第19話 武闘大会参戦!⑩
第25回ゾーリンゲン武闘大会総合の部、準々決勝最後の試合、チーム・エスピノーザ VS チーム・HPの一戦は、チーム・エスピノーザ先鋒、ハビエル・ガジャルドが持ち前の狡猾さを活かした試合運びで2連勝を飾った。
だが、満身創痍のガジャルドは更なる連戦を拒否し、チーム・HPの中堅、アレックス・コネリーと戦う次鋒の選定に迫られている。
「……どうしたゲレーロ?気分が悪いのか?」
やや確信犯的に、チームの大将ダビド・エスピノーザは、ベンチの中堅席に腰掛けて俯いていたチームメイト、ラファエル・ゲレーロに話しかけた。
「……緊張したのか、薬が切れてきた。すまねえダビド。俺を次鋒に繰り上げてくれ……早くヤクがやりてえ」
巨漢のコロンビア系格闘家ゲレーロは、観客やレフェリーに聞かれない様に、出来るだけ声を潜めて自らの体調を吐露する。
彼はドラッグ欲しさに武闘大会の仕事を引き受けた、薬物中毒患者だったのである。
してやったりと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべるエスピノーザ。
兄を始め裏社会と密接な関係にあるエスピノーザはゲレーロの事情を知った上で、パワーファイターである彼をドーピング検査の無い大会で重宝してきたのだ。
「……よし、いいだろう。1勝すれば5回分、2勝すれば10回分だ。お前が負けても1回分はやる。ただし、この会場でヤクはやるな。外に出てやれ。このルールを破ったらお前はクビだ。分かったな」
エスピノーザはゲレーロの耳元で忠告を呟いて拳を合わせ、鉄の爪を右手首に装着したゲレーロはレフェリーの元へと歩み寄っていく。
「チーム・エスピノーザ、選手の交代をお知らせします。先鋒、ハビエル・ガジャルド選手のコンディション不良の為、次鋒、ラファエル・ゲレーロ選手が入ります。尚、ガジャルド選手がこの対戦中の復帰を拒否した為、準々決勝の残りの対戦でガジャルド選手がフィールドに戻る権利は消失しました!」
ガジャルドは自らの命を懸けてまで戦う男ではない。
観客は彼の判断に納得し、男声アナウンスとともに疎らながら健闘を讃える拍手がアレーナ内から聞こえていた。
「コネリー!奴のリーチは長いんだ。長剣に慢心するなよ!」
親友であるハドソンの忠告をありがた迷惑にかわしながら、コネリーは自らの剣のリーチを再確認する為の素振りを行う。
いくらゲレーロが190㎝近い巨漢とは言え、右手首に装着した鉄の爪は30㎝にも満たない長さである。
寧ろあれは防具だ。
コネリーが警戒すべきはゲレーロの足、剣ではガードが難しいローキック。
彼のキックを封印し、鉄の爪での攻撃も抑えつける唯一の選択肢は、右肩への徹底攻撃。
(……ま、そんな事に気付かないレベルの奴は、この大会には出てないよね、きっと)
「チーム・HP中堅、アレックス・コネリー!」
独り言を頭に浮かべてフィールド中央へと進むコネリーは、ふとゲレーロの表情が少々おかしい事に気が付いた。
(……何だ?体調が悪いのか?試合の前から不自然な量の汗だが……)
「ラウンド・ワン、ファイト!」
「……はっ……!」
試合開始のゴングとややタイミングをずらして飛び出したコネリーは、ゲレーロの左半身側に立つや否やゴルフスイングの要領で、距離を取りつつ相手の右半身へと斬りかかる。
「……くっ!」
ゲレーロは力任せに振り降ろした右手の鉄の爪でコネリーの剣を叩き落とし、舐めるなと言わんばかりに左手のフックでコネリーを追い払った。
「おいおい、無防備過ぎるんじゃないですか?」
コネリーは剣の間近で左腕を振り回すゲレーロの戦法に目を疑い、目前に晒された左腕に剣を突き立てる。
この角度の剣をゲレーロが右手でガードすれば、上手く行けば鉄の爪を壊せるだろう。
「うらああぁっ!」
突如雄叫びを上げたゲレーロは左肘の防具を自ら剣に当てに行き、肘の防具の破損と引き換えに一瞬の怯みを見せたコネリーの喉元に左腕を押し付けた。
「……ぐはっ……!」
反り返る様にして自らゲレーロとの間合いを空けるコネリー。
