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バンドー  作者: シサマ
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第9話 クレア財団マジ壊滅?恐怖の姉妹爆弾


 5月11日・18:00


 チーム・バンドー一行もベルリン3日目、シルバの軍隊時代の同僚・アサモアを始めとするホテルの従業員とも親交を深め、仕事では今は亡きシュティンドルの遺志を継ぐ若い剣士達との共同作業を行う。

 

 その中でも、まだ18歳の少年剣士、ティム・シュワーブは、その少年らしい人懐っこいキャラクターと、ファーストネームがハインツと同じ「ティム」である事が幸いし、チームの弟分の様に可愛がられていた。


 シュティンドルから目をかけられていただけに、剣士としてまだまだ未熟なバンドーが恩師の剣を継承していた事に、やや不満な表情も見せていたシュワーブではあったが、その天性の剣術センスがドイツの有力賞金稼ぎチームから評価される等、今後が楽しみな逸材に違いは無い。


 一方、リンは剣士達のサポートや傷の治療で魔導士としての経験を積み、シュティンドルの剣を譲り受けてからのバンドーは剣士としての向上心を持ち、自主的に稽古に励む様になっていた。


 

 「みんなお疲れ様、いよいよ明日でベルリンともお別れね。予定は特に決めていなかったんだけど、何処か行きたい街はある?」

 

 夕食時の軽いミーティングで、クレアはメンバーに問いかける。


 「仕事と観光、移動距離から考えれば、やっぱりハンブルクでしょうね。個人的には、基地に軍隊時代の仲間がいるハノーファーに行きたいですけど」

 

 シルバはまず、パーティーとしての行動を第一に考えての発言をする。彼らしい選択だ。

 

 「中尉、ハノーファーは駄目です! だって俺がまだ休暇取ってないですから!」

 

 仕事の合間にも話を盗み聞きしていたのだろう。アサモアの絶妙な突っ込みが、パーティーを爆笑の渦に陥れる。

 

 「俺はゾーリンゲンの剣術工房だな。ケルンでひと騒動あったから、今年は余り地元周辺見れてねえんだよ」


 ハインツは剣士になってからと言うもの、父親の命日でケルンに帰省した後には、必ずゾーリンゲンの剣術工房を訪れている。

 ヨーロッパ最高峰の刃物の街ゾーリンゲンの剣術工房は、最高レベルの剣やナイフを求めて世界中から賞金稼ぎが集まる、隠れた観光スポットであった。

 

 当然、最高レベルの武器が買える稼ぎのある剣士達が集うゾーリンゲンには、向上心の高い剣士が先人の生き方を学びに、或いは優れた剣士に教えを請うという文化も育てられているのであろう。


 「バンドーとリンは……?」


 ピピピッ……


 クレアのその問い掛けを遮るかの様に、彼女の携帯電話が鳴り始める。

 着信表示が無く、知人やベルリンの賞金稼ぎ組合からの連絡では無さそうだ。

 

 クレアは少々訝し気に携帯電話を手に取り、右耳に当てる。

 

 「はい、クレアです……」

 

 「マーガレット・クレア様でしょうか? こちらはミュンヘンの賞金稼ぎ組合のオペレーター、ミリア・トレンメルです。社交会が明後日に近付いております。出来るだけ早めに登録をお済ませ下さる様、ご連絡させて頂きました」


 可愛らしい声をした電話の主は、訪れた事もないミュンヘンの賞金稼ぎ組合のオペレーター。

 クレアはこの電話の意味も内容も理解出来ず、自らオペレーターに問い掛けた。

 

 「あの……すみません、間違い電話じゃないですか? あたし、ミュンヘンの組合には行っていませんし、明後日の予定とか、社交会? とか、全然分からないんですけど……」


 パーティーの席には美味しそうな夕食が運ばれて来たが、電話に対するクレアの余りにも素なリアクションに一同は注目し、誰も料理に手を付けてはいない。


 「おかしいですね……マーガレット様には連絡が行っていないんでしょうか? あの、明後日にミュンヘンの高級ホテルで行われる、ヨーロッパの財団や大企業の代表を集めた社交会に、クレア財団が参加される事になったんです。ただ、代表のディミトリー様の体調が良くない為に、社交会側は次女のローズウッド様に参加を呼び掛けたのです」


 「……ローズが……?」


 クレアは携帯電話を左手に持ち替えて左耳に当て、向かいの席にいたリンに右手でメモを取る様な仕草をして見せ、彼女にペンと紙を用意して貰った。

 

 オペレーターのミリアは続ける。

 

 「ローズウッド様は参加を一度はお断りになられたそうなんですが、投資の話をしたい企業側が頭を下げ続けた結果、自分の姉が在籍している賞金稼ぎ、チーム・バンドーをホテルの警備に参加させるという条件で了承されたと言う事です」


 クレアは話を聞きながら、余りに突然の事態に自ら怒りが理解を追い越している現実を消化し切れず、携帯電話の向こう側へ感情をまくし立てた。

 

 「何なのよ、それ! あたしには何の連絡も来てないわよ! 明日からの観光の予定も話し合っていたのに……」


 「何だ? 急な仕事か? 取りあえず賞金額訊いとけ!」

 

 ゾーリンゲンでの買い物を予定していたハインツは、目の前の事態に隠された稼ぎを計算する冷静さを発揮し、ヒステリックになりそうなクレアを制止する為、両手を広げて笑顔を作る。

 

 「……そんな急な話、断りたいんですけど……あ、はいはい。財団にも影響、ありますかねぇ……? じゃあまず、話だけは聞きます。いきなり本題で申し訳ありませんけど、1日の警備で良いんですよね? 報酬はお幾らでしょう?」


 クレアはこう見えても一応、良家の長女である。

 ぶっちゃけお金のやらしい質問はしたくないのだ。したくないのだ!

