第33話 チーム・バンドーの長い休日 ④
5月20日・7:00
「……これ絶対止まないわね……。最っ悪……!」
昨日の猛暑の反動から豪雨に襲われたオーストリア。
くそダサボディースーツによるリハビリに耐え、屋外プールで遊びまくる野望に胸を踊らせていたクレアの失望は、半端ではなかった。
「リハビリから解放されただけでも良かったじゃないですか。屋内プールで遊びましょう。私達の仕事も昨日で終わりましたし」
フクちゃんはクレアの水着をまじまじと眺めながら、自身の水着の参考としてコピーする為に頭の中に叩き込む。
女神様である彼女は、人間が見るから人間の姿に見えるだけであり、衣服を着なくとも彼女自身が衣服のイメージを決定さえすれば外見が整うのである。
クレアの水着は黒のワンピース型ではあるが、スタイルが良く女性としては長身な彼女だからこそ着こなせるハイレグ仕様。
その反面、上半身の露出を抑えているのは、剣士らしく腹筋が引き締まっている事を隠したい本音があるのかも知れない。
「……あ、フクちゃんはそのままコピーしちゃダメよ。サイズが大きいし、何かあるとまずい年齢に見えるから」
「……はあ、そういうものなんですか……」
ようやく賞金稼ぎとしての地位を確立したバンドーに、名義上の兄としての道義的問題が生じてはいけない。
人間とは価値観の異なるフクちゃんに、自身の身体に対する羞恥心は特に存在しないものの、クレアはその点を極めて厳格に管理していた。
「……昨日、リンからメールが来たの。職場の図書館がフェリックス社に買収されて、非正規職員に格下げされちゃうからあたし達と旅を続ける事にしたって。あたしは勿論嬉しいけど、フクちゃんとバンドーの仕事にもフェリックス社が絡んでいたんでしょ?何だか不穏な動きよね」
クレアは窓の外の大雨に挟まれて、リン程の人物が正当な評価を得られない背景に落胆し、チーム・バンドーの安泰も素直に喜べない様子である。
「……EONPも50年を過ぎ、ロシアに権力が集中している事に納得の行かない地域は多いでしょうね。特にイスラエルは今や、かつてこの星のリーダーシップを握っていた、アメリカの権力者の子孫達の巣窟と化していますから」
イスラエルの強味はユダヤ人の歴史的・精神的な団結と、旧アメリカ勢が持ち込んだ新自由主義のノウハウ、そしてサウジアラビアやUAEとの原油コネクション。
しかし一方でEONAの介入により、因縁の隣人パレスチナに対する武力交渉は禁じられ、独自の軍隊を持つ野望は封じられていた。
EONPの実質上のリーダーであるロシアには、大災害での被害が最小限に抑えられた軍備と油田が残されていた。
それ故、現在のアースに物量攻勢でロシアを転覆させられる地域は存在しないが、兵器製造のパートナーシップに限界が近付いている中国の動きに加え、歴史的背景からドイツやイタリアと手を組んで相手を牽制する事の出来ない、イスラエルへの対処に頭を悩ませている。
見た目は10代の少女であるフクちゃんも、女神様として既に200歳レベルの年齢。
この星の歴史を、どんな人間より詳しく理解しているのだ。
「……恵まれた環境で育ったあたしが、この50年が平和だったと言っちゃダメなのかも知れない。でも、少なくとも大きな戦争は無かった。悪党と賞金稼ぎがいたちごっこする世界は忙しないけど、銃と爆弾を使うテロや内戦よりましだと思う。宗教や民族意識の強い地域が経済侵攻をするのは、何か恐いわ」
財団を後継者に譲渡し、いずれ一族ともども名家の看板を降ろす事となるクレアは、アース激動の世紀の前兆を感じ、やや不安な表情を見せている。
「おはよう!朝ごはん食べに行こう!」
クレア達の部屋のドアをノックしながら、いつもと変わらない明るい声を響かせるバンドーの登場に、2人は安堵感を取り戻した。
5月20日・7:30
EONPヨーロッパ会議の開幕を90分後に控え、シルバはガンボア、キムとともに慌ただしく朝食を済ませる。
参謀職のロドリゲス氏を除いて、いずれ除隊が決定しているガンボアとキムには、機密保持の立場から会議を傍聴する権利は存在しない。
