65 けっしょう
――闘技場スペクタクラ。
爆ぜた右手の門。
沸き起こるは、アイルーン登場時以上の大歓声。
白いもやの中から1人、腰に刀を差して歩いてくる青年の姿。
ついに。
ついにここまで来たのだと、アイルーンは口角を吊り上げる。
一回戦とも、準決勝とも。ましてや、予選とも違う。
彼女が入場前から、ドレスを脱ぎ捨ていつでも戦いを始められるようにと身構えていることがその証左。
やってくるのは、かつて頂点を極めた王者。
チャンピオン・フウタだ。
『――闘技場スペクタクラ建設記念、第一回武闘大会』
熱狂の中。少女の声が、会場全体に響き渡る。
『果たして誰が、最もこの熱量に貢献したでしょうか』
その問いの答えは、数多あるだろう。
けれど全てを封殺せんとばかりに、熱に任せて彼女は告げる。
『予選から決勝まで勝利を貫いたアイルーン? この大会の主催者であるライラック殿下? 確かに、彼女らを始めとした武人たちの活躍はきっと、この先に語り継がれることでしょう。でも』
歩く男は、観客に手を振り返すことも、対戦者を威嚇することもなく、ただ堂々と石畳に足を踏み入れた。
『予選3回戦。ありとあらゆる武人の実力を解析し、客席に熱を届けた』
『本選1回戦。現れた猛者たちの熱を伝え、そして自らがその日のトリを掻っ攫った』
『準決勝、あのライラック殿下を前にして一歩も退かない大熱戦。その熱狂は、誰が疑うこともない、今大会いちの熱量を誇りました』
地鳴りのように揺れるスペクタクラは、既に全開。
そうなるように、2人の少女が仕向けたあとだ。
『もう一度聞きましょう。ううん、言い方を変えましょう』
一瞬の間。彼女の小さな息を吸う音さえ、闘技場に響いた直後。
『誰が、第一回大会の栄冠に相応しいか!!』
熱烈なフウタコール。
いつかこの声援を誰よりも欲しがった男が、そこに立っていた。
何も気にしていないような、素振りで。
感極まる気持ちはあった。今にも感情が溢れだしそうなほど、胸の内の熱は滾り、煮立った涙腺から熱い涙が零れ落ちそうになる。
けれど耐えろと――彼女は言った。
ただ素知らぬ顔をして、不遜に構えて"壁であれ"。
一切の感情が見えないまま、彼はそっと足元に刀を置く。
そして軽く体の調子を整えるように手首を回した。
『予選最強と名高い男を倒した。王国最強の殿下を下した!! ならばもう、優勝の肩書を持ち帰る他にない!! あたしは、そう思ってた!!』
『でも!!』
その金を纏う瞳は、アイルーンのみを映していた。
『フウタは言った、アイルーン・B・スマイルズを下さなければ――そこに何の意味もないと!!』
アイルーン・B・スマイルズは、それだけの格を持ち合わせている。
彼女はそう、大々的に告げたのだ。
瞬間爆発的にヒートアップする観衆たち。
それはそうだろう。
アイルーンの試合は彼らとて見てきたのだ。
予選を難なく乗り越えた姿は、豪快に突破したイズナよりもある筋では評価が高かった。
プリム・ランカスタの実力を知る衛兵たちは、こぞってアイルーンの実力を評価した。
そして、王国にて第二位の実力を誇るリヒター・L・クリンブルームを下した彼女の実力もまた、保障されるに値する。
だが。
その熱、その歓声は、大きくなるにつれはっきりと分かる。
――フウタ・ポモドーロ一色に染まりあがっていることが。
『だからこそこの試合は"決勝"、勝利を決するに相応しい戦い!! 王都最強を決めるこの武闘大会の幕引きに相応しい――お兄ちゃんがそう言ったんだから間違いない!!!』
ここに来て、"解説兄貴"であることを思い出させるその一言。
その説得力たるや計り知れず、決勝への熱量は最早最高潮だ。
鳴りやまぬフウタコール。
致し方のないことではあった。
フウタのこれまでの軌跡に比べ、アイルーンは"勝ち"にこそ重きを置いていたが、その試合内容は相手がたのファンを傷つける行いであったことは間違いない。