 

 しかしながら、パーティーの計画を台無しにされかねない急な仕事の依頼を引き受けるとすれば、報酬額以外の理由は探せないのも確かである。

 

 「はい、セレブと大企業が主催ですから、断るには惜しいと思われますよ。まずは警備料は400万CP、企業側が無理を言ってクレア財団を参加させた背景もあり、更に100万CPがプラスされますね。尚、近年の社交会にはテロリストや盗賊は現れていませんし、ホテルの警備には警察も当たられております。企業の役員を名乗る産業スパイや、ゴシップ狙いの悪質なパパラッチにさえ気を付ければ、さほど危険な仕事では無いと思われます」


 メモを取る手が震え出す程の金額が飛び交い、クレアの表情が徐々に地獄の婆から天国の女神へと変わっていく。

 彼女の様子を見守っていたパーティーの面々も、この流れを認識しつつあった。

 

 カネで丸め込まれたな、と……。

 

 クレアとしては、久しぶりに会う妹から耳の痛い小言を聞かされるであろう条件はやや鬱陶しいものの、仕事はあくまでホテルの警備であり、ローズウッド個人の護衛ではない。


 「明後日、ミュンヘンの社交会のホテル警備で500万CPだって! 引き受けても良いよね? ひとり100万CPずつよ!」


 クレアの瞳が硬貨色に輝き、買い物を予定しているハインツ、観光の希望も特には無かったバンドーとリンも一瞬にして瞳が硬貨色に輝いた。

 

 料理を目前にお預けを喰らっていたシルバは、仕事があるならそれでいい、とにかく今は早く目の前の料理を食べたいと、よだれを堪えながら物事の進展のみを待ち続けている。


 「分かりました。お引き受けします! 今あたし達はベルリンにいるので、明日中にはミュンヘンに到着します。登録はその時でよろしいですね?」

 

 よろしいですよね、頼む、よろしいと言ってくれ! とクレアは願っていた。

 

 「よろしいですよ。では明日、お待ちしております。いや、これだけ高額な賞金が動くと、組合に入る手数料も馬鹿にならない額なんですよ。引き受けていただいてありがとうございます!」

 

 携帯電話を介して、オペレーターも嬉しそうな様子が伝わってくる。

 

 (私欲の)充実感を浮かべるクレアのピュアな微笑みが、パーティー全体にも(私欲の)充実感をもたらしていた。


 「デカい仕事が決まったわよ! 詳しい事は食事の後にしましょう! いただきまーす!」

 

 クレアは携帯電話を切るや否や、まだ興奮が冷めやらぬ表情でまくし立て、パーティーを煽りつつひとりフライング気味に料理に手を付け始める。

 

 一方、シルバはそんなクレアのフォークの軌道を既に見切り、バッティングしない料理を先走る様につまみ続けた。

 

 歴戦の勇者に相応しい戦略的な食べ方である。


 ハインツは、電話の向こうと目の前の食卓で何やら凄い事が始まっている現実にエキサイトし、バンドーとリンは終始マイペースに食事をしながら、フクちゃんにジャーマンポテトを砕いて食べさせていた。


 

 5月12日・8:00


 外は冷たい雨模様。

 

 東ベルリンで貴重な経験を積んだチーム・バンドー一行はミュンヘン行きを控え、3日間旅の宿として彼等を支えてくれたホテルの従業員に別れの挨拶を交わしていた。


 「中尉、もうすぐジュネーブに行くんでしょう? 気を付けて下さいね。一部のテロリスト達からは、中尉が除隊したふりをして欧州会議の警備に参加すると疑われているらしいんです。なるべく単独でのスイス行きは避けた方がいいですよ」

 

 この3日間、ホテル従業員としてシルバとパーティーをサポートしてくれたアサモアは、普段の陽気さとは違う、元軍人としての顔でシルバに注意を促す。

 

 「ありがとうアサモア。お前には本当に世話になったよ。昨日の夜ハノーファーに連絡してみたんだが、どうやらキムとガンボアも現地入りするらしい。彼等について行くのも手だと思う」

 

 「ああ、キムとガンボアなら安心です。変な出世欲も無いですしね」

 

 アサモアはシルバとのやり取りの中、既に彼が安全策を講じていた事に胸を撫で下ろす。

 朝鮮系のキムとコスタリカ出身のガンボアは、シルバ直属の部下として、最も長く行動をともにした間柄なのである。


 「おい、雨足が強くなって来たぞ。早く駅に行こうぜ!」

 

 ハインツの言葉を合図に、一行はホテルを後に早足でベルリン駅へと向かった。


 

 ベルリンからミュンヘンまでは高速列車で約4時間、ドイツの鉄道の中では最も本数の多い路線である。

 生憎の雨により車窓の景色も憂いがちではあったが、パーティー一行は既に大金を手にしたかの様なハイテンションで幸せな時間を過ごしている。

 

 今回の仕事は、クレア財団の参加を巡る急な話がきっかけであり、たまたま財団の長女であるクレアが賞金稼ぎのチーム・バンドー所属だったから実現したものだ。

 

 この事実が意味するものは、例え世界一の実力を持つ賞金稼ぎであっても、財団代表代理のローズウッドとの縁が無ければ今回の仕事は得られなかったという事であり、富裕層の金は富裕層の間で回り、庶民には回らないという経済の鉄の掟が、皮肉にも証明された形とも言える。


 「……それにしても、代理の代表を立ててでも社交会に参加して欲しいなんて、お前んとこやっぱり凄いんだな」

 

