第7話 うしろは気にせず、貴方は前を向きなさい
「おい、兄貴。金持ってきたぞ、兄貴?」
もう陽が暮れたにもかかわらず、灯りひとつついていない薄汚れたプレハブ小屋を、男は手摺伝いに進む。
「兄貴! 寝ちまったのか?……しょうがねぇなあ……」
男は不貞腐れながら灯りをつけ、手にしていた現金の入った封筒を、自分の腰の高さのボックスに収納された金庫へと収めた。
「全くよぉ、兄貴はとんだ疫病神だよ。この障がい者年金が無かったら、いくら弟の俺でも縁切ってるぜ」
男はそうこぼし、普段ならば兄が眠っているであろうベッドへと向かう。
「兄貴、金は金庫に入れたからな……?」
男はベッドに視線を送り、そしてその光景に我が目を疑った。
兄の姿はベッドに無い。
正確には、ベッドの上には姿が無かった。
力無く床に転がった片腕と転倒した車椅子、そして辺りに広がる血の水溜まりを目の当たりにし、男の顔からは生気が失われ、大声で叫びたい衝動を必死に堪えて両手で自らの口を塞ぐ。
「兄貴……そんな……!」
5月6日・8:30
リンを魔導士として最後の仲間に加えたチーム・バンドーは、彼女が特別に貰った2ヶ月間の有給休暇中限定のヨーロッパ旅行という名目でパリを出発し、次なる目的地、ドイツのケルンへと向かっていた。
また、例の如くバンドーの故郷、ニュージーランドの一族へのエアメールには、「ボルドーで20万CP稼ぎました! 次は新しい仲間と一緒にドイツに行きます」というメッセージとともに、リヨンのノートルダム聖堂での記念写真、バンドーとフクちゃんとのツーショット、リンを含めたパーティー全員がパリ市長からの感謝状を受け取る写真が添えられている。
賞金稼ぎとしての仕事量や観光を重視するのであれば、ベルリンやミュンヘンまで足を延ばすべきかも知れないが、今回はハインツの私用にパーティーが付き合う形となった。
明後日5月8日は、ハインツの父親の命日なのである。
ハインツの父ヴォルフは元来学者であったが、移住したドイツで助手に就く予定だった恩師の急死により職を失い、母親メリアムの病気もあり、やむなく当時職業として確立されたばかりの賞金稼ぎの剣士となった。
しかし、慣れない仕事で家族を支える内にヴォルフは身体を壊し、後にひっそりとこの世を去る事となってしまう。
残されたメリアムは自らの病の責任を感じて日陰に生きる道を選択し、ハインツは父の無念を晴らし、貧困から抜け出す為に父の道具でひたすら剣術に打ち込んだ。
だが、互いに疎遠になったそんな母子でも、父親の命日だけは家族の語らいの場を維持してきたのである。
母親との関係がギクシャクしたものであり、ドイツに良い思い出のひとつも無いハインツにとって、帰省そのものが気乗りしないイベントではあったものの、そんな彼の憂鬱とは裏腹に、他のチーム・バンドーの面々の表情は明るい希望に満ちていた。
シルバとの再会をきっかけに、頼もしい仲間達の存在が賞金稼ぎ挑戦への不安を和らげていたバンドー。
これまでの単独行動では得られない高額賞金獲得の可能性と、女剣士や良家出身という偏見を取っ払った居心地の良さを感じる様になったクレア。
両親を失い、軍を除隊し、義理の両親とも距離を置かざるを得なかった中、仲間とともに自分の居場所を確保する事が出来たシルバ。
かつて自分が夢中になっていた本の世界の様な出来事を、個性的な仲間達とともに実体験出来る立場になったリン。
生まれや育ちは違っていても、自分らしくあれる場所として、パーティーの結束力は日に日に高まりつつあったのである。
「ケルンに着くのは午後になるし、ハインツも2〜3日いないんでしょ? 今日は役所と賞金稼ぎ組合の登録だけにして観光しない? あたし、チョコレートミュージアムに行きたいのよね! いや、絶対行くわ!」
車窓に流れる景色もそこそこに、クレアは観光ガイドブック片手にはしゃいでいる。
お菓子好きの彼女としては、ガイドブックにこの名前を見つけて興奮が抑えきれないのであろう。
「あっ、いいですね! ドイツはチョコレートの本場ですしね〜」
リンもガイドブックに身を乗り出し、クレアに同調してみせる。
「俺もチョコレートは好き。中にクッキーとかが入った、サクサクした奴が好きだな」
「バンドー、そういうのは本物のチョコレートとは言わないのよ」
バンドーの小市民趣味、お子様味覚をすかさずからかうクレア。
甘いものに余り興味の無いシルバは、あくまでリンが行きたいなら……というスタンスで、列車のシートにもたれながら目を細め、皆の盛り上がりぶりを穏やかに見守っていた。
「……お前ら、気楽でいいよな。リンには賞金稼ぎの経験を積んでもらわないと困るし、そのフクロウが本当に俺達の役に立つのかどうかも調べないといけねえんだから、ちゃんと仕事しろよ」
ハインツは、付き合い切れないといった様子の表情でパーティーに苦言を呈し、景色に視線を戻して頬杖をついている。
一行はケルンに到着すると、まずは役所で滞在証明の登録手続きを行った。
5月20日にはスイスのジュネーブでEONP欧州会議が開催され、そこに参加する義父・ロドリゲス参謀との会食を控えているシルバを待つ予定があるだけに、滞在期間は最低でも2週間は必要である。
観光に無関心なハインツにとっても、世界最大級・最高級であるゾーリンゲンの剣術工房には足を運びたい所であったはず。
今の彼なら、より高級な剣に手が届く貯えがあったのだ。
続いて一行はケルンの賞金稼ぎ組合に出向き、登録手続きを済ませる。
流石にパリ程のスケールはないが、ドイツ特有の質実剛健なイメージがあり、すれ違う賞金稼ぎの面々も組合のオペレーターも、どこか生真面目な雰囲気を漂わせていた。
チームの代表としてオペレーターと話す機会が増えたバンドーであったが、ラテンの雰囲気が漂うポルトガルとは異なるドイツの堅苦しさに彼のギャグ混じりのトークは滑りまくり、キャラクターを考慮して聞き込み役はシルバへと変更される。
そんな中、ケルンでは今、公共事業の談合に関与した疑いを持たれている議員、シュミットの話題で持ちきりだという情報を掴んだシルバ。
学校の校長、教育委員会を経ての転身であった為、常に利権や組織票などの疑惑を向けられてきた人物ではあったが、今回は正当な入札を裏切られた明確な被害者が存在していた。
シュミットの身辺は脅迫や騒音等で日を追う毎に慌ただしくなり、今では彼の親族や知人にさえも被害が及ぶ可能性が高まった事で、警察に加えて地元の賞金稼ぎも駆り出される様になったと言う。
