第25話 武闘大会参戦!⑯ 譲れない道
準決勝第1試合、チーム・バンドーは前回大会準優勝のチーム・ルステンベルガーを激闘の末に退け、チームとしては大会初出場ながらファイナリストの座を手にする事に成功した。
ルステンベルガーへの挨拶を終えて医務室に駆け込んだハインツを待っていたのは、左膝を負傷したクレアを始めとするチームメイトと、彼の親友でもあるケルン警察派出所職員、マイヤーである。
「マイヤー!どうしたんだ?こんな所まで」
ハインツは親友との予期せぬ対面に驚きを隠せない。
チーム・エスピノーザ次鋒、ゲレーロの薬物使用疑惑の件で、昨日彼を頼ったのは事実だが、ゲレーロの処分は警察で決める事であり、大会関係者への報告であれば、電話やメールで可能なレベルだったからだ。
「……ハインツ、ゲレーロが色々吐いてくれたんだよ。チーム・エスピノーザの地下格闘技賭博や、選手のスカウトに麻薬を利用していた事とかな。警察が大会関係者に掛け合って、然るべき処分が必要になったのさ」
マイヤーはその仕事柄、特に表情を変える事無く淡々と説明したものの、武闘大会関係者としては戦々恐々の事態である。
かねてより黒い噂はあったエスピノーザ周辺だが、確たる証拠が無い為にヨーロッパ中の武闘大会を荒し回り、その潤沢な資金の寄付で大会関係者を黙らせて来た悪行が、遂に裁かれようとしているのだ。
「……でも、もうすぐ試合だぜ?仮に奴等が大会追放とかになれば、五体満足のカムイ達との決勝かよ!?」
ハインツの動揺に、バンドー達は改めて自らの置かれた立場を確認する。
確かに、勝利の為に手段を選ばないエスピノーザ達の存在は、クレアやリンにとっては不安要素であり、大会自体がフェアプレーで行われて欲しいという願望はある。
しかしながら、準決勝で少なからずダメージを受けたチーム・バンドーとしては、決勝の対戦相手がどちらであろうと、それなりにダメージを受けていて貰わなければ困るのだ。
「……その辺は俺が説得するよ。俺とお前との関係を知った上で、俺が派遣されたんだからな」
マイヤーはそう言い残して拳を威勢良く握り締め、大会事務局へ向かう為に医務室を後にする。
「……あたしなら大丈夫よ。診察の結果、骨には異常無かったし、いつ誰が相手でもやるだけよ!」
ベッドの上で果敢な闘志を見せるクレアではあったが、全ての大会参加者に彼女の左膝の弱点は見抜かれてしまった。
「クレアさんに、何かいい防具を見付けないと……」
クレアの左膝を心配するリンとバンドーが、互いの防具の予備を見比べ、色々と組み合わせながら彼女の左膝のプロテクトを模索する。
「……今は武闘大会中ですから、武器の整備器具もどこかにありますよね?ハインツさん、このアレーナに硬いものが斬れる、レーザーメスみたいな器具はありますか?」
シルバからの突然の質問に、ハインツは一瞬不意を突かれた様な反応を見せるも、やがて頭の中を整理して記憶を紡ぎ始めた。
「……ああ、整備室に行けばあるはずだが……。あんなもん、俺達素人には使えねえだろ?仮に使えたとして、一体何をするつもりなんだ?」
ハインツの言葉を聞き終えたシルバは確信犯的な笑みを浮かべ、自らのリュックから何やら意味ありげなアイテムを取り出して見せる。
「何かの時に役に立つと思って、軍隊時代の備品を持ち歩いているんです。自分はレーザーメスを扱えます。これはサングラス型のゴーグル、そしてこれは、セラミックプレートですね」
サングラス型のゴーグルは、軍隊では照明弾の使用時等で重宝されている装備で、この状況に於いては、レーザーメスの光と塵から目を守るものであると推測は出来る。
だが、セラミックプレートは、ペーパーバッグ程の大きさはあるものの、1㎜にも満たない極薄の硬い板でしか無い。
「セラミックプレートは、ジャングルでの調理や作戦ボードに使うものでした。でも、今の自分には特に必要なものではありません。セラミックの固さは、剣の直撃にも耐えられるレベルですから、これを膝の皿くらいの大きさに切って、クレアさんの防具のクッション部分の間に入れるんですよ。衝撃の全ては防げませんが、骨へのダメージは無くなるはずです」
「……マジ!?すっげえケンちゃん!」
正直者のバンドーは、デキる幼馴染みの完璧超人ぶりに感嘆の声を上げ、他のチームメイトも期待の色を隠さなかった。
「……凄いぜシルバ!作業にどれくらいかかるんだ?」
「整備室作業の許可さえ取れれば、10分やそこらで終わりますよ。カムイ達はスカウティングしていますし、エスピノーザ達は個人的に良く知っているんで、自分はこれ以上スカウティングの必要は無いですから」
ハインツの問いに即答するシルバの姿を横目に、バンドーとリンの様子も慌ただしい。
医務室の端に置かれた内線用の電話には、整備室直結の番号も記されており、まずは一刻も早い連絡が必要な為である。
「ありがとうシルバ君!お願いするわ。バンドー、電話をかけるのはリンにやらせて!整備室の常駐なんて、むさいオヤジに決まってるわ。リンがかけた方が許可を貰えるから!」
素早い機転を利かせるクレアの勇姿に、医療スタッフを含めた医務室が爆笑に包まれた。
5月16日・11:00
準決勝第2試合の開始を目前にして、アレーナにはいつになく緊迫した空気が流れている。
例年ならば開会式と閉会式にしか姿を現さない、ゾーリンゲン剣術連合会のマルク・ヴェスターマン会長が、レフェリーとマイヤーを引き連れてアレーナに入場して来たのだ。
