第40話 格闘技賭博を摘発せよ! (中編) 〜信じる道の為に〜
マドリード警察の潜入捜査官が重傷を負った格闘技賭博について、シルバとリン、そしてバンドーからの情報提供を受けた、特殊部隊のガンボア。
その過程で、チーム・エスピノーザと内通していたジャービスという男が、潜入捜査官時代の汚職疑惑によりマドリード警察の受け付け係に左遷されていた事実を確認する。
ジャービスの詳細は特殊部隊にも伏せられており、ガンボアとロドリゲス隊長はマドリード警察上層部を追及する為に動き出していた。
一方、潜入捜査官のバルベルデの意識が戻った事を知らされた、特殊部隊のキムとゲレーロは病院へ。
マドリード市内でチーム・エスピノーザの動きを捜索していた、チーム・バンドーのクレアとハインツの元には、特殊部隊の元レンジャー隊員・グルエソが合流し、バルベルデを負傷させて謹慎しているタワンへの事情聴取を決行する事となる。
バンドーとフクちゃんは、格闘技賭博の証拠を掴む為に、敢えて廃墟ビルに乗り込んだシルバとリンに助太刀せんと、一路ロック・バー「バロン・ロッホ」を目指していた。
5月25日・16:55
「……ここだ!間違いない!」
一足先に廃墟ビルの地下に降りたシルバが確信の声を上げる。
警察の手入れを警戒してか、簡易リングや客席用のパイプ椅子等は取り除かれていたものの、柱の造りやくすんだ内壁等、ビデオの映像で見た通りの景色が、そこに広がっていた。
「……普段はここを、用心棒がトレーニングに使っているという話ですけど……」
シルバからやや遅れて地下に到着したリンは、床から天井までを隈無く見渡し、天井の音響設備や、室内の片隅にまとめられたトレーニング器具を発見する。
「……これって……?」
内壁に立て掛けられた縄跳び用のロープや、打撃用のサンドバッグ。
最小限かつ効率的に並べられたマットや筋トレ用マシーン等々……。
これは間違いなく、ボクサー仕様のトレーニング設備だ。
「シルバ君、あの段ボール……何かあると思いませんか?」
自分の身長では届かない、着替え用のロッカーの上に置かれた1箱の段ボールを指差すリン。
タオルや薬箱の隣に置かれたそれは、ごく普通にスポーツのトレーニングルームに馴染んでいる様に見えるが、だからこそ隠蔽の匂いも感じさせている。
「あの中に、格闘技賭博とバルベルデ、そしてジャービスの真相を暴く鍵が……?」
「……不法侵入か?捜査令状くらいは取ってあるんだろうな」
段ボールに手を伸ばそうとした瞬間、突然の背後からの声にファイティングポーズで振り返るシルバ。
そこにはシャワーを浴びたばかりなのか、ラフなスウェットスーツ姿に湯気をまとわせた、1人の男が立っていた。
チーム・エスピノーザの格闘家、エキセル・トーレスである。
「……やはり、貴方でしたか」
冷静な洞察力を持つシルバとリンは、既にトーレスの存在は察知していた。
危険を顧みず、敢えて2人でビル地下に侵入した理由も、相手がトーレスであれば人格的に説得の余地があり、無駄な戦いを避けられる期待を寄せていたからだ。
「……チーム・バンドーのシルバだな。ダビドからお前の事は聞いている。もう軍を辞めたのに、テロリストの弟という理由でわざわざダビドを追って来るとは、イカれた野郎だよ」
不審者に本気で対応するつもりは更々無いといった雰囲気のトーレスは、シルバにあっさりと背を向け、冷蔵庫からドリンクを取り出す。
如何にもボクシングにストイックな彼らしく、無糖の炭酸水のボトルが見える。
「……今の自分は、軍隊時代の仲間が結成した警察の特殊部隊から依頼を受けています。ダビドが仕切っている格闘技賭博で捜査官が負傷した為、チーム・エスピノーザの動きを見張れと」
真っ直ぐな瞳でトーレスの背中を捉えるシルバの言葉は、半分は事実だが、残り半分は脚色だ。
闘技場を突き止めて乗り込め、という指令までは受けていない。
「……負傷か。あれはどう見てもバルベルデの後方不注意だろ?あれを傷害事件と取られちまったら、世の格闘技は全て廃止じゃないか」
エスピノーザ兄弟の幼馴染みであり、ボクシング協会の汚職の犠牲になってプロボクサーのキャリアを奪われたトーレスは、チーム・エスピノーザの中では特殊な立場を許されている。
チームのアピールや、存在意義のかかった戦いには身を挺して参加するが、彼のプライドが賛同しないチームの怪しげなビジネスには関与していないのだ。
