第37話 汚れた英雄はまだ生きている (前編)
2085年・12月20日……ブルガリアのソフィアにて
「……マーガレット様、そんなに身を乗り出されては危ないですよ」
すらりとした長身に、ブルーの瞳とブロンドヘアを持つ若き剣士、エミール・スベンソンは、辺り一面の雪景色にはしゃぐクレア財団の幼い長女、マーガレット・クレアを背後から呼び止める。
彼女が好奇心から開けた窓硝子は、大人から見れば小さなものであったが、まだ10歳の少女の身体であれば通過してしまう危険性が残されていたのだ。
「大丈夫!エミールとテディが助けてくれるから」
クレアはスベンソンを振り返りながら、自身の相棒である大きな熊の縫いぐるみを窓枠に立て、クッションがわりに寄りかかる。
冬に雪を見る事がさほど珍しくはないブルガリアに於いても、この夜の大雪は希であり、冷たく乾いた空気を照らす屋敷のライトと夜空、そして降り積もる白い雪のコントラストには、少女の感性のみならず魅了するだけの風情があった。
「そろそろお休みの時間ですよ。また明日、ゆっくりお喋りしましょう、マーガレット様」
クリスマスを間近に控えたこの時期、東欧地域では富裕層宅での強盗被害が相次いでおり、クレア財団でも新進気鋭の剣士を2人、屋敷の警備員として採用している。
だが、この日は大雪が災いし、もう1人の剣士、ヴェルンド・マグヌソンは他の仕事の現場から屋敷に駆け付ける事が出来なかったのだ。
スベンソン自身は、1人でも複数の強盗を苦にしない程の実力を持っていたが、それは気の散る要因を排除した、自由に戦える環境が用意されている事が最低条件。
クレア財団の次女・ローズウッドは幼くして読書家である為、夜間は滅多に寝室から出る事は無い。
だが、長女のマーガレットは活動的で、職務に多忙な両親の代わりに警備員の剣士、とりわけスベンソンに懐いていたのである。
「……あたしも大きくなったら、エミールみたいなカッコいい剣士になりたいな……」
頬杖をつきながら、ぼんやりと視線を泳がせるクレア。
東欧屈指の名家、クレア財団の長女に生まれた彼女には、他の同世代の女の子の様な自由は与えられていない。
彼女にとっての剣士、そしてスベンソンは身近なヒーローであり、窮屈なしがらみから逃れる為のパスポートの様な存在だったのだ。
「……マーガレット様は、魔法の才能があると学校の先生に誉められていたではありませんか。私は女性に、剣を持つ様な危ない真似はして欲しくありませんね……」
穏やかな笑みを浮かべてクレアを諭すスベンソン。
彼は真面目な好青年であるが、やや堅物であるが故、クレアとの会話はいつも長続きはしない。
「え〜、魔法なんて……。ごみ拾いが面倒臭くて空き缶を睨んでたら、勝手に缶が動き出しただけよ……」
クレアは自身の才能に関しては否定したが、これは特に謙遜していた訳ではなく、単に空き缶を動かした事が誰かの役に立つと考えられないだけ。
この頃はまだ、空き缶を動かした事が風魔法の初期段階であるという体系に気付けなかったのだ。
ガシッ……ガシッ……
屋敷の壁をよじ登る様な鍵爪に似た物音が、クレアとスベンソンの背後から、突如として響き渡る。
財団の屋敷に、正面玄関から侵入する強盗など存在しない。
物音を立てずに非常階段から、或いは屋敷の裏側から壁をよじ登り、登頂距離の短い2階の窓から侵入するのがセオリーだ。
「……マーガレット様、早く寝室へ!ご両親にも内線で伝えて下さい!」
「……うん!分かった!」
スベンソンの指示を受け、咄嗟に奥の寝室を目指したクレアは、熊の縫いぐるみをやむ無く窓枠に置いたまま駆け出して行く。
「……何者だっ……!?」
反対側の窓へと駆け寄りながら、自らの剣を抜くスベンソン。
クレア財団のネームバリューに彼の評判が重なり、この屋敷が危険に晒される事態はこれまで無かった。