喉元を押さえて前屈みに体勢を崩した彼を冷徹に見下ろすゲレーロは、右手の鉄の爪を装着したまま格闘の構えを整えた。
「……あれは……コンバットサンボ?彼はもしかして……?」
観客席からゲレーロの構えを目撃したシルバは、自らも軍隊時代にロシアの本部で経験した格闘技の訓練を思い出す。
ラファエル・ゲレーロはシルバと同じEONアーミーに所属し、主に南米のテロ組織・麻薬組織の対策に当たる優秀な軍人であったが、上官と麻薬組織の癒着を知った口止めに薬物中毒にされてしまう。
真実を知る仲間を殺され、軍隊を追われた彼は自らのプライドと戦いながらもドラッグの誘惑に勝てず、自らの顔が割れていないスペインに潜入してマフィアの用心棒に身を堕としていたのだ。
「……時間がねえ……。殺しちまったら勘弁してくれよ……」
自らの左肘も剣に差し出す、命知らずのゲレーロの異様なまでの圧力に、コネリーは首を左右に振って剣を構え直す。
彼は死を恐れない。
コネリーには何が彼をここまで掻き立てているのか、この時点では理解出来ていなかった。
その瞬間、右足一蹴。
ゲレーロのローキックがコネリーの左足首を払い、痛みで身体を左側に傾けたコネリーの顔面目掛けて鉄の爪が飛んでくる。
「ちょ……冗談だろ!」
コネリーは辛うじて剣で鉄の爪をガードし、再び試合開始直後と同じく、ゲレーロの右肩への攻撃に意識を集中させた。
武闘大会のルールでは、刃物での顔面攻撃は当然禁止されている。
だが、スタンディングでの戦いでは肩や胸への攻撃にも顔面付近は通過する。
コネリーがゲレーロの鉄の爪を防ぐには、自らが攻撃する以外に方法は無いのである。
(もっとビビるんだな……武闘大会に来る様な観客どもはいくら紳士面してても、インテリ野郎が狼狽する所が観てえんだよ……。ヤクをぶら下げられたゲレーロは野獣みてえなもんだぜ)
ベンチから薄ら笑いで試合を見つめるエスピノーザは、対戦相手の経歴や観客の心理を巧みに突きながら、自らのチームのメンバー起用や汚いプレーの調整を行う策士ぶりを、この大会に於いても思う存分に発揮していた。
「……だああっ!」
コネリーはゲレーロに休息を与えず彼の右肩への攻撃を続けていたものの、パワーとスタミナに優れた相手のガードを打ち崩す事が出来ず、逆に自らのスタミナが消耗している事に焦りの表情を浮かべていた。
「コネリー、少し時間を稼げ!ポイントではお前が勝っているはずだ!」
コネリーの親友であり、チーム・HPの双頭リーダーの1人、ジェームズ・ハドソンは、第1ラウンドの残り時間を考慮した作戦をベンチからアドバイスする。
何かに急かされた雰囲気のゲレーロの様子は対戦相手のベンチや、フィールドから離れた観客席からも窺い知る事が出来たのだ。
「……これでどうだ!」
コネリーは右肩への連続攻撃から意表を突き、ゲレーロの鉄の爪攻撃を前屈でかわしながら左肩の防具へと攻撃対象を移動する。
ピシイィッ……
コネリーの剣がゲレーロの左肩の防具にヒットした瞬間、意気揚々と前屈姿勢から起き上がっていたコネリーの視界には、不覚にもゲレーロの左膝は見えていなかった。
「……くおっ……!あっ……」
鈍い打撃音とともに、ゲレーロの左膝がコネリーみぞおちを直撃する。
利き足では無く、体勢も不十分故にコネリーにとって致命傷にはならなかったが、その激痛に腹部を抱えるコネリーはなりふり構わずゲレーロから逃げ回った。
「逃がすか!この野郎!」
既に大粒の汗をかき、視線もやや虚ろになっていたゲレーロは、左手で何度も目を擦りながらコネリーを追走する。
この試合は総合ルール。
コネリーがダウンした時点でゲレーロにマウント体勢を取られれば、剣士であるコネリーは圧倒的に不利なのだ。
「おいおい!逃げてんじゃねーよ!」
ベンチのエスピノーザの野次に煽られる様に、観客からコネリーへの嘲笑が飛び交っている。
「ぐあああぁっ!」
薬物の禁断症状が現れたのか、ゲレーロは蛙の様な大ジャンプで鉄の爪を振り回し、流石にこの様子には観客席からもざわつきが生まれていた。
「……ねえ!この人おかしいですよ!レフェリー!薬物検査とかしないんですか?」