「バルベルデさんは、会場の誰かに脅迫を受ける様な形で、精神的なショックを受けている間に一撃を受けたと聞いています。ここに何かの手がかりがあれば、チーム・エスピノーザの一員という理由で貴方が疑われる事は無いはずですよ、トーレスさん。少しだけ私達に時間を下さい」
シルバの後ろに隠れる形となっていたリンは、自分の周囲が自然の風や光から遮られた地下室である事を再確認し、強力な魔法による実力行為は難しいと判断、シルバとともにトーレスの説得に加わる。
「……お前らや警察がここにたむろすれば、俺のトレーニング場が無くなる。俺はボクシング協会からマークされているから、協会の息のかかったジムには行けねえんだ。悪いが帰ってくれ」
リンの説得に敬意を払う意味合いなのか、両手を大きく広げて見せたトーレス。
だが、彼の答えは「ノー」であった。
「貴方ほどの実力と人間性があれば、ダビドの元を去っても格闘家として世界中で通用するはず……。何故チーム・エスピノーザに拘るんです?」
格闘技は、何もボクシングだけでは無い。
武闘大会でキックボクシングや総合格闘技の戦術にも難なく対応して見せた、トーレスの格闘センスを以てすれば、ボクシングへの執着はもとより、彼がマークされているスペインでの活動に敢えて拘る理由も無いというのが、シルバの見解である。
「フン……」
シルバからの助言を背に、勢い良く炭酸水のボトルを飲み干したトーレスは不敵な笑みを浮かべ、相手と向き合った。
「……その言葉、お前に返すぜ。お前こそ、何処の世界でも通用する男だろ。何故、チーム・バンドーの一員に収まっているんだ?そこの女が理由なら、連れて行けばいいだけだろ?」
トーレスの言葉に少々複雑な表情を見せるリンの隣で、シルバも返答に躊躇している。
シルバがチーム・バンドーに加わった理由は、軍の除隊を許可されていない当時の彼が自身の両親の仇討ちの為に賞金稼ぎになるには、代表者としてのバンドーの名前が必要であったから。
リンに出会い、彼女を大切に思う気持ちにも勿論嘘は無い。
しかしそれらとは別に、12歳から職業軍人としての意識に偏った自身の人間性の補完の為に、幼馴染みで心の広いバンドーの存在が必要不可欠であったと言えたのだ。
ならば、トーレスがエスピノーザをサポートし続ける理由も、そこにあるのではなかろうか?
「……俺の人生が200年でもあるのならば、お前の助言を受け入れただろう。だがシルバ、人間は何年生きられる?ましてや格闘家としてのキャリアは何年ある?俺が第一線でいられるのは、せいぜい後5〜6年だ。その為に、メキシコやブラジルで誰かを利用するのか?それとも、ボロボロになるまで誰かに利用されるのか?そんな生き方は御免だ。俺にとって、失うものに見合わない金と名誉は要らないんだよ」
互いの説得は不可能と悟ったか、両者は自然とファイティングポーズを取り、格闘家として叩き込まれている適度な間合いを、無意識の内に確保していく。
両者を眺めていたリンは、自身の理解を超越した漢の純粋な馬鹿っぷりに、やや諦めの表情を浮かべながらも、両者をリスペクトする決断を下した。
「……仕方ありませんね。貴方達の資質を考慮して、キックボクシング・ルールで戦いましょう。時間は無制限ですが、ダウンした相手に攻撃を加えたり、どちらかの容態が厳しくなった時は、私が魔法で試合を止めます」
「……なんて女だ!おもしれえ。お前みたいな女がいれば、俺の人生も変わっていたかもな」
落ち着き払ったリンの対応に驚きを隠せないトーレスは、やがて少年の様に瞳を輝かせ、シルバとの運命の一戦を待ちわびる。
5月25日・16:55
「患者はまだ100%の回復ではありません。面会は10分以内でお願いします!」
病院の看護師から念を押された特殊部隊のキムとゲレーロは、足早に階段を駆け上がり、バルベルデの眠る病室へと急いだ。
手術が大掛かりであったが故に、個室のベッドにひとり横たわるバルベルデ。
今後のリハビリ次第ではあるものの、現時点に於いては首から下を動かす事の出来ない彼の周りは、これ以上は無い程の静寂に包まれている。
「バルベルデ捜査官ですね?自分達は警察の特殊部隊所属、ドンゴン・キムとラファエル・ゲレーロです。2〜3質問に答えて欲しいのですが、声は出さなくてもいいです。自分達の出す質問に、イエスであれば瞬きで、ノーであれば目を見開いて下さい」