 剣術学校時代から数えるとクレアとはかれこれ5年以上の付き合いになるハインツも、これまでクレアの家庭にまで突っ込んだ話はしてこなかった。

 

 自分自身の家庭の話をしたくないという本音の裏返しではあっただろうが、普段のクレアからは富裕層の驕りや世間とのずれを感じる事が無かった為、敢えてその点を意識する必要が無かったのである。


 「ところで、クレアの妹さんってクレアに似てるの? 会った事無いしさ」

 

 バンドーはフクちゃんを鳥籠ごと抱き抱えながら、大金を稼げる興奮からか、何やら家計簿っぽい小型ノートに必死にペンを走らせているクレアに声を掛けた。


 「……うーん、あたしよりは可愛いって言われてるわね。見た目はね」


 クレアは少々面倒くさそうにバンドーの質問に答えている。

 だがこれは、別に嫉妬や不仲の問題ではなく、剣士である自分との比較から、社交界の人脈を含めて、同じ質問を嫌という程されてきたから故の反応なのであろう。


 「そりゃ凄い、クレアも美人なのに」


 こういうキラーワードを普段の会話で笑顔とともに無駄遣いしてしまう所がバンドーの長所であり、短所でもあるのだが、女性としては言われて嬉しくない訳がない言葉だ。


 「わーありがとう! バンドー君、偉いわ! はい、チョコあげる」

 

 上機嫌のクレアは例の如く、いつの間に買っていたのか分からないお菓子を取り出してバンドーに手渡す。


 

 バンドーは一応、パーティーの最年長で代表という立場ではあるのだが、剣の腕前やそのキャラクターから扱いは皆の弟分という、実に不思議な立ち位置に置かれていた。

 

 彼は故郷のニュージーランドでも祖母のエリサや母親のミカ、幼馴染みのサヤ等、所謂仕切りたがりな女性に囲まれていた為、クレアの様なタイプの女性が行動しやすい空気を自然に作る事が出来る。

 

 そんなバンドーの存在は、かつて顔を合わせれば口喧嘩ばかりだったクレアとハインツが同じパーティーに収まる上で、極めて重要であった。


 「……私達の勝手な印象だと、社交界の人って、一族の生き残りの為に若くして政略結婚をさせられたり、通う学校からして決められた人脈の中で生きなければいけない様な窮屈なイメージがあるんですけど、妹さんは大丈夫なんでしょうか?」


 リンは読んでいた本をそっと閉じ、心配そうにクレアに問い掛ける。


 この質問ばかりは、流石に自分にも多少の責任を感じているクレア。

 暫し列車の天井を見上げ、やがてゆっくりと口を開いた。


 「あんまり大声では言えないんだけど、パパは時々体調が悪くなるし、長女の私は剣士になったし、あたし達が暮らせるお金は十分にあるから、ここ数年の間に財団の実権を、ワーグナーさんって言う、代表補佐に継がせようとしているの。そのワーグナーさん個人はいい人なんだけど、クレア財団って名前に説得力を持たせる為に、妹と結婚させたがる勢力もいるのよね……」


 「景気の良くない東欧主体のビジネスでは、大きな成功は望めませんからね……経営者にクレア姓がいるだけでも伝統を売りに出来ますし、恐らくアジアやオセアニアでのビジネスに乗り出したい、顧問弁護士とかがいるんじゃないですか?」

 

 シルバは軍人として世界を回る中、かつてのアメリカに代わってロシアがイニシアチブを握ったEONPがヨーロッパ至上主義を生み、中国やインドがヨーロッパとのパイプ作りに躍起になっている現実を肌で感じている。

 

 現実として、EONアーミーで彼が使用していた武器はロシア製が主体であったが、中国製もかなりの割合を占めていた。


 「お前の妹は、財団に残る気があるのか? 大学生くらいなんだろ? 早く自分の道を見つけないと、親御さんの善意に関わらず周りから利用されるぜ」

 

 ハインツは敢えてクレアと目を合わせる事は無かったものの、シートにもたれながら彼女の妹の将来を案じている。


 「妹は今、大学で獣医学を学んでいるの。財団のコネで楽をしちゃうと、結局は財団から離れられなくなるから、努力して成績はもの凄く良いらしいわ。勉強嫌いのあたしとは違うわよね」


 「ムカつく奴はさっさと斬っちまった方が、勉強して弁論で追い詰めるより楽だしな」

 

 ハインツはクレアを横目に微笑み、不貞腐れる彼女以外のパーティー仲間を和ませていた。


 「そうか……妹さん獣医を目指してるんだ。フクちゃんの背中の所とか、診て貰おうかな?」

 

 動物好きの知り合いが増えると期待したバンドーは、早くもクレアの妹ローズウッドに興味津々であったが、これが後の災難を招く事になろうとは、この時はまだ知る由も無い。


 

 5月12日・13:00


 ミュンヘン駅に到着した一行は、列車の長旅で睡魔に襲われかけた頭を大歓声で覚ます事となる。

 地元のサッカークラブ、バイヤンFCがリーグ優勝を懸けた最終戦が、数時間後に始まろうとしていたのである。

 

 アウェイのスタジアムに行けないサポーターはミュンヘン駅近くの広場でのパブリックビューイングに備えて、街を大いに盛り上げていた。


 「何なのこれ……騒がしいわね!」

 

 普段からサッカーになど興味を示さないクレアにとっては邪魔者でしかないこの一団も、実は明日の仕事にとってむしろプラスになり得る貴重な存在である。


 「バイヤンが最終戦まで手こずるのは珍しいな」

 