彼等はその他大勢の兵士や警察官とともに事務局の警備に当たる事になっており、まだまだ軍隊時代の腕に覚えのあるシルバも、進んで警備に参加する意向を示していた。
「……今回の会議は1日しかありませんから、飽くまで現状の確認でしょう。現時点でスイスの越境付近に不穏な動きはありませんし、ヨーロッパ各地でも暴動や小規模テロはありません。我々が警戒すべきは、正午のアトラクションだけでしょうね」
パンを頬張りながら、やや不明瞭に喋るガンボアの「アトラクション」という言葉が気になったシルバは、既に食事を終えて装備を点検していたキムに視線を移し、概要を探る。
「正午ジャストに、EONAのヘリコプターが事務局上空から帰り道のルートに関するメッセージを発して、警備増員の特殊レンジャー隊員数名がロープで降下するんです。既にヘリコプターの画像は受信済みで、少しでも違和感があれば撃墜出来る様に、対空戦車もスタンバイされています」
無線の傍受やメールの横流しの可能性を考慮するならば、この随分アナログな伝達手段にもまだ需要があるという事なのだろう。
「奴等のロープ捌きはもう芸術の域ですから。軍関係者以外から、何か見せ物の要望があったそうです。市街地で戦闘機アトラクションは出来ませんし、VIPな皆さんを楽しませるサービスじゃないですか?」
ストイックな性格のキムはアトラクションに何ら関心を示さず、事務的な報告をするにとどまってはいたものの、EONAに於ける特殊レンジャー部隊への入隊は極めて狭き門である。
スペイン語圏のテロリスト討伐に執念を見せていたシルバもかつて、危険な任務に投入されるレンジャー部隊に志願したものの、長身が災いして体重制限をクリア出来ず、入隊は叶わなかった。
「中尉、安心して下さい。ヘリコプター1機にレンジャー隊員数名です。銃は持たせない様に通告してありますし、万一テロリストが入れ替わっていたとしても、我々の人数なら取り押さえられますよ」
ガンボアは余裕の笑みを浮かべ、シルバに自分達の成長をアピールして見せる。
彼等ひとりひとりが、歴戦の猛者達。
今やすっかり賞金稼ぎ業に馴染んだシルバとは異なり、有事の際に人を殺すという選択肢を排除しない、冷徹でプロフェッショナルな軍人なのだ。
5月20日・8:00
パリの実家に滞在していたリンは、父ハオミュンとの間に気まずさを抱えたまま、3日目の朝を迎えている。
昨夜、兄ロビーの協力を得て家族4人が勢揃いし、この2週間のヨーロッパ旅行の実情と、彼女の勤務先であるアメリカーノ・ライブラリーの現状が報告された。
それを踏まえて、リンはバンドー達が賞金稼ぎの一団である事を皆に伝え、自身が魔導士として今後も彼等に同行する決意を打ち明けたのである。
リン一家は、家族全員が己の意志に従って運命を切り開いて来た。
中国の実家を継ぐ事無く、ヨーロッパで自分の料理を試して成功した父・ハオミュン。
女優とモデルの夢を諦め切れず、アイルランドからフランスへと渡り、努力の末成功を掴んだ母・キャシー。
反骨心から生まれた闘志を抑えつけられる事を嫌い、華やかなファッションモデルの世界からキックボクサーへと転身した兄・ロビー。
各々の人生を振り返れば、誰もリンの決断に口を挟む事は出来ないだろう。
だが、家族分断の危機を迎えた時にも実家と店を支え、その優しさで家族の絆を繋ぎ止めていた愛娘に、危険な仕事をさせる訳には行かない。
娘を持つ父親であれば当たり前に抱くその感情が、ハオミュンにリンの決断を支持させる事を拒んでいたのである。
ピピピッ……
アクエリアン・ドーム・テルメでの朝食を終え、屋内プールでのリフレッシュを控えて仲間と談笑するクレアの携帯電話が鳴った。
ディスプレイには「リン」の文字。
その場に居合わせたバンドーとフクちゃんも、彼女からの改めた合流の挨拶であると確信していたが……。
「リン?クレアだけど、この度は大変だったわね。でも、また一緒に旅が出来て嬉しい……え?」
クレアからの祝福の言葉が途切れ、リンの会話ターンが長くなっている。
その様子を間近で眺めていたバンドーとフクちゃんは、何やら緊急の用があるものと推測し、互いに目を見合わせていた。