キムは相手の容態を理解した上で、自身のジャケットのポケットから警察手帳を取り出して身分を明かし、ベッドに眠るバルベルデの表情だけで会話が出来る状況を整えた。
「あ……う……うう……」
手術で気道を確保したばかりのバルベルデは、自身の意思をまだ言葉には出来ない。
自らも薬物依存症で前後不覚に陥った経験のあるゲレーロは、沈痛な表情を浮かべながらもしっかりとバルベルデと視線を合わせる。
「バルベルデ捜査官、貴方は格闘技賭博の潜入捜査中、何者かに脅迫され、我を忘れている内に背後から攻撃を受けましたか?」
「んー、んー」
話す事は出来なくとも、格闘家として鍛え上げた精神力は伊達では無い。
バルベルデは確実な瞬きを繰り返し、しっかりと意思表示をして見せた。
「脅迫の内容は、警察手帳や令状等、自身の身分を明かされる様な行動でしたか?」
格闘技賭博が行われたシチュエーションから推測を進めるキムは、潜入捜査の失敗を吊し上げる行為として、最もシンプルだが効果的な行動をサンプルに挙げる。
「んー、んんー!」
バルベルデは語気を強めて瞬きを繰り返す。
間違いない。
情報屋のジャービスからエスピノーザに伝わった情報を元に、現地に居合わせたジャービス本人か、或いはロック・バーにいるエスピノーザの配下が脅迫行動に出たのだ。
「血圧が上がっています!余り患者を興奮させないで下さい!」
看護師からの制止を受け、予定していた質問を幾つか省き、最後の質問を用意するキム。
ゲレーロはキムのメモを横目に、最後の質問に大きく頷いている。
「……最後の質問です。この事件と貴方の仇は、ジャービスとエスピノーザを問い詰めて解決するものですか?」
「んんんー!!」
キムからの質問がまだ終わらない内に、早くも大きく目を見開いて悶絶するバルベルデ。
確固たる否定である。
何らかの理由で、バルベルデも頭に血が上っているのだろう。キムとゲレーロは互いの顔を見合い、事件の顛末に確信を深めるのであった。
「バルベルデ捜査官、ありがとうございます!今、自分達の上司が警察の上層部にコンタクトを取っています。必ず真実は明らかにして見せますよ。ゆっくり休んで、生きる希望を捨てないで下さい!」
キムはバルベルデと看護師に深々と頭を下げ、ゲレーロは捜査官の奇跡の復活を信じ、今は動く事の無いバルベルデの右手をしっかりと握り締める。
「ゲレーロ、この事をグルエソに連絡してくれ!俺はロドリゲス隊長に連絡する!」
5月25日・17:05
「……分かった、やっぱり警察にも疑惑があったんだな!こっちはもうすぐタワンのアパートに到着する。……ああ、令状もあるよ。奴が暴れる事は無いだろう」
ゲレーロからの連絡を受け取ったグルエソの背中を眺める、クレアとハインツ。
自分達と同世代で、さほど変わらぬ背格好のグルエソだが、当然その服の下には鋼の肉体が隠されているのであろう。
しかしながら、言葉を交わして僅かな時間で互いの立場を超えて打ち解けたそのフランクな人柄からは、彼がシルバですら辿り着けなかったレンジャー隊員の一員だったという現実を、クレアとハインツは未だ信じる事が出来なかった。
「……シルバは大した奴だぜ。レンジャー隊員になる資質は十分にあった。だが、奴は身体がデカ過ぎたんだよ。レンジャー部隊と言えば軍のエリートに聞こえるが、実際は上官に絶対服従の、最強の何でも屋さ。ゴミ捨て場のポリバケツに隠れてテロリストを暗殺したりな。もうやりたくない仕事だよ」
世界の紛争最前線に比べれば、マドリードの小規模なチンピラ相手の仕事など屁でもない。
そうとでも言いたげに、大きな欠伸で上半身を反らせるグルエソの過去を聞き出そうと、ハインツは彼に歩み寄る。
「……ボリビア出身なんだってな。やっぱり稼ぎたくて軍に入ったのか?」
言葉が悪かったか、と、話してから一瞬視線を泳がせるハインツ。
グルエソは暫し無言で顔を上げ、やがてゆっくりと自らを語り始めた。
「……ボリビアには、資源は沢山眠っているんだ。だが、高地である事が災いして、汗水もかかない奴等に指図され、搾取されてきた。だからEONP以前はクーデターばかり起きていたのさ。利権にありつけない貧民は、ドラッグ作りで生命を繋いだ事があるはずだ。当時ビルの解体に関わっていた俺は、親族に頼まれて爆薬を調合した事があったが、ドラッグ精製の証拠隠滅に使われたのかもな」