スベンソン自身も、この屋敷で実際に不審者の手合わせをするのは、この日が初めての事である。
「……はああぁっ!」
出会い頭から強盗の手首を斬り付けるつもりだったスベンソンだが、その剣は空を切って窓枠に激突した。
彼の頭上を飛び越えた黒い影が背後に着地し、慌てて後ろを振り返った隙を突く様に、同じ風貌のもう1人の強盗が窓から部屋に侵入する。
「……2人か……。だが、お前達の武器はそれだけなのか?舐められたものだな」
全身黒ずくめのスタイルで登場した強盗コンビは、スベンソンよりやや小柄ではあるものの、彼の剣をかわして侵入する程の高い身体能力を持っていた。
だが、彼等はナイフや短剣といった武器を持たず、壁をよじ登る鍵爪を両手首に装着しているだけ。
リーチの長い剣を使いこなすスベンソンにとっては、屋敷の構造を利用して1人ずつ戦う事さえ出来れば楽勝の相手だろう。
「……ちっ、この大雪の中わざわざ壁を登ったのに、まさか2階に用心棒がいるとはな!」
全身黒ずくめの、ボディータイツの様な衣装を着用している2人の強盗。
彼等の感情を読み取るヒントは、その露出している目から窺えるのみだが、明らかな動揺と戸惑いが見て取れる現実が、スベンソンに心の余裕を与えていた。
「そんな鍵爪で、どうやって抵抗するつもりだ?さっさと失せるんだな!」
スベンソンは剣のリーチを活かした突きで強盗を牽制しつつも、彼等をクレア達の寝室とは逆側のトイレ方面へと誘導する。
細い通路を壁側に追い詰めている様な錯覚を相手に与え、自身は2人の強盗から挟み撃ちに遭う可能性を極限まで下げる為である。
「とおっ……!」
スベンソンは正面の強盗の鍵爪を剣で突き、その衝撃で身体ごと弾き飛ばされた男の、よろめく下半身を軽く斬り裂いた。
「……ぎゃっ……!」
大腿部から出血した強盗はその場に崩れ落ち、脚の痛みよりもその出血量に目を見開いて驚愕する。
「……がああぁっ……!」
仲間の負傷に我を忘れたもう1人の強盗が、捨て身の覚悟でスベンソンの左半身に飛び掛かった。
右利きであるスベンソンの左腕の自由を奪えば、少なくとも剣の攻撃の威力は大幅に減少するはず。
相棒と協力して相手を床に倒す事が出来れば、接近戦向きの鍵爪を活かす事が出来るのである。
「……そんな手に、引っ掛かると思ったのか!?」
冷静に強盗の動きを見切っていたスベンソンは、相手の足元を左ローキックで払い、勢い良く前方に倒れ込んだ強盗に、すかさず馬乗り体勢を取った。
「やったあ!流石エミール!パパには連絡したから、すぐ警察が来るわ!」
寝室から顔を覗かせて歓声を上げるクレア。
スベンソンは目前の負傷した強盗からは目を離す事無く、クレアの言葉に右手の剣を挙げて応える。
「テディが……連れ戻さなきゃ!」
スベンソンの圧勝を確信したクレアは、窓枠に立てたままだった熊の縫いぐるみを回収しようと寝室を飛び出した。
「……マーガレット様、まだ危険です!もう少し寝室にいて下さい!」
クレアが窓枠まで縫いぐるみを取りに来た場合、自身との距離は約10メートル。
大腿部を負傷した強盗に全力疾走は不可能だとしても、破れかぶれな行動があっても不思議ではない。
「うおりゃあぁっ……!」
スベンソンが背後を振り返り、重心が移動した隙を見逃さなかった強盗は、全力で馬乗りの相手を跳ね上げた。
「……うおっ!?」
剣の重さが災いして、あっさりと背中から床に倒れるスベンソン。
「……エミール!」
自身の行動が形勢を逆転させてしまった事に気付いたクレアは、縫いぐるみを回収した後寝室に戻り、全力で消火器を抱え上げた。
「……もらったあぁ!」
相手の剣を奪った強盗は勝ち誇った様な態度で剣を構え、片足を引きずったもう1人の強盗も、最後の抵抗を見せてスベンソンに覆い被さる。
「……くそっ……!貴様らなんかに……!」