「シュミットはいつもこうだ。親父の命日じゃなかったら俺がとっ捕まえてやりたいぜ。勿論、脅迫犯じゃなくてシュミットの方をな」
ハインツは、苦虫を噛み潰した様な表情で吐き捨てる。その態度には理由があった。
シュミットは、「ドイツ人の、ドイツ人によるドイツ人の為の教育」を掲げて当選したナショナリストであり、チェコ移民として差別や貧困に苦しんだハインツにとって、十分な憎悪の対象になっていた。
実際、談合によって被害を被った建設会社は、チェコやポーランド等からの東欧移民を多く受け入れていた企業なのである。
チーム・バンドーは組合のオペレーターから、シュミットの母校である小学校の警備と不審者の捕獲を依頼された。
最近になって、校庭に矢が放たれたり、校舎の窓硝子が割られる等の嫌がらせが頻発しており、更にこの数日では木に吊るしたギロチン等の凶器が発見され、子ども達の安全を確保する為の早急な対策が求められていたのである。
正直、シュミットの立場で物事を考える仕事にハインツは良い顔をしなかったが、罪の無い子ども達を危険な目に遭わせる訳にはいかない。
それと個人的な感情は別物なのだ。
幸い、小学校の周辺には豊かな自然環境が残されており、現時点では子ども達のいない時間帯のみの犯行である為、リンの魔法の実戦における調節や、フクちゃんの潜在能力確認にも最適な舞台が整っている。
パーティーでの協議の結果、この依頼は実家へ向かうハインツを除く4名で、明日から引き受ける事となった。
組合を後にしたパーティー一行は、ケルン郊外の実家へ向かうハインツと別れ、チョコレートミュージアムの観光へと進路を取る。
5月6日・15:00
1年ぶりに訪れるハインツの故郷は、やはり変わっていなかった。
いや、「変われない」のだ。
東欧地域からの移民や貧困層向けに建築されたプレハブ小屋や、木造の長屋で構成されたこの集落は、大災害から立ち直った世界が無駄な開発を控えつつ、丁寧に復興した伝統とは無縁の「負の遺産博物館」なのである。
ハインツにとって、この環境は剣士としての自分を作った原動力ではあるのだが、この環境に慣れ、死なない程度の仕事があれば、かけがえの無い故郷になってしまう現実を、敢えて否定したくはなかった。
自分の力で生きてさえいれば、誰も他人の人生には口出し出来ない。
見慣れた我が家、玄関横の壁にハインツ自身が付けた大きな剣の傷もそのままだ。
何やら周囲から犬猫の鳴き声が聞こえるが、この辺りの住人にペットを飼う金銭的余裕などはないはず。
誰かが野良犬や野良猫に、ちょっかいでも出しているのだろうか?
ハインツは取りあえずノスタルジーから気持ちを切り替え、玄関前の足場の悪さを思い出して身を屈める。
母親は相変わらず、息子が「ただいま」を言うまでは、自分から「おかえり」を言う事はないのだろう……。
そんな郷愁に浸りながら玄関に手を掛けると、やはりおかしい。家の中からも何か声がする。
母親には友人も少ないし、ましてやこんなボロ家に家族以外の他人は殆ど入れた事がない。
しかもこの声、人間ではない。
「お袋、ただいま……」
不安な気持ちを押し殺し、平静を装って帰宅したハインツの目に飛び込んできたものは、信じ難い景色であった。
部屋の至る所に置かれた犬小屋、中には当然犬の姿。
奥の寝室には猫の姿。しかも放し飼い。
犬猫合わせて10匹はいるだろうか。
数の割に鳴き声が控え目に感じるのは、犬猫が母親に慣れている証であり、つまり以前から実家が保健所と化していた現実を容易に想像させてしまう。
「おかえり、ティム。明日になると思ってたよ。早かったね」
そう言ってトイレから出てきた母親メリアムの腕には、小綺麗になった子猫が抱かれていた。11匹目か?
ハインツは驚きと怒りで言葉が出ず、膝をガクガク震わせながら憤慨していた。
「……お、お袋! な、何だよこれは? いつからうちは保健所になったんだよ? いや、ペットショップに転職したのか?」
憤る息子を前に、メリアムは無理もないといった謝罪混じりの表情でこう呟く。
「……そうね……保健所に近いわね……。ごめんね」
それから数分間、ハインツはメリアムから実家が保健所になってしまった理由を聞かされていた。
かつてこの集落には、精神を病んだ男によって野良犬や野良猫が虐待される事件が相次いでいたと言う。
地元の警察や賞金稼ぎの働きにより、その男は逮捕され、精神科に入院していたのだが、最近になってその男は糖尿病の悪化で片足を切断。
心身ともに障がい者認定された事で精神科から解放され、この集落に戻ってきたのである。
もっとも、現在その男は車椅子に乗らなければ動けない状態で、障がい者年金の支給を条件に、その男の双子の弟が面倒を見る様になってからは、何の事件も起こってはいなかった。
ところが、何故か最近になって再び動物虐待事件が発生。
警察は人権面に配慮して慎重な捜査を行っており、例の男が犯行に絡んでいるという明確な証拠は、まだ掴んでいない。
その為、自治体は貧困層住宅の住民に補助金と引き換えに一時的な野良犬・野良猫の保護を依頼し、目下全力で事件解決を目指しているという状況であった。
事情を渋々理解したハインツが更に耳を澄ますと、我が家以外からも犬猫の鳴き声は聞こえてくる。
今やこの集落全体が「保健所」と化してしまったのであった。
「ティム、貴方が動物嫌いなのは知っているわ。自治体からの要請を断っても良かったと思う。でも、余りにも動物達が可哀想だし、前科があるだけで、今やむなく精神科に入院している人達の印象まで悪くなるのは耐えられないの、分かるでしょ」
ハインツの正義感は、間違いなくこの両親から受け継いだものであり。それは理解出来る。
だが、この家で明後日まで暮らす事は出来ない。
耐えられない。
「……分かったよ、お袋。早く解決したいし、俺も犯人探しに協力する。でも、少し時間をくれ。すぐ戻ってくるから」
ハインツはそう言い残し、全速力で集落を離れる。
その頃バンドー達は、チョコレートミュージアムの観光を堪能し、クレアとリンも両手に抱えきれない程のお土産に埋もれてご満悦の様子で、笑顔が途切れる事は無かった。
ピピピッ……
突然、クレアの携帯電話が鳴り響く。
この時間に電話をかけて来る人間がいるとすれば、組合のオペレーター位しかいない。
仕事の予定の変更だろうか……?