 ドイツのリーグでは断トツの戦力を持つバイヤンFCは、例年ならばもう少し早く優勝を決めている事を、ドイツを拠点に仕事をしているハインツは知っていた。


 「面白いじゃないですか。街も盛り上がりますし、アウェイの会場がブレーメンって事は、優勝しても距離的にミュンヘンでのパレードや報告会は明日になりますよね」

 

 シルバは自分の隣を歩いていたリンを横目に見ながら、軽くウインクする様に話を振る。


 「……あっ、そうか! 野次馬やマスコミが社交会じゃなくて、サッカーの取材の方に行くんですね!」

 

 リンは一瞬、シルバが何の事を言っているのか理解出来ない様子だったが、駅の通りを占拠するサポーターをテレビカメラが追っている光景を見て、その言葉の意味を理解した。


 「まあとにかく、仕事がやりやすくなるなら歓迎よね」


 巨額の報酬にやる気満々のクレアを先頭に、チーム・バンドー一行は昼食を取るのも忘れ、意気揚々とミュンヘンの賞金稼ぎ組合へと向かう。


 

 「お待ちしておりました! 昨夜、連絡させていただいたオペレーターのミリアです。マーガレット・クレア様ですね?」


 組合で一行を迎えてくれたミリアは、電話で聞けた可愛らしい声からは想像のつかない、モデル並の長身とスタイルを誇る美人だった。

 

 彼女がハイヒールを履くと、175㎝のバンドーが小柄に見えるのである。

 

 美人で、かつ大柄な女性と言う存在に余り慣れていない日系人のバンドーは、いささか萎縮気味になりつつも、抱えていた鳥籠の中にいるフクちゃんに愛想を振りまくミリアの姿を見て、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 「早速、明日の仕事の件についてお話しさせていただきますね。まず会場のホテルについては関係者以外は極秘とさせていただきますので、皆様のお手元の封筒の中に住所が書かれています。決して他人に口外しない様、宜しくお願い致します」


 「ヨーロッパでは、そこまで厳重にやるんだ……」

 

 比較的おおらかな環境のオセアニアで育ったバンドーにとっては、セレブや大企業役員と言えどもせいぜいステージでSPが付く程度の偉い人という認識であった為、ミリアの丁重な姿勢ともども驚きを隠せずにいる。


 「我々が警戒するのは、所謂テロリストや窃盗犯と言った輩だけではありません。一般の方でも出席者のライバル会社に勤めていたり、個人情報から産業スパイ行為の危険性がある役所や保険会社で働く人は近付けられないのです。また、社交会での面識からのヘッドハンティングや情報漏れ等も近年問題になっている為、例えプレゼンテーション要員であっても、企業の一般社員は商談の部屋には入場出来ません」


 「……はあ……こりゃ迂闊に近付けないセレブ中のセレブ揃いだな。一緒に警備する警察官の方が親しみやすくて友達が出来ちゃうレベルだぜ」

 

 ミリアの説明がまだ終わらないうちから、ハインツはやや呆れた様子で天井を仰いでみせた。


 「分かりました。でも、それだけならあたし達が出席者と交流する機会は殆ど無さそうなので、わざわざ妹があたし達を警備には呼ばないですよね?」

 

 クレアはてっきり、社交会の合間にローズウッドからの小言責めに遭うものと覚悟していた事もあり、妹の狙いが何なのか、今ひとつ掴めずにいる。

 

 オペレーターのミリアも、この点に関してはやや不透明感を持っている様子ではあったものの、自身の推測を少々交えながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


 「……今回、クレア財団の参加、そして代表代理にローズウッド様の参加を強く望まれた企業があったらしいのです。当初は代表のディミトリー様の体調不良が回復しなければローズウッド様も参加を見送る方針だったらしいんですが、結果的に企業側に折れる形となっていますので、その辺りに何か、皆様のお力を借りたいと言う事情があるのではないかと……」


 一行は少しばかり心にモヤモヤしたものを抱えながらも、ミリアからヒントを得て仕事へのモチベーションも新たに、遅くなった昼食は取りあえず組合内の飲食コーナーで済ませる事となる。


 「うっわ! ビールでかっ! これが中ジョッキなの?」

 

 セキュリティ第一の仕事故に明日までは迂闊な身動きは取れず、従って真っ昼間から一杯やれる大層なご身分のチーム・バンドーの面々は、ビールの本場・ミュンヘンのタンカード(ジョッキ)の桁外れのデカさに圧倒されていた。

 

 クレア、ハインツ、シルバが本場のビールに舌鼓(喉鼓?)を打っている間、余りアルコールを好まないバンドーとリンは、ガイドと携帯電話を片手に宿の確保を進める。

 

 高額報酬の仕事が決まっている事もあり、社交会の会場の高級ホテルから遠くさえなければ、金庫番のクレアからは特に条件は出されていない。

 格安のホテルは、それこそ明日までサッカーファンに占拠されて予約は難しいだろう。

 

 バンドーとリンは互いに意見を出し合い、サッカー関連の喧騒を避け、近くに大きな書店のある中流ホテルを確保する事に成功した。

 

 読書家のリンとしては、いくら賞金稼ぎ経験中の身分とは言え、1週間以上も書店に寄らないなどと言う事があり得てはいけないのである。

 

 ホテルを探す間、右手ではパスタを食べながら、地図上の大きな書店には常に左手の親指を置き、その指を軸にコンパスの様に手首を回して引っ掛かる全てのホテルを調べ上げる、リンのその熱の入れように、バンドーもやや苦笑いを浮かべていた。


 「リン、大きな書店あって良かったね。でも本って重いし、余り買わないようにしないと」

 