この光景をあらかじめ予想出来ていたのはチーム・バンドーの面々と、彼等とマイヤーの話を偶然聞いた医務室のスタッフだけで、観客は勿論、試合を控えたカムイやエスピノーザにも状況は把握出来ていなかったのである。
「準決勝第2試合の開始前に、今大会の主催者を代表しまして、ゾーリンゲン剣術連合会のマルク・ヴェスターマン会長から、ご会場の皆様に重大なお知らせがございます」
改まった雰囲気の男声アナウンスに呼び出されたヴェスターマン会長は、レフェリー、そしてマイヤーと最終確認を取って頷き、ゆっくりとマイクスタンドへと歩み寄った。
「……ご会場の皆様、準決勝の最中ではございますが、ここで皆様に重大なお知らせをしなくてはいけません」
アレーナは会長の第一声にピタリと静まり返り、その言葉の選び方からも、良いニュースではない雰囲気が周囲に浸透して行く。
「昨日の準々決勝第4試合、チーム・エスピノーザ VS チーム・HPの試合中、チーム・エスピノーザの次鋒として出場したラファエル・ゲレーロ選手が、当アレーナの敷地内の芝生で違法薬物を使用した容疑で、警察に拘束されました」
会長の言葉に、一斉にどよめきを上げる観客席。
ゲレーロの消息不明により、最悪の事態を懸念はしていたエスピノーザも、眉間にしわを寄せて奥歯を喰い縛る。
「……更にゲレーロ選手の自白と、ケルン・デュッセルドルフ両警察の調査により、チーム・エスピノーザ関係者が格闘技賭博や薬物に関わっていた可能性が濃厚となった為、我々主催者側と致しましては、チーム・エスピノーザの大会エントリーを見直さなくてはならない事態となってしまいました」
静寂からどよめき、そして遂に激しいブーイングに包まれるアレーナ。
チーム・エスピノーザへの疑惑は以前より指摘されており、彼等からの多額の寄付にプライドを捨てた剣術連合会の姿勢への批判も含めて、観客の不満が爆発したのだ。
「しかしながら、既に決勝進出を決めたチーム・バンドーがダメージを背負って戦おうとしている中、このままチーム・カムイを不戦勝にさせる訳には行きません!よって我々は、このまま準決勝第2試合を開催し、仮にチーム・エスピノーザがこの試合に敗れた場合のみ、3位決定戦を行わず、チーム・ルステンベルガーを第3位に認定する事と致します!」
この会長の決意のコメントに、シンプルに熱い戦いが観たかっただけの観客は割れんばかりの拍手と歓声で応え、闘志満々でベンチに座っていた両チームも胸を撫で下ろし、再びウォームアップに熱を入れ始める。
「……俺達にとっては順当な結果だな。これだけ会場に周知されたら、エスピノーザ達も今後の身の振りを考えるだろうし、地元のルステンベルガー達に有利な決定は、主催者側への批判を逸らす事が出来る。マイヤーもなかなか策士だぜ!」
ハインツは親友の仕事を称賛しながら、満足げに両チームのウォームアップを眺めていたが、その光景に馴染みの無い顔を見付け、隣に陣取るバンドーの肩を叩いていた。
「……おいバンドー、あの2人知ってるか?」
ハインツが指差す先には、チーム・エスピノーザの新メンバーと思われる、2人の選手が身体を動かしている。
ひとりは入念に剣の素振りを行い、もうひとりはキックのバリエーションのチェックに余念が無い。
「……俺は知らないな。格闘家の方はアジア系の顔立ちだけど……?」
ヨーロッパの賞金稼ぎに詳しいハインツが知らない選手を、ニュージーランド出身のバンドーが知るはずは無い。
恐らくゲレーロと、準々決勝で対戦相手のパクに重傷を負わされたカルロスの代替要員なのだろうが、疑惑にまみれたこのチームに敢えて加わるからには、無名とは言え相当の覚悟を持っている選手……バンドーはそう認識していた。
「チーム・エスピノーザ、登録選手の変更をお知らせします。先述の不祥事で登録を抹消されたラファエル・ゲレーロ選手、負傷により入院したファン・ベルナト・カルロス選手に代わりまして、シャビ・サンチェス選手と、タワン・ティーンダー選手が登録されました。チーム・エスピノーザ先鋒、シャビ・サンチェス!」
「うおおおぉっ!」
男声アナウンスに煽られ、気合いの雄叫びをあげるサンチェス。
だが、彼はドイツではまったく無名の剣士であり、会場の反応は微々たるもの。
それもそのはず、彼は地元のスペインでも、幼馴染みのタワンと2人で細々と賞金稼ぎに精を出し、喰うや喰わずの毎日を強いられる状況。
彼等にとって、シンパシーを感じるチーム・エスピノーザに2名の欠員が出た事は、まさに千載一遇のチャンスだったのである。
「……ミューゼル、奴の素性は良く知らないが、少なくともお前が負ける相手じゃない。奴の気迫は受け流せ。お前は喧嘩で勝てなくてもいい、冷静に勝負で勝て」
「はい!」
カムイはミューゼルに簡素なアドバイスを送り、そのアドバイスを理解したミューゼルはやがてゆっくりとフィールドへ歩みを進めた。
「チーム・カムイ先鋒、アレクサンダー・ミューゼル!」
準々決勝で見せた正確無比な技術と、地元のドイツ出身であるという点が幸いし、アレーナの大観衆からかなりの声援を浴びるミューゼル。
このまま順調に結果を積み上げれば、バンドーやリンらに並び、今大会に於けるブレイク新人として注目されるだろう。
「尚、両チームに剣士・格闘家・魔導士が混在している為、準決勝第2試合を通して総合ルールを採用します」
チーム・エスピノーザのメンバーの中で、剣士ルールを行使出来るのはこのサンチェスだけ。
だがしかし、勝利の為には手段を選ばない彼等にとって、この総合ルール以上に理想的なルールは存在しない。
(……これが、武闘大会の雰囲気か……。喉が渇くな、くそっ……!)