「……軍隊に入った動機は、ボリビアを変えたい思いからだったの?ドラッグ産業はテロリストの資金源になりやすいから、踏み込んだ事もあったんでしょ?」
グルエソの過去を耳にして、クレアもややせっかちに身を乗り出して来る。
「……上官からは、全部は潰すなと言われたよ。南米の重要な産業を完全に潰せば、アジアにドラッグ産業のイニシアチブを奪われ、結果ボリビアは更に不幸になるとな」
ハインツやクレアのホームグラウンドであるヨーロッパは、アメリカ合衆国に代表される北米大陸亡き現在、世界最大のドラッグ消費大陸である。
だが、ドラッグ栽培・精製の暗部を支えているのは南米とアジアであり、EONPによる貨幣・経済システムの統一後も、発展途上地域援助の名目により、ドラッグ産業に経済援助が続けられている現実は疑いようが無い。
互いに言葉を失ったまま、人気も疎らな裏通りに入る3人。
そこには、幸福な人間がその存在すら知らない様な、不穏な空気を放つ景色が広がっていた。
ハインツもクレアも、職業柄この手の空気に慣れてはいる。
しかしながら、グルエソの話を通過した後で彼等の脳裏に浮かぶ感情は、この街で生命の危機を感じながら、それでも明日を信じて懸命に生きる一般人がいるという現実である。
「……そんな苛立ちを感じていた頃に、中国のエリート軍人として名を上げていた、チェンという男が部隊に加わった。俺はアジアに対して良いイメージは無かったが、ヨーロッパを理解しようと努力する奴を見て、俺達は意気投合したのさ」
在りし日の友人を思い出し、何処と無く明るい表情を浮かべていたグルエソを見て、ハインツはマドリードでともに仕事をしたペレス建設の社員・カイフンを回想していた。
「……中国人とは、この間仕事をしたよ。どこでもビジネスの話を捲し立てる奴だったが、金よりも、中国を含めて虐げられた者の恨みを晴らそうとする情念みたいなものを感じたな」
「……それ、それだよ!」
ハインツの言葉に間髪入れずに頷くグルエソ。
その目は、自身の経験に裏付けられた確信に満ちている。
「つい1週間前の事さ。久し振りに同じチームで仕事をしたチェンは、歪んだ愛国者に変わっていたんだ。世界の犠牲になった中国は過小評価されている、みたいな思想にな。奴はクーデター未遂を起こし、狙撃されて半身不随さ。軍法会議でも、恐らく奴に同情の余地は無いだろう……」
「1週間前?軍を除隊して特殊部隊に入ったのは、それが理由なのね……」
再び表情を曇らせるグルエソを横目に、クレアは彼の心情を窺う様に、ゆっくりと口を開いていた。
「バルセロナのチャイナタウンに、チェンを洗脳した可能性がある、怪しい新興宗教団体が存在していると聞いた。まだまだ少数派の中国系の人間だけを相手にして、スペインで勢力を拡げる事は不可能に近い。つまり、アジアの闇とスペインを繋いでいるかも知れないだろ?これはチェンだけじゃなく、俺の故郷ボリビアの為の戦いでもあると考えているんだ」
力強い宣言とともに、闘志をみなぎらせるグルエソ。
熱い男の下には、熱い男が集うもの。
クレアはそんな彼等の過剰な情熱とはやや距離を置きながらも、自身の隣で気合いを入れ直しているハインツを、何処か羨ましそうに眺めていた。
「サツの犬だな!タワンの兄貴には指1本触れさせねえぜ!さっさと失せな!」
タワンのアパートを目前にして、突如現れた5人のチンピラに進路を塞がれた一同。
チーム・エスピノーザに加わって、まだ日も浅いタワンを兄貴と慕うその若者達は、やはり彼と似た境遇にあると思わせるアジア系であった。
「……サツの犬じゃねえ、本物のサツだよ!エスピノーザの奴、舐めた真似しやがって。眼鏡にスーツの役人が説得に来るとでも思ったのか?」
少々呆れた様な表情を浮かべながら、グルエソは手にしたばかりの警察手帳を誇らしげに掲げて見せる。
「……相手は3人、しかも1人は女だ!勝てない訳がねえぜ!」
グルエソの警察手帳にも表情ひとつ変える事無く、闘志満々の男達。
それもそのはず。
真面目に生きた所で、ここマドリードで何のキャリアも持たないアジア系の彼等にまともな仕事は無い。
彼等にとって唯一義理を通すべき場所は、兄貴分のタワンが格闘技賭博でのし上がり、更に自分達にも仕事をくれるチーム・エスピノーザだけなのだ。