 バンドーはあくまでも、軽いアドバイスのつもりでにこやかにリンに声を掛けていたつもりなのだが、リンの眼鏡の奥の瞳が魔法とは異なる怪しさで光り輝き、読書家のキラーワードをさらりと言い放つ。

 

 「まとめ買いして段ボールに詰めて、実家に送って貰うから大丈夫です」


 

 昼食を終えて組合を出た一行は、ほろ酔い気味の3人をバンドーとリンがリードする形でホテルに到着した。

 予算制限のあったベルリンのホテル程こぢんまりとはしていないものの、構造や外見的には至って平均的なホテルだ。

 

 リンが電話連絡の旨をフロントに伝えてチェックインを行う間、特に意味も無くロビーを見回していたバンドーは、一度見たら二度と忘れる事の出来ない強烈などピンク衣装に身を包んだ女性2人組を発見する。

 

 アニマルポリスだ。


 「ごめん、リン、4人で先に部屋に行ってて」

 

 バンドーは男性陣の部屋が406、女性陣の部屋が407である事を確認すると、フクちゃんの鳥籠を持ったまま女性二人組の下に駆け付ける。


 「こんにちは〜!」

 

 後ろ姿から彼女達がメグミとシンディである事が分かった為、バンドーはとくに前振りも無く挨拶を敢行。

 彼女達はバンドーの基本的にデカい声に一瞬肩をビクつかせたものの、振り返る時には既に正体を把握して笑顔を見せていた。


 「バンドーさん! お久しぶりですね」

 

 メグミはやや疲れた顔をしてはいたが、警戒の必要の無い知人との再会に安堵している様子である。

 

 「あ〜、このフクロウ、やけにのんびり生活しているなと思ってたら、まだバンドーさんと一緒にいたんですね〜!」

 

 シンディは元来芸能人志望だけあって、疲れが顔に出にくいタイプなのだろう。いつ会っても元気一杯に見えていた。


 「いや、フクちゃんは何回か外に放したんだけど普通に戻って来るし、最近では仕事の見張りとか出来るレベルになりました。もうチームの一員ですね」

 

 今更背面から白い光線を出すとか言って事態をややこしくしたくないな……と考えたバンドーは、フクちゃんの「チームの一員感」をアピールし、共存が上手く言っている印象を植え付ける。


 だがそんなバンドーにも、世間には口外出来ないフクちゃんについての疑問はあった。

 

 まずフクちゃんは、外に放しても普通のフクロウが食べる虫や木の実を口にしない。

 食べ物は大抵、パーティーの皆の食事の残り物を分け与えるだけである。

 

 そして、主にバンドーとリンが世話をしているフクちゃんであるが、両者ともに不思議がっているのは体臭や排泄物の臭いと言った、動物らしさがあまり感じられない事。


 もしかするとフクちゃんは生物ではなく、フクロウに似せたロボット兵器なのではないかとシルバにも相談を持ち掛けたのだが、軍の上層部にもある程度顔が利く彼からも、軍のそうした開発や実験の話は聞いた事が無いと言う。


 現時点では、フクちゃんの行動が結果としてパーティーの危機を回避する役割を担っている点が救いであるが、それはフクちゃんの思考回路によるものなのか、誰かの遠隔操作によるものなのか……。


 「ところで、バンドーさんは何の用事でミュンヘンに? 観光?」

 

 メグミはホテルのフロントへの聞き込みを終え、晴れてバンドーの元へと歩み寄る。どうやら同じホテルに宿泊する訳では無さそうである。


 「詳しくは話せないんですけど、急な仕事が入ってつい先程ミュンヘン入りしました。メグミさん達は何故ミュンヘンに?」

 

 バンドーのその問いに、メグミとシンディはお互いの顔を見合わせて落胆の表情を浮かべた。

 

 「バンドーさんも駅で見たと思うけど、ミュンヘンではサッカークラブが優勝する度にサポーター達が夜通し騒いで、路上で飲食するの。こればっかりは自治体がいくら注意換気しても無くならないわ。そしてその路上に散らかった食べ物にありつこうと、この時期だけ野良猫が大量発生するのよ。私達は保健所や衛生局を先導して野良猫を一時的に捕獲しないといけないって訳」


 野良猫の可愛さ余って憎さ100倍と言わんばかりのメグミのやるせない表情から、飛んだとばっちりに対処し続けるアニマルポリスの悲哀が窺える。

 

 しかし一方では、毎年この時期を楽しみにしている野良猫の一家等がいるかも知れないと想像し、妙にほっこりしてしまうバンドー自身の姿もあった。

 彼女達がアニマルポリスを辞めない理由も、それに近いものなのかも知れない。


 「それじゃあ俺も、明日の仕事中にもし野良猫が寄ってきたら、お近くの関係者にお届け致しますね」

 

 バンドーとメグミ、シンディは冗談半分に深々と頭を下げ、互いの任務成功を祈りつつその場を立ち去った。


 

 ホテルの部屋に戻ったバンドーは、酒が抜けずにお昼寝するシルバ、クレア、ハインツの3人をホテルに残し、散歩がてらにリンの書店巡りに付き合う事を決め、外出の為に剣と防具を外す。

 

 首と肩の間を守る防具は、基本的に外出中は肌身離さず付けていた為、そこだけ日焼けしていない白い首輪の様になり、少しばかり恥ずかしい思いをさせられた。


 

 5月12日・14:45


 バンドーと鳥籠のフクちゃんを引き連れて書店入りしたリンは、読書家としては当然の事ではあるが、入口新刊コーナーからこの1週間の流れを把握し、連れを不安と恐怖のドン底に陥れる「店内全ての凝視モード」へと突入する。

