バスルーム
鑑識達も帰り、俺と砂橋は死体が撤去された横内英二のアパートへと戻ってきた。
大家から話を聞いた後、横内兄弟から詳しく話を聞くために二人を警察署に連れていき、さらには英二の家族にも連絡をしている熊岸刑事はずいぶん忙しくしているだろう。
俺と砂橋のことをアパートで待っていたのは先日砂橋により、監視カメラの映像の確認を台無しにされた猫谷刑事だった。
「荒らさないで下さいよ」
先日の件があるからか、猫谷刑事の声色は冷たく、彼はじっと砂橋を見つめた。そんな彼に砂橋はひらひらと手を振る。
「大丈夫だって」
一応、痕跡を残さないようにビニールを履き、手袋をつけて、アパートの中へと入る。バスルームの扉を開けると砂橋は俺の方を振り返ってきた。
「死体がないから見れるよね」
「……ああ」
俺が関わりたいと言って関わらせてもらっている手前、死体があった場所には近寄りたくないとは言えない。お先のどうぞとバスルームの中を指し示した砂橋に従い、バスルームに入る。
お湯が抜かれていると死体がその場にあったとは思えないほどバスルームは綺麗だった。カビなどはなく、普段から使っているかも怪しい。英二は家庭があったため、ここで風呂に入る必要がなかったのだろう。
「今回は死亡してから発見するのが早かったみたい。ね、猫谷刑事」
砂橋に話を振られ、不機嫌ながらも猫谷刑事は頷いた。
「はい。兄と弟の話を聞く限り、横内英二は彼らがパンケーキ屋に行く正午までは生存を確認されています。そして、隣の住人がこの部屋からのスマホの緊急アラームに気づいて部屋に入ったのが十三時半です」
止まった腕時計のことを抜きにして考えると、英二は一時間半の間に死んだことになる。一応、腕時計が元から止まっていたことも考えて警察は調査しているのだろう。
「やっぱり、猫谷刑事はこれが自殺だと思う?」
「……調べないうちは分かりませんね」
「熊岸刑事はこの前の事件は殺人だって見抜いたけどね、勘で」
「勘なんて宛てになりません」
「そりゃそうだ」
猫谷刑事は熊岸刑事から俺達のサポートをしろと言われているのか、いつも冷静に無表情を保っている顔をしかめながらも俺達に写真を見せてきた。
映っているのはこのバスルームにあったヘアアイロンやウィッグだった。他にも俺が知らない証拠品がそこには映っていた。
「これは?」
「服によく使われるゴム紐です。ウィッグか服についていたのが感電した時に焼けたのではないかと言われています」
よくズボンの紐などで使われる白く平たいゴムの紐の端が焦げたようになっている。カツラや服についていたと思われるということは風呂に浮かんでいたのだろう。
「ヘアアイロンのコードはどのくらいの長さ?」
「二メートル五十センチから三メートルかと」
俺はバスルーム内を見回した。トイレと洗面所が一体化しているユニットバスにあるコンセントは、洗面所に取り付けられたコンセントぐらいだ。ヘアアイロンは洗面所で鏡を見ながらいつも使っていたのだろう。
洗面所のコンセントを使い、ヘアアイロンの電源を入れて、それを風呂の中にいれる。シンプルな流れだ。
「ヘアアイロンには一人分の指紋しかついていなかったみたいです。一度も指紋を拭われた形跡がないので、横内英二がずっと使っていたものでしょう」
「ふーん……」
砂橋がすっかり綺麗にされた湯舟を覗き込んで、バスルーム内を見る天井から床までじっと目を凝らしていく。
小さな正方形の窓。湯舟の上に設置された浴室用の物干し竿。高い位置にあるシャワーヘッド。湯舟から他の場所に水が飛び散らないように隔たりを作るカーテン。どこにでもあるような風呂だ。
着目する点があるようには見えなくて、俺の思考はバスルームから、亡くなった横内英二の心情へと移った。
俺は横内英二ではないから、考えたところで無駄だというのは分かっているが、俺が自分のことを一番近しい人間に受け入れてもらえなかったとして、自殺するだろうか。いや、自殺をするとしても、わざわざ感電死を選ぶだろうか。
自殺をするかどうかは、他人の心を推し量ることはできないから考えても無駄なことだ。
しかし、自殺の方法ぐらいは、推し量ることが可能だ。
まず首吊り自殺。
これは死んだ後、ひどいことになると言われている。部屋を見る限り、メイクや服など、身だしなみを気にしていた人間がするとは思えない。
次に服毒自殺。
劇薬がなければ、あとは大量に薬を飲んで死ぬ方法があるが、だいたいは大量に薬を飲んだことにより、吐いてしまい、吐しゃ物が喉に詰まり、窒息して死んでしまう。警察が見たところ、この家には病院などで出される程度の睡眠薬しかなく、量もそこまで減っていないため、自殺に使うには不向きと言われていた。
