31 きぞく は むきあっている!
――空が、嫌いだった。
理由など特にない。空が嫌いで、野山が嫌いで、家屋の埃の臭いが嫌いだった。
饐えた腐臭と酒精を帯びた空気と閉ざされた監獄の中で生まれた自分は、美しいと謳われる、世界に愛される全てに、歓迎されていないように思えたからだ。
夕日が嗤って、中指を立てる顔を幻視した。
Irune"B"は、自分を見下ろす空を睨んで、鼻息を飛ばした。
「なにをしていますの?」
別に、と彼女はつっけんどんに言葉を返す。
孤児院の裏庭。高い鉄柵に巻きつけられた有刺鉄線は、子供たちの脱走を防ぐためのもの。
ここから見上げる空はちっぽけで、そして柵越しに沈む夕日は実に不愉快だ。
切り立った崖。潮風が、ただでさえ傷んだ髪を刺激する。
振り返れば、大事そうにボロボロのテディベアを抱えた童女の姿。
「てめえこそ、アタシに何の用だ。気持ち悪い喋り方しやがって」
「あらあら」
同じ名前だからという理由だけで、ひたすらにこちらを構うその童女。
手の甲を自らの口元に当てて笑う仕草はなるほど上流階級じみていて苛立たしい。
自分たちの醜態を、奴らはそうして笑うのだ。
「これは、そう。……泥の中でこそ、華は大輪を咲かせるものですわ」
「は? そだたねーよ」
「育ちますわ。わたくし、知っていますもの」
「……あっそ」
興味を失くしたようにIrune"B"は歩き出す。
そんな彼女の前に回り込んだ童女は、顔を覗き込むようにしてから、テディベアの鼻先を"B"に押し付けた。
「教養も"力"ですわ」
「……こんなところで、そんなもんあっても変わらない」
「いいえ、いいえ。だって――いつかわたくし、ここから逃げ出しますもの」
「…………出来るのか?」
「ふふふ。穴を掘って土が天井から落ちてこない場所。そういうのを計算するのも、教養の1つですわ」
「……"A"、お前」
「そのAというのもいやですわね。……そうですわ。貴女はBだから、ベアちゃん!」
「ベア……? まあ好きに呼べ。……なにをわくわくしたツラしてやがる」
「わたくしにも、さあ、お名前を」
目を輝かせ、テディベアを抱えてくるくる回るIrune"A"。
そのボロボロの貫頭衣も、わざわざ腰を絞って裾をつぎはぎしてドレス仕立てにしているのが彼女らしい。
「A……Aだから、エイナで」
「……ふふ」
「なにがおかしい」
「だって、EnaはEですもの」
「うるせえな。知らねえんだよ。笑うな、潰すぞ」
「誰にも笑われないためにも、また教養ですわ」
「……」
でも、と彼女は楽しそうに微笑んだ。
「エイナでよろしくてよ。ベアちゃん……ふふっ」
――クリンブルーム邸。
風が強く吹いた。
耳に触れる"轟"と空気が流れる音に合わせ、今も猛る焔の熱が頬を撫でる。
「――憲兵、ヤツは僕が相手をする。それより、下手人の確保を」
「はっ!!」
命令を下しつつも、リヒターの瞳に期待は無い。
今までも爆破事件の際に犯人が捕まった前例はなかったはずだ。
既に炎上している屋敷。目的を達成したにもかかわらず現場に残っている愚か者など、そうはいない。
居るとすれば、二種類だけだ。
リヒターは目を細め、足元へと目をやった。
1つは、既に死んでいる場合。
そしてもう1つを求め、視線を改めて合わせる。
もう1つは――端から目的が異なる場合。
「ごほっ……ごほっ……」
声を上げたせいか、灼けつく喉に障ったらしい。
燃える邸の中で、バカを捜してうろうろしていた代償がここで響く。
目の前には殺し合いを心から楽しみにしていそうな危険な女。
既に一撃を貰って苦しそうな部下。
やれやれと首を振る。
前線を離れて久しいはずなのに、随分と無茶をするものだ。
「――」
視線をミオンに向けたとて、油断はしない。
隙あらば襲い掛かってくるのがあのアイルーンという女だ。
殺し上等、奇襲上等。
それは戦場の流儀であるからこそ、リヒターも警戒は密にしている。……していた。
だからこそ、不可解だった。
「……どうした、来ないのか」
グラディウスは既に構えた。
楽しい殺し合いを、と望んだのは彼女の方だ。
消化不良を解消したい。大いに結構。
この女がそれを望むなら、正面から叩き潰すまで。
そう身構えているというのに――一向に動き出す気配がなかった。
目を合わせる。
いったい何のつもりだと。
ミオンの命に別状はない。鋭い蹴りを一撃貰ったとはいえ、放っておけば死ぬ、などということはないはずだ。
人質というわけでもなければ、時間稼ぎをしているわけでもない。
だというのに。普段は喜び勇んで拳を握る彼女を見れば。
まるで旦那の浮気を疑う女のような瞳で、リヒターを見据えていた。
「……なんですの、今の咳は」