 

 事前に書店巡りは1時間までと決めてあり、リンの性格的に時間を無理矢理引き伸ばす事は無さそうに思えるものの、バンドーの脳裏には幼い頃に兄シュンの決定力不足に付き合わされた、買い物の苦い記憶がよぎるのであった。


 バンドーがリンから離れて単独行動を取ろうとした矢先、何やら医学書コーナーに人だかりを意識的に遠ざけている様な男女2人組の姿を発見する。

 

 男性の方は黒のスーツに屈強な体格で、本を見ている様で実は通路の侵入者の警戒をしている、いかにもSP関連だと分かる人物。

 女性の方はカジュアルだがお金をかけている事がよく分かる衣装を身に纏い、小柄な体型も相まって美人というより可憐な雰囲気の若い人物。


 「リン、あの人ひょっとして……?」

 

 バンドーは読書家特有の背後から沸き上がると噂の、近寄り難い謎のオーラを押し退け、リンの肩を軽く叩いて合図した。


 女性は眉の辺りに精悍さを感じさせるものの、瞳が大きく目尻はやや下がり気味の可愛らしい雰囲気もあり、ショートボブの髪型と頭髪の色こそ異なるが、クレアを彷彿とさせる風貌である。


 「……クレアさんに似てますよね。彼女がローズウッドさんでしょうか?」

 

 この短時間で既に2冊を買い物かごに入れているリンの目から見ても、あの女性はクレアに似ている様子だ。

 

 社交会の参加者は既に現地入りしていてもおかしくない時間帯であり、外国とは言え書店にまでSPを連れて行かなければいけない立場の人間など、限られている。


 「ちょっと行ってくる」

 

 バンドーは畏れる素振りも見せず、フクちゃんを抱えたままズカズカと男女2人組に歩み寄り、当然の如く、SP風の男性はバンドーの接近に軽く身構えて女性の前に立つ。


 「……失礼ですが、どちら様でしょうか?」

 

 男性は敵意こそ抑えているものの、100%疑いの眼差しでバンドーを見つめている。

 

 「すみません、俺……いや私、賞金稼ぎのレイジ・バンドーと申します。そちらの女性が、仕事の依頼主の方かと思いましたので、ご挨拶に伺ったのですが……ローズウッド・クレア様ですか?」


 暫しの沈黙の後、男性は女性の方を振り返り、女性が頷くと事態を把握して一歩身を退いた。


 「はい、わたくしがローズウッド・クレアです。初めまして。いつも姉がお世話になっております」

 

 姿勢も話し方も、流石に家柄を感じさせるローズウッドではあったが、まだ社交ずれしていない雰囲気は、ごく普通の女子大生にも見える親しみやすさも醸し出している。


 バンドーは彼女がローズウッドだと分かると、すぐにリンを後ろ手で手招きした。


 「バンドー様は日系で、チーム・バンドーの代表であられるのですよね? わたくし、鋭い眼光のサムライみたいな方を想像しておりましたが、隣のお兄さんみたいな親近感を感じますね」


 「……くっ……よ、よく言われるんですよね……」


 ローズウッドの率直な笑顔と、本人に悪気は無い言い回しに苦笑いするバンドーであったが、普段から見た目に緊張感が無い事に加えて、今回は剣も防具も装備していない為、まさに隣のお兄さんでしかない。仕方がないのである。


 「初めまして。私はチーム・バンドーの魔導士、ジェシー・リンです。まだお手伝いの様な立場ですので、クレアさんにはいつもお世話になっております」

 

 パーティー内ではシルバと並んで常識人のリンは接客に慣れている事もあり、東欧のセレブや黒服のSP相手にも無難に挨拶をこなしていた。

 

 ローズウッドの髪の色はリンと同系色の栗色で、姉のクレアの赤毛とは明らかに異なる。

 

 これは恐らく、ローズウッドが社交界に相応しいイメージに染め直したのであろう。

 普段から宿でもクレアと同部屋が多いリンには、クレアの赤毛は地毛だと認知されていた。


 こうして見ると、ローズウッドはクレアとリンの良いとこ取りと言うべきか、かなり魅力的なルックスであり、クレア財団の参加を要請した社交界のセレブや企業側の男性は、単純に彼女のファンなのかも知れない……とバンドーは勘繰る事となる。


 「明日は警備を宜しくお願い致します。ところで、姉はご一緒ではありませんか?」

 

 ローズウッドはチーム・バンドーを警備に指名した本人である。当然、姉のクレアには何らかの用はあるはずだ。

 

 バンドーは、まさか真っ昼間からビールで出来上がってホテルで寝ているとは言い辛く、リンと顔を見合わせた後、クレアはここ数日の疲れが溜まっているので休んでいると答えてお茶を濁す。


 「……そうですか……。ではバンドー様、姉に伝えていただけますでしょうか? メディカル・ストフという医療機器メーカーの職員を会場で見かけた時は、わたくしに連絡を下さいと」

 

 組合のオペレーター、ミリアが話していたローズウッドの社交会参加を要請した企業というのが、今ローズウッドの口から語られたメディカル・ストフという企業なのだろう。

 

 だが、社交会に参加する企業ならば、投資の話題等でクレア財団の代表代理であるローズウッドには普通に近づけるはず。

 ビジネスの話以外で個人的な用事でもあるのだろうか?