昨日まではただの観客であり、相手をスカウティングする時間も取れなかったサンチェスは、えも知れぬ緊張感を全身に纏いながらも、失うものの無い立場を活かした全力ファイトを胸に誓い、首から下げた、今は亡き家族の写真を入れたペンダントを握り締めて集中力を高めた。
「ラウンド・ワン、ファイト!」
試合開始のゴングが鳴っても、未だ武闘大会の雰囲気に飲まれているサンチェスはフットワークが重く、元来ガード重視のカウンターを得意とするミューゼルとの相性もあり、序盤は双方、相手の出方を窺う展開となっている。
身長175㎝前後の中肉中背、短く刈り上げた茶髪に無造作な顎髭と、ヨーロッパの若者としては全く以てありふれた風貌のサンチェスは、対戦相手や観客にも強い印象は与えられていない。
(……緊張しているのか?身体が硬そうだな……よし!)
初戦で勝利を上げて自信を付けていたミューゼルは先制攻撃を決意し、軽いステップから跳ねる様にサンチェスに近付いている。
「サンチェス!ボケッとしてんじゃねえ!」
ベンチのエスピノーザから檄を入れられたサンチェスは我に帰り、目前に迫るミューゼルの姿に驚き、咄嗟に体当たりで相手を遠ざけようと突進を見せた。
「どわわわっ……!」
突然の体当たりを受けてバランスを崩したミューゼルは、堪らず足元を滑らせ畳に尻餅を着いてしまう。
「スリップ!ノーダウン!」
レフェリーが両者の間に入り、両手を広げて一時的に試合を切ろうとしたその瞬間、自らが追い込まれていると過剰に意識したサンチェスはレフェリーを突き飛ばし、畳から立ち上がらんとしていたミューゼルの左肩を思い切り蹴り上げた。
「ぐわっ……!」
想定外の攻撃に顔を歪め、畳の上を転げ回るミューゼル。
明らかな反則を目撃したアレーナは一斉にどよめき、すぐにサンチェスへの大ブーイングが始まる。
突き飛ばされたレフェリーは慌ててサンチェスの前に立ちはだかり、ミューゼルを庇いながらサンチェスに注意を促した。
「倒れた相手に追撃が可能なのは、ダウン、テイクダウン時のみです。スリップ時の追撃を行ったサンチェス選手に、減点1が与えられます」
盛大なブーイングを横目に、チーム・エスピノーザのメンバーでサンチェスのプレーに表情を曇らせていたのは、ラフプレーを好まないミドル級ボクサー、トーレスだけ。
彼等に何より必要とされているものは、勝利への執念と制御出来ない程の闘志なのである。
(……ああ、俺は悪党だよ。このチームに来た瞬間から悪党になると決めたんだ……)
自らに容赦なく浴びせられるブーイングに身を任せながら、サンチェスは己の半生に想いを馳せていた。
サンチェスはマドリードにある小さな部品工場長の長男として生まれ、近隣のタイ系移民のティーンダー一家とのタッグで、不景気の中どうにかして工場を切り盛りして来た。
家庭の事情で満足な教育が受けられなかったサンチェスは、幼馴染みでティーンダー家の長男タワンとともに工場を手伝いながら武術を磨き、やがてサンチェスは剣術で、タワンはキックボクシングを生業にする出発点に立つ。
しかし、発注元の大企業の横暴により工場は閉鎖を余儀無くされ、親友であるティーンダー一家を裏切る事の出来ないサンチェス一家は人種差別の標的にされ、再起の道を閉ざされてしまうのであった。
移民のティーンダー一家は滞在期間延長を断られた事で生活保護を受けられず、サンチェス一家に自責の念を駆られた彼等は心中、やがてサンチェスの両親も絶望感から心中してしまう。
残されたサンチェスとタワンは極貧に耐えながら、賞金稼ぎへの登録料を暴力で奪い、世の中の矛盾への怒りと互いの友情のみを原動力に、今日まで生き抜いてきた。
だが、彼等は理解している。
自分達が倒してきた賞金首達が、実は自分達と全く同じ境遇の人間であり、自分達が憎んできた人間達からぶら下げられたはした金を受け取り、泥水をすすりながら生きざるを得ないという現実を……。
「ハアアァッ……!」
反則による減点をきっかけに開き直ったサンチェスは、左肩の痛みが残るミューゼルに猛攻を仕掛けていた。
経験不足が顕著な荒々しい太刀筋には違いないものの、左肩の痛みで完全なガード体勢の取れないミューゼルからは、攻撃を撥ね飛ばすだけの余裕は感じられない。
「シャビ!行け!押し切れ!」
サンチェスとは、互いにファーストネームで呼び合う仲のタワン。
ともに初めての武闘大会の雰囲気に緊張こそしてはいるが、キックボクシングの選手としてアマチュア時代から興行を経験し、観客の視線に慣れているタワンの方が、いち早く落ち着きを取り戻していた。
(勝って……勝って道を切り開くんだ!親父、お袋……何故死んだ!?死んじまうくらいなら、憎い奴を殺してからでもいいのに!そんな事も出来ない男になる為に、俺は、俺は……生まれてきたんじゃない!!)