「なんでもなにも、お前のせいだろう」
「あり得ませんわ。貴方が屋敷の中に居ないことは、確認していたはず」
「――あり得ないなんてことはない。屋敷にはまだ、身内が居た」
「…………身内?」
解せない、とばかりに首を傾げる目の前の女。
「ごほっ……身内は身内だ。料理長をはじめとした使用人が、まだ中に居た。それを捜しに行ったバカとかな」
正確には、
彼らは既に救い出したにも拘わらず、大事な品だからと忘れ物を取りに行ったバカの回収だが。
そんな愚か者の話は、深く説明する必要などない。
「……貴族が、使用人を助ける為に燃える屋敷へ? 冗談にしても笑えませんが」
「冗談などであるものかよ。僕の屋敷の使用人だぞ」
「理由になっていませんわ」
目を細めるリヒターは、アイルーンの言葉の意図をようやく察して首を振る。
「"貴族"にも、確かに色々居る。別に、一緒にするなと言うつもりはない。だが言ったはずだ」
『"貴族"だから、泥の中で足掻くんだ。ましてやそれが――』
『苦しい泥に溺れた身内を救うためなら、当然だ』
武闘大会で吐いた言葉を、リヒター・L・クリンブルームは覆すつもりなどない。
アイルーンとて、彼の言ったことは憶えていた。
――憶えていたからこそ、表情を強張らせる。
大言壮語おおいに結構。
だがそれを――己の身を挺してまで実行するような輩が貴族の中に居るなどと。思いたくなかっただけの話。
「"民"として助けて欲しい時は言え。そう言ったはずだ。お前にすら手を伸ばすんだ。……身内を地獄から引き上げるなど、当然のことでしかない」
「――っ」
げほ、げほ、と苦しそうに咳をするリヒターを、目を細めてアイルーンは見据えた。
そして、倒れたミオンを見つめて――アイルーンは。
「……興が削がれましたわ」
背を向けた。
「良いのか。相手ならしてやるぞ」
「貴方に矜持があるように、わたくしにも矜持というものがありますの」
振り向きもせず呟く。
それはいつか、ウィンド・アースノートを襲いはしなかったように。
「やせこけた獅子を貪るような、はしたない真似はいたしませんわ」
「……そうか」
「貴方が」
言葉を重ねるように、彼女は告げる。
「貴方が言ったこと。得物も持たない相手を殴りつけるのが"強さ"なのかと。ええ、貴方の言う通り。互いに全力でありたいだけ」
そして、と振り向き告げる。
「今の貴方を下したところで、わたくしの強さは証明されない。何故なら――屋敷を燃やしたのはわたくしではないからです」
「………………用心棒として呼ばれただけだったな」
面倒な矜持だ、とリヒターは眉を下げた。
彼女は別に、屋敷に火をつけたいと言っているのではない。
たとえば炎を扱う魔導の素養が己にあれば、容赦なくリヒターを炙り出して戦いを挑むだろう。
だが、魔導を使わない彼女にとって炎とは武器と同じ。所詮は借り物だ。
それを使って勝ったところで、己の強さは証明されない。
なら、使わない。
彼女は自らの強さを証明するために戦う"修羅"なれば。
奇襲上等、不意打ち上等。だがそれは、互いの"力"のぶつかり合いであってこそ。
油断をした方が悪い。それはそうだ。けれど、己の手によらない不完全な勝利など、決して求めてはいないのだ。
リヒターがいつか言ったのと同じ。
卑怯でありたいわけではない。全力の出し方が、闘剣士と違うだけ。
アイルーン・B・スマイルズは、そういう修羅だ。
だからここで彼女はリヒターと戦う理由はない。
ない、が。
「――それで良いのか?」
立ち去ろうとするアイルーンを呼び止めたのは、ほかならぬリヒター・L・クリンブルーム。
解せない、とばかりの表情で半身だけ振り返るアイルーンに、グラディウスを握ったままのリヒターが告げる。
「それで良いのかと聞いている。目の前に居るのは"貴族"だ。……お前が憎むべき貴族だ。そうだろう、Irune"B"」
「――!?」
用があるのは、リヒターの方だった。
「悪いが、お前のことは調べさせて貰った」
驚愕に目を見開くアイルーンを前に、灼けそうな痛みと熱を持つ胸をそれでも張って、リヒターは告げる。
「レッドルード。ルード孤児院。随分と好き放題していたようだ」
「……何の権利があって、わたくしの過去を暴いている」
「"貴族"の特権、とでも言っておこうか。お前こそ、何の権利があって人の家燃やしてるんだ」
「……」
「ああいや、そうだな。お前が燃やしたわけじゃないが。加担したのは事実だろう?」
ただ、そんなことは問題ではない。
リヒターは首を振る。
「権利なんて必要ない。お前がそうだろう。違うのか?」
「……そう、ですわね。別に、何かをするのに権利など必要ない」
「だが、僕には権利がある。貴族として、平民を好きにできる特権だな」
