61 じゅんけっしょう だいにしあい が おわった!
石畳の上に、ぺたりと座り込んだ。
柔らかな肢体での女の子座りは、顔を上げれば勝者の姿がはっきりと。
低い角度から見上げるほど、スペクタクラはよく見える。
ぐるりと世界を取り囲む壁は、観客に埋め尽くされていて。
その大歓声が讃えていた。
勝者のフウタを、讃えていた。
ようやく悟る、己の敗北。
フウタとこうして向き合って負けること自体は、初めてではない。
当たり前だ。
何度も負けているからこそ、こうして今日この日を楽しみにしていたのだ。
なのに、どうして。
「……っ」
じわ、と視界が歪む。
こんなにも、この一度の"負け"が重いのか。
言いたいことは色々あった。
素直に負けを認めたくない気持ち。
もう一度、を求める気持ち。
こんな幕引きは嫌だ、と思う気持ち。
自分が主催したこの闘技場が、自分のものでなくなってしまうようなこの感覚――。
胸の内では、分かっていた。
頑張って作ったスペクタクラ。待望していた貴方との戦い。
口では言っていたように、今回手が届くとは、そこまで期待していなかった。
自分の出せる全力は出した。考えられる手札は全部切った。
その上で負けたのだ。賞賛する気持ちはあっても、悔しさで感情がどうにかなってしまうような、そんな想いは抱く理由は無かった。
「……っ……ぅぅ」
心が制御できない。
頭の冷静な部分が、落ち着けとひたすら繰り返す。
でも熱をもってしまった心は、生半可な氷嚢ではうんともすんとも言わなくて。
――このままではスペクタクラを、あの女に持っていかれる。
――既にリヒターは新たな駒を手に入れようとしている。
――わたしの支配力が及ばなくなってきている。
けれどどれも後ですぐにリカバリは効く。
そういう風に、段取りは済ませてきた。
だから今は、フウタの健闘を讃え、笑顔で応対するべきだ。
いつものように振る舞えば良い。
そう、分かっているのに。
「……ぁ」
声が出ない。
前が見えない。
こんなに。
こんなにも。
"敗北"というのは苦いのか。
初めて知った感覚に、頭が痛くて割れそうだ。
何故。
何故だ。
分からなくて、辛くて。目元を拭って。
はっきりとした視界の中に飛び込んだ光景に、また視界が歪む。
新しく出来た傷は、血が止まるまで何度も何度も拭うように。
ばかになった涙腺は、抑えても抑えてもあふれ出す。
世界がクリアになる度に。
勝利に沸く会場で、貴方は観客に応えるでもなく。
ともに勝利を勝ち取ったとばかりに、誰かに向かって笑っていた。
それがどうしようもなく、寂しかった。
「……ふ、ぅた」
良い戦いでした。
その一言を捻りだすことも、出来ないくらいに引き絞られた喉。
腰が抜けたように、力の入らない下半身が情けない。
情けない情けない情けない。
大衆の面前で、このような体たらくを晒している己自身が許せない。
なのに。
「――ライラック様」
子供のように泣きじゃくる自分の前に、影が差す。
そっと伸ばされた手を、簡単に取りたくなかった。
この醜態の先で、手を取って貰って立ち上がるなど。
それも一番、見られたくない人に。
ああ。ならもういっそ見ないで欲しかった。
そこまで考えて、気づく。気づいてしまう。
貴方が――あの時見ていたのが、わたしなら。
手合わせの時と同じように。
ずっと見ていてくれたなら。
こんな気持ちにはならずに済んだのだと。
「……どうして」
どうにかして絞り出した言葉は要領を得ない。
困ったように首を傾げながら、なおも手を伸ばす目の前の青年。
「どうして……こんなに、苦しいの」
「それは」
少し、考えるように言葉に詰まったフウタ。
そして、緩く首を振った。
「……分かりません」
どこか諦めすら混じったような彼の言葉に、ライラックはゆっくりと顔を上げた。
目に映る、いつもの彼の優しい表情。
彼はぐるりと、未だ熱狂する観客席を見渡して、告げる。
「俺は、試合に負けたことなんて殆どありません。それに、こんな大歓声を浴びたこともありません。ライラック様の想いを、俺が理解したなんて言うのは傲慢だ」