コネリーは反撃の機会こそ窺ってはいたものの、予測不可能なゲレーロの攻撃には為す術無く、フィールド内を逃げ回らざるを得ない。
「薬物中毒はいけない事さ。だが、薬物使用歴のある格闘家を出すなというルールはねえ!俺達はルールに則って戦っている。ゲレーロに禁断症状が出ちまったのは残念だが、こいつはこの試合中、ヤクをやりたいけど我慢しているんだぜ?真面目な人間だろうが!」
エスピノーザは壮大な屁理屈で一部の観客を大いに煽り、ゲレーロは目先の勝利に向けて全力でコネリーに追い付いた。
「コネリー!ガードだ!後90秒守り切れ!」
第1ラウンドは3分30秒が経過し、ハドソンの檄も熱気を増していく。
「冗談でしょ?後90秒もあんの?」
獰猛な熊の様な勢いで襲いかかるゲレーロの攻撃を、剣を広げて仁王立ちで踏ん張りながら辛うじてガードするコネリー。
一撃一撃の重さと、勝利以上の何かを渇望するゲレーロの気迫に足が震える中、ふと相手の右手を見ると、激しい攻撃を連続していたからなのか、鉄の爪が手首から外れかけている事に気付いた。
「……これは、もしかしたら……よし!」
コネリーわざと身を引く形でゲレーロの攻撃をかわし、彼が右手を上へと振りかぶる瞬間に下から剣で鉄の爪を叩き上げ、宙へと打ち払う。
宙を舞う鉄の爪は近くの畳へと突き刺さり、ゲレーロが一瞬後ろを振り返った隙を突いて、コネリーは全力で剣をゲレーロの胸の防具へと振り降ろした。
「……フン!それがどうしたっ!」
禁断症状で恐れを知らないゲレーロは、振り向きざま位置の確認もせずに素手でコネリーの剣を白羽取りし、驚きの余りに硬直するコネリーを睨んで微笑みを浮かべる。
「そおりゃっ!」
ゲレーロは自らの手に僅かに滲む鮮血にも表情を変える事無く、コネリーから剣を奪い、その規格外のパワーで遥かフィールド外まで放り投げた。
「……逃げろ!コネリー、逃げろ!」
ハドソンの必死の警告にも、コネリーの身体はもう、硬直して動かなかった。
ビシイイィッ……
ゲレーロの右ハイキックは、禁断症状により視点が定まらず、直撃こそ逃れたが、身体の硬直で頭部の攻撃を避ける事が出来なかったコネリーは、殆ど卒倒に近い形でテイクダウンを喫する。
「テイクダウン!」
「……早く、早くギブアップしろ!」
勝利を急ぐゲレーロは丸腰になったコネリーにマウンティングし、鉄の爪を失った右腕から容赦ないパンチを繰り出した。
「……ぐっ……げふっ!」
顔面に一撃を喰らい激痛の余り我に帰ったコネリーは口内から出血し、ゲレーロの連続パンチを辛うじてかわし続けるものの、もはや敗北寸前まで追い込まれている。
「……あいつは新しい仕事も決まっている。もう自分だけの身体じゃねえんだ。許してくれ……!」
ハドソンは親友の身体を気遣い、目の前にあるタオルに手をかけ、フィールドに投げつけようとしたその瞬間、ゲレーロの悲鳴がアレーナにこだました。
「ぎゃああぁっ!」
コネリーは下半身が無防備だったゲレーロの股間を蹴り上げ、間一髪でマウンティングから脱出し、武器を取り戻す為に自らの剣とゲレーロの鉄の爪の位置を見比べ、より近い鉄の爪へと駆け寄る。
「……畜生、待ちやがれ!」
目を血走らせながらコネリーを追跡するゲレーロ。
対するコネリーはゲレーロに背中を向けた状態で、何やら鉄の爪を装着するのに手間取っている様子だ。
「もたもたしてるな、押し潰してやる!」
助走から全身を投げ出してジャンプしたゲレーロを、素早くかわすコネリー。
だが、彼の腕に鉄の爪は装着されていなかった。
鉄の爪は、ゲレーロの落下予想地点に爪を立てて、畳にセッティングされていたのだ!
ドオオオォン……
巨体の激突音を確認して更に間合いを空け、口元の出血を手で拭いながらゲレーロが立ち上がる様を見守るコネリー。
一瞬は静寂に包まれたアレーナだったが、あの短い鉄の爪が身体に刺さったとして、ゲレーロが立ち上がれない程の重傷を負うとは、観客の誰ひとりとして考えていないはずである。
「舐めやがって……!」
怒り心頭に、平然と立ち上がるゲレーロ。
だがしかし、彼が押し潰した鉄の爪は完璧なまでに彼の胸の防具を粉砕していた!