「……グルエソ、ここはあたしとハインツに任せて、貴方はタワンの所に行って!この3人の中に、女のあたしが入っている理由をこいつらに教えてやりたいわ!」
グルエソの目前に割り込む形で、颯爽と左手に短刀を構えるクレア。
その姿に思わず手打ちして歓喜の表情を浮かべたハインツも、進んで臨戦態勢を取っている。
「……お前、元レンジャー隊員なら、タワンとタイマンでも楽勝だろ?」
「……へっ!舐めんじゃねえよ!宜しく頼むぜ!」
ハインツからの挑発に軽口で応えるグルエソは即座に方向転換し、回り道からタワンのアパートへと駆け出した。
「うひょ!美人で度胸も据わっている……俺もこんな姉貴が欲しかったぜ!」
右手の長いチェーンを振り回す長身の男は、余裕綽々に煙草をふかし、サングラスで凄味を演出してはいるものの、実際20歳になっているかどうかさえ怪しい幼さを隠し切れていない。
「……あら、美人だなんて、ありがとう。お礼に熱いプレゼントをあげるわ。ハアアァッ!」
澄ました表情から急激にテンションを高めるクレアの右の掌から、勢い良く放たれた蒼白い光は火炎魔法を呼び、男がふかす煙草の火を瞬間的に爆発させた。
「うおおおぉっ……!」
彼女も少しは手加減を覚えたのであろう。
ラモス刑事に咄嗟に放った様なフルパワーの火炎魔法では無く、あくまで鼻と口を火傷させる程度の攻撃。
もんどり打って前屈する男との間合いを素早く詰めるクレアは、左手の短刀で相手の右手に握られたチェーンを軽々と弾き飛ばし、シルバお手製のセラミック・プレート入りの膝当てごと、男のみぞおちに膝蹴りを叩き込んだ。
「……ぐふっ……!」
隙を突いた形とは言え、最長身の仲間を一撃でK.O.させるクレアの実力に、一瞬言葉を失うアジア系のチンピラ達。
「そう来なくっちゃ!……おいお前ら、悪いが俺達は、お前らの敵う相手じゃない。エスピノーザに大目玉を喰らわせられない様に、少しでも粘って見せるんだな!」
「……何よ、その台詞。そんな事、世界中であんたしか言えないわ!」
一気呵成とばかりに、自身に必要不可欠な腐れ縁のパートナーに並び立つハインツと、彼を苦笑いでたしなめるクレア。
久し振りに2人だけのミッションである。
「……あたしは恵まれた環境で育った。だから、あんた達の苦労が分かる振りをするのは失礼ね。あんた達の怒りは、あたし達と警察にぶつけていいわ。弱い者にぶつけさえしなければね!」
覚悟を決めて戦いに挑んでいるのは、何も貧しい者ばかりでは無い。
クレアの威風堂々とした振る舞いに、チンピラ達は思わず息を飲み込んでいた。
「……警察だろ?入っていいぜ」
注意深い足取りでタワンの部屋をノックしたグルエソを待っていたのは、思いの外落ち着き払っていた当人。
ミニマリストなのか、それとも何やら決意があるのか、彼のアパートの部屋は綺麗に私物が片付けられている。
「……すまないな、土足では上がらないよ。ドアさえ閉めれば、玄関先でいい」
やや拍子抜けした様子で、タワンと向き合うグルエソ。
謹慎に飽き飽きしていたのか、タワンは時折ダンベルを抱えながら、およそ効果的とは言い難い単純なトレーニングを断続していた。
「……俺は、逮捕されるのか?」
その言葉とは裏腹に、不安や迷いを余り感じさせない、タワンの穏やかな表情。
その様子を見て、グルエソはバンドーから託されていた、とある伝言を切り出す決意を固める。
「……安心しな。バルベルデの負傷はお前の攻撃よりも、会場にいた何者かによる脅迫行動が関連の強い要因と判断された。恐らく情報屋のジャービスが絡んでいるが、警察組織にも何かあるはずだ。短期拘束と罰金は喰らうだろうが、懲役にはならないだろう。俺が持って来たのも捜査令状だけだよ。それよりタワン……」
「……?何だ?」
心の準備を超えた展開を予感し、眉間にシワを寄せ、肩に力の入るタワン。
「……サンチェスが傷害容疑で拘束された事は知っているな?だが、奴には情状酌量の余地があり、大企業との癒着を公にしたくない被害者も回復傾向にある。刑期は予想より短期間で済みそうなんだ。そこで、俺達の友人であるバンドーという賞金稼ぎが、ニュージーランドにある実家の農場職員としてサンチェスとお前をスカウトしたいと言って来た」
「……!!」
タワン個人としては、対面して話をした事すら無いバンドーからの、突然の勧誘。
当然この時点では、親友のサンチェスとバンドーとの間にあった会話を知る術はない。