いざどちらを応援するかと言えば、俄然フウタに寄ってしまうのは有る種の敵討ちの意味合いもある。
もちろんアイルーンにとっては慣れたものであったし、気にするような価値もなかった。
意外だったのは、チャンピオンへの声援程度のもの。
しかしそれも些事。
だって、正面の彼は自分しか見ていない。
ああやはりそうなのだ。
歓声のあるなしなど関係ない。
わたくしと貴方は、同じ修羅。
『みんなと一緒に、最後の最後まで笑顔で聞こう!! 最後の解説はきっと、勝った時に色々教えてくれるから!! フウタ――ポモドーロ!!』
その宣言に、ようやく顔を上げたフウタは。
観客席を見渡すだけ見渡してアイルーンに目を戻した。
『――レフェリーは、昨日に引き続きジェネラル・ミオン。なんか今日も宣伝文句来てるけど省略。財務卿を宜しくね』
『解説はわたし、ライラック。実況はいつも通りパスタちゃん。皆さん、どうか宜しくお付き合いください』
にこ、と隣り合う姉妹の笑顔。
と、静かにライラックは魔導器から手を離した。
「ところで。フウタが、これが決勝だと言ったんですか?」
手を魔導器から外して、素知らぬ顔でほんの僅かに口を動かすパスタ。
「ええ。だいたいあんな感じのことよ」
「……へぇ」
『それでは――試合開始!!!』
ジェネラル・ミオンの合図に従い、フウタは身構えた。
今日は完全に無手。手甲だけを嵌めたそのスタイルは、やはりというべきか目の前のアイルーンと同じもの。
瞬間膨れ上がった熱狂はフウタコールの一色。
視線の先には、未だ構えを取らないアイルーン。
「……ああ。この時をどれだけ待ちわびたことか」
「そんなに俺とお前、接点あったか?」
「ふふふ。ええ、貴方からは、その程度の認識であったこと――わたくしも、理解しております」
ゆるゆると首を振る。
彼女からすれば、フウタの認識はさも当然とばかり。
つまり一方的な執念がそこにあったと、己で認めたようなもの。
不可解そうに片眉を上げるフウタに、告げる。
「たとえば貴方に、自らよりも強く頂点に近い者がいたとして。その人は自分に興味がない。――自然なことだとは思いませんの?」
「それは」
つまり。
彼女はただ、フウタに"強さ"を見ているということ。
「貴方は、強かった。わたくしの人生の中で、最も。ゆるぎない強さを持っていた」
「……」
「ですから、チャンピオン。貴方はきっと本当は、闘技場に興味など失くして、辞めてしまわれたのでしょう? それがわたくしにはとても、とても悔しかったのです」
そっと自らの胸に手を当てて。語るように彼女は言った。
「ああ――本当に。わたくしが"間に合っていれば"、退屈などさせずに済んだのに」
ぎょろり。
その瞳が狂気に染まる。
《独奏曲》
瞬間、その地面をアイルーンは蹴った。
華麗な宙返りからの両手での着地、独楽のように足を振り回し、フウタの顔面を狙う完全なる不意打ち。
しかしそれをフウタは僅かなスウェーで回避する。
風が軽く靡くと同時、彼女は愉快気に口角を上げた。
「ああ、ああ――唱いましょう、唱いましょう。共に泡と沈むまで!!」
避けられるやいなや身体を反転、後ろ蹴りで放たれたのは容赦のない急所攻撃。しかしそれもフウタはただ右足をずらすことで紙一重での回避。
全てを見切ったその動きが――己を理解してくれているようで、たまらなく楽しい。
「元【天下八閃】漆之太刀、屍山血河の人魚姫――」
今名乗るのか、と殴打の嵐を全て回避し続けながらフウタは口元を引きつらせる。
だが、その言葉には続きがあった。
「――次期、王座挑戦権所持者。アイルーン・B・スマイルズ」
「なっ」
その動揺に僅かな体幹のぶれ。
「あ゛は゛っ!!!」
油断も隙も、全てが彼女の恰好の餌。その隙に差し込むような拳は確実に腹部を捉えたクリーンヒット。
「ふっ――」