必死の形相で目前の強盗を蹴り飛ばし、スベンソンは剣を奪った強盗との間合いを確保する事に成功した。
相手の両手首には鍵爪が装着されている。
手首の自由が利かず、殺傷力のある攻撃は恐らく突きのみ。
間合いを確保して剣を空振りさせ続ければ、素人はやがて剣の重みで体力を奪われる。
「……くっ、畜生……!」
対峙する強盗に気を取られていたスベンソンの両足首を、負傷した強盗が掴んだ。
「……しまった!」
「サンキュー、相棒!」
身動きが取れなくなったスベンソンの背後に、剣を持って回り込んだ強盗は、慣れない手つきで剣を抱え込み、相手の背中へと剣を突き立てる。
「ぐはああぁっ……!」
「……エミール!止めて!」
クレアの悲鳴も虚しく、強盗の剣はスベンソンの背中に突き刺さり、やがて彼は力無く床に崩れ落ちた。
「うわあああぁっ……!」
怒りと悲しみが混濁したクレアは激しく狼狽し、持参した消火器の栓を狙いも定めずに全力で引き抜く。
白い泡状の液体が屋敷の通路に散乱し、脚を負傷した強盗は顔面に消火液を喰らい、その場で意識を失う。
「……くっ、もう何も出来ねえな。あばよ!」
無我夢中で強盗に消火液を浴びせ続けるクレアの背後を縫う様に、もう1人の強盗は屋敷を脱出。
残されたクレアは、駆け付けたローズウッドの制止も聞かず、ただ泣き叫ぶだけだった。
「パパ、ママ……ごめんなさい!エミールが……エミールが死んじゃう!」
2086年・3月25日
雪が溶け、ソフィアの街にも春の訪れが実感出来る頃、一命をとりとめたスベンソンは病院を退院し、事件の夜に参戦出来なかったマグヌソンとともに、クレア一家に別れの挨拶を行っている。
ローズウッドからの通報で警察とともに救急車が駆け付け、強盗の1人は逮捕。
背中を刺されたスベンソンは手術と過酷なリハビリを乗り越え、その顔にも微笑みが戻る事となった。
だが、彼を刺したもう1人の強盗の消息は未だ不明で、脊椎を損傷した事が原因でスベンソンの左足は麻痺してしまい、日常生活には車椅子が必要な身体になってしまったのである。
「パパ、あたしのせいなの……!あたし、お小遣い要らないから、エミールをうちで雇ってあげて!」
両目に涙を溜めて懸命に訴えるクレア。
彼女はこの3ヶ月、自身の軽率な行動を悔やみ続けていた。
「……マーガレット様、わがままを言ってはいけませんよ。私が強盗に刺されたのは、油断があったからで、貴女のせいではありません。故郷のスウェーデンで一番の施設に入れて貰えるお金を用意していただいたのに、これ以上の厚遇を望むのはバチが当たるというものですよ」
スベンソンの表情からは、一家への恨みの様なマイナス感情を微塵も感じ取る事は出来ない。
剣士の道はここで絶たれてしまったものの、左足以外に特に不自由な部分は無く、クレア財団の尽力により、贅沢さえしなければ生活を保証されるだけの援助を得たのだから。
「……エミール君、君は娘の命の恩人だ。財団が娘の代まで続くかどうかはまだ分からないが、君が望めば出来る限りの援助はする。困った時は、いつでも連絡をくれ」
クレアの父・ディミトリーは、1人の若者の未来を奪ってしまった自身の無力さを噛み締める様に俯き、スベンソンに最大限の援助を継続する事を約束する。
「すまねえな、俺が屋敷に行けなかったばっかりに……。お前を刺した奴は俺が必ず捕まえてやるよ!」
愛想良くスベンソンの肩を叩く彼の相棒・マグヌソンは、剣の実力はあるがお調子者タイプであり、スベンソンは昔から彼のフォローに追われる事も多かった。
今、こうして親友に強盗の逮捕を誓うマグヌソンの姿にも、正直余り深刻さは感じられない。
だが、障がいを持つ者としての特別扱いを嫌うスベンソンには、彼のその明るさがむしろ有り難いものなのである。