「ストーップ!ゲレーロ選手、胸の防具破損により試合続行不可能と見なす!」
カンカンカンカン……
「1ラウンド4分39秒、勝者、アレックス・コネリー!!」
「……やった!コネリー!頭脳プレーだな!」
ハドソンの大袈裟なガッツポーズは、沸き上がる大歓声に瞬く間に掻き消された親友への称賛を意味している。
かたや禁断症状を抱えたまま、自らが敗れた事にまだ気が付かずに立ちすくむゲレーロに、エスピノーザは激しく詰め寄り怒濤の如き罵声を浴びせていた。
「薬物中毒でも試合に出られるのがルールだと言うのならば、胸の防具が破損すれば試合続行不可能というのもルールですから!」
コネリーは晴れやかな表情で会場中に頭のキレをアピールする為に人差し指を高々と上げて見せようとしたが、頭部と腹部のダメージが予想外に酷く、突如フィールドに倒れ込んでしまう。
「コネリー!無理しやがって……後は俺達に任せろ。お前はもう、剣士だけをやれる人間じゃないんだ」
駆け付けたチームメイトに介抱され、コネリーは申し訳無さそうに仲間と握手をかわし、会場中の盛大な拍手を浴びながら医務室へと運ばれていった。
「……おい、出してやれ」
エスピノーザの合図で観客席から飛び出して来た覆面姿の男が手にした小さな袋は、人目を避ける様にゲレーロに手渡され、苦虫を噛み潰した表情のエスピノーザは彼に悪態をつく。
「……持ってけよ。だらしねえ負け方だな。せいぜいバレない様に一発キメて来いや。お前との契約は今日で終わりだ。さっさと消えな!」
「……今、渡したあれは、まさか……?」
観客席から謎の覆面男の姿とエスピノーザの悪態を確認していたシルバは、何かを受け取って猛スピードでアレーナを飛び出さんとするゲレーロの後をつける事となった。
ゲレーロは無我夢中でアレーナを抜け出し、禁断症状が抑え切れずにアレーナの敷地内にある芝生に跪き、草むらに顔を埋めて小袋の中の麻薬を吸引し始める。
幸いと言うべきか、アレーナの敷地内には珍しい蝶が現れるとドイツでは評判が高く、草むらで虫を観察する人間はあちこちで確認出来る。
ゲレーロの行動は、この地では特に異常なものでは無かった。
「……あそこだ!」
ゲレーロの後をつけて来たシルバは、彼が近寄る気配にすら気が付かない程に麻薬に吸い寄せられていたゲレーロの前に仁王立ちする。
「……ん?何だお前は?邪魔をするな」
顔面は青ざめていたものの、麻薬を吸引して判断力が回復したゲレーロはシルバを怪訝そうに見上げた。
「……貴方がやっているそれ、ドラッグですね!警察に通報させていただきます!」
シルバはゲレーロを見下ろしながら、相手が理解出来るスピードで、理解出来る内容の警告を通達し、その言葉を耳にしたゲレーロの顔色がみるみる内に変化して行く。
「うるせえ!余計な事をするな!」
ゲレーロは反射的に立ち上がり、シルバを自分から遠ざけようと軽いパンチの連発で彼を威嚇するも、その程度の攻撃を意に介さないシルバは素早くゲレーロの腕を取り、背中に捻って押さえ付けた。
「……大人しくして下さい!貴方、コンバットサンボが使えますよね。元軍人でしょう?自分も2ヶ月前まで軍人でした!ケン・ロドリゲス・シルバ元中尉です!」
シルバの告白に一瞬言葉を失ったゲレーロは、やがて抵抗を緩めて視線を落とし、自らを語り始める。
「……そう言えば、売り出し中のハーフの若手がいたな……お前の事か。ああ、確かに俺は元軍人だ。だが、今の俺はもうただのジャンキーさ。憎たらしいマフィアに頭を下げてヤクを貰わなきゃ生きていけねえゴミクズだよ。ほっといてくれないか……」
肩を小刻みに震わせながら、自暴自棄な態度を見せるゲレーロ。
だがしかし、彼の目はまだ軍人時代のプライドを捨ててはいない。シルバの目にはそう映っていたのだ。
「このままでは、貴方は死ぬまで利用されます。警察に行って、エスピノーザ達について知っている限りの情報を話して下さい!自分にはまだ、義父のロドリゲス参謀とのコネがありますし、リハビリ施設にも知り合いがいます。やり直しましょうよ?貴方にはまだ、やり直しが利く心と身体があるんですから!」
シルバの懸命の説得を心の中ではありがたく噛み締めながらも、ゲレーロの経験上、警察や軍隊の上層部が信用に値しない事は明らかだった。
彼は頑なに首を振り、シルバから逃れようと再び暴れ出す。