「もしもし、クレアです……何? ハインツなの? ……え? ふんふん、……どうしようって……どうすんのよ?」
珍しい事に、ハインツがクレアに何やら助けを求めている様子だ。
「……ああ! そう言う事! だったらバンドーが適役だわ。今代わるから! ……? 大丈夫よ、あの程度の仕事なら3人でもこなせるわ!」
何やらバンドーが必要らしい。
事情が全く飲み込めないまま、取りあえず電話を代わったバンドーが状況をひとつひとつ確認している。
「……うん、いいよ! 犬猫の世話は楽しそうだし、そんな奴は絶対捕まえないと!」
ハインツは、メリアムの為に動物虐待犯検挙に力を貸す決意を固めてはいたものの、元来動物嫌いな彼が野良犬・野良猫だらけの我が家に宿泊する事は生理的に不可能であった。
そこで、動物を一手に引き受ける能力があり、いざと言う時はメリアムの護衛も務まるバンドーに協力を要請すべきだと、クレアから提案されたのである。
「みんなごめん! 明日の仕事に俺は参加出来ない。ハインツの実家へ行って、虐待された動物を守らなくちゃいけなくなった」
バンドーは申し訳無さそうにパーティーの仲間に謝罪したが、クレアを始め、この仕事に最も適任であるのはバンドーだと皆が理解しており、彼は暖かくハインツの元へ送り出される事となった。
その頃ハインツは、バンドーが来るまでの待ち時間を利用して、実家の近所にある警察の派出所に顔を出す。
ここは集落での事件や事故に備える小さな交番の様なスペースで、ここの駐在員、マイヤーは剣術学校時代の友人なのである。
両者が剣士になりたての頃は何度かコンビを組んだ事もある仲だったが、ハインツとの実力差を認識し、特に剣に拘りも無かったマイヤーは父親のコネで警察の臨時職員となり、そもそもなり手の少ない貧困地域の派出所職員に正規採用される事となった。
ハインツとしては、数少ない友人が低いレベルでの安定を選んだ事を少々残念がったものの、彼の存在が実家と母親の安全に貢献している事は明らかであり、口には出さないが常に感謝の念を持ち続けている。
「……何だ? ハインツか? 久し振りだな! ……そうか……もう親父さんの命日か……」
ハインツがここを訪れるのはこの時期だけであり、マイヤーにとってハインツは5月の風物詩の様なものであった。
「マイヤー、お袋から聞いたんだが、最近の動物虐待事件、犯人の見当は付いてるのか?」
ハインツは再会の挨拶もそこそこに、単刀直入に本題へと斬り込んで行く。
そんな彼の相変わらずのせっかちぶりに半ば呆れながらも、マイヤーは確信に満ちた眼差しで自らの見解を述べ始めた。
「見当も何も、犯人はラルフ・ファイザー以外には考えられないよ。勿論、以前の事件の犯人でもあったあいつだ。今のあいつは確かに車椅子生活だが、電動車椅子で高速移動が可能だし、先日は犯行に使われたと思われるボウガンもあいつの指紋付きで見つかっている。確かお前のお袋さんが、ボウガンの被害に遭った子犬を預かっているはずだ。」
離れた場所からのボウガン、電動車椅子と、初対面でこちらを警戒していない動物から見れば、確かに脅威となる存在である。
だが、もし彼が実行犯だとするなら、大切な武器を駐在員にまで晒す場所に捨てるとは考えにくい。
「ボウガンを見つけたのは俺じゃない。双子の弟がさ、犯行を止める為にあいつの部屋から見つけてうちに届けてくれたんだよ。マルス・ファイザーだ。見た目は瓜二つなんだが、可哀想になる位真面目で良い男だよ。周囲から白い眼で見られても兄貴を見捨てないし、1週間に1回は必ず隣街のデュッセルドルフからわざわざ通って、ラルフの世話をしているんだ」
「そうなのか……だが、いくら実の兄とは言え、前科者にそこまで献身する理由があるのか? 何だか怪しいな」
ハインツにはどうにも合点のいかない兄弟愛だが、マイヤーは実情を知っていた。
「マルスの勤め先は、今話題のシュミット議員の談合疑惑で被害を被った建設会社さ。そしてラルフは小学生時代から少しおかしな行動があったのに、当時の校長だったシュミットは普通学級行きをごり押しした。特別学級に子どもを預ける富裕層の親が、ラルフの存在を不安視してシュミットを買収したんだ。ラルフは中学の普通学級でのいじめが原因で追いこ込まれて行き、高校には通っていない。そして大人になってから遂に動物に手を出しちまったのさ。つまり、マルスとラルフの兄弟愛はシュミットへの憎悪の結晶だ。マルスは兄の行動を謝罪してはいるが、兄を憎んではいないのさ」
ハインツはマイヤーの話を聞いて、改めてシュミットへの嫌悪を増大させる。
しかし同時に、今や警察組織すらシュミットを守る意思を持っていない様な疑問も感じていた。
「マイヤー、ボウガンという物的証拠があって、ラルフ以外に容疑をかけるに値する奴がいないのなら、もうラルフを検挙出来るんじゃないのか?」
ハインツには、警察組織が意図的に事件の解決を引き延ばしている様な懸念があり、マイヤーに回答を求める。
回答してくれるとは思っていなかったが……。
「ハインツ、動物を虐待する様な奴が、本来動物だけで満足すると思うか? 最終目標はシュミットだろう。最近はシュミットの母校や談合会社への嫌がらせも増えているが、時刻や所在のアリバイ的にラルフやマルスは関与していないらしい。つまり、ケルン全体が反シュミットで団結しつつあるんだ。誰かがデカい事を起こしてくれるのを待っているんだよ」
派出所からの帰り道、ハインツは人間の悪意や憎悪について思いを巡らせていた。
マイヤーの最後の言葉は、警察組織の人間として称賛されるものとは言い難いが、ラルフとマルス、またハインツ自身もシュミットを嫌悪している様に、マイヤーや警察組織もシュミットに恨みのひとつも持っているのであろう。
しかしながら、シュミットを狙わせる為に動物虐待をリハーサルとして許可する様な社会であってはいけない。絶対にいけない。
ハインツは、動物を愛するメリアムやバンドーとともに、一刻も早くラルフを捕らえて犯行を白状させる事を心に誓うのであった。
……そんなハインツは、帰宅した実家で異様な光景を目の当たりにする。
バンドーがめちゃ馴染んでいるのだ。
バンドーをよく知るハインツである。
彼が野良犬や野良猫とすぐに仲良くなれる事は普通に想定していたし、ハインツ自身も普通にそれを期待している。
だが、メリアムともめちゃ馴染んでいるのだ。
何か知らない内にハインツが幼い頃の黒歴史写真とか見せているし、子どもの頃に工作した紙粘土の剣とか振ってるし、これ普通に実の息子じゃね?