反則を犯した事で観客からのイメージが悪化し、後に退けなくなったサンチェスは、家族を失った悲しみと社会の不条理にも突き動かされ、何の個人的感情も持たないミューゼルを攻め立てている。
彼の猛攻を耐え忍ぶミューゼルには、そんなサンチェスの心の混沌が、その表情と剣から伝わっていた。
(……この人、どうしてこんなに苦しそうなんだろう……?自分が押しているのに……)
自らの消極性故に磨き上げた高いガード技術で、左肩が万全ではなくともサンチェスの猛攻を凌いでいたミューゼルは、やがて彼の攻撃からは恐怖を感じなくなっていく。
(……この人、僕と戦っていない。何かもっと、大きなものと戦っている……)
「……くそっ!……くそっ!」
やや攻め疲れか、自暴自棄気味な単調な攻撃が増えてきたサンチェスの剣を、ミューゼルは右手1本で受け止め瞬時に身体を捻り、痛めた左肩でサンチェスの胸部にショルダーチャージをお見舞いする。
「……うぐぐっ……!」
胸部への衝撃で息を詰まらせたサンチェスは慌てて間合いを取り、攻め疲れと合わせて乱れた呼吸を整える為、肩で大きく息を吐いた。
「……貴方に何があったのかは知りません。でも、今の貴方の相手は僕です。もう少し落ち着いて戦いましょう」
サンチェスの突進を防ぐ為に右手で剣を正面に突き付け、左肩を回してダメージからのリハビリを行うミューゼルは、相手を冷静にたしなめながら時間を稼ぐ。
劣勢側が優勢側にアドバイスを送る、この一種異様な光景にアレーナは静まり返り、やがて呼吸を整えたサンチェスの表情に怒りの色が満ちていく。
「ふざけやがって!」
自らが侮辱されたと捉えたサンチェスは激昂し、更なる愚直な突進に挑みかかった。
相手の感情と行動の一致を改めて確認したミューゼルは、左足の軽やかなステップワークでいとも簡単にサンチェスの突進をかわし、痛みの薄れた左手を素早く剣に添える。
「……たああっ!」
サンチェスの剣の大振りをかわしたミューゼルは、冷静なポジショニングから右手の剣を突き、剣に添えた左手で右手首を叩いて突きのコースを変え、サンチェスの右肩の防具をあっさりと粉砕して見せた。
「あれは……!?」
観客席から思わず声を上げるバンドー。
ミューゼルはバンドー達の試合を観ながら、ルステンベルガーの技術をこの短時間で盗んでいたのだ。
「落ち着けサンチェス!別に剣で勝負しなきゃいけないルールじゃねえんだぜ!」
ミューゼルの技術に浴びせられる観衆の称賛の合間を縫って、動揺を隠せないサンチェスにエスピノーザが喝を入れる。
昨日まで観客だった新入りに、過大な期待をかけるエスピノーザ達ではない。
彼等が望む事は、チームと組織のアピールの為、使える手段は全て使い、決してただでは負けない事。
ミューゼルの攻撃に手も足も出なかったサンチェスは、不安を抱えながらも強引に気持ちを引き締め直し、まずは正面のガードを固めながら相手との間合いを詰め直した。
「……せいっ!」
サンチェスのガードを確かめるかの様に、正面から相手の胸の防具を突きにかかるミューゼル。
容易に避けられる攻撃が来た事で、取りあえず安堵した様な表情を見せるサンチェスは、相手の突きを自信たっぷりに上から叩き付けようとして、大きく剣を振りかぶる。
「……気を抜くのが早い!」
サンチェスの胸に迫ったミューゼルは、相手の剣が振り降ろされる直前に身体を時計回りに回転させ、サンチェスの剣の降下を空振りに終わらせると同時に、バックハンドで相手の右腰の防具を破壊した。
「……そんな……!?」
目にも止まらぬ早業を連発し、サンチェスと観客の度肝を抜くミューゼルは素早く剣を左手に持ち換え、サンチェスの左膝に潜り込んで防具を破壊。慌てて斬り付けにかかる相手の剣を左手のバックハンドで跳ね除けた後、その勢いのまま回転して背中に回り込む。
「3手先を読んでるんだよ!」
余裕の笑みを浮かべるミューゼルは、全く自分をスカウティング出来ていないサンチェスに対して面白い様に攻撃を決め、遂には背中の防具までも斬り裂いた。
「……ミューゼル……!あの子、自信付けたわね!」
アレーナ熱狂の陰で気付く者は少なかったが、レディーはミューゼルの急成長に思わずベンチから立ち上がり、両隣のカムイ、ハッサンと目を合わせて喜びを露にする。
高速の連続技に成す術なく屈したサンチェスは茫然と立ちすくみ、辛うじて死守していた正面のガードからも両手を降ろして虚空を見つめる。
「シャビ!ただでは負けるな!タックルだ!」
幼馴染みの窮地に居ても立ってもいられず、ベンチから立ち上がったタワンは両手を大きく振り回し、サンチェスにアドバイスを飛ばした。
「……!?」
茫然自失から目を覚ましたサンチェスは、自らの胸の防具への攻撃でとどめを刺さんと突進する、ミューゼルの姿を凝視する。
(……もう、剣では勝てない……。普段退治してきた泥棒やチンピラとは段違いだ。これが、トップチームにスカウトされる剣士なのか……。でも、俺にだって、何かが出来る……!)