「故郷に帰って、またリハビリを頑張ります。医者からは、右足が動く事が奇跡だとまで言われましたから、まだ左足も諦めていませんよ」
言葉に力を込めるスベンソンの決意は、しかしまだ、完全なものでは無い。
車椅子から見るクレア財団の屋敷という景色そのものが、今日初めて目の当たりにする現実。
今日からはこの目線が、彼の当たり前にならなければならないのだ。
「エミール、ごめんなさい……。あたしが大きくなったら、必ず会いに行くから……」
未だ破裂しそうな感情を堪えている、クレアの額を優しく撫でるスベンソンは、しかしこの時ばかりは真剣な表情を作り、自らの左足を懸けて守り抜いた少女に別れの言葉を口にする。
「……剣が危険なものであると、これで分かったでしょう。マーガレット様が選ぶべき道は、剣士では無いのです……」
スベンソンとマグヌソンがスウェーデンに帰郷した後、両者とクレアの運命は劇的に動き始めた。
クレアはスベンソンの高潔な誇りを忘れる事が出来ず、ハイスクール卒業後に剣術学校に進学。
同期のハインツに次ぐ好成績で剣術学校を卒業した彼女は、家族を粘り強く説得し、女だてらに賞金稼ぎの剣士となる。
マグヌソンは剣士として実績を積み、肩の負傷をきっかけに28歳で剣士を引退。
賞金稼ぎ組合の職員に転身した後は、その経験と人当たりの良さでスピード出世を果たし、2095年、33歳を迎えた彼は北欧を離れ、西欧で組合の役職にスカウトされたと噂が立っていた。
スベンソンはスウェーデンの介護施設でリハビリを続けながら、自立に向けた資格の勉強をしていたが、元来の正義感の強さが災いし、自堕落で態度の悪いリハビリ患者との衝突を繰り返す。
彼の更なる悲劇のきっかけは、車椅子生活を支える為に鍛えた腕力で患者を負傷させた事。
施設を追われたスベンソンは、手にした資格で職を転々とするも、怠惰な同僚や理不尽な社会に嫌気が差し、やがて仕事を辞め、酒に溺れる様になってしまったのだ。
剣術学校入学直前、スベンソンの状態を危惧してスウェーデンを訪れたクレアは、覇気を失っていた彼を懸命に励まし、財団からの援助を増額して彼のアルコール依存症の治療に尽力する。
また近年になって、自身の地位を確立したマグヌソンも密かにスベンソンの援助に加わり、2099年・5月22日現在、37歳のスベンソンは社会復帰を果たし、アルコール依存症からも立ち直っていた。
だが……
2099年・5月23日・9:00
「……ああ、やっぱりダメ。消えちゃう」
マドリードのホテルの中庭で、各自トレーニングに励むチーム・バンドー。
クレアは自身の能力開発の為、剣術学校以来封印していた魔法のトレーニングの再開を試みている。
「……え?風魔法でロウソクの火を消すトレーニングじゃなかったの?」
かつて、クレアが風魔法の初歩を身に付けている事を聞かされていたバンドーは、彼女が久し振りに魔法が使えるかどうか、ウォームアップをしているものと思い込んでいた。
「……バンドー、風魔法なら、もうあんたの方が上手いじゃない。あたしが練習しているのは、ロウソクの火を大きくする火炎魔法よ」
火の消えたロウソクを拾い上げたクレアは、ライターを用いて再び点火する。
クレアは幼い頃から風魔法の初歩を身に付けていたものの、魔力の放出部位が自身の右の掌であった為、剣術の邪魔になると判断して魔法の訓練を封印して来た。
だが、バンドーやリンが着実に実力を積み上げて来た現状を踏まえ、自身も左手の短剣と右手の魔法という、新たな武器のコンビネーション開拓に挑む事となったのである。
「……火炎魔法は、大きな炎であれば風魔法の要領で爆発も起こせますが、小さな火だと空気中の酸素量を操らなければいけません。私もひと通り魔法は身に付けましたけど、火炎魔法は最後まで苦労しましたよ」
リンはクレアの準備を手伝いながら、火炎魔法の難しさを改めて回想していた。