「あ、おかえりティム。バンドーさん、楽しい人ね。貴方にこんな友達がいたなんて」
青ざめて少しやつれた? ハインツにメリアムが声を掛ける。
もう何年も見た事の無い、混じり気無しの母親の笑顔、まさにバンドー譲りの太字スマイルだ。
「ハインツ、お母さんいい人だね。あんまりお前と似てないね」
問題発言を恐れないバンドーは、身体中に犬猫を纏いご機嫌である。
「……つーかお袋、初対面の奴に昔の写真とか見せんじゃねーよ!」
ハインツは力の限り絶叫し、動物と2人の人間を撤収させた。
夕食は1年ぶりのメリアムの手料理。
メリアムはハインツからの仕送りには手を付けず、自らのパート職、父親の保険金の貯金、そして現在の犬猫保護の補助金で生活しており、故に食事も質素なものであった。
しかし、ハインツが幼い頃は自らの病気の為に食事を作る事も出来なかった背景があり、彼が帰省する父親の命日前後だけは、出来る限りのご馳走を振る舞っていたのである。
「お母さん、美味しいっス」
バンドーが本当に美味しそうに食事する姿を見て、メリアムも嬉しそうだ。
ハインツも、母親に対してこういう態度を取れない訳ではない。
もっと素直に感謝の意を示したい、そう思う時もある。
両者の間に横たわる、時間の河とでも言うべき広く深い流れが、お互いを素直に出来ないだけなのだ。
「お母さん、あの傷だらけの子犬……チョロの足、もう治らないのかな?」
バンドーは、預かっている野良犬の中でも特に虐待の傷が多く、右の後ろ足を引きずっている子犬について、神妙な面持ちでメリアムに訊ねる。
「……難しいわね……。あの子はただでさえ虐待を受けているのに、犯人に親を殺されてしまったらしいの……。だから、犯人の気配や匂いを感じると、自分の身を顧みず何度でも外に飛び出してしまうのよ。落ち着かないからチョロって名前を付けたんだけど、もう外には出したくないわ。バンドーさんには、チョロを見張っていて欲しいの」
チョロの右の後ろ足は、自治体職員が保護するまでラルフのものと思われるボウガンの矢が刺さったままになっていた。
生まれたばかりの弱い足に細菌が入った為、完全に回復する見込みは無いと言う。
今はまだ子犬だから大丈夫だが、大人になれば体重を支えきれず、歩けなくなってしまうかも知れない。
「……だから私は……ティムは嫌がるかも知れないけれど、今回の事件が解決してもチョロだけは引き取りたいと思うの」
暫しの沈黙の後、ハインツが重苦しい空気を振り払うかの様に口を開いた。
「……俺だって、血も涙もあるつもりだ。チョロって言ったか? その犬を引き取るなら、それでいいと思う。でも、いくら危険だからと言って、親の仇を伐ちたい奴を無理矢理家に閉じ込めるのは違うと思うな。チョロはオスなんだろ? 男の意地みたいなものなんだよ、それ」
メリアムは、息子のその言葉をすぐに理解しようとはしなかった。
だが、やがて彼が剣士となった過程を思い出すにつれて反論する言葉を失ってしまう。
ハインツが剣士を目指した背景には、父親の無念を晴らす目的も当然あったが、チェコ移民としての差別を受け、最低限の教育しか受けていない自分が貧困から逃れる為の一番の近道が剣士であるという、現実的な判断もあった。
故にハインツは、メリアムの反対を押し切り、剣術学校の学費を稼ぐ為に浪人して働き、1学年下のクレアやマイヤーと同期入学してまでも、剣士への道に拘ったのである。
夜も深まり、犬猫と一緒には眠れないハインツはマイヤーを頼り派出所で雑魚寝する道を選択し、バンドーは普通に息子待遇でハインツの実家に泊まり、メリアムとともに犬猫の世話と夜間の不審者に備えた。
メリアムの話では、ここ数日は集落全体に犬猫の鳴き声が響いているにも関わらず、不審者は現れていないらしい。
凶器のボウガンを回収して動物虐待が治まったのであれば、やはりラルフが犯人だったのだろうか……?
しかしながら、警察組織にも不信感が拭えないハインツは、明日の朝に賞金稼ぎを装いラルフに直接会ってみる事を決断した。
5月7日・8:00
派出所で一夜を明かしたハインツは、マイヤーに自らの計画を明かし、ラルフの自宅の住所を教わる。
本来、警察関係者が容疑者の住所を一般人に教える事は出来ない。
だが、他者の存在を忌み嫌うラルフは、弟マルスの制止も聞かずに自宅をゴミで覆い隠してしまい、逆に住所を明かしてしまっていた。
「自治体が認定した障がい者なんだ、絶対に手を出すなよ。危険を感じたらまず逃げてこい。俺達が現行犯で逮捕する」
マイヤーにそう釘を刺され、ハインツはラルフの家へと向かう。
ハインツの実家のある集落の外れ、歩いて僅か5分の所にラルフの家はあった。
薄汚れたプレハブ小屋で、車椅子生活で障がい者認定を受けたラルフの為に最低限の手すりやスロープは付いていたものの、人が快適に暮らせる環境とは言い難い。
弟のマルス以外の人間が急に押し掛けて来たら、当然ラルフは激怒するだろう。
もしかしたらいきなりバットか何かで殴られるかも知れない。
ハインツは防御を固めてベルを押し、反応が無いのを確認すると玄関のドアノブに手を掛けた。
……鍵が開いている!