「とどめだっ……!」
ミューゼルは全速力でサンチェスに迫りながらも、突きに見せかけた上段斬りへと剣を振りかぶる。
だが、起死回生、捨て身のタックルを試みるサンチェスには、そのモーションの長さが幸いした。
「うおおりゃああっ!」
全身全霊の気迫とパワーで、ミューゼルの下半身に喰らい付いたサンチェスはやがて剣も捨て、両手の突き押しを加えて相手を畳へと押し倒す。
「テイクダウン!」
「よっしゃあ!」
タワンを始め、サンチェスの意地のタックルを称賛し意気上がるチーム・エスピノーザ。
剣士が本職のサンチェスではあるものの、子どもの頃からなりふり構わぬ修羅場を潜って来た猛者の集うチーム・エスピノーザにおいては、むしろ泥臭い喧嘩スタイルはお手の物。
一方で、純粋な剣士であるミューゼルが格闘技の練習を積んでいるという情報は無く、試合前のウォームアップでもその素振りは見せた事が無かった。
「喰らえっ!」
サンチェスのパンチに咄嗟の顔面ガードをしたミューゼルが参考にしたのは、ルステンベルガーの戦い方。
そんなミューゼルを尻目に、自らが狙える上半身へランダムパンチをお見舞いするサンチェス。
防具があろうが無かろうが、ひたすらに殴り続ける戦法はバンドーと同じだ。
「くっ……げほっ……!」
ミューゼルは顔面をガードした両手の指の隙間からサンチェスの下半身を確認し、相手が興奮の余り、かつてのバンドーの様に大きく腰を浮かせている事に気付く。
「おりゃっ!」
ミューゼルは少々自由が利く様になった右膝をサンチェスの背中に打ち込み、その攻撃を嫌がって前のめりに移動するサンチェスの顔面に、右手のアイアンクローを発動させた。
「が……があっ……!離せっ……!」
重い剣も自由自在に操れるミューゼルの掌は大きく、首を振るだけではアイアンクローを振り払えないと悟ったサンチェスは、パンチの手を休めてミューゼルの右手を引き剥がしにかかる。
「……今だっ!」
サンチェスの両手が顔面に移動した事で、重心が背後に移り、上体を起こせる様になったミューゼルは全力で飛び起き、渾身の左フックをサンチェスの右手を巻き込む様に右テンプルへと叩き込んだ。
「……ぎゃっ……!」
左フックと右アイアンクローのダブル攻撃に顔を歪めたサンチェスは、顔面を両手で押さえて卒倒し、すかさず立ち上がったミューゼルは剣を拾う事無く、顔面を押さえていたサンチェスの左手をゆっくりと引き剥がして腕固めに入る。
「……これは……俺の寝技を!?」
観客席から試合に見入っていたハインツは、ポジショニング、フォームから手順に至るまで綺麗に基本通りの寝技をかけるミューゼルが、明らかに自身の技を盗んでいる事を確信していた。
左腕を固める為に、邪魔になる右手の攻撃を無力にする左フックを喰らった事で、サンチェスの右手はミューゼルまで届く事は無い。
あくまで無表情に、淡々と手順に沿ってサンチェスの左腕を締め上げるミューゼルの姿に、アレーナからは不気味な静寂のオーラが発せられていた。
「……うわああぁっ……!」
ミューゼルには寝技をかけた経験が無い為、彼の理屈のみで締め上げられる腕固めには加減というものが存在しない。
故にサンチェスの痛みはあっと言う間に限界を超え、無意識のうちに畳が豪快にタップされる。
「ストーップ!サンチェス選手、ギブアップです!」
カンカンカンカン……
「1ラウンド3分37秒、勝者、アレクサンダー・ミューゼル!!」
「やったぜミューゼル!完全覚醒だな!」
大歓声に背中を押される様に、大はしゃぎするハッサンとレディー。
この短時間でルステンベルガーやハインツから技を盗み、自らの劣勢の間に理路整然と勝利への階段を1段ずつ登る、まさに面目躍如の完勝だった。
「すみません、寝技、初めてかけたので……。大丈夫ですか?」
ミューゼルは、畳に腰を降ろしたまま左腕をマッサージするサンチェスに声を掛ける。
「……情けなんて要らねえよ。結局俺は、どこまでも負け犬さ……」
差し伸べられたミューゼルの握手を振り払い、自暴自棄に陥るサンチェス。
そんな彼と視線を合わせる為に、ミューゼルは腰を降ろしてサンチェスの頭を掴み、やがてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……今の貴方の戦い方は無謀過ぎます。近いうちに大怪我をすると思いますよ。でも、大怪我して、何も出来ずにゆっくり休む事が、今の貴方には必要なのかも知れませんね……」
「クレアさん、出来ましたよ!」
声を弾ませて観客席に戻って来たのは、クレアの防具を作る為に整備室で作業をしていたシルバ。
試合の合間のインターバルで席を立つ観客に行く手を阻まれながらも、息を切らせて自信作を手に現れる。
「……これが防具?綺麗ね……」