「……父ははっきりと反対はしていないんですけど、賞金稼ぎの仕事について、パーティーの仲間から詳しい話を訊きたいと……。すみません、ご迷惑をお掛けして……」
リンの言葉に深く頷くクレアには、彼女の父親・ハオミュンの気持ちが良く分かる。
理解のある両親の下、剣術学校に通う事を許可されたクレアではあったが、学校を上位で卒業し、そのまま剣士になると彼女が打ち明けた時は、流石に猛反対されたのである。
ある意味、彼女以上に箱入り娘的に育てられたリンの父親であれば、尚更だ。
「……本来なら、仕事だけじゃなくてリンにも責任が持てるシルバ君が話せれば一番なんだろうけど、今はヨーロッパ会議で連絡出来ないから……バンドーでいい?」
バンドーは曲がりなりにもチームの代表であり、以前に会った時も農業と食材の話から、ハオミュンからの印象が良い。
クレアはバンドーをチラ見しながら、この大役を彼に託す事を決める。
「……バンドー、リンのお父様からよ。賞金稼ぎへの転身を認めてあげたいけれど、リンに危険な仕事をさせないか心配なんだって。一番説得役に相応しいのはシルバ君だと思うけど、あんたも代表な訳だから、誠意を持ってお父様と話してあげて」
クレアはスピーカーを掌で塞ぎ、ハオミュンに細かな事情を聞かれない様にバンドーへと対話者をスイッチした。
突然の大役に緊張が否めないバンドーではあったが、彼は元来これと言って気の利いた話が出来るタイプの男ではない。
自分達にリンが如何に必要な人材であるか、また、これまでリンが図書館司書であるが故に意識してきた配慮が如何なるものであったか、それを正直に伝えるだけである。
バンドーとハオミュンが言葉を交わすこと数分間。
チーム・バンドーには、私欲に我を忘れたりする様なメンバーは存在せず、地域の人々を苦しめている悪党の討伐を第一の任務にしている事。
また、メンバー各々に人生の目標があり、それを達成する為に、賞金稼ぎを一生の仕事とは考えていない事。
リンの常識人としての経験値と人柄を、チームが必要としている事。
そして最後に、チームはリンをあくまで回復と後方支援の魔導士として必要としており、武闘大会の様な1対1のルール以外で、彼女を矢面に立たせる事は無い事……。
バンドーはそうハオミュンに説明し、そして約束した。
「……分かった。君達を信じよう。但し、万一娘の身に何かがあった時は、隠さずに俺達に知らせてくれ。……ああ、娘を宜しく頼むぞ!」
電話越しにハオミュンの理解を得たバンドーは、聞き耳を立てて近寄っていたクレアとフクちゃんに親指を立てて見せ、彼女達から祝福の拍手が沸き立つ。
「……ありがとう、バンドーさん!父の手前、余り大きな事は言えませんが、私も覚悟は決めています。皆さんに甘える事の無い様、頑張ります!」
リンからのこれまでに無く気合いの入った一言に、チームの結束が一段と高まった事を実感するバンドー。
また彼は、リンが正式にメンバーとなった事で、フクちゃんからこれ以上強引な魔法の特訓を受けなくても良いという、別の安堵感に胸を撫で下ろしてもいた。
「……私が図書館司書でいられるのは今日だけです。これからパリの中央図書館で、スペインのマフィアに押さえられている可能性のある謎物件や、ヨーロッパの剣士ランキングとか、シルバ君やハインツさんの役に立つ情報を集めて来ますね」
「おお凄え!ケンちゃんもハインツも喜ぶよ!それじゃあ、また明日!」
今日を最後に、リンと公的機関との繋がりが無くなるのは残念であるものの、彼女程の魔導士がレギュラーメンバーである賞金稼ぎパーティーは、そうそうあるものではない。
電話を切ったバンドーの胸に、自身の成長を含めたこのチームの持つ無限の可能性への期待感が、余韻とともに込み上げていた。
5月20日・9:00
バンドー達が屋内プールで遊び、シルバがEONPヨーロッパ会議の警備に当たる頃、ハインツは地元ケルンの賞金稼ぎ組合を訪ねている。
今日は完全な休日であったハインツだが、やはり根っからの賞金稼ぎ。