ハインツは周囲を確認し、取りあえずひと声だけは掛けてゆっくりとドアを開け、中に侵入する。
そこには、意外な光景が広がっていた。
頭に包帯を巻き、車椅子に乗ったラルフらしき人物が、遠くを見つめる様な表情で穏やかにコーヒーを飲んでいたのである。
「……誰だ、ひと声掛けたら名を名乗ってから入ってくれ」
殺意や憎悪を一切感じさせない雰囲気に、ハインツはやや拍子抜けした様子で謝罪した。
「ああ、すまなかったな。突然忍び込んで。俺は賞金稼ぎのハインツだ。あんたが動物虐待をしているという報告を受けて、警察に突き出して欲しいという依頼を受けたんだが……」
ハインツの言葉にも感情を露にする事なく、ラルフは淡々と話し始める。
「ああ、またか……。皆がそう言うなら、俺はまたやっちまったんだな……。少し前に転倒して頭を打っちまってよ。派手に出血もしたらしくて、悪いが何も覚えてないんだよ」
一見、その場凌ぎの都合の良い言い訳に聞こえるかも知れないが、ハインツにはそれが嘘ではない様に感じられていた。
無精髭を伸ばし身なりは薄汚いが、その表情から邪念の様なものは感じられず、何やら観念したかの様な印象が窺える。
「弟のマルスが、お前が凶器として使ったらしいボウガンを警察に提出した。それは動物虐待の為に用意したのか? それとも他の……例えばシュミットみたいな、人間の屑を始末する為に用意したのか?」
ハインツは、思い切って話を深く追及する決断をした。
今の状態のラルフがシュミットという名に反応すれば、この事件の対策は別角度からの検証が必要になるが、裏を返せば動物虐待事件としての解決は早まるかも知れない。
「シュミット……? ああ、憎いね。許せないよ。でも、今の俺には何も出来ないよ、歩く事も出来ないんだから」
ハインツはラルフの独白を聞きながら、視線を下に降ろす。
下半身には大きな膝掛けが乗せられており、片足切断の事実は確認出来なかったが、この膝掛けを剥がして事実を確認する権利は誰にも無い、ハインツはそう認識していた。
ハインツはふと、ラルフの背後の壁に刺し止められたカレンダーに視線を泳がせる。
偶然目に入ったカレンダーだったものの、よく見ると今日、5月7日に赤丸が付いている。
ハインツはゆっくりと立ち上がってカレンダーを詳しく観察し始め、その様子を横目に見ていたラルフは、少々バツの悪そうな表情で苦笑いを浮かべた。
「今日の夕方に、シュミットがチョコレートミュージアム前で演説するのさ。前々から決まっていた選挙前の宣伝だったんだが、最近のスキャンダルへの謝罪もしなきゃいけなくなったな、ざまあ見ろ。俺は楽しみにしていたよ……目に物を見せてやるってな。でも、今の俺は歩けない、頭を打って記憶もない……悔しいよ。こんな人生ってありかよ……」
ラルフの心中を察して、危うく悪党に同情してしまいそうになるハインツであったが、ふと目にしたラルフの表情が変化している事は見逃さない。
「俺の人生はもう終わりだ……だが、マルスがやってくれる。あいつがシュミットにひと泡吹かせてくれる。俺がしてきた事も、今あちこちで起きている事も、無駄にはならねえ。全部この日に繋がってるんだよ……!」
ハインツはここで、この事件の全貌が初めて理解出来た。
ラルフは言わば、本人も納得した「捨て駒」に過ぎない。
本体は今、学校や企業で同時多発的な嫌がらせをしながらシュミット襲撃に備えた準備をしているマルスと、彼の仲間達の動向だったのだ!
「ありがとよ、ラルフ! お前はまだ捕まえねえよ。兄弟仲良く捕まえてやる。それまでに少しでも、シュミットに復讐出来るといいな!」
ハインツはそう言い残し、ラルフの家を全速力で飛び出して行く。
事件の全貌が分かった。
まずは小学校の警備を引き受けたクレア達への連絡。
バンドーとメリアムにも連絡は必要だ。
ラルフがもし車椅子でチョコレートミュージアムへ向かうなら、チョロの安全とラルフの捕獲をバンドーに依頼しなければいけない。
……だが、警察には何を話す?
ラルフやマルスの捕獲を急げば、その結果としてシュミットは何の苦しみも無く、何の反省も無く救われてしまう。
ハインツは足を一旦止め、自問自答した。
俺は、シュミットを救う人間にはなりたくない。
だが、事件が起こるのはチョコレートミュージアムだ。
幼い子どもを含めた、多くの一般人に危険が迫るのだ。
ハインツは、派出所のマイヤーへ連絡する決意を固める。
「マイヤー、大変だ! 夕方、チョコレートミュージアムの警戒を強化してくれ!」
5月7日・10:00
その頃、ハインツからの連絡を受けたクレア達は、小学校の警備を行いながら不審者の捕獲、更にはあらゆる武器の没収に備えていた。
幸い、この数日は学校が危険を避けて臨時休校となった為、子ども達への被害を心配する必要はない。
つまり、この状況下でも準備を進めるマルス達の憎しみの対象は、はっきりとシュミットに絞られているのである。
「ありました! これはトラップです!」
シルバは早速、校庭の木の枝高くにくくりつけられたギロチンと、トラップ用の太い釣糸の仕掛けを見つけ、ものの数分で解体して見せた。
「流石シルバ君、軍を背負う逸材と言われただけの事はあるわね」
クレアは素直に感心する。
剣士の能力と軍人の能力は、評価の基準がまた異なるものである。
「やめて下さい、クレアさん。自分はもう、軍人ではありませんから」
シルバは賞金稼ぎに転向し、軍の呪縛から早く逃れたいと思ってはいたが、そんな自分が軍の経験以外で認められる為に何が必要なのか、必死に模索している最中でもあったのだ。
リンは魔法を使って林や花壇を洗い出し、隠されていた小型の刃物や爆竹をかき集める。
フクちゃんは魔法で自然と対話するリンの指示に従って空中を警戒し、人影を見つけると鳴き声でクレアに報告した。
クレアは人影をチェックし、怪しい者には剣の準備をしつつ、学校を完全に通過するまで見守る。
「ひゃあー」
何とも気の抜けた鳴き声だが、これがフクちゃんの鳴き声である。
ここでひときわ大きい鳴き声が聞こえてきた。
クレアは人影を確認して警戒感を強める。
同じ衣装の3人組である。
衣装そのものはありふれた作業着で、一見すると校庭の整備に訪れた学校関係者に見えるが、3人ともにマスクとサングラス姿だ。
分かりやすく怪しい。
シルバとリンも作業の手を休め、クレアの下に終結して3人組の行動を監視する。
「おい! 無いぞ! 爆竹が無くなってる!」
男達は、リンの魔法で引き抜かれた武器を探している様だ。この男達で間違いない。
「動かないで! 学校に罠と武器を仕掛けたのはあんた達ね!」
武器を失い狼狽する男達の前に、クレアが駆け足で立ちはだかる。
「ちっ……賞金稼ぎか! 武器を盗んだのはお前達か?」
「盗んだなんて人聞きの悪い。ちゃんと武器はお返ししますよ! 自分達が無効にしてからですけどね」
男達の問いにシルバは確信の笑みを浮かべながら返答し、その場でギロチントラップを解除し、爆竹の導火線を抜いて見せた。
「……くっ! 3人の内2人は女だ! 恐がることはねえ! やっちまえ!」
男達はまず、一見して武器を持っていないリンに襲いかかって来る。
名誉の為に言っておくと、リンは堅気の人間であり、決して襲われるのに慣れてはいない。
だが、既に校庭の清掃で魔法のウォームアップを済ませており、相手は特に恐そうにも見えない普通のおじさん3人組だけに、戦いの緊張感は薄い。
「大人しくして下さいっ!」
リンは眼鏡を外し、風の力を自分の眼に受け、蒼白い光とともに強風を発する。
その強風は男達の足下を掬い、綺麗に3人を背中から転倒させた。
「ジェシーさん、ナイスプレー!」
シルバはリンに向けて親指を立て、片手に小柄な男を一人ずつ羽交い締めにしてダウンさせる。
念のためポケットも探ったが、これ以上の武器は持っていない。
ハインツからの情報が正しければ、この男達はマルスの仲間、所謂建設会社職員であるはず。
軍隊育ちのシルバに互角の勝負が挑める訳がなかった。
「さあ、大人しく観念したら?」
クレアは最後の男と対峙したが、相手は丸腰である。
トラップや武器を仕掛けた事実はれっきとした犯罪とは言え、出来れば怪我はさせたくない。
クレアの表情にも、やや迷いが窺えた。
「おりゃっ!」
突然、男はクレアの隙を突いてタックルを仕掛けてきた。
結果的に、中年男がクレアの下半身に抱きついている。
「……! 何なのよ、このスケベ親爺があぁぁ!!」
ビシビシビシッ!