「……申し訳ありません。実力行使します!」
シルバはゲレーロの右腕を更に捻り上げ、彼の全身に力が入った瞬間に首技をかけて気絶させた。
「……ガンボアか?俺だ、シルバだよ!久し振りだな。……ああ、近い内にお前達に合流してジュネーブに行かせて貰うよ。今日は急用なんだ。俺からの情報という事で、ロドリゲス参謀にラファエル・ゲレーロ氏をドラッグで警察に引き渡したと伝えてくれ!頼む!」
シルバは軍隊時代の部下であり、現在はハノーファーの基地に駐在しているコスタリカ出身のクリスチャン・ガンボアに電話を入れ、彼を窓口にゲレーロの身の安全を確保する。
シルバが彼を選んだ理由は、彼が信頼できる親友である事は勿論なのだが、ゲレーロが周囲を信用しない時、ガンボアがスペイン語で会話する事が出来るからだ。
「……さてと……。後はドイツの警察関係者に信用出来る人間がいるかどうか……?」
トゥルルル……
「……ケンちゃんからだ。何だろ」
バンドーの携帯電話が鳴り響き、不思議なおもちゃを見る様に興味津々なフクちゃんを横目にのんびりと電話に出た彼を、必死のテンションが伝わるシルバの声が打ちのめす。
「バンドーさん!シルバです!ハインツさんに変わって下さい!」
「……えっ?ああ、いいよ。待ってて!」
バンドーはシルバの尋常ではない様子を感じ取り、普段は電話嫌いで携帯電話の電源を切ってしまうハインツを呼び出して通話させた。
「……あ、ハインツさん?シルバです!今、チーム・エスピノーザのメンバーのドラッグ使用の現場を押さえたんです!でも彼は元軍人で、ドラッグの為にやむ無くチームに加わっていたらしく、まだ更正出来る可能性があります!大会運営とも話が通じる、信用出来る警察関係者に引き渡したいんですが、誰かいますか?」
シルバはドイツに拠点を置くハインツの意見を電話越しに請い、ハインツは考えるまでも無くシルバに迅速なアドバイスを返す。
「……任せろ。今マイヤーをデュッセルドルフに呼び出す。前にケルンで一緒に事件を解決した俺の親友だよ。お前はそいつをデュッセルドルフ署に引き渡して、ホテルに帰って来てくれ!こっちも少しばかり面倒臭くなってるんだ!」
「分かりました!ありがとうございます!」
シルバはハインツに感謝の意を表して電話を切り、ハインツはすぐさまケルン派出所のマイヤーへと電話をかけた。
「悪いなバンドー、急ぎの用事だ。このまま電話借りるぞ!」
「……あっ、自分の電話でかけろよ〜!」
事態の緊急性がどれ程なのかを聞かされていないバンドーは、この期に及んで自らの携帯通話料金負担を渋っている。
「なるほど、人間にはテレパシー能力が無いから、機械を使ってお話しするんですね!」
フクちゃんの余りの天然女神っぷりにクレアやリンも苦笑いを浮かべ、彼女に電話をイチから説明する気力は流石に失われていた。
「……俺達2人で後3人……なかなかキツいな」
チーム・HPの副将、ソンジュン・パクはテコンドー仕込みの踵落としで身体をほぐしながら、後に控える大将であり盟友のジェイムズ・ハドソンと互いの顔を見合わせる。
だが、ハドソンの顔には余裕の笑みが浮かんでおり、パクもその顔を見て呆れた様な苦笑いで応えていた。
「……おいパク、今まで俺達2人で何人倒してきたと思ってるんだ?相手は同情が要らないエスピノーザ達。俺達も綺麗に戦う必要はねえぜ!」
「チーム・HP、選手の交代をお知らせします。中堅、アレックス・コネリー選手はラファエル・ゲレーロ選手に勝利しましたが、負傷により医務室に運ばれた為試合続行不可能となり、副将、ソンジュン・パク選手が入ります!」
アジア系の格闘技ファンに人気の高いパクの名前がアナウンスされると、会場からは熱い歓声が沸き上がる。
ソンジュン・パクがこの世に生を受けた時、両親の祖国である大韓民国は既に地図から姿を消していた。
緊張関係にあった隣国、北朝鮮の核兵器が大災害で誘爆し、その爆発に国ごと巻き込まれたのだ。
グローバル企業のアジア担当だった彼の祖父は家族とともにロンドンに移住し、パクは幼馴染みのドンゴン・キムと各種武術を磨き合っていたが、根強い人種差別に加えて核兵器の不祥事を起こした朝鮮系である事が災いし、幼馴染みのキムは自らの市民権確立の為に武術を諦め、EONアーミーへの入隊を選択する事となる。