「俺は、バンドーの事は何も知らねえ。奴はサンチェスから何か聞いたのかも知れねえが、何で俺達に情けをかけるんだ?奴もサツとグルなのか!?」
タワンは激しく動揺し、自身の立場に更なる不安を募らせる。
事態の収拾を図るグルエソは、バンドー一家の事情をやむ無く説明する事となった。
「……奴から聞いた話によると、バンドーは元来賞金稼ぎを目指していた訳じゃない。農業以外の仕事で人生修行しながら、幼馴染みのシルバを探して連れ戻し、更に地元の農場の後継者不足を解消する目的でヨーロッパに来たらしい。だが、家庭を持った人間をヨーロッパからニュージーランドに連れて来る事は難しい。あくまでお前らの気持ち次第だが、行き場の無いサンチェスは前向きに検討中らしい」
事情を聞いても、未だ気持ちの整理が着かないタワン。
自分とサンチェスは家族の無念を背負い、腐りきった社会に反旗を翻す為に、裏社会でのし上がる覚悟を決めたはずだったのだから。
「……今のオセアニアは、ヨーロッパに比べれば人種差別は緩い。バンドーの農場はアジア系主体で、お前にとってはいい環境だ。それに幸い、お前はまだチーム・エスピノーザに加わったばかりで、格闘技賭博以外の罪、つまりドラッグや殺人には手を染めていない。移住のハードルも低いだろう。これは最初で最後のビッグチャンスだ。勿論、リスクを犯して大金持ちになる夢は追えないが……」
「…………」
タワンは言葉を失ったまま、うつむくしか無かった。
金と権力には、正直まだ未練がある。
それに、ようやく格闘技賭博で稼ぎ始めた自分のチーム離脱を、エスピノーザが許可してくれるとは限らない。
だが、サンチェスがその気なら……。
一心同体の親友がその気なら、堅気の努力が報われる世界に、もう一度全てを賭けてみてもいいのかも知れない。
「……サンチェスに会わせてくれ」
タワンはグルエソの目を真っ直ぐに見つめ返し、親友との面会を要求した。
「……今はまだダメだ。事件のほとぼりが醒めるまで待て……」
「それなら、今ここで言う事を聞かせてやるまでさ!」
グルエソの話を聞き終えない内に、タワンは勢い良く立ち上がり、ファイティングポーズのモーションもそこそこに、素早いパンチを繰り出しにかかる。
「やっぱり来たな!公務執行妨害だ!」
久し振りの格闘に興奮を隠せないグルエソはあっさりとタワンのパンチをかわし、相手の必殺技に備えたガード姿勢を整えた。
タワンとは10㎝程の身長差があるグルエソにとって、ムエタイファイター相手に警戒すべき必殺技はハイキックではなく、跳び膝蹴りである。
決して広いとは言えないタワンの部屋では、迂闊なハイキックや回し蹴りが命取りになる事を、当然タワンも理解しているだろう。
「おりゃっ……!」
やや変則的な、大振りのサイドスローパンチでタワンとの間合いを広げるグルエソ。
リーチに劣る相手が、敢えて間合いを空けようとする行動を不審に思ったタワンは、相手のキックを警戒して重心を下げた。
「ありがとよ!お前に時間は掛けられねえんだ!」
タワンが低い姿勢を取った瞬間、グルエソは素早いジャンプで間合いを詰め、相手の首に猛然と襲い掛かる。
「……何いっ……!?」
グルエソの無防備なジャンプに意表を突かれたタワンは、咄嗟に右ストレートを繰り出し、その拳は相手の右頬を直撃した。
だが……。
「ぐほっ……!痛ってぇ〜!」
タワンの右ストレートの直撃を受けながら、余裕の笑みさえ浮かべるグルエソは、減速する事無く相手の首に喰らい付く。
「流石に効くな!だが、所詮は人間の拳だよ!お前、鉛の弾丸を受けた事があるか?」
右ストレートを決めながら驚愕の表情を隠せないタワンは、自らの上半身をガードする余裕は既に失っていた。
「……最強部隊を舐めるなよ!」
タワンの首筋へと、巧みに両腕を絡ませるグルエソ。
その鬼の形相から、目にも止まらぬスピードで自らの左肘を折り曲げて相手の気道を塞ぎ、右腕の力を総動員して一気に締め上げる。
「……くっ……がはあぁっ……!」
ものの数秒で急速に意識を失ったタワンは力無く自室の床に崩れ落ち、勝利を確信したグルエソは素早く両手を離してタワンの背中を反らし、何事も無かったかの様に相手の気道を確保した。
「……げほっ……!お前、ただのサツじゃねえな……!」
息も絶え絶えに復活したタワン。
彼は当然、グルエソの過去など知る由もないのである。