「きゅうー」
怒りで全身が紅潮したクレアから渾身の峰打ちを何発も喰らい、運の悪い最後の男は巨大なたんこぶと少々の鼻血を出してぐったりした。
これで、小学校の警備任務は完了。
結局、フクちゃんの謎の光線の出番は無かったが、バンドーがいなくてもリンが遜色無くフクちゃんを操れる事が判明し、この謎のフクロウが偵察要員としてパーティーにプラスアルファをもたらす事は証明出来た。
ハインツに任務完了を知らせたクレア達だったが、彼からの情報を照らし合わせて見た所、この3人組の中にマルスの姿は無い。
残る容疑者の中で、シュミットに危害を加えられる力を持っているのは、実質的にはマルスだけである。
恐らくはもう、チョコレートミュージアム周辺で仲間と武器の到着を待っている可能性が高いが、風貌が動物虐待犯の兄ラルフに瓜二つであるという情報から、探し出すのはさほど難しくはないはずだ。
クレア達は一旦組合に行って賞金を受け取り、その後にチョコレートミュージアムでハインツと合流する事となる。
5月7日・12:00
その頃ハインツとバンドーは、互いの役割分担を明確にし、ハインツにとって本意ではないものの、シュミットを護衛する為のプランを再確認していた。
まず、ハインツがチョコレートミュージアムで周囲の警戒を行う事は決まっている。
今回の事件の詳細を知る者は彼と、彼から詳細を聞いたマイヤーだけであり、彼等2名は現地で指揮を執らねばならない。
マイヤーにとっては、思わぬ出世のチャンスとなるかも知れない。
バンドーは、基本的にはハインツの実家に残る事が任務だ。
気力を失っている様に見えたラルフが、電動車椅子でチョコレートミュージアムに向かう様な事があれば、彼を追い掛けるチョロを護衛しつつ、ラルフを捕まえる事が任務となる。
ラルフは武器のボウガンを失い、片足切断のハンディから、車椅子から落ちた場合、もう自力では立てない。
進路さえ塞げば、何ら問題は無いはずであった。
最悪のパターンは、マルスがラルフを迎えに来た場合である。
車椅子ごと積める様な大型車でマルスが迎えに来た場合、バンドーだけで止める事は出来ない。
その場合、事情をハインツだけでなく警察にも連絡し、バンドーも出来るだけ早く現地へ向かう事が確認された。
「ティム……戦いに行かなければいけないの? 事情を伝えて、警察に任せればいいじゃない。賞金稼ぎの仕事でもないのに……」
メリアムのこの言葉は、子どもの身を案ずる母親であれば当然の言葉である。
自らが傷だらけなのに、動物虐待犯に挑み続けるチョロを引き留めたいと願う様に、我が子を危険な目に合わせたくないと願うのは、母親として当然の信念なのである。
背中越しに母親の言葉を聞いていたハインツにも、その想いは十分に伝わっていた。
だが、彼は行かなければならない。
彼の事件解決への情熱が、結果としてラルフやマルスの情熱にも火を付けてしまったのだから。
「……分かったわ。貴方は一度決めたら退かない子なのよね……。お昼だけ軽く食べて行きなさい」
「ボクはがっつりいただきます!」
母子の感動的なシーンに、バンドーが余計なボケを入れて台無しにした。
ハインツがチョコレートミュージアムへと向かった後、暫くは集落を静寂が包んでいる。
メリアムとバンドーに懐いているとは言え、犬猫が11匹もいるとは信じ難い静けさの中、チョロとじゃれ合うバンドーを穏やかに眺めながら、メリアムは独り言の様に呟いていた。
「……私はティムが幼い頃、病気で寝てばかりいたの。母親として、何か大切なものを教えられなかった様な気がして、ずっと後悔して来たわ……。自分にも他人にも優しく出来なかったティムに、バンドーさんみたいな友達が出来た事が凄く嬉しい。でも、貴方を見ていると、動物虐待犯を止める為に戦う準備をするだとか、そんな姿は全く想像出来ないわ。やっぱり、男の子って、そう言うものなのかしらね……」
バンドーにはメリアムが、病気で失った期間の母親らしさに拘る余り、自分を責め過ぎている様に感じられている。
「チョロ、お前は傷だらけなのに無理をするから、母さんを心配させているんだぞー。分かるか? チョロ、お前はな、このお母さんの息子なんだ。お前がどんな生き方をしても、お母さんはお前の味方だよー。親子なんだから、そこは気にするな。だから、無茶だけはしないでくれよー」
バンドーはそう言ってチョロをメリアムの顔に向け、満面の笑みを浮かべていた。
5月7日・14:00
何やら不穏な空気が流れたのか、チョロは徐々に落ち着きを失ってきている。
低音で唸ったり、高音で鳴いたりと忙しない。
「チョロがこの状態になった時は、動物虐待犯が近くに来ている事が多いわ! チョロ、危ないから下がりなさい!」
チョロを抱き締めようとメリアムが前屈みになった瞬間、チョロは玄関へと飛び出して行った。
「チョロは俺が守ります! メリアムさんは俺が戻るまで鍵を閉めていて下さい!」
先程までとは別人の様な、「剣士」の顔となったバンドーは右手を剣にかけ、自身も玄関を飛び出して行く。
「……いた!」
辺りを見渡していたバンドーの眼に映ったのは、電動車椅子だった。
ラルフとは初対面だったが、20メートル程離れていても彼だと分かる、ハインツから聞いた情報の通りの風貌だ。
チョロの緊張感もピークに達している。
あいつが親の仇だ。
バンドーは、チョロをラルフの正面に近付けない様に、彼の走る方向でひと足先に出る様に移動して行く。
見た所、ラルフはボウガンの様な飛び道具は持っていない。
「誰だ? 邪魔すると轢き殺すぞ!」
ラルフは景気付けに高らかと叫ぶものの、たかたが電動車椅子、最高時速もせいぜい20キロと言った所だ。
真っ正面からボディに突っ込まない限り、死ぬ事はあり得ないだろう。
「ラルフさんだね? チョコレートミュージアムには行かせない! 貴方の容疑をこれ以上増やしたくないんだ! シュミットか? あんな奴、他の誰かにやらせとけ!」
バンドーは、集落の他の人達にも聞こえるような大声でラルフを嗜めた。
バンドーの声を聞いて、集落から力自慢の男達がちょこちょこと顔を出し始める。
バンドーはジャンプしたチョロを抱き上げ、敢えてラルフの背後遠くへ送り出し、その瞬間、右肩でラルフの右半身に思いっきりタックルを喰らわせた。
ドゴオォッ……
ラルフは電動車椅子ごと左側に倒れ、そのショック故か身体の動きも止まる。
歓声を上げるギャラリー達。
ラルフは糖尿病を悪化させて片足を切断していた。
手を貸さなければ、もう立ち上がる事は出来ないはずだ。
念の為、剣に手をかけつつラルフの様子を伺うバンドー。
緊張感の波が激しい為か、ラルフはだいぶ疲れている様子ではあるが、呼吸の乱れや顔色の悪化は見られない。
これでラルフは終わりだ。
後は介抱してパトカーを呼ぶだけだ……と、安堵の表情を浮かべたバンドーの身体から力が抜けた頃、大きな膝掛けに隠されていたラルフの下半身にバンドーの視線は吸い込まれる。
足が2本ある!!
