湯舟に浮かぶカツラ
「亡くなったのは、横内英二。家族でやっている会社の副社長をしていて、今日はこのアパートの部屋に来ていたらしい。家族は妻は一人、息子が一人だ」
熊岸刑事の近くにいた鑑識の人間が、足にはめるビニールと、ビニールの手袋を差し出してくれたので、俺と砂橋は大人しくそれを装着した。幅をとるコートは車の中に置いてきた。
アパートの部屋はリビングが一つ、部屋が一つで、あとはこぢんまりとしたキッチンとバスルームとトイレと洗面所が一つになっているユニットバス。狭いアパートの部屋だった。
死体があるのはバスルーム。
俺は死体を見たくないから、砂橋に見てきてもらった。
まるで死体なんてないかのように簡単にバスルームにひょっこりと顔を突っ込んだ砂橋は「ああ、なるほど」と声を出した。その言葉だけで非常にどのような状態になっているのか気になるからやめてほしい。
「カツラというか、ウィッグは浮いてるよ」
バスルームに入っていった砂橋はしばらくしてダイニングに戻ってくると中の様子を教えてくれた。
「男は服を着た状態で湯舟に浸かっていて、浮いてたのは男がしていたウィッグだね。プールでもなんでもないし、頭皮がついていたわけではないけど、水に髪の毛が浮かんでるって点では同じじゃない?」
裸にコートの事件では、俺の小説と符合しているとすぐに思ったが、これはどうなのだろうか。
死んだ男がしていたウィッグがずり落ちて、風呂のお湯に浮かんでいただけだ。
「男のウィッグか……」
「ああ、三十五センチぐらいの長さの髪の毛のウィッグだよ。ハゲを隠す程度のカツラじゃなかったよ」
「……長髪か」
俺の小説に出てきた頭皮についた髪の毛も長髪の女性のものだった。唯一、別荘にいた長髪の女性が殺され、頭皮ごと髪の毛をとられ、それを犯人は被り、影だけで、その女性が生きていると錯覚させたのだ。
「男が何故、長髪のウィッグを……とは思ったが……」
俺はリビングから続いている開かれたままの戸の先にある部屋を見た。警察官一人と一般人らしき男性が二人、その部屋では話をしていた。その部屋は鏡台が置かれており、その横には様々なメイク道具が置かれた棚。クローゼットの中には様々な女性用の服が入っていた。
俺と砂橋の横に他の刑事と話をしてきた熊岸刑事が戻ってきた。俺と砂橋の視線が、女性用のメイク道具と服が置かれている部屋に注がれていることに気づいた熊岸刑事は、部屋にいた男二人を手を示した。
「横内英二の兄と弟に今、事情聴取をしているところだ」
「三兄弟なんだ?」
「ああ、髪を刈り上げている方が長男の横内進一。耳あたりまで髪を伸ばしている方が三男の横内歳三だ」
「あの二人が容疑者?」
「今のところ、自殺の線が濃いからなんともいえないな」
聞こえるかもしれないところで容疑者かどうかを聞く砂橋に俺ははらはらしながら、男性二人を見た。どこかが見たことがある顔だと思って、目を細めて二人を見る。
そんな俺を横目で見て、ぼそりと砂橋が呟く。
「パンケーキ」
「……なんだ、そんなに食べたかったのか」
食い意地が張っているなとからかい半分で言うと、砂橋は面倒そうに眉を寄せた。
「あの二人、パンケーキ屋さんにいたんだけど。二人ともお通夜みたいな顔してパンケーキ食べてたよ」
「……」
羞恥心で顔が熱くなった。
砂橋よりも先にパンケーキ屋で暗い顔をしている男性二人に気づいたのは俺だというのに、まさか、パンケーキ屋の外で会うとこうも分からないものか。
俺の隣で砂橋がため息を吐いた。
その落胆は否定のしようがない。俺は恥ずかしさを掻き消すように咳払いをした。
「あの二人がパンケーキ屋を出たのは、確か十四時十五分頃だ」
あと何分でパンケーキが届くのかと腕時計を確認していたので、時間は覚えていた。しかし、砂橋は手放しで俺のことを褒めることもせず、呆れたように肩を竦めて「すごいすごい。よく覚えてたね」と軽く流した。
しかし、俺と砂橋の会話を聞いていた熊岸刑事が俺達の顔を交互に見る。
「ということは、十四時十五分まではあの二人はお店にいたということだな? お前たち二人が店に入ったのは?」
「十四時だった。その時には二人とも店にいた」
熊岸刑事が部下に俺と砂橋がいた店に行き、二人が何時から何時まで店にいたのか聞き込みをするようにと指示を出した。別室で話を聞かれている長男と三男には悟られないように熊岸刑事と部下は動いた。
「これ、僕ら、アリバイの証言者として用意された?」
「さぁな。アリバイの証言者として成り立つのは、死亡時刻がある程度はっきりとしている時だ」
「ああ、それなら大丈夫だよ」
砂橋は自分の右手首を指さした。
「死体についてた腕時計、十三時二十分で針が止まってたから」
お湯が入った状態で湯舟に時計をいれたら、確かに時計の針は止まるかもしれない。しかし、それは死亡時刻ではなく、服のまま、風呂に浸かった時間だ。
しかし、砂橋がこうもはっきりと死んだ時間がその時間だと主張するということは、なにか理由がある。
死んだと同時に時計が止まった。その理由として、考えられることが一つある。
「……砂橋。横内英二はどのような状態で亡くなっていたんだ」
「風呂の中に電源を入れられた状態のヘアアイロンが入ってたんだよ」
感電死だ。
横内英二は、水を貯めた風呂に服を着たまま浸かり、そこに電源が入った状態のヘアアイロンがいれられた。電子機器を電源がついたままいれたことによる感電、そして、その時に時計も止まったのだろう。
そして、横内英二が感電死したのは、十三時ニ十分。針だけを見れば、午前か午後の一時ニ十分かは分からないが、それは司法解剖や聞き込みなどにより分かることだろう。
「まぁ、十三時ニ十分に僕らはお店にいなかったから、死んだ時間ぴったりのアリバイは……」
砂橋が顎に手を当てて考え込む。
「パンケーキが焼きあがるまでにかかる時間は?」
「三十分だ」
砂橋の質問に答える。実際、注文してから俺達のテーブルにパンケーキが運ばれてくるまでにかかった時間は三十分近くだった。お店で焼く時の時間をおおよそ決めているから他のテーブルのパンケーキもほとんど提供までの時間は変わらないだろう。
「僕らがお店に入った時にすでにパンケーキがテーブルの上にあったあの二人はその三十分前の十三時半にはお店にいたってことになるね」
時計の針はその十三時半の十分前で止まっている。
「車であのお店からこのアパートに来るまでの時間は?」
「十五分かかったな」
五分オーバーだ。
「最速で動いても、十三時十五分。十三時ニ十分にヘアアイロンを投げて、人を殺してからパンケーキを食べに行くのは無理かな」
取り出したメモ帳に時間表を軽く作り書き込んでいく。
砂橋が言ったことは外れていない。
「ねぇ、弾正」
砂橋は楽しそうにスキップをするようにバスルームの扉の前まで行った。
「アリバイの証言者になったかもね、僕たち」
その言葉は、まるで僕らはミステリー小説の登場人物だ、と言外に言っているようだった。
 