「……良かったな!この失態はエスピノーザの怒りを買うぜ。お前、クビになるかもな!」
さっきまでの鬼神の様なオーラは何処へやら。
気さくな笑みを浮かべるグルエソは、自身の成果を早速ハインツの携帯電話へと報告するのであった。
「……おうおう、ハインツだよ。随分遅かったな!」
得意気に成果を報告したはずのグルエソは、いきなりハインツに見下されてしまう。
「……!? おい、別れてから10分だぜ?凄いだろ?何だその態度は?」
ハインツの態度に納得の行かないグルエソは、受話器越しにも唾が飛んで来そうな勢いで不満を捲し立てた。
「……あたし達は、30秒でカタを着けさせて貰ったわ。ご苦労様!……あ、それからいい事聞いたわよ。バルベルデを客席から脅迫したのは、ジャービスとロック・バー常連の白髪のヒッピーだって!多分バンドーとフクちゃんがヒッピーとは接触すると思うから、宜しく言っておくわ!」
ハインツの携帯電話を拝借したクレアが、グルエソの労をねぎらう。
2人が全くの無傷である事を確信したグルエソは、これ以上の共同戦線は必要無いと、暫しの別れのメッセージを彼等に残した。
「タワンが少し暴れたんで、俺は今から警察に奴を連行する。6人も人手は要らないとは思うが、お前らはロック・バーに行ってくれ。シルバは何事も納得行くまで追及する男だから、深入りし過ぎると危ないからな!」
「ハハッ、間違い無いな!」
軍隊時代のシルバを分析するグルエソに激しく賛同するハインツは、豪快な笑いで連絡を締めくくる。
5月25日・17:05
その頃、ハインツ達の行動と前後して、マドリード警察署長との面会の約束を取り付けていたロドリゲス隊長とガンボアは、窓の外から怪しげな公用車が走り去る現場を目撃していた。
「ロドリゲス隊長、まずいですね……。あの車、カマーチョ署長じゃないですか?」
「……気にするな。逃げれば自分の立場だけが危うくなる事くらい、署長なら理解している。恐らく今日の所は副署長に弁明を任せて、今夜の内に逃げ道を確保するんだろう。我々は警察官ではあるが、軍のコネも利用出来る。マドリード警察署の最高権力者はカマーチョでも、我々は更に上と繋がっているのだからな」
ガンボアの焦燥をなだめる様な、まさに重鎮の余裕を見せるロドリゲス隊長。
上層部との思想信条の溝から軍を離脱したとは言え、シルバを含めて腕利き揃いの精鋭部隊に喧嘩を売る程の度胸を、身内にも疑惑を持たれている警察署長が身に付けているとは思えない。
「……申し訳ございません!カマーチョ署長は急性心筋梗塞により、たった今病院に搬送されました!本日は副署長の私、スアレスがお話を伺います……」
本気か演技か、激しく息を切らせながら2人の前に現れたマドリード警察副署長・スアレスの姿に、ロドリゲス隊長は不敵な笑みを浮かべ、ガンボアは頭を抱えていた。
「……何、構わんよ。これだけの問題だ。当然副署長の君も情報は掴んでいるだろう。申し訳無いが、全てを話して貰うよ。君はこの後、軍の施設に収容され、重要参考人としてあらゆる危険から守られる。どんな事実が隠されていようが、君のキャリアに傷は付かないから安心したまえ」
「は、はあ……」
表向きこそ紳士的だが、形容し難い威圧感を放つロドリゲス隊長に追い込まれたスアレス副署長は席に着き、自前のパソコンと分厚い秘蔵資料をテーブルに広げる。
「特殊部隊のガンボアです。訊きたい事は山程あるのですが、まずはやはり、事件の関与が疑われているジャービス氏についてですね。彼の存在と、潜入捜査官時代の汚職疑惑による左遷の件は、我々には知らされていませんでした。我々としても、組織ぐるみの隠蔽とまでは申しませんが、何故、彼の存在と処遇について、明らかにしてくれなかったのですか?」
努めて冷静な口調でスアレスを問い詰めるガンボア。
彼の耳には、当然シルバやキムからの報告が入った上での対応である。
「……はい、ジャービス捜査官は、バルベルデ捜査官の先代であり、格闘技をルーツに持つ警官として、賭博やスポーツ界に蔓延する違法薬物等の捜査に当たって貰いました。しかし、当時マドリードで広まっていた格闘技賭博に潜入した際、マフィアグループと癒着して捜査情報を漏らす見返りとして、売上金を着服したのです。こちらが、その資料です」
スアレスから手渡された資料は、当時使用されたもののコピーであり、日付には黒消しが入っていた。