 「ええ、いいですよ。伝えておきます」

 

 バンドーとリンには多少疑問は残ったものの、姉であるクレアに話せばその疑問は解決するのだろうと考え、2人はその伝言役を快諾した。


 「……? ところでバンドー様、その籠に入っている鳥は……フクロウですか?」

 

 獣医を目指しているローズウッドだけに、バンドーに会った直後からその謎の鳥籠に興味深々な様子は見せている。

 そもそも世界広しと言え、フクロウをケータイして書店に現れる人間は極めて珍しい。


 「あ、はい。フクロウです。一応フクちゃんという名前があるんですよ。元々は子ども達にイジられていた所をアニマルポリスに保護されて、彼女達の監視の下で我々の旅に同行しているんです。何度か外に放したんですけど普通に戻って来るので、今はもうチーム・バンドーの一員ですね」

 

 バンドーはフクちゃんとの思い出を振り返っている内に、セレブなローズウッドと強面のSPさん相手にも屈託のない笑顔でこれまでの道中を語り出し、その飾らない雰囲気が動物好きのローズウッドの緊張感を和らげていた。

 

 「野性のフクロウが、民家に住み着いたりする事は意外とありますから、人懐っこいフクロウもいるのでしょうね。でも、この子はちょっと珍しい種類です……学校の資料では見た事が無いですね」

 

 鳥籠を抱き抱え、目を細めて前屈みにフクちゃんを覗きこむ姿はセレブらしからぬ不格好さで、苦笑い気味のSPさんの様子から見ても、ローズウッドの本職はセレブではなく獣医学生なのだと判明し、バンドーもリンも何故だか安堵感の様なものに包まれている。

 

 リンはローズウッドへの軽い挨拶に代えて売り場に戻り、残された時間内でお目当ての本を買い物かごに詰め込む為、鬼神の如き表情で棚を血眼に捜索した。


 「バンドー様はアニマルポリスの方々とも知り合いなのですね。わたくしもラドさんとファケッティさんとは親友なんですよ」

 

 ともに動物を愛する仲間の事を話す時のローズウッドの表情は、とても幸せそうに見える。


 ラドさんと言うのは名前からして東欧担当のアニマルポリスだと思われるが、ファケッティさんと言うのはシンディの事だろうか?

 

 シンディは一見、ローズウッドとは正反対のキャラクターに見えるが、年齢の近さ故の親近感なのか、それとも、セレブでの丁寧な物腰はやむなく演出した姿なのか……?


 「明日も空の見張り番としてフクちゃんを連れてきます。お互い休憩でも取れたらまたその時お会いしましょう。それではまた!」

 

 バンドーはホテルに戻る時間が近付いている事に気付き、ローズウッドとSPさんに手短に挨拶してその場から立ち去った。


 ……リンが抱える買い物かごが、大量の本で危険なまでに膨張している光景を目の当たりにしたからでもある。

 

 マジで、段ボールから実家に送って貰うつもりだったのね……。


 

 5月12日・16:00


 大量に購入した本を実家へと郵送し、ペーパーバック1冊だけを持ち帰って極めてご機嫌なリンとともにホテルに戻ってきたバンドーは、酔いを覚ます為にホテルの中庭でトレーニングするシルバ、スパーリングで剣を交えるクレアとハインツに再会した。


 お互いにひとりで戦ってきたクレアとハインツ、そして軍期待の若手だったシルバの3人であるから当然とも言えるが、このパーティーは基本的にプロ意識が高い。

 

 バンドーとリンも、遊びの帰り道では何となく居心地が悪くトレーニングの必要性を感じ始め、そんな2人の存在に気付いたハインツが声をかける。

 

 「バンドー! お前、シュティンドルからストレッチやダッシュのメニューを教わっただろ? それを俺達にも教えてくれ。俺とクレア、お前とシルバでコンビを組める所は組む。リンはメニューの変わり目を何か魔法で合図して、ダッシュのタイミングの時は軽い向かい風を俺達に向けてくれ!」


 バンドーは急いで剣と防具を装備し、シュティンドルから教わったストレッチやダッシュのメニューをハインツらとともにパーティー用にアレンジし、リンはメニューの切り替えを風の魔法を用いて合図する練習を始めた。

 

 賞金稼ぎのトレーニングという、普段お目にかかる事の無い珍しい光景に、チェックイン後にくつろいでいた観光客らしき人達も窓からパーティーを見守っている。

 

 「行きますよ! スタート!」

 

 首から眼鏡をぶら下げたリンの両眼が蒼白く光り、パーティー周辺の雑草を巻き上げてウォーミングアップが始まった。

 

 「1、2、3、4……」

 

 カウントとシンクロして風の魔法が雑草を巻き上げるリンの存在感は圧倒的で、他のメンバーも自然とストレッチに力が入る。

 

 ダッシュでは向かい風を受けながら、剣を盾に利用してスピードを落とさない構えとタイミングを各々が確認し、任意の場所に置いた大きな石を剣で斬りつけて行く。

 

 ウォーミングアップを繰り返していく内に各々のパフォーマンスの精度が高まり、同じ箇所を斬りつけられる様になった石が徐々に砕けかけて行く様子が見てとれる。

 

 「最後です! 走って!」

 

 4人がダッシュでリンのもとへ集合する瞬間、彼女は自らの右手を眼の光に当て、蒼白い光に包まれた右手が崩壊寸前の石へと降り下ろされる。

 

 「だああぁっ!」

 

 魔力に包まれたリンの右の拳が、パーティーの中心に置かれていた石を完膚無きまでに粉砕した。


 暫しの静寂の後、面白半分に窓からウォーミングアップを眺めていた観光客から思わぬ大歓声が沸き上がる。


 心地好い達成感に包まれたパーティーは、今後のウォームアップとトレーニングについて、早速話し合いを始めていた。


 「……ところでジェシーさん、右手、大丈夫なんですか?」

 