だからこそ、とリヒターはアイルーンに相対する。
「……それでいいのか、アイルーン・B・スマイルズ」
「だから、何の話です?」
「お前の在り方がそれでいいのかと聞いている。権利など必要ないと、そう言って己の我を通し、貫き、敵を屠ってきたお前が今やっているのは――」
真っ直ぐ瞳を見据え、リヒターは敢えて嘲った。
「貴族のイヌだ」
「……」
怪訝そうに眉を顰める彼女。
「お前の加担している組織のバックには、さる大貴族が付いている。奴らが僕らを妨害するために行っているのがこの大仰な火遊びだ。お前は、僕たちと敵対すると同時に、奴らに尾を振っているに過ぎん」
「安い挑発ですのね」
「そうか? その割に心底……不愉快そうだが」
ぴくりとアイルーンの眉が動く。
「違うのか?」
「――魂胆が透けていて下品でしてよ。リヒター・L・クリンブルーム」
「それは失礼。こっちも身内どころか家を燃やされて腹が立ってるんだ」
「……そうですの。それは、まあ、そうでしょうね」
頬に手を当て、彼女は思案するように目を細めた。
安い挑発。それは事実だ。
貴族のイヌ。それは否定したいはずだ。
実際、否定できるのだろうと、リヒターは踏んでいる。
アイルーン・B・スマイルズという女が、幾らリヒターらと対峙する為とはいえ、貴族の言いなりになるはずがない。
目の前に転がっているテロリストの死骸がその証拠。
だとすれば、だ。
この女とその貴族の間には、"対等"な取引があると睨んだ方が早いのだ。
そのことさえ引き出してしまえば、リヒターも黒幕に一歩近づくことが出来る。
アイルーンとてそれは承知。
だからあとは単純な問題だ。
即ち、彼女が取引先との義理を取るか、貴族のイヌとなじられたことへのプライドを取るか。
見つめるリヒターを、煩わしそうにアイルーンは眺めた。
魂胆が分かって尚悩ましいのもまた事実。
リヒターとの対峙も惜しいが――。
「――今お前が考えていることを当ててやろう、アイルーン」
「……どうぞ?」
「殿下やフウタと合法的にやり合えることのメリットが、お前の中で大きすぎる。殿下はそうそう殺し合える相手ではないし、フウタに関しては言わずもがなだ」
「……貴方は、2人と殺し合う場でも用意してくれると?」
「是非とも潰し合って貰いたいが……今は困るんだよなあ」
「でしたら話は終わりですわね」
再び背を向けるアイルーン。
取引を告げることもなく、プライドを優先することもなく。
第三の選択肢として取る、沈黙。
交渉事においてある種当然の手段ともいうべきそれ。
だが、沈黙に対する回答も――リヒター・L・クリンブルームは用意していた。
「……まあ、まさかこんな状況でお前と話をすることになるとは思っていなかったがな」
レッドルードのことを調べた時は、まさかこんな状況になるとは思わなかった。
貴族と手を組み、まさかこんなところで人の家を燃やそうとしているとはと、頭を抱えたのも事実だ。
それでも。
こうなってしまったのなら仕方がない。それは、この現場に駆け付けた時には覚悟を決めていたこと。
「この先、テロリストどもに好きにさせるわけにはいかない。糸口になるなら、無理やりにでも吐かせたいのが本音だ」
一歩、前へ出る。
背を向けたままのアイルーンに向かって、さらに一歩。
「お前個人にも用がある。強くなりたいと思う気持ちは本当にそれだけなのか。"レッドルード"に決着を付けたいとは思わないのか」
グラディウスを掲げ。
「そして」
無防備なアイルーンの背中に斬りかかる――!
「よくも僕の身内を危険な目に遭わせてくれたな、そのけじめは付けて貰うぞ!!」
ぎん、と鈍い鉄の音。
振り向きもしないまま、手甲がグラディウスを押さえる。
「――今の貴方では、とてもではありませんがわたくしの相手は務まらない。それを承知で、何故?」
「どうして? どうしてと来たか。簡単だ」
教えてやろう。と口角を上げる。
「それが高貴なる者の権利であるからだ」
高貴なる者の権利。
それは、"民"を、身内を守る為の刃。
たとえこうして。
守れなかったとしても。
これから先、リヒターの庇護下にある者たちが、舐められ、甚振られないように"けじめ"を付けさせること。
それが。彼女の言うように。
勝てない戦と分かっていても。
「分からないか?」
鋭い眼差し。ガラスのように空虚なアイルーンの瞳に、叩きつけるような笑み。
「"敵"として立ち塞がってやると言っているんだ」
もう一度問おうアイルーン・B・スマイルズ。
"逃げで良いのか"?
「ああ全く」
アイルーンは口角を吊り上げる。
「空は大嫌いですわ」
極致のレビューせんきゅー! 照れるぜ!!