バンドーが驚愕したその瞬間、ラルフはここぞとばかりに飛び起き、彼の頬に強烈な右フックを喰らわせた。
「ぐふっ……!」
バンドーはたまらずふらつき、周囲のギャラリーからは驚きの声が上がる。
上半身には防具を装着し、剣にも手をかけていたバンドーに、ラルフが拳を打ち込める隙は顔面にしか存在しない。
格闘技慣れしたバンドーには、それが幸いした。
それにしても、だ。
何故ラルフが二本足で立っているのか?
義足か?
いや、義足ならアクロバティックな飛び起きや、腰の入ったパンチは厳しいはずである。
チョロの様子にも変化が訪れた。
距離を開けながら後退りし、吠えながらメリアムの元へと帰っていく。
この男は「違う」のだ。
メリアムは慌てて玄関を開け、チョロを招き入れてバンドーを心配そうに見つめていたが、バンドーに手で合図され、やがて鍵を閉める。
「……ああ、そうだな、おかしいよな。俺はラルフじゃない、マルスだよ! どうせ入れ替わった所で誰にも分からねえだろ、クックックッ……」
ラルフの双子の弟マルスが、兄に成り済ましていた。
だが、正体を暴かれたにも関わらず、彼は動じる様子を微塵も見せず、寧ろ清々しい表情を浮かべていた。
「……どうして……? ラルフはどうしたんだ?」
バンドーは現在の状況に呆然としながらも言葉を絞り出し、これから訪れる決戦に備えて何とか気合いを入れようと、自らの頬を両手で叩く。
「兄貴は3日前、家の中で転倒して死んでたよ。だが、墓を買う金は無い。寧ろ兄貴の障がい者年金が欲しい。何よりシュミットへの復讐を延期する暇が無い。兄貴を焼き、俺が兄貴になりすませば、動物虐待犯の兄と真面目な弟のまま、暫く警察の注意も引けるしな」
戦慄に硬直するバンドーを横目に、マルスはなおも続けた。
「兄貴の一生は惨めだったよ。シュミットだけのせいじゃないだろうな。分かってんだよそんな事。バカだと思うだろ? 復讐を急ぐなら電動車椅子なんて乗らねえよな。どうせ罪を犯したら全部バレる。俺がいちいち兄貴に成り済ます必要もないかもな。でも、俺と兄貴は双子だ。俺と兄貴はシュミットが憎い。だから、俺と兄貴は一緒に戦う!」
マルスはそう吐き捨て、車椅子の座席の下から取り出したラルフの遺骨を右手に握り締めると、全力でバンドーの顔面に殴りかかる。
「あぐっ……!」
骨の髄まで痛いとは、まさにこの事だ。
ダメージという言葉では、表現出来ないこの痛み。
拳を振りかざすマルスは、動物虐待には何の関係も無い、つい最近まで真面目に歯を喰いしばって働いてきた建設会社職員だ。
そして、拳とともに打ち込まれるこの骨は、3日前まで無念に震えて死んだ男の変わり果てた姿なのだ。
半ば戦意を喪失し、サンドバッグの様にマルスの拳を受け続けるバンドーの姿に、集落から見守っていた男達も堪らず駆け出して来る。
アフリカ系らしき屈強な男2人が、ラリアットの様な形でマルスを首から地面へと打ち倒した。
「馬鹿野郎! こんな奴に遠慮するな!」
集落の男達からの叱責を受けて、バンドーが眼を覚ます。
貧困や理不尽と戦っているのは、彼等とて同じなのである。
「悪いねマルス、痛い目に遭ってもらうかも知れないよ。あんたも俺も、早くシュミットに会ってみたいんだし」
バンドーは、心の迷いを強引に捩じ伏せて剣を抜く。
流石に拳と遺骨しか武器の無いマルスは、苦虫を噛み潰しながら後退りした。
言葉も発さず剣を振るバンドー。
その刃の先は、容赦なくマルスの左大腿部を斬りつける。
「むぐぐっ……!」
痛みに転げ回るマルス。
衣服の上からの浅い一撃ではあるものの、流れる鮮血を両手で押さえて顔を歪める彼を、バンドーは感情を押し殺して見下ろしていた。
警察には、逮捕された3人との繋がりからマルスの容疑も間もなく割れる。
集落の人が証人となれば、現在のバンドーの行為も正当防衛である。
正当防衛……
バチイィッ……
地面に転がるマルスに向けて思い切り振り下ろされた剣は、マルスの首筋を直撃した。
だが、直撃したのは刃ではなく峰である。
自らの耳に飛び込んで来たのはただの打撲音であったが、マルスはその音と打撲、目の前の光景のショックにより、ゆっくりと気を失った。
周囲はまだ、安堵よりも沈黙の空気を伝えていた時、バンドーはいち早くハインツに連絡を入れる。
「ハインツ? バンドーだ。こっちは終わったよ。警察にも伝えてくれ! ラルフは死んでいた。マルスが兄に成り済ましていたんだ。俺が……いや、俺達の集落が倒したのはマルスだ。大腿部から少し出血があるが、応急処置はしておくよ。多分、もう容疑者は残っていないはずだ」
連絡を受けたハインツは、驚きの感情を電話越しに見せてはいたものの、チョコレートミュージアム周辺の意外な静寂ぶりの理由を理解した様子であった。
「バンドー、そっちにタクシーを寄越す。応急処置が終わったら、マルスをチョコレートミュージアムに連れてきてくれ。容疑者を勢揃いさせて、シュミットにひとこと言わせてやるのさ。マスコミが協力してくれたんだ」
バンドーは電話を切ると、マルスの応急処置を始めながら彼に話し掛ける。
「マルス、チョコレートミュージアムに行けるってさ。残念ながら、あんたの仲間3人と武器の類いは捕獲済みだけど、シュミットにひとこと言えるらしいよ」
仲間も捕獲された事に落胆したか、マルスは黙ってうつむくだけ。
それでも、いつかはこうなる自らの運命を素直に受け入れている様な悟り切った表情も、時折見せていた。
「ありがとう。少しは平和になるな」