心の拠り所を無くしていたパクの元に、武術の学習の一環でテコンドーを学びに来たアメリカ系の黒人剣士、ジェイムズ・ハドソンが現れ、互いにルーツを持つ国を失った過去から2人は意気投合、同じ想いを抱える仲間を集める目的でチーム・HPを結成するのであった。
普段の彼は紳士的な男だが、ひとたび朝鮮民族の熱い血が沸騰すれば、相手を完膚無きまでに打ちのめす冷酷ファイターに変貌する。
「……カルロス、お前の腕の見せ場だな」
エスピノーザはらしくも無く、極めて冷静な態度でチームの中堅、ファン・ベルナト・カルロスをフィールドに送り出す。
カルロスはそんなエスピノーザの心境を知ってか知らずか、涼しい顔で両手に巻いたバンテージの張りを確認して親指を立てて見せた。
ファン・ベルナト・カルロスはチーム・エスピノーザに所属こそしているものの、麻薬や犯罪には手を染めていない、ごく一般の格闘家である。
だが、父親の会社が他のヨーロッパ地域に進出する際の"凌ぎ"にエスピノーザの兄の力を借りている縁があり、いずれは父親の後を次ぐカルロスに"最後のやんちゃ"を許した形で、チームに多額のスポンサー料を寄付した上での武闘大会参戦なのだ。
「楽しみだな、ダビド。もうじき俺は暴れられない立場になるからな。俺が社長になっても、宜しく頼むぜ」
大企業の御曹司で地域でも学校でも札付きの問題児、それでいて学業もスポーツも優秀なカルロスは、言わば帝王学を学ぶまでも無いカリスマ候補生。
しかしながら、それは裏を返せば、エスピノーザ兄弟の様な中堅マフィアに資本家の犬としての一生が待っている事になる。
エスピノーザにとってカルロスは、頼もしい戦力であると同時に、裏稼業では超える事の出来ない目の上のたんこぶとも表現出来た。
「チーム・エスピノーザ中堅、ファン・ベルナト・カルロス!」
(ほう!カルロスがエスピノーザのチームにいるとはな……。扱い方次第では内紛を呼ぶ可能性もあるだろうに……)
観客席から準決勝の相手をスカウティングするカムイの拳にも、自然と力が込められる。
「ラウンド・ワン、ファイト!」
互いに武器を持たない純粋な格闘家同士の対戦は、やはり静かな立ち上がりとなった。
両者は全くの初顔合わせで、182㎝・85㎏の屈強な体格を持つパクが176㎝・75㎏の体格を持つカルロスよりパワーに勝る事が予想される為、安易な組み合いを選択しなかったカルロスが得意のフットワークでパクの隙を窺っている。
(奴の筋肉のつき方を見れば、タックルでマウントを取った上での弾丸パンチが戦術か……)
次鋒のグァンリョン・イムがガジャルドに敗れ、本来相手の中堅のゲレーロが次鋒に繰り上がる等、色々とスカウティングを狂わされたパクは自らが体格に勝る事を利用して前に出ず、相手の出方を探る戦術を採用していた。
「……ちっ、しゃあねえな」
なかなか隙を見せないパクに痺れを切らしたカルロスは素早いステップで間合いを詰め、挨拶代わりの右ローキックをパクの左脛目掛けて打ち込む。
パシッ……
乾いた打撃音が静まり返るアレーナに鳴り響き、パクも左膝を浮かせてカルロスのキックをガードしていた。
(……悔しいが、カルロスはやっぱり強え。俺が汚いプレーで乗り切る局面も、奴は臆せず戦える。だが頭脳で負けて、力でも負けたら俺はいつまでも金持ちどもの犬だ。俺はこのままじゃ終わらねえ……このままじゃ終わらねえ……)
ベンチに限界まで浅く腰を掛け、カルロスの約束された将来への複雑な感情を苦味走った表情で反芻させていたエスピノーザを、隣のベンチに陣取る副将、エキセル・トーレスは穏やかに見守っている。
「……ダビド、まるでカルロスが負けて欲しそうな顔だな。安心しろ。俺もガジャルドも、カルロスよりお前に付いて行きたいからな」
トーレスはエスピノーザの肩を叩いて自らのチームの結束を強調し、エスピノーザは目を閉じて彼の手を握り返した。
(俺達は、ただのし上がりたいんじゃねえ……薄汚い狼のままでのし上がりてえんだ……。満たされた大人にはなりたくねえ……ドン底のガキ共のヒーローでありてえ……)
「ハアァッ!」
試合は様子見を決め込むパクの左足をカルロスがローキックで削る展開に終始し、両者の表情や呼吸に変化は無いものの、パクの左脛の周囲は既に赤みがかっている。
(俺のタックルを待って膝蹴りなんだろ……舐めやがって!)
