二話 崖の下って結構色んなもの落ちてるよね
「―――ぃ、きてる……?」
目が覚めたとたん、思わずそんな言葉を零してしまう。
手足の感覚はしっかりとあり、呼吸もしている。ぼやけていた視界も徐々にはっきりとしていき、完全に目が覚めると同時に、シドロは上半身を起こした。
「俺、何で生きて……確か、崖から落とされたはずじゃ……」
それは間違いないはずだ。
自分はナザンに突き落とされ、崖から落ちた。だというのに、致命傷どころか、身体のどこにも異常が見当たらない。頭も手足も胴体も、どこからも血が出ていなかったのだった。
「実はそんなに深くなかった……ってのはないよな、流石に」
上を見上げると、そこには真っ暗な天井が広がっており、まるで上など存在しないかのような空気を醸し出していた。
「うわー……上が真っ暗で何も見えねぇ。ってことは、それだけ深いところに墜ちてきたってわけか……」
『奈落の大穴』の底は、誰も見たことがない。それだけ深いことで有名であり、そこに落ちて戻ってきた者を、シドロは知らない。
そして、シドロはその大穴の底へと落ちてきたのだ。
幸い、何故か生きてはいるが、しかし帰還は絶望的であり、このままではどの道死ぬは明白だった。
はっきり言って、最早希望などどこにもない。
だというのに。
「ちっくしょう……ナザンの野郎。絶対このままですませねぇからな。必ず生きて帰ってボコボコにしてやるっ!!」
シドロの目には、未だ光が消えていない。
当然だ。自分は今、生きている。ならば、まだやれることがある。あがくことができる。死んでいないのならば、可能性はゼロではないのだから。
「そうと決まれば、早速上を目指す……っていきたいんだが、どうにもそう簡単にはいかないよな。大型バックはないし、収納バックも取られたし、小型のバックに入れている道具で何とかするしかないが……流石にこの崖を登れる道具はないな」
小型のバックは予備の予備、といった役割であり、そのため道具の数はかなり限定されている。無論、それらでこの崖を上ることは不可能。
「何か役に立つものが落ちてればいいんだが、って……」
言いながら、周りを見渡したその時。
シドロはようやく気付く。
自分の周りに、いくつもの白骨体が転がっていることに。
「……ここに落ちてきた連中の死骸、か……」
落ち着いた口調。冒険者になってからというもの、幸か不幸か、死体というものには見慣れている。ゆえにここで発狂したり、取り乱したりすることはなかった。
「みたところ、全員落下のせいで死んだ感じだな……まぁそりゃそうか。上が見えない程の高さから墜ちたんじゃあ、普通は助からないもんな……そう考えると、マジで俺、何で生きてんだ? しかも無傷で」
ダンジョン内で事故はよくあること。それこそ、『奈落の大穴』に誤って落ちてしまう、ということも珍しいことではない。
しかし、その中でも底まで落ちながら死んでいなかったのは、恐らくシドロだけだろう。
「とりあえず、探索をしないとな……ん?」
さらに周りを見渡すと、再び奇妙なものを発見した。
「うおっ。何だ、このでっかいクレーターは」
シドロの言葉通り、そこにあったのは、大きなクレーター。まるで、空の星が落ちてきたかのように地面が陥没しており、この場所には不釣り合いな状態であった。
「あそこにあるのは……剣か?」
クレーターの中心。そこには、一本の剣らしきものが突き刺さっている。近くによって確認してみると、やはり地面に剣が食い込むような形でそこにあった。
「見た感じ、クレーターはこの剣が原因っぽいが……にしても、でかすぎだろ」
恐らく、誰かがここに落としてしまった剣なのだろう。だが、剣が落ちてきただけで、クレーターができる、なんてことは普通はあり得ない。
そして、もう一つ。気になる点が。
「見た感じ、そこまで形とかはおかしくないんだけど……この剣、全く錆びてないな。最近落ちてきたのか? それに、刃こぼれとかも一切ないし……新品同然だ」
見た目はただのロングソード、といったところか。
しかし、シドロが言うように、落ちてきたにしてはあまりにも綺麗すぎる。普通、高いところからおちれば、刃こぼれの一つや二つあるはずだ。運よく、刃が壊れなかったとしても、長い間放置されれば、錆びるのが当然。
だというのに、この剣はどこも壊れておらず、錆びてもいない。
不思議だ、と思いつつシドロが剣の柄を握ろうとしたその瞬間。
「グウウウウウウッ」
まるでタイミングを合わせたかのような咆哮が、空気を震わせた。
振り向くと、そこにはシドロの十倍以上もある巨体が、赤い瞳を向けてきていた。