剣以外に特に趣味も無い彼は、結局1人でも出来る仕事を探しに来てしまったのだ。
「よっ!水臭いな。仕事を探すなら誘って欲しいね」
当てもなく仕事の依頼を眺めていたハインツの前に現れたのは、相棒のカレリンが現在入院中のコラフスキ。
ハインツと組んだお陰で高難度の要注意人物・ゲルハルトを捕獲し、首尾良く133333CPを手にした彼は、群れない孤高の剣士がここに戻って来る事を先読みしていたのである。
「お前も1人で仕事か。カレリンは大丈夫なのか?」
ハインツは、ゲルハルトに肩を撃たれたカレリンを心配してコラフスキに容態を訊ねた。
「ああ、拳銃の弾は貫通していたし、肩の骨には接触していなかった。警察がゲルハルトと一緒に事情聴取するから入院しただけで、今日の昼には退院出来るとさ」
コラフスキは何やら含み笑いを浮かべながら、長年の相棒の頑丈さをアピールする。
「そうか……。あいつ、無茶する割には運がいいよな」
「ああ、全くだよ!」
カレリンと幼馴染みのコラフスキは勿論、同じ東欧で育ち、剣術学校でも同期だったハインツも、カレリンのキャラクターは熟知していた。
「……コラフスキ、お前はずっとカレリンと一緒に活動しているが、他のチームからスカウトされた事は無いのか?」
ハインツは、ルステンベルガーからスカウトされた自身の現状と重ね合わせ、コラフスキから何やらヒントを得ようとしている。
普段と様子が異なるハインツに気付いたコラフスキは、一瞬戸惑いの表情を見せたものの、やがてハインツの心中を探る様に過去を語り始めた。
「……スカウトか?ああ、あったな。俺とカレリンが、ムショから出所した直後だよ。東欧ではそれなりに有力なチームで、真面目な奴等だったよ」
コラフスキは剣の腕もさることながら、冷静な人格者として知られる男。
そんな彼故にカレリンのサポート役としてはベストな存在なのだが、裏を返せばもっと表舞台で評価されても良い男である。
「カレリンは正直でいい奴だとは思うが、お前はもっと強い奴と組みたいとか、もっと稼げるチームに行きたいと思った事は無いのか?」
かなり具体的に喰い付いて来るハインツ。
その言葉の裏に隠された迷いを直感的に察知したコラフスキは、彼が望むハインツらしさへと相手を誘導する様に、敢えてシンプルな答えを用意した。
「……俺は、ラトビアに埋もれたままではアースで負け組確定だと思っていた。だから賞金稼ぎになって西側に来たんだ。だが、この仕事は命懸けだから、普段は出来るだけ楽しい方がいい。一緒に居て楽しい奴と仕事をしたい。金では買えない楽しさってものは、お前にもあるだろ」
コラフスキのこの言葉が、ハインツの胸に深く突き刺さる。
腕は確かだが自己中心的……このイメージに間違いの無いかつてのハインツは、群れる事を嫌い、実力を認める周囲もそのキャラクターから敢えて仲間に加えようとはしなかった。
しかし、剣術学校時代から互いに遠慮の無い間柄だったクレアや、動物を通して母親との関係改善に貢献したバンドーの存在が、少しずつではあるが確実にハインツの印象を変えたのである。
「……サンキュー、コラフスキ!悪いが暫くお前と仕事は出来ねえな。あばよ!」
コラフスキの言葉に勇気付けられたハインツは、彼に一礼した後、無意識の内に駆け出していた。
ルステンベルガー達と組めば、確かに今より質の高いトレーニングは出来るだろう。
だが、自身の目標である「最強剣士」への道は、命を懸けた本気の戦いの先にしか開けないものである。
剣士にとって、自分の命を懸けられるものとは何なのだろう。
名誉かプライドか、目先の金か、ランキングの順位か。
それとも、大切な仲間か。
ハインツの脳裏にはチーム・バンドーの面々の顔、最初に浮かんだのはクレアの顔。
その景色に思わず苦笑いを浮かべ、頭を横に振ったハインツではあったものの、取りあえず今の所は序列1位に挙げておいてやると言わんばかりに、彼は真っ直ぐ走り続けていた。
仲間の居場所は分かっている。
レンゲンフェルト。
5月20日・11:00
「ああ、楽しかった!屋内でもやっぱりプールは最高ね!」