「……火炎魔法の酸素量の調整は、自然の力と一体化した上で、一気に感情を高める事でも可能となりますね。クレアさんのキャラクターであれば、バンドーさんやリンさんより火炎魔法に向いているかも知れません」
穏やかな表情でチーム・バンドーを見守るフクちゃんは、熊の形をしたグミを頬張りながら首を左右に振り、この味と食感は求めるものとは違うと結論を出している。
「皆さん、魔法が使えるんですね……。自分も軍でさんざん訓練させられましたが、全くモノになりませんでしたよ……」
両手を広げ、すっかりお手上げポーズのシルバ。
もっとも、軍のミサイルや爆弾の威力は、人間による風魔法や火炎魔法を凌ぐもの。
シルバ程の能力を持った軍人さえ魔法を使える気配が無いという現実は、ひょっとすると兵器と魔法の相乗効果を許さない、大自然の掟の様なものが介入しているのかも知れない。
「バンドーみたいな例外はあるだろうが、この歳からいきなり魔法が使えるなんてこたぁねえよ!俺達は心身の鍛練あるのみだぜ!」
真面目に気落ちするシルバを笑い飛ばしながら、剣の素振りに熱が入るハインツ。
元来動物すら苦手な彼に、自然との一体化が求められる魔法への興味は皆無の様子だ。
ピピピッ……
突然鳴り始める携帯電話。
その呼び出し音が自身の携帯電話であると気付いたクレアは、慌てて鞄に駆け寄り、ディスプレイから発信先を確認する。
(……ローズからだわ。この時期に一体、何の用だろう……?)
クレアの妹、ローズウッドはミュンヘンでの社交会を最後に財団の仕事を降り、大学で獣医の勉強に専念していた。
しかしながら、賞金稼ぎとしてヨーロッパ中を駆け回っていたクレアに比べれば、家族からしても連絡が取りやすい。
ローズウッドからクレアに電話が来る時は大抵の場合、財団に関係した連絡事項である。
「……ローズ?あたしだけど……どうしたの?」
「お姉ちゃん大変!エミールさんが……エミールさんがいなくなっちゃった!」
ローズウッドからの第一声に、思わず全身が硬直するクレア。
彼女が魔法のトレーニングを再開した背景には、かつてのスベンソンの言葉を思い出した事も影響していたからだ。
「……え?そんな……何があったの!? 最近は上手くやっているって話だったじゃない!」
「こっちも知らないわ!突然スウェーデンのアパートを引き払っちゃって、招待された飛行機に乗ったみたいなの!」
クレアは動揺を隠せず、その大声のやり取りはバンドー達の耳にも届く事となる。
6年前にクレアがスベンソンを訪ねた時は、アルコール依存症からどん底の人生に陥りつつあった彼を励まし、彼女と財団の援助に応えたスベンソンは見事に立ち直った。
そんな彼が、再びクレアと財団を裏切ったとは考えたくない。
「……お姉ちゃん、聞いてる?エミールさんは足のハンディキャップがあるから、旅行会社も安全を考慮して行き先を教えてくれたの。バレンシアだって!」
「……バレンシア……。ひょっとして、マグヌソンさんが役職になった賞金稼ぎ組合って……?」
近年、財団以外にもスベンソンに援助を始めた者がおり、それが西欧で出世したかつての剣士仲間・マグヌソンであるという噂は、クレア財団にも入っていた。
「分からない、でも、お姉ちゃん今スペインに来てるんでしょ?会いに行って詳細を訊いてきて欲しいの、お願い!」
「言われなくたって!任せて!」
元来声のデカいクレアの会話はパーティーに筒抜けであり、弁解の余地の無い彼女はこれ幸いと仲間達に深々と頭を下げる。
「……みんなごめん!一大事なの!事情は後で話すから、2〜3日あたしに付き合ってバレンシアに行ってくれない?」
5月23日・13:00
マドリードからバレンシア行きの列車に飛び乗ったチーム・バンドーは、車内で軽い昼食を取りながら、クレアとスベンソンの過去を知る事となっていた。