カルロスはローキックと見せかけてミドルキックをパクの左脇腹に打ち込まんと振りかぶり、一連の動きを警戒したパクがガードの為に重心を落とした瞬間、それをカルロスは見逃さなかった。
「かかったな!」
カルロスは振りかけた右足のスピードを緩め、軸足の左足で軽く前にジャンプすると素早くパクの懐に入り、重心の下がったボディーに渾身の右ストレートをお見舞いする。
「……ぐふっ……!」
至近距離からの一撃をボディーに喰らったパクは、乱れた呼吸を揺り戻す為にカルロスの頭を両手で抱え込み、膝蹴りを打ち込める体勢をキープしながら時間を稼ぐ。
カルロスは身を捩ってパクの手を振り払おうとするものの、パワーの差から逃れられないと判断してからは両手を顔の前に入れ、膝の直撃を避ける構えを見せていた。
「ありがとよ!」
パクは膝蹴りに意識を集中させていたカルロスの裏をかき、相手の指先もろとも頭頂部に全力の頭突きを叩き込む。
「……ぎゃあぁっ!」
両手の指先を挟まれる激痛に、カルロスは頭を押さえたまま強引にパクの両手を降り払って間合いを空けた。
だが、頭突きを受けた指先に圧迫された自らの目がパクの正しい位置を認識出来ていない!
「入ったぜ!スイッチがよおぉ!」
視界が不明瞭なカルロスの顔面に、パクは容赦無く左右のフックを連発で当て続ける。
カルロスは甚大なダメージを少しでも受け流す為、フックに逆らわずサンドバッグの様に全身を衝撃に委ね、その光景はアレーナを凍りつかせる程の衝撃で包み込んでいた。
「……あああぁっ!」
前後不覚のカルロスは藁にもすがる思いでパクの下半身にしがみつき、必死のテイクダウンを試みる。
「……どけっ!畜生どけっ!」
鬼神の様な殺気に取りつかれたパクは、カルロスを振り払わんとばかりに右足を思い切り振りかぶり、顔面にとどめの膝蹴りを狙い定めた。
「……そんな大振りすんなよ……」
カルロスはパクの右足が限界まで振りかぶられた瞬間、薄目を開けて全体重の掛かる左足を両手で手前に全力で引き倒し、パクの巨体を畳に這わせる事に成功する。
「テイクダウン!」
「うおおおぉっ!」
レフェリーのジャッジも掻き消す程の大歓声がアレーナに轟き、千載一遇のチャンスをものにすべく無我夢中でパクにマウンティングしたカルロスは両手の拳を握り合わせ、ガードを突き破らんばかりの全力でパクの顔面に殴りかかった。
「……うぶっ……!げっ……」
パクの顎が鈍い音を発し、鮮血の塊とともに白い歯が1本吐き出される。
「くああっ!くああっ!」
パクに反撃の糸口すら与えないカルロスの連続攻撃は胸からボディーへと移り、やがてパクの目付きは虚ろとなり、カルロスは打撃からとどめの寝技に備えてパクの腕を決めた。
その時……。
「馬鹿が!」
突然両目を大きく見開いたパクは、自らの右腕を決めるカルロスの両手を更に左腕で押さえ、カルロスごと持ち上げんばかりの勢いで立ち上がる。
「……そんなバカな?」
右腕を決められながら自らを持ち上げるパクのパワーに驚きを隠せないカルロスを、不適な笑みを浮かべながら見つめるチーム・HPの双頭リーダー、ハドソンの姿。
(……パク、あいつだけはピンチをチャンスに変えられる。スイッチが入ったあいつは、全く別人の鬼になれるのさ……味方で良かったぜ)
「離れろ!離れろと言っているんだ!」
パクは左手で執拗にカルロスの側頭部を殴り続け、ついに決められていた自身の右腕を解放して後方へとジャンプする。
「……くっ……ふう……」
パクが後方にジャンプした瞬間、決めていた右腕を振り切られた悔しさよりも、殺気みなぎる連続攻撃から間合いを取れた安堵感が上回ってしまったカルロスは、戦術の立て直しを図る為に上半身を専守防衛の姿勢で固めた。
だが、カルロスが前を見据えたその時、パクはまるでバレリーナの如く軽やかなスピンで相手の視界から外れ、カルロスの背後に回っていたのである。
ガキイイィッ……
パクの十八番、テコンドー仕込みの右足踵落としがカルロスの頭頂部を見事に捉え、前方のガードだけで安心してしまっていたカルロスは目を泳がせながら畳に這いつくばり、やがて動かなくなった。
「ぐがあああぁっ!」
フィールドに横たわるカルロスに向かって、なおも追い討ちをかけようとマウンティングを試みるパクの姿に戦慄を覚えたレフェリーは、事態を重く見たハドソンとともにパクを背後から抑えつける。