やや雨足が弱まったとは言え、未だ傘無しでは外出出来ない程の大雨を横目に、ようやくアクエリアン・ドーム・テルメを満喫したクレア、バンドー、フクちゃん。
武闘大会で名を上げた事と、脱いだらラガーマンの様なガタイであるバンドーの迫力もあり、プールでクレアやフクちゃんがチャラ男からナンパされる様なハプニングは発生しなかった。
これまで、水のリゾートとはほぼ無縁の人生を送っていたバンドーは、クレアやフクちゃんの水着姿も含めて、久し振りに訪れた男の青春を噛み締めながら男子更衣室へと急ぐ。
「どけっ!」
突然、女子更衣室の方向から通路に飛び出して来た1人の男。
細い通路では幅を取る体格のバンドーを避け切れず、互いの肩を強打する。
「……痛てっ……!」
全速力の男の勢いに押し込まれ、一瞬顔を歪めるバンドー。
「馬鹿野郎!気を付けろ!」
どう見ても自分の責任を棚に上げ、バンドーを罵倒して走り去る男。
長身で、年齢はバンドーより若そうだ。
「……気を付けるのはそっちだろ……ん?」
怒りの余り思わず男に言い返したバンドーは、衝突の勢いで男のパーカーのポケットから床に転げ落ちた、電源の切れた携帯電話を発見する。
「……おい、携帯落としたぞ!」
水着の上からパーカーを羽織っただけの軽装で、駆け足で非常口から外に出る男の背中にバンドーの声は届かない。
そんな姿で雨空の下に飛び出す精神構造の男にはお手上げと言わんばかりに、バンドーは両手を広げた。
(……まあ、あいつ軽装だし、また戻って来るはずだ。何となくシャクだけど、この携帯フロントに届けておくか……)
紛失した携帯電話を届ければ、横柄な男も流石に謝罪のひとつくらいはするだろう。
バンドーは気持ちを切り替え、男子更衣室へと入って行く。
その頃クレアとフクちゃんは、女子更衣室の中で泣き崩れる1人の少女を発見していた。
まだ高校生くらいに見えるその少女は、年齢に見合わない高級ブランドのアクセサリーを複数身に着けており、裕福ではあるが何処か主体性に欠ける、隙の多そうな雰囲気を醸し出している。
「……あなた、どうしたの?」
自身も裕福な家庭に育ってはいたものの、剣士として家柄を知られない様に行動して来たクレアにとっては、元来こういう金持ちぶりを隠そうとしない少女に共感は出来ない。
しかしながら、彼女にもフクちゃんにも、泣いている少女を無視出来ない程度の正義感はあった。
「……パパのカードが盗まれちゃった……。彼氏にも連絡が付かないし、どうしよう……」
アクエリアン・ドーム・テルメは高級リゾート施設であり、宿泊客には所謂セレブ層も多い。
故にセキュリティは厳格で、鍵の物理的盗難に備える為に全てのロッカーは暗証番号システムを採用している。
だが、ラブラブ過ぎて秘密を共有してしまう様なバカップルにとっては、そのシステムが災いの元にもなるのだ。
「……すみません、施設の中で恋人と離れ離れになっているのに連絡を受け付けないって事は、あなたの彼氏がカードを盗んで逃げたんだと思いますよ……」
クレアが言うべきかどうか迷っていた本音を、女神様であるフクちゃんは躊躇無く口にしてしまう。
「……そんな……」
言葉を失った少女が更なる号泣モードに突入しそうな恐怖を察知したクレアは、慌てて少女に寄り添い優しく慰めた。
「……取りあえず、フロントに相談しましょ!彼氏が犯人を追っ掛けているかも知れないしね」
クレアとフクちゃんは何とか着替えを済ませた少女を介抱し、女子更衣室から出た所でバンドーと合流。
彼がストラップに指を入れて振り回していた携帯電話を見た瞬間、少女の表情が激変する。
「それ彼氏の……ルーカスの携帯だわ!何処で見付けたの?」
「……え?これ?いきなり飛び出して来た男にぶつかって、その衝撃で落ちたんだよ。取りあえずフロントに届けようと思って。君彼女?ちょうど良かった」
少女がそこまで必死の形相を見せる理由が理解出来ないバンドーは、これにて一件落着といった安堵の表情を浮かべていたが、現実はそんな単純な問題では無かった。
「……ちょっと待って、黙って許したらまた騙されるわよ!もし彼氏が犯人なら、状況から考えて絶対バンドーを探しに来る。フロントに事情を説明して警察も呼んで貰いましょう!」