「嘘、だろ……こいつ、もしかして……フェンリルかっ!?」
フェンリル。
それは、ダンジョン内でも超がつくほどの珍しい、巨大な狼型の魔獣。上級冒険者でも数人がかりで戦わなければならない程、強力かつ凶悪な相手である。
「流石は『奈落の大穴』ってか。こんな珍しい魔獣もいるのかよ……」
まるで余裕があるような口調だが、心の中はその反対。心臓はバクバクと鳴っており、指先も震えている。先ほどの発言も強がりなどではなく、あまりにも絶望的な現実を前に、最早怯えを通りこして、奇妙な気分になってしまった結果である。
「こいつは逃げても無駄だな……完全にあっちの間合いに入っちまって……くっそ、こうなりゃやけだっ。そっちがその気なら、やってやろうじゃねぇか!!」
人間、追い詰められるとハイなテンションになってしまうもの。この時のシドロはまさにそれであり、あまりの窮地のせいで、正直冷静な判断がとれていなかったといえる。
相手は自分の数倍の大きさを持つ魔獣。しかも、上級冒険者でも手に余るほどの強敵だ。それをただの荷物持ちでしかないシドロが勝てる相手なわけがない。
だが、そんなこと知るものか、と言わんばかりに、シドロは目の前にある剣を取ろうとした瞬間。
「っ!? なんじゃこりゃ、おっも!? びくともしねぇじゃねぇか!!」
あまりの重さに、思わずそんな愚痴が飛び出す。
剣というのは確かに重い武器だ。しかし、これは明らかに見た目以上の重さがある。少なくとも、今、この瞬間にも『軽量化』の力を使っているにも関わらず、持ち上がらない程に。
「くっそ、なめんなよぉ!! こちとら日頃から自分の体重の三倍以上の荷物持ってんだ!! 重いモンを持ち上げるのだけは、誰にも負けねぇんだよっ!! 今更重いのがどうとか、言ってられるかぁぁぁぁぁああああああっ!!」
そんなことを叫びながら、『軽量化』のスキルを最大限まで発揮する。
もっと軽く。
軽く、軽く、軽く。
軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く軽く―――。
そして。
「っしゃコラァァァっ!! どうだ持ち上げてやったぞっ!!」
先ほどまでびくともしなかった剣を軽々と持ち上げ、すかさずフェンリルに向かって構える。
「そら、来るなら来やがれ、犬っころ!!」
今まで荷物運びばかりをしてきたシドロだが、それでも冒険者として一応は戦える程度の実力はある。無論、戦闘スキルを持っている者が常日頃から武器を持って魔獣と戦っている者に比べれば力は劣っているし、そもそも相手はフェンリル。自分如きが敵う相手ではないのは百も承知。
しかし、その上で彼は生き残る可能性にかけた。
「グアアアアアアアアアアアアッ」
一方のフェンリルはというと、ようやくと言わんばかりにその牙と爪をむき出しにしながら、シドロに襲い掛かろうとして……。
そして―――彼の目の前でそのまますっころんだのであった。
「…………へ?」
信じられない光景に思わず、剣を握ったまま、呆けるシドロ。
巨躯で、尚且つ凶悪な魔獣が、自分に襲い掛かってきながら、目の前ですっころぶ、という姿は何ともシュールなものであり、場違いともいえる代物だった。
しかし、それもいつまでもは続かない。
フェンリルは起き上がり、左右に首を振った後、視線をシドロのもとへと集める。
「よ、ようし、こいやぁぁぁ!!」
シドロのそんな叫び声に呼応するかのように、フェンリルの前足が、大きく振り上げられ、そして、そのまま降ろされる。
(あ、やべ、思った以上に速い―――!!)
想定していたよりも素早い攻撃に、シドロは回避することができないと判断し、剣で防御の体勢に入った。
無論、この体格差だ。そんなものは無意味であり、潰されるのがオチなのは目に見えている。
――――はずだったのだが。
「…………はい?」
思わず、また奇妙な声をもらすシドロ。
当然だ。彼は確実にケルベルの前足に潰され、それで終わり。そのはずなのに、シドロはフェンリルの攻撃を軽々と受け止めてしまっていた。
(俺、今、攻撃されたよな……?)
心の中でそんなことを呟くのも無理もない。
何せ、先ほどの一撃はまるで小さな子供が殴ってきた程度の威力しかなかったのだから。
(ど、どうなってやがる……?)
理解不能な現象が続いているせいで、強敵の魔獣を前にしているというのに、頭が混乱してしまっている。
そんな中。
『全く。無知とは本当に恐ろしいですね。自分にそれだけの力がありながら、今まで何も知らなかったとは』
刹那。
さらなる混乱を巻き起こすかのように、見知らぬ女の声が聞こえてきたのだった。
多分、0時前後にもう一話投稿します!