シルバからクレアに手渡された防具は、薄いセラミックプレートを膝の皿に合わせた、およそ10㎝角サイズに切断したもので、コーナーでの負傷を避ける為に緩やかな曲線が描かれていた。
「こりゃあ一種の芸術だな。シルバ、今から職人になっても大丈夫だぜ」
ハインツも太鼓判を押す加工と仕上げの完成度は、シルバの完璧主義な性格の表れと言っても過言ではないだろう。
「これを膝パットのクッションの手前に入れるんです。こうやって……」
元来、膝の防具は革のパットの下にクッションがあり、高級品は革バンド、廉価品はマジックテープで膝に括り付けるものである。
革よりも強度の高い金属等の素材をパットにすると、防具の重量で足の動きが鈍くなり、加えて剣の衝撃でパットが変形する事による、膝の負傷が懸念されるというジレンマがあった。
大災害後の世界では稀少な資源として、軍隊や公共交通機関での使用に限定されていたセラミックを膝の防具に使うというアイディアは、これまで幾多の職人が実現させたくても出来なかったのである。
「凄い……硬いのに軽いわ!ありがとうシルバ君!」
ある意味厚手の革よりも軽いと言える、その驚きの装着感にクレアも満面の笑顔を浮かべていた。
「ケンちゃん、リンにも作ってあげたら?」
バンドーは幼馴染みの肩を叩いて個人的なアドバイスを送るも、シルバは既に不敵な笑みを浮かべており、ポケットから更にもう1枚のプレートを取り出す。
「予備にもう1枚作ってるんですよ。両膝に入れてもいいですし、両肩に入れてもいいですよね。フィールドに上がるのはひとりずつですから、チーム全員で使いましょう!」
「シルバ君、ありがとう……もう、特許取っちゃってもいいと思います」
シルバの完璧な仕事ぶりに、公的機関に繋がりの深いリンらしい的確なひと言が添えられていた。
「シャビ、お前の仇は取ってやる。ムエタイは世界一だ。剣よりもキックの方が速い事を思い知らせてやるさ」
肩を落としてベンチに帰還した、幼馴染みのサンチェスを激励したタワンが、入れ違いにフィールドへと歩みを進める。
「……ま、気にすんなや。お前等はあくまで飛び入りの助っ人なんだ。俺等も多くは望んじゃいねえよ。それより、本気を出して負けたその感覚、忘れんなよ?賭博では流して戦う奴には誰も賭けてくれねえからな!」
エスピノーザはサンチェスを励ましつつも、皮肉を交えた笑顔を浮かべ、早くも大会後の格闘技賭博の心得を伝授していた。
「チーム・エスピノーザ次鋒、タワン・ティーンダー!」
タワンはドイツでは全くの無名だが、スペインではムエタイ型のキックボクサーとして2試合のプロ経験を有している。
だが、強い者が挑戦を受け入れた上で格上の相手に勝利しなければ、キックボクサーで生活する事は出来ない。
その日暮らしの資金が足りず、タワンはキックボクサーより賞金稼ぎの道を選ばざるを得なかったのだ。
「……スパーリングに付き合ったが、タワンはそこそこやれるはずだ。カムイ達も、上半身にダメージのあるミューゼルを続投はさせないだろう。剣術にやや劣るゲリエ相手なら勝機はある」
チーム内では異色の元ミドル級ボクサー、トーレスはタワンの実力とカムイ陣営の出方を冷静に分析し、チーム成績の挽回に期待を寄せている。
「……カムイ、俺にやらせてくれ。格闘ルールでやらせてくれ」
突然のゲリエからの直訴に、チーム・カムイのベンチは言葉を失っていた。
カムイとしては、上半身にダメージが残っているミューゼルをキックボクサーのタワンと対戦させるつもりは無く、順当にゲリエを指名する予定である。
しかし、タワンは2試合とは言えプロ経験のあるキックボクサー。
ラグビー選手出身で、並の剣士よりは格闘センスに優れるゲリエではあったが、剣のリーチというアドバンテージを放棄する事に不安は否めない。
「……お前が望むなら止めはしないが、まず理由を聞かせろ」
ゲリエの目を真っ直ぐに見つめるカムイは、ゲリエがその目を逸らさない事に彼の強い決意を感じ、静かに問いただした。
「……俺達が決勝に行くとすれば、俺の相手は恐らくバンドーだ。奴は剣の腕を上げているし、魔法も使える。剣術や魔法のケアを含めて、接近戦で勝負を着けたい」
そう語るゲリエの表情からは、自らのフィジカル能力に対する確かな自信が窺える。
彼とバンドーはほぼ同じ身長、体重ながら、日系とサモア系のクウォーターであるバンドーに比べ、ブラックアフリカンであるゲリエのフィジカル能力は間違いなく優れていた。
彼は自身とバンドーのスタイルとの類似性を認識した上で、剣士寄りに成長しているバンドーとは逆の道を選択しようとしていたのである。
「……いいだろう。お前の好きにやれ。だが、仮に負けたら俺達の言う事を聞けよ」
柔和な笑みを浮かべてゲリエの肩を叩いたカムイは、興味津々にすり寄って来たレディーとハッサン、試合直後の汗を拭いながらハイタッチで意思表示するミューゼルとともに、フィールドへと歩みを進めるゲリエを見送った。
