔化した。
人がせっかく小説家であることを隠して本名まで出しているというのに。
関は熊岸刑事の言いかけた言葉を気にすることなく、浮かしかけた腰を椅子に落ち着けた。全て納得をしたわけではないが、反論も特に思いついていない様子に思わず胸を撫でおろす。
砂橋は俺のスマホをテーブルの上に置き、空になったカフェオレの缶を手にして、自動販売機横のゴミ箱まで歩いて行った。相変わらず、片耳にイヤホンを差したままで、コートのポケットまで伸びたイヤホンのコードがゆらゆらと揺れる。
「トイレにいた人間について知っている者はいるか?」
関も山崎も堀川もそう聞いた熊岸刑事から目を逸らした。
トイレにあった死体は堀川や関と違い、釣りの道具も持っていなければ、釣り用の服装をしていなかった。
山崎のように恋人についてきたから、釣り用の服装をしてこなかったというわけではないだろう。死体の傍に開いたままの書類が入るようなサイズ鞄はあったが、その中にはハンカチや財布などが見えただけで特に気になるものもなかったと思う。
砂橋があの場にいたら、さっさと鞄の中も漁って確認していただろう。
全員が死体の男性について、沈黙を保つ中、ゴミ箱の前に立ったままの砂橋がおもむろに口を開いた。
「福田敏行。二十七歳。既婚者。子供はいない。単身赴任をしていて、今日はこっちに暮らしている奥さんの元に戻ってくるはずだった」
くるりと砂橋が振り返った。
「どうして、知って……」
関がぽかんと口を開くと砂橋がにこにこと笑った。
「奥さんから頼まれて浮気調査をしていたからね。だから、トイレに入った後のこと以外は全部知ってるよ」
砂橋の笑顔がこんなにも心強いことがあっただろうか。




