四話 病んでるお嬢様
一条さんは俺の胸に顔を埋めるのに夢中で話なんて全く聞いてない。完全に自分の世界に入り込んでしまっている。凄い鼻息が荒い。あれ、デジャビュ?
そしてこの光景を前にした綾小路が頭を下げ出して一条さんの説得を試みる。
「ぼ、僕に至らない所があったのであれば直すよ……。僕は君の事が本当に好きで――」
「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる……」
「お前ら離れろよぉ!!!!」
綾小路の絶叫が教室内に轟く。流石の一条さんもこのままでは俺の胸に顔を埋める事に支障が出ると判断したようで不満気に顔を綾小路の方へ向けた。
「結構ですわ。直される必要はございません」
「えっ……」
「結構と申し上げてます。私は御覧の通り既に身も心も髪の毛から足の爪の先に至るまで余すとこなくご主人様である剛毅様に使って頂いた彼専用の女なんですの。んっ……」
「せ、専用……? 使って……? ……!? 有本!! お前!!!!」
綾小路は一条さんの発言に一瞬面食らい固まる。しかし彼女の言わんとする事を理解して俺を憤怒の形相で睨みつけてきた。
内容が内容なので綾小路の目元にはもはや涙すら浮かんでいるのだが、彼女はどうでも良さそうにまた唇を俺のものに重ね合わせる。
俺知ってます。これは創作とかでよくある清楚な彼女の寝取られってやつだ。
彼女がお嬢様っていうのもきっとポイントが高いに違いない。全く読んだことないけど。
いやー、まさか現実でこんな展開に遭遇する事になるなんて思いもよらないな。はっはっは!!
……全然笑いごとじゃねーわ。どうすんのこれ。一条さんは僕の友人の綾小路君の想い人なんですよ。多分綾小路と友人としてこれから過ごすのはどうあがいても不可能に違いない。
そして絶望する綾小路を尻目に彼女の唇は俺のそれをまだまだ足りないと言わんばかりに一心不乱に奪い続ける。
今度のそれは明確に綾小路に見せつける意図もあるように思えた。邪魔されて気が立っていたのかもしれない。
それもそうなんだけど、せ、専用? 一条さんが俺専用の何ですの? さっき呟いていたのは冗談じゃなかったんですの? え、マジでヤバくないですの? 何かの冗談ですの?
こんなの冗談に決まってるよね。汗が先程から止まらない。恐怖で体が動かない。
しかし一条さんからは一切ふざけた様子は見られず恍惚とした表情が窺える。もはや彼女の瞳の中には俺しかいない。
「き、君は有本に騙されている! 新藤さんにあんな事をさせる男なんだぞ! 目を覚ますんだ!」
綾小路は尚も諦めずに一条さんへ説得を続ける。それが功を奏したのか彼女はまた気怠そうに俺の唇から離れた。
俺もこれがチャンスだと思って彼女を引き離そうとするのだが、彼女はそれだけは許さないと言わんばかりに俺の腰に手を回しながら胸に顔を埋めた。
そして彼女は綾小路へと視線だけを向けながら、薄ら笑いを浮かべて口を開く。
「何の問題が? ご主人様専用の女として侍る事ができるなんて至上の喜びですもの。それと私のご主人様の足元にも及ばない劣等で無価値な男がご主人様を悪く言わないで下さる?」
「ど、どうしてそんな酷い事を――」
「それともご主人様と私が愛し合う所を見たいのですか? いいですわよ。一応は綾小路さんが使う予定だった物を全てご主人様に捧げる様を特別に見せてあげますわ。それで粗末なあなたを一人で慰めなさいな」
彼女の言葉は綾小路の心を徹底的にへし折り彼を力なく床に手をつかせた。
遂に綾小路は恋人の裏切りに耐えかねてしまったようだ。いや正式に別れてるなら裏切りではないのか?
そして一条さんはそんな綾小路を気にした風でもなく笑顔で俺と手を繋いできたのだ。……いや、冷酷な眼差しで綾小路を見下しているな。その目は一切笑ってない。
これは流石にやばいわ。やばすぎる。神崎の時とは比にならないくらいやばいし酷い。
友人の元婚約者と目の前でこんな事するなんて正気じゃない。やっぱり彼女の言っている内容も全部やばいわ。
そして綾小路は放心しながら去って行った。とてもじゃないが彼に声を掛ける事が出来なかった。
「本当に惨めで情けないわね。……さあ、参りましょう」
「行くってどこへ? あと手を繋ぐのは止めて。ついでにご主人様も止めて」
「お昼ですわ。莉愛と食べるのでしょう? 彼女は中庭ですわよ。私もご一緒させて頂きます。もし手を繋がれるのがご迷惑なら振りほどいてもらって結構ですわ」
一条さんは何でもなかったように俺と昼食を食べるように促してきた。……あれ、ご主人様呼びはスルーされた?