「……えっ?その……」
少女からは面倒な事を起こしたくない様子が見て取れたものの、盗まれたカードの額によっては一大事になりかねない。
口を挟んだクレアを始め、心の底では誰もが少女の彼氏である、ルーカスの犯行を疑っていたのである。
フロントに事情を説明した後、ルーカスが接触しやすい様にバンドーを1人でプールサイドに残し、シャキーラと名乗るその少女とクレア、フクちゃんの3人はレストランからプールサイドを見張っていた。
バンドーはプールサイドのベンチに1人で腰を掛け、彼が通路で立ち止まってルーカスの携帯電話を拾ったと思わせる様に、男子更衣室からの直線通路沿いにある自販機のドリンクをわざと購入し、ベンチの目立つ所にセッティングしている。
その時、非常口からこっそりと忍び込む1人の男。
日焼けした肌に長身、パーカーもバンドーが見たルーカスが着ていたものに間違いは無い。
だが、眉毛まで隠れるサングラス型のゴーグルと、屋内プールには少々場違いなニット帽を装着したその姿に、多少なりとも変装の意図が彼にある事は誰の目にも否定は出来なかった。
「……おい、あんた!」
暫しの間プールサイドを見渡したルーカスがバンドーの姿を発見し、ゴーグルを外して詰め寄って行く。
「……さっき通路でぶつかったよな。あの時はすまなかった。急いでいたんだよ。携帯を落としたみたいなんだが、あんた拾わなかったか?」
ルーカスがカードの窃盗に関わっているとすれば、通話記録を始め個人情報が大量に残されている携帯電話を、紛失したままでいるはずが無い。
クレアの予想通り、脇目も振らずにバンドーに接触を試みるルーカスの姿を凝視したシャキーラは、彼が本人であると断定した。
「……間違いありません、彼がルーカスです。パパが私にカードを持たせてくれた頃、私の学校のサークルのOBだと言ってパーティーに現れました。カッコ良かったし、パパの会社のグループ企業で働いていると言ってビジネスにも詳しかったので、頼もしい人だと思って交際していたんです。でも、今考えると、ちょっとタイミングが良過ぎるかも……」
シャキーラの両親は彼女が幼い頃に離婚し、以来彼女はベンチャー企業の社長である父親に引き取られていた。
しかし、多忙な父親は彼女の側にいる事は少なく、物心ついた時には父親から預けられた大金を浪費して孤独を紛らわす、そんな人生を送らざるを得なかったのである。
「……ん?ああ、携帯ね。拾ったよ。女子更衣室であんたを探している女の子がいてさ。その娘に預けたよ。彼女なんだろ?ダメじゃないか、携帯の電源切ってぶらぶらしたら。浮気かと思うだろ?」
バンドーは背後のレストランを親指で指し示しながら、レストランの窓からこちらを覗いているシャキーラが携帯電話を持っていると、焦りの色を隠さないルーカスに匂わせた。
「……すまねえ、恩に着るよ!」
ルーカスはバンドーと目も合わさずに一礼すると、レストランの窓から見えるシャキーラ目掛けて一目散に駆け寄って行く。
「……動くな、警察だ!窃盗容疑で事情聴取する。直近に通話している相手の詳細を聞かせて貰おうか!」
シャキーラ、クレア、フクちゃんの壁に隠れていた2名の警官が勢い良く飛び出し、ルーカスの前に立ち塞がる。
警官は一足先に携帯電話の通話記録をチェックし、数日前から急激に通話回数が増えている人物がいる事を突き止めていた。
「ルーカス、私は貴方がカードを盗んでなんかいないと信じてる!だから警察に協力して!」
シャキーラの必死の説得に苦虫を噛み潰すルーカスは、警官を振り切ってプールサイドを逃走する。
1階の非常口はフロントスタッフによって施錠され、彼が外に出るにはプール脇の階段を駆け上がって2階に行き、そこから非常階段を使って降りるしか方法は無い。
「……待てっ!この野郎!」
バンドー、クレア、フクちゃんもルーカスを追跡し、事態の異変に気が付いた観光客もプールから上がり始め、結果として追跡の邪魔になる程にプールサイドが混雑している。
(外にさえ出られれば車が待ってる……仕方ねえな!)