「……最近の若手は主張するねえ!こいつら含めて、もう5人にしちまったらどうだ?カムイ」
これまでのチーム・カムイの慣例であった、主要メンバー3名プラス現地招集2名という形から、5人組への移行を耳打ちするハッサン。
2人を隣で見守るレディーも、ミューゼルとゲリエの成長を実感して目を細めている。
「……そいつを決めるのは、この試合が終わってからだな!」
カムイは豪快な笑顔で2人に釘を刺し、チームの完成度が確実に高まっている事に、確かな手応えを感じていた。
「チーム・カムイ、選手の交代をお知らせします。アレクサンダー・ミューゼル選手に代わりまして、イブラヒム・ゲリエ選手が入ります。尚、勝者の権利を持ったまま交代するミューゼル選手は、ゲリエ選手の勝利又は敗退後に再びフィールドに上がる権利を有しています。チーム・カムイ次鋒、イブラヒム・ゲリエ!」
カムイ達程では無くとも、準々決勝で名を上げたゲリエには観衆から暖かい拍手が送られている。
一方で初登場のタワンも、見た瞬間ムエタイ選手と分かるそのコスチュームから、エスピノーザ達にありがちなラフプレーや、対戦相手をおちょくる様なメンタリティーは感じさせず、観衆からの受けもまずまずの様子であった。
「ゲリエ選手、剣を使わないのであれば、この試合は格闘戦と見なし、格闘ルールを採用するが、大丈夫か?」
「大丈夫です」
丸腰でフィールドに上がったゲリエはレフェリーに注目され、両者とも格闘ルールを了承する。
「……おいおい、いくら俺が無名だとは言え、剣士がムエタイ選手と格闘ルールたあ、ちょいと舐め過ぎじゃねえか?」
鉢巻きからフェイスペイントまで、上から下まで既にムエタイの様式で統一されていたタワンは、笑顔こそ浮かべていたものの、心中穏やかでは無い様子が窺えていた。
「……気にしないでくれ。神に誓って、出来る限りの事はする」
ゲリエはタワンの顔ではない、何処か遠くを眺める様に精神を集中させ、神への祈りを捧げるポーズを取りながら間合いを空けに歩き始める。
(……いよいよゲリエの試合だ。剣を持っていないのは意外だな……決勝に来ても格闘になるのか?)
バンドーは観客席からゲリエに神経を集中させ、隣に陣取るハインツもバンドーの対戦相手はゲリエだと見込んでいた。
先鋒で急成長中のミューゼルには、もっと相応しい対戦相手がいると確信しながら……。
「ラウンド・ワン、ファイト!」
試合開始のゴングとともに、ムエタイ特有の片足を上げ気味に前にすり寄る様なフォームで間合いを詰めるタワン。
身長こそ180㎝を超えようかと言う長身だが、体重は70㎏に満たない程の痩身で、ムエタイ選手らしい細マッチョ体型が、その褐色の肌に映えていた。
対するゲリエは、剣を持ちながらの格闘経験は豊富で、いざと言う時のパンチと寝技には自信があるものの、前歴がラグビー選手だった事もあり、足の役割はキックではなくダッシュである。
まずはタワンのキックを1度受けてみない事には、戦術そのものが立てられない状況にあった。
「攻めて来ないなら、こっちから行かせて貰うぜ……そらっ!」
ビシイッ……
タワンの挨拶代わりの右ローキックが、ゲリエの左足を捉える。
キックガードの基本として左足を浮かせて対処したゲリエだったが、タワンの細い足からは想像の出来ないパワーに、思わず表情が軽く歪む。
(挨拶代わりで、こんなに強いとは……。本気のキックは喰らえないな。前に出るべきか……)
ゲリエはキックの直撃を避ける為、タワンと正面から向き合わずに立ち位置を右に少々ずらし、相手の右足を目掛けて左足のキックを打ち込んだ。
ドスッ……
内側から外側へ、足を払う様なキックは当初の狙いを外れてタワンの膝の内側に当たったが、パワーだけは並以上だけに、意表を突かれたタワンも痛みから慌てて左足を引っ込める。
「パワーだけはある様だな。だが……」
ゲリエに不敵な笑みを返したタワンは、素早いフットワークで瞬く間に相手の正面にポジショニングし、ゲリエのガードでは届かない左肩口へのハイキックをお見舞いした。
「ぐおっ……!」
肩の激痛にとどまらない、身体全体のバランスが揺さぶられる衝撃に思わずよろめくゲリエ。
キックボクシングならではの乾いた打撃音がアレーナに響き渡り、ある意味何でもありの武闘大会では異色な程の、「張りつめたプロ意識」が観衆を一気に引き締めていた。
「やるじゃねえか、タワン!」
ゲリエが剣を捨ててタワンに合わせて来た理由を知らないエスピノーザではあったが、サンチェスが出鼻を挫かれた重い空気を払拭出来そうなタワンの攻勢に、両腕を組んで満足気な表情を浮かべている。
(さて……どうするゲリエ。ムエタイボクサーのタワンには膝蹴りもある。ラグビー流のタックルが簡単に決まる保証は無いぞ)