「……」
「でも、ライラック様が……この試合に凄く懸けてくれていたのは、伝わりました。それが上手くいかなくて悔しい。その気持ちは、分かる気がします」
「……悔しい」
「はい」
頷く彼は、目を細めて呟く。
「俺と比べるのは、烏滸がましいかもしれませんが。こうすればうまく行くんじゃないかって思ったことが、不発に終わった時の悔しさとか。悲しさとか。自分が嫌になる気持ちとか。そういうのは、凄く分かる気がするといいますか」
うまく行くと思っていた。
こんなはずじゃなかったと思っていた。
悲しかった。
自分が――嫌になった。
1つ1つ、ライラックは思い返して、目を閉じる。
瞳から零れた一雫を拭って、息を吐いた。
わたしと貴方で作る闘剣。
今日の盛り上がりは、そうやって作るはずだった。
こんなはずじゃなかった。この歓声がどうやって作られたものか、ライラックは察している。
悲しかった。プラン通りに運んでいたはずの物事が、まさか。フウタによって覆されるとは思わなかった。
ああ、なるほど。自分が嫌になる。
武人として貴方に勝ちたいと願いながら。
求めるものはまた別にあって。
"試合"に臨む段になって尚、その2つの感情がごちゃ混ぜになっていたのだから。
――試合に対する心構えが足りていなかったのは、わたしの方というわけですか。
「……勝ちたかった」
「はい」
「……それと」
貴方と、楽しく試合がしたかった。
結局のところ、それだけだったのだ。
チャンピオンの座を、フウタから奪取したいという武人の気持ち。
それから、2人で楽しい試合を、世界を作りたい気持ち。
どちらもこの手に取りたくて。
"こうなることが予想出来たから"、手を尽くした。
けれど。どうにも。
「俺は……夢を叶えたかった」
「知っています。だからそのためにわたしは……」
「はい。あいつを付けてくれた」
それが全ての失敗だったと、あの時の自分に言ってやりたい。
思いのほか、互いに胸襟を開いてしまった。
ああ、本当に愚かだ。
想定外があったとすればたった1つなのだ。
"まさか彼女が、ここまで人に心を許すとは。"
嫌になる気持ちなど、あって当然だ。
だってこれは、いつか彼女をハメる為に己が隠していた手札。
彼女の想定よりも、自分がフウタを大事にしていたからこそあの時は事がスムーズに進んだのだ。
全く同じ形で、自分が想定外の状況に陥るなど。
それが血を分けた妹だ。
最悪過ぎて、吐き気がしそうだ。
「……失敗でしたね」
「え?」
ぽつりと呟いた言葉に、フウタが目を丸くする。
ライラックは、もう何度目になるか分からない涙を拭って、続けた。
「あんな子、貴方に付けるんじゃなかった」
「ははっ」
笑うフウタは、首を振った。
「確かに。勝つに当たって、本当に良い相棒でした」
そうじゃない、と言いたくて。でも言えなくて。
力なくはにかんだライラックは、けれどもう何かをする気力もなくて。
「……そうだ、ライラック様」
だから、ふと思い出したようなフウタの言葉に、無防備に顔を上げた。
「俺が勝ったから。1つ、聞いて貰っても良いですか?」
フウタが負けたら、彼女を"処分"する。
その話にフウタは乗った。そして、勝った。完膚なきまでに。
だから、との提案。
続けた彼の言葉に、ライラックは息を飲んだ。
いずれにせよ。
王都アイゼンハルト闘技場スペクタクラ建設記念第一回武闘大会。
本選二日目の本日は。
最高潮の盛り上がりの中に、その幕を下ろすのだった。
――夕日の差し込む、スペクタクラ。
大歓声の、響きに響く。
そんなスペクタクラも、試合が終わり、人が捌ければこの静まりようだ。
スタッフの誘導によって、全ての客が帰路についた後。
誰も居ないバトルフィールドと、すり鉢のように剥き出しになった観客席。
人というフィルターを張らなければ、こんなにも会場は無機質なのか。
そんなことを、少女は考えていた。
ぼんやりと欄干に腕を預け、頬杖をついて眺める景色。