「レフェリーストップ!カルロス選手、戦闘不能と見なす!」
カンカンカンカン……
「1ラウンド3分46秒、勝者、ソンジュン・パク!!」
「うおおおお!うおおおお!」
興奮冷めやらぬ雄叫びを連発しながら観客を睨み付けるパクの姿にアレーナは沈黙し、やがてフィールドに崩れ落ちたまま動かないカルロスが、迅速に医務室に運ばれて行く様子を観客が見送ると、両者の激闘を讃える嵐の様な拍手と歓声が巻き起こった。
「パク、落ち着け!」
ハドソンは雄叫びを上げ続けていたパクの後頭部に肘打ちを喰らわせ、その見慣れた風貌に緊張感を緩めたパクは普段の落ち着きを取り戻す。
「……楽しませて貰ったよ。大した奴だな!正直カルロスは恵まれ過ぎで、俺達も少しイラついていたんだ。感謝するぜ」
トンファーを振り回してウォームアップに余念の無いチーム・エスピノーザ副将、エキセル・トーレスは、真っ直ぐにパクの目をみて話し、次の対戦相手が自分である事を静かに、それでいて熱くアピールしていた。
「……だが、カルロスが医務室に運ばれて、今俺達が一番イラつく男はお前になった。覚悟するんだな」
「……で、この娘がフクちゃんなんですか?」
世界の紛争最前線で数奇な経験を重ねてきた歴戦の勇者シルバも、流石に目の前の光景を信じる事にはためらいがある。
黒髪のおかっぱ頭に小柄な体格、威圧感や敵意を全く感じさせない穏やかな表情と性格の新米女神は、むしろバンドーの妹と言った方が納得する様な存在感を放っていた。
「……一応、この女神様は自分を保護してくれた恩を返す為に俺達に同行してくれるらしい。だが、俺達が知っている能力はフクロウの時の白い光線だけだし、神のルールで正しい理由の無い助太刀は出来ないそうだ」
ハインツは、この余りに抽象的な、それでいて得体の知れない新しい仲間に戸惑いを隠せない。
「……ねえフクちゃん、明日も俺達は武闘大会に出るんだけど、流石に女神様をエントリーしたら反則だと思うんだよね!だから明日は一緒に試合を観ながら、戦う人間を勉強して下さい」
「……はい!分かりました。勉強します」
バンドーとフクちゃんの会話は既に何の違和感も無く、その適応能力とある意味無神経さに、シルバとハインツは驚嘆せざるを得なかった。
「……ところでフクちゃん、試験をパスして1級神になるんでしょ?何て呼べばいいの?」
クレアはフクちゃんを戦力としてパーティーに迎える気満々である。
もっと格好良く、もっと美しい名前の方が彼女に相応しいに決まっている。
「……1度試験をクリアすれば、私はいつでもフクロウの姿になれますので、むしろフクちゃんのままで良いんですけどね。人間らしい名前にした方が周囲に溶け込めますかね?」
パーティーがフクちゃんの名前のアイディアを考えている時、ホテルのスタッフが突如彼等の部屋を訪ねて来た。
「失礼致します。私、当ホテルのフロアリーダーのメッツァーと申します。この度は、お預りしていたフクロウ様の件、誠に申し訳ありませんでした……。幸いにして、元来自然に帰す予定だったそうで、フクロウ様の無事を祈るばかりで御座います……おや?」
フロアリーダーのメッツァーは、5人の申告で2部屋を予約したはずのバンドー達に、6人目の女の子がいる事に気付く。
「バンドー様、追加のお客様は申告していただかないと……バンドー様の妹様ですか?」
2人の髪の色と、隣同士の位置関係からフクちゃんをバンドーの妹と勘違いしたメッツァーであったが、フクちゃんがフクロウに化けていた女神様である等とイチから説明した所で、ホテル側が納得する訳が無い。
バンドーはフクちゃんと視線を合わせ、互いに頷いてこの場をやり過ごす確認を取ってメッツァーにフクちゃんの宿泊を申告した。
「はい、俺の妹です。名前は……フクコ・バンドー、16歳くらい……いや、16歳です!彼女も俺達と同じスケジュールで宿泊します。追加料金はそちらのタイミングで取りに来ていただいて構いませんよ!」
バンドーは無難にこの状況を乗り切ったつもりでいたが、クレアとリンからは「フクコ」という、余りにもベタかつ鬼ダサいネーミングセンスに対して、「無いわ〜、無いわ〜」という激怒オーラが濃厚に立ち上っている。
こうして、チーム・バンドーに新たな仲間、新米女神様のフクちゃんが唐突に加わった。
(続く)