額に汗を光らせるルーカスは周囲の観光客やスタッフを物色し、くそダサボディースーツでリハビリを先導するトレーナーのメーガンを羽交い締めにした。
「……動くな!この婆さんがどうなってもいいのか?」
リハビリが一段落してプールサイドに上がっていたメーガンは、突然の事に状況が上手く飲み込めていない様子ではあったが、その物腰からは意外にも落ち着きが窺えている。
「メーガンさん……この卑怯者!彼女を離しなさい!」
昨日までお世話になったトレーナーを人質に獲られ、クレアは怒り心頭だ。
「ルーカス!止めて!罪が重くなるわ!」
飽くまで純粋にルーカスを心配するシャキーラが、涙ながらに人質の解放を訴える。
ルーカスとシャキーラの問題に止めておけば、まだ示談による解決も可能だが、第3者を巻き込めばルーカスの有罪は免れない。
「……シャキーラ、今までありがとう。俺は最初から、お前の親父の金が目的だったんだ。お前の親父は、金儲けの為に不正な手段を使っている。会社の金を使途不明金で使い込んで、自分の稼ぎにしているのさ!お前にカードを渡したのは、娘が遊びで金を使い込んでいた事にカムフラージュする為だよ!もうカードは暗証番号と一緒に仲間に渡っている。俺が逮捕されても、そこから保釈金を出して余りある金さ!」
「……どういう事だ!?」
ルーカスの理路整然ぶりに合点の行かない警官は、シャキーラの父親の疑惑にも追及を強めた。
「……俺が逮捕され、真相が明らかになればシャキーラの親父の悪事も明らかになる。このカードの残り金額は10000000CP。俺の保釈金と組織の小遣いレベルの収入さ。この額なら、奴は黙って見逃すだろうよ!まあ、俺も保釈出来るレベルの罪で済ませたいから、この婆さんに手は出したくねえな。俺が外に出るまでお前らが大人しくしてくれさえすれば、後はシャキーラの親父が勝手に解決してくれるんだよ!」
一見衝動的な犯行に見えて、相手の弱味を調べ尽くしたプロの手口。
「組織」という言葉からも、ルーカスが何らかの反社会的勢力に所属しており、シャキーラの父親が何らかの形で手を組んだその組織に、これまた何らかの不義理を働いたと見て間違いないだろう。
「……可哀想な人達ね……」
ルーカスに羽交い締めにされているメーガンが、寂しそうに肩を震わせていた。
「……ん?何だよ婆さん、一番可哀想なのは巻き込まれたあんたじゃねえか?人より自分の心配をしな!」
ルーカスはメーガンの言葉の意味が理解出来ず、捨て台詞を吐いて悪態をつく。
「……若い人が、こんな事しか出来ない時代が哀しいわ。貴方も、そこの女の子も、お金儲けしか考えていない社長さんも、皆可哀想だわ!」
見た目は穏やかな初老の女性にしか見えないメーガンが、突如としてルーカスの両腕を引き剥がし、頭を屈めた勢いのまま相手の胸に強烈な肘打ちをお見舞いした。
「……ぐおっ……!?」
「メーガンさん!?」
余りにも突然の光景に呆気に取られるクレアの目前で、ルーカスの手から逃れたメーガンは素早いローキックで相手の膝を蹴り上げ、そのまま警官によって保護される。
「……痛ててっ……このババア!」
頭に血が昇り、逃走よりも闘争本能に火が着いてしまったルーカスの前に、この休日でエネルギーを有り余らせたクレアが立ちはだかった。
「あんただけは許さないわ!たあっ!」
剣は無くとも、半端な男など相手にならないクレアのハイキックがルーカスのテンプルを直撃する。
「……がはっ……!」
キックの衝撃に一瞬意識を飛ばしたルーカスはプールサイドに転倒し、這い上がる隙も与えないクレアの連続攻撃が、相手を袋叩きへと追い詰めていた。
「……このっ!このっ!何なのよ全く!オラオラオラっ!」
必要以上に恨みやストレスが乗っているクレアの暴力に、思わず血の気が引いていくバンドーとフクちゃん。
シャキーラに至っては、あらゆるショックの応酬に気を失っている。
「……ひいいっ……!」
クレアの暴力から命からがら逃げ出したルーカスは階段を駆け上がり、追いすがるクレアとバンドーを振り切って非常階段から雨の降りしきる駐車場へと逃げ出した。
「……まずい!車に仲間がいるのか!?」
バンドーのパワーや魔法を以てしても、走り去る車を止める事は出来ない。