夕焼けの赤が綺麗に光のカーテンを描く様は中々綺麗で、外壁の意匠にこだわったという姉の言葉も頷けた。
とはいえこれが見られるのは、観客の居ないこの時間だということを考えると、なるほど。
中々に性格が悪いというべきか、何に対しても独占欲の強い女だと改めて理解して口角を歪める。
「まあでも」
漁夫の利上等。こうして1人、景色を眺める時間があるのだ。彼らの作ったスペクタクラのこの光景をぼんやり見ていられる自分は果報者だろう。
「……」
果報者。自分のことをそう思ったことなんて一度もなかった。
まともな生まれもせず。まともな生き方も出来ず。
はいずり回って、負け続けてここまで来た。
けれど。
「……勝った、のよね」
未だに、実感はない。
だが、歓声に包まれたスペクタクラの中。
やりきった感覚と共に目を合わせたあの瞬間の、全身に漲る力強く心地良い感情の迸りは――今まで味わったことのないもので。
その名を勝利と呼ぶのなら、なるほど。
こんな感覚、自分には分からなくて当然だった。
何かを勝ち取った。その瞬間の感情の昂りはおおよそ、自分とは縁のないものだったから。
そうしていざ思い返してみると、思わずこの身を抱きすくめてしまう。
ぞわりと背筋を駆け抜ける、快感にも似た甘美な熱。
甦りぶり返した、たった数刻前の新鮮な気持ち。
嬉しくて、嬉しくて。
楽しくて心地良くて仕方がなかった。
その名を、勝利と呼ぶのなら。
ああ、間違いなく、己は。生まれて初めて、"勝利"した。
「や、た……!!」
やった、やった。
こんなに嬉しいことが、人生で一度でもあっただろうか。
ぎゅっと欄干に顔を埋め、じたじたと足で暴れてみる。
感情の捌け口を捜して片端から発散を試みる姿はまるで子供だ。
けれど仕方がない。初めてのことなんだから。
子供のよう――それはつまり、初めてのことに戸惑う新鮮さ。
大人になれば誰しもが味わったことのあるそれを、初めて手にしたのだから――良いじゃないか。
頬は赤く、目はぎゅっと閉じてなお眦は下がって、隠し切れない笑顔は、口元が見えてなくたって分かるというもの。
やった、やった、と繰り返すその呟きはしばらくして、ようやく収まった暴れる感情と共に――ほんの僅かに変化する。
「やったよ……」
熱が冷めたわけではない。
じんわりと身体に馴染んだ感情が、思考はきちんと巡らせながらも、想いを熱く抱きしめる。
自分は、やったのだ。
初めて勝利したのだ。
その勝利は、誰に捧げるわけではないけれど。
それでも、誰かに告げたくなるものだ。
告げられる相手は、もう誰もこの世には残っていない。それでも、呟くことで、風に乗せて届くのなら。
潤んだ視界、顔を上げ、夕日の空に思いを馳せる。
ああ。
うれし涙って、本当にあるんだ。
「――ここに居たのか」
「びっくぅっ!?」
「鳴き声?」
「誰のよ!!!!」
急に背後から声。
無駄にでかいくせに気配の一切を感じさせない青年に振り返り、瞼を擦って睨みつける。未だに赤いその瞳に、しかして彼は触れなかった。
「探してたの?」
「ああ。いつかと逆だな」
「……あまり思い出したくはないわね」
いつかといっても、つい数日前のことだ。
夕日の沈みかけるスペクタクラで、フウタを捜しにやってきたことを思い出す。
そのあと追われる羽目になったのだから、苦々しい表情にもなろうというものだ。
「そうだな」
「そうよ」
沈黙は、決して気まずくはない。
彼女が両腕を組んで引っかけた欄干。その隣にとんと、大きな手が乗せられた。
少し熱を持った顔を隠すように、両腕に埋めたまま。ちらりと横を見れば、随分と清々しい笑みを浮かべた横顔。
「……」
「なんだよ」
「べつに」
こんな顔より、もっと見るべきものはある。
スペクタクラの夕日とか。
そんな勢いで目を逸らす彼女に、怪訝そうに目を細めたフウタはしかし同じようにフィールドへと目をやった。
「――勝ったな」
「……勝った、で良いのよね」
「ああ。これで勝ててなきゃ、嘘だろ」
「そう」
さあ、と風が吹き抜けた。
髪はもう、靡くほど長くはないけれど。
「実感がないわ」