その勢いを完全に殺しきったフウタのバックジャンプはそれでいてなお、強烈な威力を受けて後ずさる。
フウタが先に攻撃を受けた――その衝撃に会場がざわめく中。
しかしフウタは軽く腹を摩ると。顔を上げた。
痛みに少しでも動じようものならその喉元を食い破らんと腕を振りかぶっていたアイルーンの方が面食らうほどのタフネス。
だがフウタに攻撃の意思はなく、ただ彼女の一撃を回避して呟いた。
次期王座挑戦権所持者。
「そう、だったのか」
と。
『――お、お兄ちゃんが先に殴られちゃったよ!!』
『アイルーンの一撃一撃は重く、なまなかな鍛え方をしていては本当に拳1つが致命傷となります。ですが、フウタにとっては軽くどつかれた程度でしょう。どんな武人にも対応できるあの身体は、鈍重かつ耐久力のある武人とのどつき合いも視野に入れているほど。つまり』
『つまり……?』
『アイルーンは、フウタの前では単なる軽量級ということです』
『軽量級……って、軽いってことですか?』
『はい。手数でもって相手の体力を奪い去る。或いは、一度でも組み付いて腕なり足なりを再起不能にする。それがアイルーンの勝ち筋。一撃必倒を目指すのは、悪手と言えるでしょう』
その解説のさなか、本当にアイルーンの拳にびくともしないフウタに、観客から更なる歓声が沸き上がる。
ひやっとさせられたからこその、安堵。
彼らの歓声の中で、パスタはほんのわずかに目を細めた。
何かしら言葉を交わしながら戦っていることは分かっていた。
その上で、フウタが攻撃を受けたのだ。
パスタは武人ではない。けれど、あのオーシャン・ビッグウェーブでさえあれだけ一撃入れることに腐心したフウタが、こうも容易く初撃を受ける理由を――ただの武闘だとは思えなかった。
やっぱり、と唇を撫でて思案するのは――先にアイルーンの部屋で行った紹介のための事前調査。
どうして、フウタに執着するのか。
そう、彼女に問うたのだ。
彼女の答えを、パスタはよく覚えている。
――チャンピオンは、わたくしたち"泥"から這い上がった者の象徴。あれこそが、最強の名に相応しい。だからこそ、己の手で下したいと思うのは、そんなに間違っていることでしょうか?
泥から這い上がった者。
パスタは、確かにアイルーンから、自分と同じ臭いを感じた。
ああ、なんて業の深い男だろう。
彼女は小さく目を伏せて。魔導器から外した己の手を見つめ、呟いた。
「あんたは……あたしたちとは違う。自分から泥に飛び込んだバカだっていうのにね」
それは、傍からは分からない。
根本的な食い違いを、あの時アイルーンに伝えることはしなかった。
「責任、取りなさい」
アイルーン・B・スマイルズが身勝手に抱いた感情かもしれない。
それでも、貴方の作り出した因果に変わりはない。
結果として。こうして遠く離れた王都まで、追いかけてきた人間が居るのだから。
それはきっと彼女の為であり――彼の為でもある。
ベアトリクス・M・オルバはそう理性的に判断して。
パスタ・ポモドーロに戻って、声を上げる。
『じゃあここからが見所ってことですね!』
『……はい』
『王女様?』
『いえ。実況が途絶えてしまっては、皆さんも分かりませんよ?』
『そんなにサボってないよ!! じゃあこれ、アイルーンがお兄ちゃんに一撃貰ったらどうなるんですか?』
それは、とライラックは一拍おいて。
『フウタ次第、でしょうね』
どういう意味なのか、パスタには分からなかった。
おそらくは武人の領域。
じっと見つめるライラックの視線はバトルフィールドから離れることはなく。
教えて、と言うことしか出来ない自分に何故か苛立つと同時に。
まるで腹いせのようにそう仕組んだ目の前の王女のことを、改めて自分は大嫌いなのだと認識した。
『どういう意味なんですかっ?』
けれど、それと仕事はまた別だ。
『2択です。アイルーンに付き合うか、それとも――』
あり得ない話ではなかった。