「……そいつがお前の恩人だって事は分かった。だが、仲間と新生活を始めたいだけなら、金まで出させたお前らに報告くらいするだろ。言っちゃ悪いが、まだ酒が抜けて無いんじゃねえのか?」
脚を組み替えながら、やや苛ついた表情のハインツ。
ストイックな彼には、アルコール依存症に陥る人間の弱さが理解出来ない。
また、スベンソンの負傷に責任があるとは言え、クレアが何年も振り回されている現実に不快感も感じているのだろう。
「その、スベンソンさんの仲間のマグヌソンさんって、バレンシアにいるのは間違いないの?」
バンドーはカップコーヒーをすすりながら、スベンソンがバレンシアを経由してスペインの別の街に潜伏している可能性が無いか、クレアに追及した。
「……うん、マドリードの組合に訊いたら教えてくれたわ。2年前に転勤して、今副所長なんだって。エミールは堅物で人見知りをするから、スペインで他に頼れる人はいないと思う」
クレアは自身のバッグから小さなアルバムを取り出し、普段持ち歩いていた家族の記念写真から、スベンソンとマグヌソンが防具を脱いで偶然写っていた1枚をパーティーのメンバーに見せて回る。
「これクレアさん?可愛い〜!面影ありますね!」
リンとフクちゃんは、北欧剣士コンビでは無く幼い姉妹に目を奪われており、その様子にクレアはどうにも居心地の悪さを感じていた。
「長身の方がスベンソンさん、どっしりした体格の方がマグヌソンさんですね。今もこの体格に近ければ、バレンシアの組合ですぐに見付けられますね」
写真を眺めるシルバは、その体格だけでは無く、剣士装束では見る事の出来ない首筋のほくろの様なものも確認し、素早くマグヌソンの特徴を頭に叩き込む。
「……クレアさんとしては、彼等に会ってどうするつもりなのですか?」
この件に関して今まで一切口を挟む事の無かったフクちゃんが、一呼吸置いた後、クレアの真意を探る様に深い眼差しを彼女に向けた。
「……ハインツが言った様に、もし隠れてお酒を飲むつもりだったら、スウェーデンに連れ帰るつもりよ。でも、もし純粋に仲間と暮らしたくて、マグヌソンさんにそれが出来ると分かれば、財団として手を引き、援助も終えないといけないわ。パパにも電話して確認した」
本来、想定範囲外だったアルコール依存症の治療費も援助した時点で、クレア財団の役目は既に終えていると言っていい。
しかしながらクレアの話しぶりからは、彼女がスベンソンへの援助を終える事への寂寥感の様な、複雑な心境も窺い知れていた。
「バレンシアに入ったみたいです。やっぱりオレンジ畑がありましたよ!」
列車の窓から流れる景色を眺めていたリンは、スペイン旅行ガイドブックの定番、バレンシアのオレンジ畑を目の当たりにしてテンションが上がっている。
箱入り娘として大事に育てられていた彼女は、バンドー達と旅に出る以前には殆どフランスから出た事が無かった為、実はパーティーの誰よりも賞金稼ぎ生活を楽しんでいるのかも知れない。
「バレンシアオレンジってのは、実はアメリカから輸入されたオレンジ固有の名前なんだよ。アメリカがなくなっちゃった今、バレンシアオレンジって言ったら、逆にバレンシアの人に怒られるから注意しないと!」
農家出身のバンドーは、ここぞとばかりに蘊蓄を披露し、リンから尊敬の眼差しを受けていた。
「……全く、ヨーロッパの人間ってのは、どうしようもなくプライドが高いよな……」
「あんたに言われたくないわよ!」
ハインツとクレアの夫婦漫才はもはや熟練の域に達しており、クレアの過去を含めて少しばかりシリアスな空気だったチーム・バンドーは、いつもの賑わいを取り戻す。
5月23日・14:00
バレンシア駅から歩いて10分、マドリード程では無いものの、かなりの一等地と言える場所にバレンシア賞金稼ぎ組合は建設されていた。
出来るだけ穏便に事情を聴取したい。