「そうか? 俺は……めちゃくちゃある。何でお前はそんなに冷静なんだよ」
「年季の差じゃない?」
「せめて騙せる嘘にしろ」
つんとした雰囲気を崩さず、ただ目を前に向ける彼女。
フウタは呆れたように彼女を見やった。
本当に嬉しく思ってくれているのか。
ひょっとして、自分が空回りしただけじゃないかと疑うほど、彼女は随分と落ち着いているように見えて。
実感がない、と言いながら。勝利は受け入れているようにも思えるのがまた不思議だった。
「俺は。有難いとか。恵まれたとか。楽しいとか。幸せだとか。王都に来て、色んな初めての気持ちを感じたけど。こんなに"嬉しい"と思ったのは初めてでさ。正直まだ、手が震えてる」
思い出す、などという工程を経る必要がないくらい、すぐさま耳に呼び起こされる大歓声。
胸に響く地鳴りのような、己を呼ぶ声。肌で感じる熱気。そして。
視線の先で見た、こいつの笑顔。
「ふうん」
気のない返事とともに、彼女は欄干を握るフウタの手を見た。
確かに、微かに震えていた。
「良かったじゃない」
「いや良かったけども。え、そんな反応なの? 俺、お前に報告してんの? 違くない? もっとこう分かち合いに来たつもりなんだけど」
「分かち合う、ねえ」
そっと組んでいた腕の片方を、頬杖のようにして彼女はため息を吐いた。
やれやれ、と呆れるような表情のまま、彼女は小馬鹿にしたようにフウタを見据える。
「なんか勘違いしてんじゃないの?」
「あ?」
なんだこの小娘。
とでも言いそうなフウタに、彼女は指を突き付けた。
「決勝は、明日なんですけど」
「…………」
「…………」
しばらくの、沈黙。
破ったのは、フウタのどもったような呻きだった。
「……いや」
「なによ」
「……そ、その通りだけども」
下半身から力が抜けたように、フウタはしゃがみ込む。
珍しく頭の先まで見えたなと、彼女は要らないことを考えた。
要らないことを考えることで、色々と紛らわせていた。
「納得いかねえ……」
初勝利の為にここまで頑張った。
共に手を尽くしたはずだ。だってサムズアップにも応じたじゃないか。
などなど色々言いたいことは山ほどある。
けれど、その彼の呻きに対しての返答はなく。
ぽんぽん、と頭の上に触れる感触。
「祝勝会は、明日の夜。それまで気は抜かないこと」
「だからなんでそんなに冷静なんだよ」
「年季の差じゃない?」
「そのフレーズ気に入ったの?」
くるり、と彼女は背を向ける。
出口に向かって一歩二歩。
一緒に帰る為に探していたのに、先に踵を返す辺りが彼女らしい。
呆れたように彼女に続く。帰り道、面倒に巻き込まれたりしないように。
「気に入ったとかじゃないわ。単なる事実よ」
年季の差、なんてものは、当たり前だが存在しない。
同じ。同じ初勝利だ。
さっきまでの自分を見られていたら、色々と心が羞恥に死んでいたかもしれないが、どうやらその可能性は無いようだし。
年季の差、と言っておくのがちょうどいい。
「お前、俺より年下だろうが」
「大して変わらないわ。少なくとも心の年齢は」
「誰が9歳だ」
「あたしだって9歳じゃねーわよ!!」
だって。
見てくれをだいぶ幼くせざるを得なくなってしまったから。
そのくらい常に言っておくことで、深層意識に刷り込むのだ。
年齢はそう、変わらないと。
それが何を意味するかは、別に今は良い。
祝勝会は、また明日。
「フウタ」
「なんだよ。クソ、もっとこう、やったー! とか盛り上がると思ってたのに」
「そんな子供じゃないのよ、こっちは」
「俺もだが????」
「語るに落ちすぎでしょ」
燻る想いは、胸の中に仕舞っておく。
あたしはそんな感傷に浸る女じゃない。
今だってそう印象付ける、勝利にすら昂らない悪党で良い。
じゃないと、こいつは気にするし。
感慨深く思うのは自分だけで良い。
この台詞を告げるのも――きっと明日で、最後だから。
後ろ手を組んで。
半身で振り返り、笑顔を見せる。
「帰ろ?」
おう、という返事には、何の感情もないけれど。
それで良いのだ。