バンドーに協力してくれた、アフリカ系の男性が話し掛けて来る。
「こちらこそありがとう! 貴方達に怒られなかったら、俺は負けていたと思う」
バンドーは両手を差し伸べ、2人と固い握手を交わした。
「いや〜、お前のした事は罪だよ! 悪党を倒しちまったから、犬猫を預かって補助金をもらう、俺達のバイトを無くしたんだからな!」
もうひとりの男から、何やら冗談とも本気とも取れる叱責を受けてしまったバンドーだが、周囲の笑顔が彼の心の平穏を取り戻させていく。
「……だが、俺の家にはテレビもラジオも無い。こいつらが恨んでる議員の事も詳しくは知らねえし、勿論、議員はこんな貧困集落になんて来やしねえ。こいつらだけじゃなく、俺達はいつでも、いつでも……色々と悔しいんだよ……」
そう言い残して去っていく男の後ろ姿に、バンドーは声のひとつも掛ける事は出来なかった。
5月7日・16:30
チョコレートミュージアムの観衆の大半は、純粋にチョコレートミュージアムに来ただけであり、こと観光客にとっては、地元議員のスキャンダルなどほぼ無関心であるはずである。
そんな中、これ程までの大観衆が集まった背景には、報道スタッフが入った現実があるからなのか、それとも一連のスキャンダルに対する、シュミット議員の公式な謝罪を聞きたいからなのか……?
とにもかくにも、シュミット議員の演説はケルン全域の注目イベントとなってしまっていた。
バンドーの合流で勢揃いしたパーティーは、表向き今回の事件解決の立役者ではあったが、今後も暫くドイツに滞在して旅を続けるという理由で、マスコミへの取材を断る事となる。
その代わりに、言わばパーティーに捕まえられた犯人グループが、ケルンの民を代弁してシュミット議員へ怒りをぶつけるという、前代未聞のサプライズが用意されていた。
まずは颯爽とシュミット議員の登場である。
シュミット議員を全く知らないオセアニア人のバンドーは、正直権力の豚の様なアブラギッシュな初老の男を想像していたのだが、小綺麗な見た目のナイスミドルといった印象に驚く事となった。
なるほど、ちょっとやそっとのスキャンダルならものともしない支持基盤はありそうである。
ひとしきり選挙向きの演説を終えたシュミット議員に、報道キャスターが談合疑惑に関する厳しいツッコミを入れた。
厳しいのは当たり前、既に談合は否定できないレベルの証拠が出揃っているのである。
観衆はいつ、シュミット議員が形だけでも謝罪するのかを楽しみに待っていたのだが、結局シュミット議員からの謝罪の言葉はなく、マスコミがサプライズゲストを招く事となった。
「それでは、ここでサプライズゲストの登場です! 最近、談合企業や議員の母校を騒がせていた迷惑犯が、つい先程逮捕されました! その容疑者の中から、顔を出しても構わないという方がいらっしゃいましたので、今ここで議員に怒りと不満をぶつけてもらいましょう!」
沸き上がる観衆と、聞いてないといった反応のシュミット議員。
容疑者の代表は当然、マルスだ。
「……シュミット議員、俺は……俺は特に言う事はありません。ですから……貴方はこれからも自分の信念で動き、俺なんかよりもっと凶悪な男達から命を……命を狙われる事を願っています……ありがとうございました……」
マルスは短い言葉ながら、一言一言を噛み締める様に、誰よりも深い憎悪を語り尽くす。
その内容に、マルスと直に拳を交えたバンドーは絶句するしかなかったが、チョコレートミュージアムを埋め尽くした大観衆からは一瞬の沈黙の後、拍手と歓声が沸き上がった。
これが、ケルンの民意なのだ。
シュミット議員はこの1週間後、遂に議員辞職の意思を固める事となる。
5月9日・9:00 ケルン駅
ケルンを発ちベルリンへと向かうチーム・バンドー一行を、ハインツの母親、メリアムと派出所職員、マイヤーの2人がホームに見送りに来ていた。
メリアムの両腕には、野良犬・野良猫の保護期間の終了後、晴れてハインツ家の一員となった子犬のチョロが抱かれている。
ちなみに、野良犬、野良猫の回収と新たな里親探しには、アニマルポリスのメグミとシンディが駆り出されていたらしい。
動物虐待犯がいなくなっても、殺処分を免れない動物は沢山いる。
実際、メリアムが救えた命はチョロ1匹だけだ。
だが、これを偽善や綺麗事と笑うならば、そこまでして人間が本音で生きなければいけない理由を探せるだろうか?
「臨時の褒賞金と、隣街のデュッセルドルフ署からのオファーが来たんだ。でも、大して給料も上がってねえし、もう少しお前のお袋さんとチョロを見守る事にしたよ」
マイヤーは少々照れくさそうに、ハインツに近況を報告した。
彼にとって、今回はまさにハインツ様々のお手柄と言える。
「ありがとよ、マイヤー。また来年も会いに来るぜ!」
ハインツにとっても、友人の大切さが身に染みた3日間だったと言えるだろう。
「ティム、そしてバンドーさん、今回は色々ありがとう。天国のお父さんも安心してくれると思うわ。これからは、苦しい時は仕送りも使わせてもらうから……また来年も来てね。ティム、そしてチョロも、私の大切な息子よ……だから……うしろは気にせず、貴方は前を向きなさい。私はいつでも貴方の味方だから」
ハインツは、メリアムの言葉に胸を詰まらせながらも、ホームを発った列車から流れる景色の風向きに乗せて、彼女に精一杯のエールを贈るのであった。
「……お袋……ありがとう……。これからは思い切り、自分の人生を生きてくれ……」
(続く)