クレアを先頭として、パーティーは写真を頼りにマグヌソン副所長を捜索したが、屈強な体格の職員は見付からない。
「……もう、直接訊いてみようよ」
業を煮やしたバンドーは、チーム代表として受付に声を掛ける事を決断した。
「……すみません、賞金稼ぎのレイジ・バンドーという者なんですけど、マグヌソン副所長はいらっしゃいますか?」
バンドーが声を掛けた男性職員は、ごく一般的な体格で、やや白髪の目立つ、50歳くらいのベテラン職員に見える。
だが、バンドーの背後に立つシルバは見逃さなかった。
その職員の首筋に、写真で見たほくろの様なものがある事を。
「……私がマグヌソンですが……何の御用でしょう?」
突然の来訪者にも何ら身構える事の無い、素のリアクションを見せるマグヌソンだったが、チーム・バンドーは驚きを隠せなかった。
クレアからの話では、スベンソンと同年代のマグヌソンは30代後半であると聞いており、写真で見た体格も、目の前の男性より10㎏以上は確実にあると思われたからである。
「……マグヌソンさん?あたしです!クレア財団のマーガレットです!エミールの事について、訊きたい事があります!」
一瞬の動揺の後、我に返ったクレアはバンドーを押し退けてマグヌソンに詰め寄り、一方のマグヌソンは彼女達の予想以上に素早い追跡に、苦味走った表情を繕う事は出来なかった。
5月23日・14:30
来客としてチーム・バンドーを応接室に案内したマグヌソンは、ひとつ大きなため息をつき、自らに気合いを入れ直す様に両手で頬を叩く。
「お嬢さんが訊きたいのは、私がエミールをバレンシアに呼んだのかという事だろう?答えはイエスだ。私には時間が無い。エミールの無念を晴らすタイミングは、今しか無いんだ」
実年齢に比べて老けている……というより、やつれているという印象のマグヌソンは、それでも力強く自身の決意を宣言した。
「エミールと違って、お嬢さんが私に会うのは別れの日以来だ。随分印象が変わってびっくりしただろう?私は……ガンなんだよ」
マグヌソンの告白に、応接室には一瞬の静寂が訪れる。
彼の変わり果てた風貌は、ガンとの闘病で肉体が衰弱していた事を示していたのである。
「……私が賞金稼ぎ組合の職員になった理由は、肩の怪我で剣士を引退した後、その経験を活かせる職業だったからなんだが、エミールを刺した強盗の行方を追う為でもあった。情報を仕入れ、賞金稼ぎに仕事を依頼し、昇進とともに違う街へ転勤する……。そうして、遂にここバレンシアで、エミールの仇を見付けたんだ」
「……そんな事が……」
マグヌソンの執念に衝撃を受けたクレアは、自身の献身に負けない、2人の絆の強さに衝撃を受けていた。
「……エミールを刺したのは、モロッコ系の薬物依存症の患者、ヤシン・アビブ。奴はヤク欲しさにマフィアの情報屋に成り下がっていたが、私の依頼を受けた賞金稼ぎによって拉致された。証拠不足で逮捕は出来なかったが、私は生きている内に奴を監視してエミールを呼び寄せ、復讐の機会を与える事にしたんだ」
「……賞金稼ぎ組合の副所長が、復讐の為に犯罪者を隠匿だぁ!? ふざけてんじゃねえよ!」
表情ひとつ変えず、淡々と自身の違法行為を語るマグヌソンと、長い歳月を懸けてスベンソンに献身した財団、そして何よりクレアの想いを重ね合わせたハインツは、怒りあらわにマグヌソンに詰め寄る。
「……どうして私がガンに……と、自分の運命を呪ったよ。だが、若さでガンの進行が早い事が幸いして、私は使い切れない程の医療用モルヒネを処方されているんだ」
「……まさか、モルヒネでヤシンを餌付けしているんですか……!?」
声を震わせながらマグヌソンを見下ろすシルバと目を合わせたマグヌソンは、静かに頷いた。
「奴はエミールを刺したが、私が彼の相棒だった事は知らない。与えているのはモルヒネだけだが、もっと強いヤクがあると誘っているから、すっかり私を信用しきっているんだよ」