チャンピオンへの挑戦権を獲得する方法は、幾つかある。
1つは、天下八閃壱之太刀の座に辿り着き、10日に1度の王座戦に挑むこと。
1つは、チャンピオンからの逆指名。挑戦してこいと宣言を受けること。
1つは――シーズン最後に開かれる天下八閃同士のトーナメントで、優勝すること。
フウタにとって、人生で最も苦い記憶でもある八百長試合。
その翌日には確かに、トーナメントの最終日が予定されていたはずだ。
決勝の結果がどうなったかは、知らなかった。
だが――確かに。
アイルーン・B・スマイルズ VS ミナセ・ローウェル
のカードであったことは、何となく想い出せる。
決勝が初の女性同士ということで盛り上がっていたのを背に――己はひっそりと消えたのだ。
もしもアイルーンが勝利したのなら、確かに次のフウタへの挑戦権を握っているのは、間違いなく彼女だった。
拳が飛ぶ。
フウタは回避すると同時、その腕を払いのけた。
しかしてそれは唯一無二の正解。回避、受け、いずれにせよ彼女による関節技の起点にされていたことは間違いない。
アイルーンの細身を侮るなかれ。その引き締まった肢体は見てくれ以上の力を発揮し、組み付かれたらフウタと言えど無事ではすまない。
「あと1日。あと1日早ければ、わたくしは貴方に挑むことが出来ていたと思うと――悔しくて夜も眠れぬ日々が続いていましたわ」
「そうか……」
「ええ――ですから今日は存分に、楽しんでくださいまし! さあ、歌を――歌を!!」
アイルーン・B・スマイルズの戦法は、リヒター・L・クリンブルームのそれとよく似ている。
一切の手加減なく己の全力をぶつけにかかる。
ただ、2人の間に違いがあるとすればそれは――リヒターは常に全力であり続けるのに対し、アイルーンは常に尻上がりに力が増し続けるという点だ。
自らの血を見ることでの暴走もそう、傷ついても気にしないその戦いぶりもそう。そして、相手の疲労度も考慮すれば、アイルーンは戦えば戦うほど己の有利に運ぶ、まさしく戦闘の申し子だ。
不発に終わる《夜想曲》、互角に放たれる拳と拳。
フウタの放つ全てを流麗に回避し続けるアイルーンは、心底楽しそうに自らもまた殺しの技を繰り出した。
「……なんか、アイルーンの動きが良いなおい」
「そうなの? メイドにはよく分かんないっ!」
「わかんないっ」
腕を組むリーフィに、隣のメイドと、そして何故かメイドの隣に居座り始めた見知らぬ童女がそう続けた。
保護者らしき壮年の男性はリーフィの意図を理解したようで頷くが、同時になんだこの状況はと微妙な顔をする彼女である。
「ええ。おそらく、アイルーン嬢は格上との方が相性が良いのでしょう」
「そうなのか、えーっと、ウィンドだっけか」
頷いたウィンドは、真っ直ぐにアイルーンを見据えた。
その瞳には、同じく殺しに生きる者が映し出されている。
「彼女の戦いは私とは異なります。自らの命を、痛みを、苦しみをものともしない無鉄砲さ。ただ強者を求めるが故の戦い……。そういう意味では彼女は闘剣士によく似ている」
「一緒にされたくねー」
「はっはっは、おそらく"職業"は違いますがね。闘剣士に似て非なる存在であることは間違いない。戦いに価値を見出すか、勝利に価値を見出すかの違いは――思いのほか大きいものですから」
闘剣士は、強い方が勝つと言う。
ただきっとアイルーンは、勝った方が強いと考えていることだろう。
その溝が埋まらないからこそ――アイルーン・B・スマイルズは、プリム・ランカスタを憎悪している。
――私……あいつ、嫌いだ。
実のところその感情は、プリムからの一方通行ではなく、互いに持ち合わせているものだった。
「殺された方が負け。その戦いにおいて生存本能というのは真価を発揮する。彼女の鋭敏な感覚は闘剣士のバトルセンスではなく、生き物としての生存本能。であればこそ、脅威になる相手の方が、彼女は真価を発揮できるというところでしょうな」