百歩譲ってどこへ一緒に行こうと構わないのだが一条さんと手を握って歩くのは不味すぎるだろう。既に虫の息になった俺の評判が本当に死に絶える。
そして一条さんは手を放していいとの事なのでそれならと遠慮なく振りほどこうとしたのだがかなり強い力で繋いでいる。意地でも離れる気はないようだ。手が痛くなってきた。
「やっぱり今日は一緒に食べるのは遠慮させてもらえないかな? 新藤さんにも悪いけど気分が乗らないんだ」
話が進めば進むほど昼食を一緒にする気が失せてくる。別に一条さんや新藤さんが嫌いとかではない。絵里奈と仲良くしてくれる女子を嫌う訳がない。
しかしこれじゃ寝取った女を侍らせてるみたいじゃないか。こんな感じの悪い事はすべきじゃない。
新藤さんには非常に申し訳ないがこの際仕方ない。購買で菓子パンでも買って食べながら状況の整理でも――。
「絵里奈もいますのよ? 剛毅様と絵里奈はいつもお昼をご一緒しているのでしょう? 私たちがご一緒して剛毅様が来ないとなると彼女が悲しみますわ……」
一条さんの言葉におもわず閉口してしまう。
……絵里奈もいるのか。だったら行かない訳には行くまい。彼女とはいつも一緒にご飯を食べてたから行かない方が不自然だ。
それに絵里奈なら女子が変な理由を知っているかもしれない。彼女の様子も少しおかしいが、他の女子に聞くと変に刺激するかもしれないから、一番勝手知ったる彼女に聞くのが安全だ。
……ただし彼女がそれを知っていると言うのであれば。
それは事態が俺の望まない方向に動く事を意味するのかもしれない。そしてそれすなわち一条さんの言っている事も冗談では済まなくなるのだ。
ここまで異世界に行く前の俺が取り得るであろう態度と行動を装って様子見していたけれど、もしかすると……いや、もしかしなくてもそれらは何ら意味を成さないのかもしれない。
とりあえず力づくで手を放すと彼女を吹っ飛ばしそうになったので、諦めてそのまま中庭へ向かう事にした。
◇ ◇ ◇
俺は一条さんに促されて学校の中庭に来ていた。
今日は木々が新緑の葉で染まり太陽の光を受けて青々と輝いているので絶好のピクニック日和に違いない。
生徒たちが楽しそうにお昼を楽しんでいる所を見ると帰ってきてよかったと改めて思ってしまう。
そして新藤さんの姿も見つけた。木でできた円卓のテーブルで既に昼食の準備をしてくれたようだ。お弁当箱が用意してあって直ぐにでも昼食にできそうだ。
「きたきた、有本君こっち――才華! 何で手を繋いでんのよ! 離れて!」
「あら、剛毅様に今日のお弁当を作る栄誉を得ただけではなく、意地汚く手首まで舐めていたでしょう? 我慢なさいな」
新藤さんが俺を見て笑顔で手を振るのだが、一条さんと手を繋いでいるのを見て豹変し彼女へ突っかかる。
しかし一条さんからしたら屁でもないようで澄ました顔で受け流して俺の腕に抱き着いてきたのだ。
「名前呼びもルール違反でしょ! ねえ、お願いだから離れてよ! そんなのずるいぃぃぃぃっ!」
「剛毅様の温もりは私だけのもの。他の誰にも譲る気はありませんの」
一条さんは澄ました表情を崩そうともせず全く悪びれてない。いや彼女のしている事が悪いかって言われると別に何も悪くはないけど。
「あっそ! そっちがそのつもりならこっちも好きにするから。……旦那様、失礼いたします」
新藤さんはそういって俺の左手に指を絡めてきた。彼女の頬は新雪が赤く染まったように綺麗だ。言葉遣いもサバサバした感じではなく妙に丁寧な感じになった。
「何で新藤さんも手を握るの。あと旦那様って言うのは何?」
「あたしも才華みたいに旦那様の手を握りたいです。それともあたしの手は汚いから駄目ですか? 神崎の汚い臭いが付いてますか? かなり洗ったのですが……」
「……あいつの匂いがどんなのか分からないけど綺麗だよ。あと旦那様って何?」
「よかったあ……。じゃあもっとギュってしますね。えへへ、大好き」
「……」
色々とツッコミ所はある。抱き着いてきたりとか旦那様呼びとか大好きとか。
ただ彼女は俺が放った疑問を明確にスルーした。さっきの一条さんもそうだったのだが、それが意図的な物のような気がしてかなり不穏な物を感じる。
あと彼女の手は汚いのかな? まあいい匂いしてるし綺麗なのでは?
「口もちゃんとゆすいだのですが大丈夫でしょうか……? あいつの汚いのは全部消えてますか?」
「んなもん、分かる訳ねーだろ」
彼女が口を大きく開けてきたので思わず突っ込んでしまった。でも新藤さんの口の中は流石にクンカクンカできないよ。
「それで絵里奈は? 彼女が来ないと流石に悪いわ」
「大丈夫ですわ。先に食べてて欲しいとの言付けがございます。さあ剛毅様、頂きましょう」
新藤さんが急にいつもの勝気な口調に戻って、一条さんに絵里奈の所在を確認した。そうか、あとで来るのか。
一条さんに促されたので木製の椅子に腰を下ろすのだが、はっきり言ってかなり居心地が悪い。
なぜならこの二人は学校でも有名な二大美少女で元々彼氏や婚約者がいる事も知れ渡っていた。
だから周囲の視線が痛い。奇異の目で見られている。俺が彼氏持ちの女に手を出したようにしか見えないのが非常に困る。
しかし教室には綾小路が戻っているかもしれないから行き辛いし、この二人は絵里奈の親友でもあるのだからあまり無下にしたくない。
なにより左右を二人ががっちり陣取っていて動きにくい。というより絶対に逃げられないように抱き着いているしいつの間にか足まで絡められている。
「旦那様、本日の昼餉の焼き鮭ですよ。あーん」
「あーん」
新藤さんが静かに俺に焼き鮭をお箸で差し出してきたので反射的に口にしてしまった。
いやあ上手い。冷めてるのにパリッパリですわ。味付けも適度にしょっぱくていい。俺これ大好きだ。こんな美味しく作られた焼き鮭初めてかも。
「ごめーん、遅れたよ!」
「「「絵里奈!」」」
「えっ、三人が滅茶苦茶くっ付いている……?」
絵里奈がやってきたのだが俺たちの姿を見て固まってしまった。
……絵里奈的にこれはもしかしてまずい? 普通なら絶対にまずい。