焦燥感の立ち込めるその瞬間、雨を避けるようにしてアクエリアン・ドーム・テルメに駆け込む、ひとつの人影が近付いて来る。
「泥棒よ!誰か捕まえて!」
半ば破れかぶれに張り上げるクレアの悲鳴に反応したその人影は、何やら剣を抜く様なシルエットを見せ、ルーカスが飛び乗ろうとしていた車の4つのタイヤを素早く斬り裂いた。
「……うわわっ……!?」
エンジンを掛けようとしたその車はタイヤのパンクにより動きを止め、やむ無くドアから走り去ろうとしたルーカスとその仲間を威嚇する様に、鋭い剣捌きを見せる人影が両者を地面に這いつくばらせる。
「……あの剣士、やり手だわ!こんな所にあんな人がいてくれるなんて……え?あああ!?」
剣士の人影に近付くにつれて視界が晴れて来たクレアとバンドーが見たものは、何とケルンから全速力で駆け付けたハインツだった。
「……ああ!? 何だお前ら?ここでも仕事か?」
その後、ルーカスと車内にいた仲間は現行犯として警官に逮捕されたものの、既にカードは組織の人間によって持ち出され、残高は0にされている。
シャキーラに罪は無いが、父親の疑惑の参考人として警察に連行され、これから知らされる真実は、今後の彼女の人生に深く影を落とす事になってしまうのであろう。哀しい話だ。
「……私は幼い頃に大災害を経験して、何も無い所から這い上がる経験をしましたよ。でも、皆で力を合わせて頑張った事で、心から愛する人や本当の友達が作れました。今の時代、災害前の様な華やかな世界には戻れないし、皆で力を合わせた頃にも戻れない。目的を失って白けてしまった今の若い人が、凄く可哀想ですよ……」
メーガンは遠くを見つめながら、自分がいなくなった後の世界に想いを馳せ、悲観的な表情を浮かべている。
「……それにしても、メーガンさんがあんなに強いなんて、びっくりしましたよ!まるで格闘家みたいですね!」
クレアからの称賛に、少々照れ臭そうに肩をすくめたメーガンは、ふと思い出したかの様にバンドーの方を振り向き、柔和な眼差しで意外な過去を語り始めた。
「……バンドーさんと言いましたね。幼い頃、私に勇気をくれたのは、貴方のお婆様でした。貴方のお婆様に憧れて、私も格闘技を始めたんですよ」
メーガンのその言葉に、バンドーは予期せぬ衝撃を受ける。
バンドーの祖母であるエリサは、元オセアニアの格闘女王として地元では有名人であったが、その影響力がヨーロッパにまで広がり、医師やトレーナーとして名高いメーガンの人生までも変えたのだから。
「今こうして膝のリハビリを指導しているのは、私自身、格闘技で何度も膝をやってしまったからなんです。残念ながら、貴方のお婆様に追い付く事は出来ませんでしたが、貴方がお婆様の意志を受け継いでいる事が、私にとって何よりの幸せですね。真っ直ぐに生きてさえいれば、自分の人生が無駄ではないといつか分かるんです」
「……メーガンさん、ありがとうございます!おばあちゃんはまだまだ元気ですから、貴女もまだまだ元気でいて下さい!」
感動の余り言葉を失ったバンドーは、メーガンと固い握手を交わす事しか出来なかったものの、ここにまたひとつ、自分が剣士として、格闘家として、魔導士として、戦う理由が出来た事への喜びを新たにしていた。
「……ところでハインツ、あんた今日はお休みだったんでしょ?どうしてレンゲンフェルトに来る気になったの?」
ハインツのお陰でルーカスが逮捕出来たと言っても過言では無い貢献度に、クレアは深い感謝の意を示していたが、元来孤独を愛するハインツが、自分から仲間の元に足を運ぶという事自体が極めて異例なのである。
「……あ?う〜ん、そうだな……」
突然振られた質問の答えに躊躇するハインツ。
ルステンベルガー云々の話は、シルバやリンが揃ってから改めてすれば良い。
「……上手く言えないが、お前の顔が見たかったって事だな……」
ハインツからのまさかの言葉に一瞬面喰らい、その後で頬を赤らめるクレア。
「……もう少し遅く来て、ルーカスを逃がして悔しがるお前の顔が一番見たかったんだけどな!」
「ぶっ!ぎゃははは!」
ハインツの照れ隠しの仕掛けに思わず吹き出したバンドーは太字スマイルを全開させ、その態度が逆鱗に触れてしまったクレアから思い切り首を絞められていた。
(続く)