「あんた、詳しいな」
「……はっはっは。年の功ということで1つ」
初めて彼女と出会った日。瞳の奥に見た飢虎のようなぎらついた炎を、ウィンドはよく覚えている。
まるで、痩せた獅子を貪る趣味はないとばかりに見逃された。
ウィンドがもし万全の状態であったなら、ルリともども無事であったかどうかわからない。
「まいいや。つまり、アイルーンを模倣するフウタが相手だから、アイルーンも殺し合いを楽しむことでさらに力を増してる、ってことか?」
「ええ、その通りです」
「なるほどな……おれは嫌いだ」
「でしょうなあ。ただ――」
す、と目を細めた先で、フウタがアイルーンの蹴りに蹴りを合わせて足裏で彼女を吹き飛ばす。
「――フウタ殿に、そのつもりはないようですがね」
吹き飛んだ先で、アイルーンは違和感を覚えた。
今――自分なら足を跳ね上げて組み付くなり何なり、足の1つや2つ奪いにいってもおかしくなかった。
どうして、と顔を上げた先で、フウタは首を振る。
「……アイルーン。悪い」
「何がですの?」
「全部間違ってる」
喜悦に染まっていたアイルーンの表情が、色を失くす。
「俺は、決して強くなかった」
間違っても、ゆるぎない強さ、などというものは持ち合わせていなかった。
「俺は、強さに焦がれていたわけじゃない」
ただ。"無職"でも活躍できる場があると、証明したかっただけだった。
「闘技場だけが、しがみついていた居場所だった」
興味を失くしたなんて、自分に嘘を吐けはしない。
だから。
「俺は、きみとは、違うんだ」
「っ……チャンピオン、貴方」
「ごめん。チャンピオンを名乗るのも、もう辞めた」
「………………嘘だ」
――招待状は、破り捨てられた。
同じ修羅だと思っていた。求めるものは同じだと思っていた。
つまらない闘技場に愛想をつかしたのだと思っていた。
その気持ちは同じだと――思っていた。
「何故。それだけの強さがありながら……」
「これは、強さじゃない。ただの"力"だ。俺は、強くない」
「嘘だっ……!! これは強さだ!! 力は強さだ!!」
か、と見開かれる瞳。
暴風が、吹き荒れた。
『――わっ!』
『これは――闘気。それも、今までで一番の』
『え、でもアイルーンはスイッチが入らないと』
『なら』
いつの間に手元に用意していたティーカップを傾けて、ライラックは告げる。
『入ったのではないですか?』
「――あ゛はっ……あ゛はは……っ。貴方でさえ、勘違いしているようですわね……なら、そう。正さなきゃ……強い方が、生き残る……そのはず。そうじゃないと、おかしいもの……あ゛はっ……」
ゆらりと、アイルーンの身体がブレる。
前髪に隠れた彼女の表情は、見えないまま。
『え、でも傷は』
『前提が間違えているだけですよ。彼女のスイッチは、自分が外傷を負うことに限りません』
思い返すのは――雨の日の廃教会。
ライラック・M・ファンギーニをして対応に遅れた彼女に、"スイッチが入っていなかったはずがない"。
『じゃあ、なんで』
『彼女のスイッチは――自分が、傷つくこと』
身体にせよ。心にせよ。きっとそれは、彼女にとっては同じこと。
心の方が――より深い。
相対するフウタは、息を吐いた。
「謝ることではないかもしれない」
彼女の想いに応えられなかったことは、謝った。
だが、今の自分の在り方を謝るのは、違うだろう。
彼女の為に生きてきたわけではない。
だが、彼女の気持ちを踏みにじるつもりはない。
自分に出来ることはそう多くはない。
――フウタは、嬉しかったのだ。
あの日の自分でさえ、見てくれている人が居た。
その形は確かに歪んでいたかもしれない。
けれどあの日はそれでも十分だった。
今は違う。
ただそれだけの話なのだ。
「だから、かかってこい」
拳を握りしめ、再度構える。
「キミの相手は、俺の」
正面から告げる。
「俺の"闘剣"だ」