情報守秘目的など、言い逃れは幾らでも出来るだろう。
だが、既に軍用コンピューターから先回りしてマドリード警察のセキュリティーを解除していたロドリゲス隊長は、余計な前振りを取っ払う意思を明確にする。
「……君達の言い分はこうだ。ジャービスが信用を失う行為に手を染めた為、彼を左遷してバルベルデを後任に任命したと……。しかし実際には、汚職の前にジャービスを解任しようと企み、バルベルデを任命する意向を彼に通達している。従って、ジャービスの汚職はマドリード警察への復讐なんだ。我々の知りたい事はそこからなんだよ」
小賢しい時間稼ぎはあっさりと見破られ、窮地に立たされるスアレス。
その場に凍り付く彼を横目に、ガンボアはシルバとキムからの報告を精査し、捜査の時系列へと組み込み始めた。
「……申し訳ありません……」
深々と頭を下げ、スアレスは観念した様子で事の真相を語り始める。
カマーチョ署長が力を入れていた格闘技賭博への潜入捜査は、時間と労力の割に目立った成果を挙げる事が出来ず、その費用は彼の次期役員選挙に影響を及ぼしかねない程の額となっていた。
それはつまり、カマーチョ署長の後継者であるスアレス副署長のキャリアにも関わる大問題。
そこで彼等は、かつて格闘家としてマドリード市民に愛され、その正義感から引退後に警察学校で訓練を受けていたバルベルデを、潜入捜査官に抜擢するプランを講じる。
バルベルデは潜入捜査官として格闘家に復帰する事となり、格闘家としての正義を貫く彼を応援するスポンサーが捜査資金を援助した事で、カマーチョとスアレスは署内での地位を高める事に成功。
だが、それは同時に、先代の潜入捜査官であるジャービスを、稼げない男として斬り捨てる事を意味していたのだ。
「……つまり、カマーチョ署長派の自己保身と資金調達の為に、命懸けで潜入捜査をしていたジャービスを任務から降ろそうとしたんですね?」
ガンボアの事実確認作業を、虚ろな目をして無言で聞いていたスアレスは、深く頷いて自身の罪を認める。
「ジャービスが自分を任務から降ろそうとした事に腹を立て、捜査情報の漏洩と賭博の売上金を着服した事は事実だ。しかしその点に於いて、君やカマーチョが潔白なのであれば、ジャービスを厳しく処分したはずだ。左遷という形を取りながら、彼をマドリード警察のいち職員として残したのは、口封じの為の監視が必要だったからだろう?」
もはや弁明する気力を失ったスアレスを、何処か憐れみの眼差しで捉えながら、ロドリゲス隊長は彼のパソコンを開き、事実と異なるファイルを片っ端から消去して行く。
「……今、仲間からメールが来ました。情報を組み合わせてみた所、格闘技賭博中にバルベルデを脅迫したのはジャービスで間違いありませんね。客席から警察手帳や捜査令状を見せ付ける事で、バルベルデが潜入捜査官である事を明かしたのです」
ガンボアはキム、そしてグルエソからのメールで得た真実の断片を拾い集めて情報の精度を高め、最後に現在のバルベルデの容態に触れた。
「意識が回復したバルベルデ捜査官は、言葉こそ発せる状態ではありませんでしたが、自身を脅迫したと思われるジャービス氏や賭博組織だけを諸悪の根源とはせず、事件の解明を、まさに命懸けで訴えたそうです。闘技場に乗り込んだ仲間からの連絡はまだ来ていませんが、いずれ証拠物件は出揃うでしょう。後はジャービスの所在だけです。スアレス副署長、心当たりはありませんか?」
「す、すみません……私にも分からないんです……」
自身の未来に絶望し、すっかり怯えきったスアレスからは、もうこれ以上の有力な情報は引き出せない。
そう判断したロドリゲス隊長は、自身の端末に自動送信されて来る特殊部隊のメンバー、或いはチーム・バンドーからのメールを読み返し、有力なヒントを掴もうと意識を集中させる。
「……レイジ君が、公園でチーム・エスピノーザのガジャルドと対面し、隣に警察署の受け付け係に似た男を見た……と言っていたな。これがジャービスだとすれば、彼は我々の手がまだ回っていない、ガジャルドやエスピノーザの近くで身を潜めようとしている可能性が高い。今日中にカタを着けるべきだな!」
「……行きますか!スアレス副署長、貴方も証人ですよ!」
「うわわっ……!」
ガンボアはスアレスを強引に外へ連れ出し、車の後部座席へと押し込んだ上で、3人は全速力で車を走らせていた。
(続く)