ゲリエの選択を注視するカムイも両腕を組み、全くの偶然とは言え、エスピノーザと同じスタイルで戦況を見守っていた。
「フンッ……!」
突然、意を決した様に後方への連続ジャンプで間合いを広げたゲリエは腰を落とし、左肘を曲げて胸の前で横に倒す。
「ハアアァッ……!」
気合いの雄叫びとともに、腰を落としたまま全力の突進を始めたゲリエ。
左腕でタワンのキックをガードしながら、相手の下半身にタックルを仕掛ける算段だ。
「そんな見え透いた手が……!左腕1本で俺の膝が防げるとでも!?」
ゲリエの安易な策に失望の色を隠せないタワンは、即座に左膝蹴りをスタンバイし、全く恐れの色を見せないゲリエの顔面に向かって、容赦無く左足を振りかぶる。
「……そこだ!待ってたよ!」
タワンの左足が振りかぶられた瞬間、左腕に隠して挙動を隠し続けてきた右肘を思い切り引き絞ったゲリエは、迫り来るタワンの膝に渾身の右ストレートを叩き込んだ。
「……がああぁっ……!」
予期せぬ右腕からのパンチを、膝蹴りを繰り出す瞬間に打ち込まれたタワンは、声にならない悲鳴とともに両手で左膝を押さえ、やがて激痛にバランスを崩して背中から畳に卒倒する。
「テイクダウン!」
これまでの緊張感が嘘の様に、興奮を解き放ったアレーナの大歓声に背中を押されたゲリエは、激痛で左膝が動かせないタワンの左半身側にマウントし、その重量級のパンチを1発ずつ確実にタワンに打ち込んでいく。
「……がはっ……!」
ゲリエのパンチを顔面に受けたタワンの鼻腔からは鮮血が吹き出し、相手が慌ててガードする顔面を避けたゲリエの第2波攻撃は、防具の無い腹部へと繰り出された。
「すげえ……猛ラッシュだ!」
バンドーは観客席から、一度着火すれば手の付けられないゲリエのパワーとスピードに戦慄しながらも、自らの対戦シミュレーションとして、彼のラッシュからの脱出法を頭の中で必死に模索し続ける。
「……くっ……ぐおおっ!舐めんじゃねえ!」
ゲリエがとどめの一撃とばかりに両腕を振り上げたその瞬間、相手から離れる様に転がり逃げたタワンは何とか立ち上がり、反応が遅れたゲリエの顔面に強烈な右フックを叩き付けた。
「ぬおおおぉっ……!」
右フックを左テンプルに喰らったゲリエは、その勢いで畳の上を転げ回り、激痛と回転で平衡感覚を失ないつつも辛うじて立ち上がる。
「逃がすかよ!」
左膝を引きずりながらもゲリエに詰め寄る怒り心頭のタワン。
既に鼻血は止まり、キックを諦めパンチで勝機を見出だす為に果敢に相手の懐へ飛び込んで行く。
「やろうってのか!?いいぜ!来いよ!」
こちらもテンプルに1発喰らって怒り心頭のゲリエ。
両者ともにノーガードで、どちらからとも無く互いの顔面へと、パンチの応酬がスタートした。
「くっ……げほっ!がはあっ……!」
お互いに全く手を緩めない顔面パンチの連発に、アレーナは未曾有の熱狂に包まれ、みるみるうちに腫れ上がる両者の顔面から、クレアとリン、女性客は目を逸らす。
唯一、人間の意地をその肌で感じ取っていたフクちゃんだけが、最後まで両者の戦いを見届けて行く事となる。
「うおおりゃああぁ!」
互いに渾身の一撃がクロスカウンターとしてテンプルにヒットし、両者はこの一撃を最後に畳に崩れ落ち、仰向けで大の字になり、やがて動かなくなった。
「ダウン!ワーン、トゥー……」
想像を絶する両者の激闘に、その場に居合わせた者全員が固唾を飲んで状況を見守り、両チームのベンチから復帰を急かす声が上がる事は無い。
ダウンカウントが着々と刻まれる中、誰もが両者ノックアウトの結末を覚悟し、既に拍手さえ上がり始めていたその時。
「……シーックス、セブーン……」
カウントセブンが刻まれた瞬間、ゲリエの手足が反応を示し、最後の力を振り絞って中腰の姿勢に復帰する。
「……ゲリエ!立て、少しだけでいい、立て!」
ゲリエの気迫に打たれたチーム・カムイの声援を受けたゲリエは、カウントナインで遂にフィールド内唯一のスタンディングを達成するのであった。
「……テーン!」
カンカンカンカン……
「1ラウンド4分02秒、勝者、イブラヒム・ゲリエ!!」
「うおおぉ!すげええぇ!」
バンドーの興奮も掻き消される程の熱狂がアレーナを包み込み、大観衆は一斉にスタンディング・オベーションで両者を讃える。
ゲリエはすぐにタワンの元を訪れ、既に目を開けて悔しそうな表情を浮かべる彼の姿に安堵感を覚えていた。
「……大した奴だぜ。俺の土俵に降りてきてこれだからな。文句なしでお前が勝者だよ」
そう言って差し出されたタワンの右手に対し、ゲリエは固い握手で彼の意思に応え、最後にひと言だけ告げてフィールドを後にする。
「この試合に勝者はいない。神もそう言ってくれるだろう。……だが、敗者はお前だけだぜ!」
(続く)