その次に、中毒自殺。
一酸化炭素をこの部屋に満たせば死ぬことができただろうが、そのためにはガムテープなどによる徹底的な目張りが必要だ。一度、落ち着きたいからと兄と弟をアパートから追い出した手前、しばらくしたら二人がアパートに戻ってくることは横内英二自身も分かっていたはずだ。そのため、目張りをしてさらに一酸化炭素が部屋電体に満ちるのを待つ時間はない。
最後に風呂といえば、手首を切って自殺というのが定番だとよく聞くが、それも中毒自殺と同じ理由で却下できる。
死ぬことができるほど血を流すまでに兄と弟が帰ってくる可能性もある。しかも、死体が発見された時、玄関の鍵がかかっていなかった。
そのような状態であれば、兄と弟が帰ってきた時、まだ意識があり、救急車を呼ばれて、一命をとりとめる可能性がある。
兄と弟が帰ってくることを考えれば、どれもこれも、時間がかかる上に邪魔をされる可能性がある。だからこそ、感電死を選んだ可能性はあるが。
「わざわざ鍵を開ける意味が分からない」
「玄関の?」
考えが口をついて出たらしい。
ぼーっと風呂場の天井を見上げていた砂橋が俺のことを振り返る。
「自殺を邪魔されたくないのなら、鍵をかけるのが普通だ」
砂橋はうんうんと俺の言葉を聞きながら頷いた。
「今日、呼び出され、英二からこの部屋のことを教えられた兄と弟がこの部屋の合鍵を渡されていた可能性は低い。兄も弟も、英二が鍵を開けなければアパートの部屋に入れない状況にして自殺をすれば、邪魔をされることも自殺を失敗する可能性も低くなる」
「死体を早く見つけてほしかったんじゃない?」
「それもそうか……」
死体は朽ちる。
風呂場にあったとしても、何日も放置されていれば、虫が湧き、溶けて、腐臭が漂う。身だしなみに気を遣っていた人物が自分が朽ちた姿を見られたくないと思うのは当然のことだろう。
どちらにせよ、死ぬ覚悟を決めた人間が自分が死んだ後のことを考えるとは思えないが。
「このまま自殺で片づける?」
「司法解剖の結果待ちですね」
「まぁ、司法解剖の結果がなくても殺人だと思うけど」
砂橋の言葉に俺と猫谷刑事が同時に顔を見合わせる。
「あ、僕の主観だから気にしないで」
主観だろうがなんだろうが無視できない発言をしたくせにあっけらかんとそう言う砂橋を俺はため息を吐いた。
「どうして殺人だと思ったんだ」
「だって、スーツ着てたし」
「スーツ?」
「死体がスーツを着てたんだよ」
「……それがどうかしたのか」
「女になりたかった人が死ぬ時にウィッグだけ被って、服は男性用のスーツのまま死ぬ?」
「……」
自殺をしようと決意したことはないため、死ぬ間際に考えることは分からないが、確かに女性でありたいと願う人間が頭の部分だけ女性らしく装い、死んでしまうのはあっけない。
女性らしくありたいとこだわって、それを家族に受け入れてもらえないから自殺をするのに、最後まで自分を突き通すことができないとは考えられない。
「兄と弟が帰ってくるまでに死のうと思って、着替える暇がなかったという見方もできるが?」
「だったら、スーツのジャケットぐらい脱ぐよ」
「待て。スーツのジャケットを着たまま風呂に入っていたのか?」
俺は死体があった時のバスルームを見ていないから当然、死体がどのような姿だったかも知らない。スーツ姿で風呂に入っていたなんてのも初耳だ。
熊岸刑事も猫谷刑事も砂橋も死体を見ていたから共通の認識だと思って、死体の細かい状態を俺に教えなかったのだろう。いや、砂橋の場合は、気づいていて言わなかった可能性もある。
「そうそう。靴下履いて、ズボンも履いて、白シャツにジャケット、腕時計ははめたまま。頭からずり落ちた長髪のウィッグ。顔が濡れていなかったけど、メイクは無し」
「……女装要素は本当にウィッグだけだったのか」
不可解すぎる。
自殺する人間の心情など分からないと切り捨ててしまえばそれまでだが、この話はこれで終わらないだろう。
「まさか、それだけで殺人事件だと?」
猫谷刑事の質問に砂橋は頷いた。猫谷刑事は肩を落とす。
感電死した人間がスーツのジャケットを着こんでいたから自殺ではなく、殺人事件だと主張したところで、万人を納得させることはできない。
「もういいですか。あなたたちの見張りが終われば警察署に帰れと言われてるんですけど」
「あ、じゃあ、ちょうどいいから警察署に連れて行ってよ」
砂橋の言葉に猫谷刑事は嫌そうに眉をひそめた。