「……エミールは……エミールは復讐を望んでいるの?」
クレアはマグヌソンに、スベンソンの真意をおそるおそる訊ねる。
「……あいつは紳士だからな。ヤシンを殺そうなんて考えてはいない。ただ、会って謝罪の言葉は聞きたいと言っている。用が済めば、ヤシンは警察にでも突き出すさ。私はどんな罰でも受け入れるよ。もう長くないんだからな」
「てめぇ……いい加減にしろ!」
堪忍袋の緒が切れたハインツは、堪らずマグヌソンに飛び掛かる。
だが、突然バンドーが両者の間に立ち塞がり、激突を回避させる事となった。
「バンドー、どけ、邪魔するな!」
息を切らしてバンドーを牽制するハインツ。
普段のバンドーが穏健な平和主義者である事は、ハインツも重々理解はしていた。
しかしながら、自身の病を利用してまで、クレアと財団の想いを踏みにじる強行手段に出ようとするマグヌソンを、彼は許す事が出来なかったのである。
「ハインツ、落ち着けよ!この人、まだ何か隠してるだろ?」
声を潜めて全てのやり取りを冷静に聞いていたバンドーは、確信にも似た手応えを口元に浮かべ、マグヌソンの本当の狙いを仄めかした。
「……ケンちゃん、医療用モルヒネ程度で耐えられる薬物依存症なんて、まだ末期症状じゃないよね?」
バンドーはシルバを横目に問い掛け、その詮索でマグヌソンの表情には変化が生まれている。
「……ええ。その程度であれば、禁断症状が出ていない内は日常生活も、仕事もこなせるでしょう。ヤシンもこっそり悪さをしているかも知れませんが……それが一体……?」
バンドーはシルバから期待通りの回答を引き出すと、ハインツを飛び越えてクレア、リン、フクちゃんに持論を展開して見せた。
「……マグヌソンさんは賞金稼ぎ組合の役職だ。ヤシンはいざという時の身の危険くらいは警戒しているはず。そして、モルヒネじゃないヤクがあるとマグヌソンさんから聞いている。絶対マフィアの仲間を隠して連れてくるよ!」
「……あっ……!」
リンは早くも合点がいった様子である。
「命を懸けた最後の仕事でマフィアに打撃を与えて、褒賞金でも稼ぐつもりなんだろう。エミールさんがバレンシアで自立する援助をするつもりなんだよ!」
バンドーの名推理に頬を緩めたマグヌソンは大きく頷き、両手を広げてパーティーの代表に敬意を表した。
「14年も昔の傷害罪では、もうヤシンを罪に問う事は出来ない。しかし、奴がエミールに障がいを背負わせた事実は、もう警察でも認知されている。スペインはスウェーデンに比べて福祉体制は貧弱だが、ここに住んでも障がい者年金は貰えるんだよ。残りの人生、エミールには思い切り生きて欲しい。私の代わりに……」
マグヌソンの決意を改めて知ったクレアは、ゆっくりと歩みを進めて彼の手を取り、凛とした表情で視線を合わせる。
「分かった。貴方の力になるわ」
「……ちっ、1人でマフィアを騙そうとしていたのかよ!」
そのやり方に未だ納得の行かないハインツではあったが、マグヌソンの決意だけは認めなければならない。
「マグヌソンさん、動機は自分勝手だとしても、これはマフィア討伐に繋がる仕事なんだろ?バレンシア賞金稼ぎ組合として、チーム・バンドーを雇ってみないか?賞金の額はこの件が解決してから決めてくれたらいいよ!」
「……ああ、ありがたいね。私は既に、親しい刑事に協力を依頼しているんだが、勿論仲間は多い程いい」
バンドーの申し出に感謝したマグヌソンは、賞金稼ぎ組合副所長の権限を活かし、警察との協力案件にチーム・バンドーの名前を追加する。
(バンドーさん……立派になりましたね……)
フクちゃんはバンドーの成長を喜びながら、ポケットから取り出して初めて口にするカリカリ梅の酸っぱさに口をすぼめ、絶妙なタイミングで熱い涙を流していた。
(続く)