 シルバが心配そうにリンに駆け寄る。

 

 いくら魔法を使っているとは言え、岩に激突して骨折、或いは命まで落とした仲間を軍で何人も見ている彼としては、平然としているリンが信じられなかったのだ。


 「大丈夫です。私もちょっとエキサイトしちゃいましたけどね」

 

 リンは皆に右手を全角度から見せる。

 

 多少の擦り傷はある様子だが、強力な魔法を使いこなすという意味をまざまざと見せつける現実だ。


 「……これってさあ、リンがムキムキに鍛えて打たれ強くなったら、俺らもう要らないんじゃね?」

 

 バンドーは無邪気な太字スマイルを浮かべながら、リンの魔力を尊敬している。


 「……誰か、私をムキムキにさせたいんですか……?」


 リンの表情が不穏になったこの瞬間、バンドーは人生最大級に生命の危機を感じ、すぐ彼女に謝罪したのであった。


 

 5月12日・18:00

 

 パーティーが夕食を待つ間、バンドーはクレアにローズウッドからの伝言を伝え、シルバやハインツはリンからローズウッドの人となりを興味深く聞き出している。


 「メディカル・ストフって言うのは、ブルガリアの医療機器メーカーね。昔はストフ社長を中心に地道な経営を続けてきた中小企業だったんだけど、自らを売り込んできた若い天才アイディアマンをスカウト出来て、近年急成長している企業なの。ただ、景気の悪い東欧の企業だとドイツやフランスの企業との競争は厳しいから、地元の財団であるあたし達に融資を求めて来て、この2年は成果を上げているわ」


 メディカル・ストフ側にとっては、大切なパートナーが代表の体調不良で社交会不参加となれば、融資の交渉機会をひとつ失う事になるのだ。

 

 その一方で、融資の実績のあるクレア財団との良好な関係を他国のセレブにアピール出来れば、他国から更なる融資を引き出せるかも知れない。

 メディカル・ストフ側が、クレア財団側に社交会参加を要請した事は間違い無いだろう。


 「……でも、ローズウッドさんはまだ大学生だから常に商談とはいかないし、こういう事態にはクレアのお母さんが代理で行く事も出来たんだよね?」

 

 バンドーはクレアに素朴な疑問をぶつけ、同時にクレアは複雑な表情を浮かべるとともに、やがてかなり憶測の混じった見解を述べ始めた。


 「……実はね、メディカル・ストフの運命を変えたその天才アイディアマンってのが、ローズの高校時代の先輩なのよ。しかも2人は付き合っていた時期もあってね……」


 クレアの話を静かに聞いていたリンの瞳が、突然輝き出す。

 この昼メロの様な設定にかなりツボっているのである。


 「……なるほど。ローズウッドさんがメディカル・ストフの職員を見たら知らせて下さいとバンドーさんに頼んだのは、社交会の商談には参加出来ない資料持ちの一般職員、つまりそのアイディアマンさんとの密会の機会を伺っていると考えて良いのかも知れませんね……」

 

 男性陣も、元来こういう話題は嫌いではない。

 シルバの分析もかなり乗り気を感じさせていた。


 「まあ、社交界では見せないけど、ローズ本来のキャラはあたしに似て結構お転婆なのよ。知っているのは、そのアイディアマンさんだけだから、口封じの意味もあるのかもね」

 

 クレアは少々意地悪な微笑みを浮かべながら、事態の行く末を楽しみにしている様子さえも窺わせている。

 

 

 『ここで速報です! 今シーズンのサッカー・ドイツリーグも今日が最終節、我等がバイヤンFCは敵地でブレーメンFCと1対1のスコアで引き分けましたが、ライバルのドルトムンダーと勝ち点で並び、得失点差僅か1の差で辛くもリーグ優勝を勝ち取りました!』


 食堂のテレビからニュース速報が流れ、予想以上の苦戦の末、バイヤンFCのリーグ優勝決定を知った観客から歓喜の声が上がる。


 『……しかし、まさに薄氷の優勝でしたね。バイヤンのゴールは終了間際、それも微妙な判定でのPKでしたからね。何でも、怒りに燃えるドルトムンダーのサポーターが、明日のパレードと報告会に殴り込みに行くとの噂もあります。サッカーに興味の無い方は、なるべく外出を控えた方が良さそうですね……』


 「……おいおい、面倒な事になったな! こりゃあホテルの警備よりホテル周辺の警備の方が大変だぜ!」

 

 ニュースを注意深く聞いていたハインツは、祝福ムードだけでは終わりそうにない、想定外の喧騒に不安を隠せなかった。


 

 5月13日・8:00


 社交会当日の朝が来る。

 

 社交会の始まりは16:00だが、ホテルの警備に当たる警察とチーム・バンドーは12:00には現地集合して建物の構造や仕事の概要を学ばねばならない。


 食事のタイミングを計算する為にホテルでの朝食をキャンセルしたパーティー一行は、一応最低限の身だしなみとして各々がシャワーを浴びており、シルバとハインツは部屋のシャワーで簡単に済ませ、バンドーは頭にタオルを載せながら、サウナや水風呂もあるホテル1階のアジア式浴場へ興味津々に出掛けて行った。


 

 「昨日会ったローズさん、私と同じ様な髪の色でしたよ。やっぱり彼女も地毛は赤いんですか?」


 ツインルームに設置されている、互いに向かい合う様なふたつのシャワーをそれぞれに使いながら、リンはクレアに話し掛けている。


 「まあそうね。あたしよりは茶色に近い赤かな? 地毛の赤ってのはかなり珍しいのかも知れないけど、赤毛の人にありがちなそばかすとか、紫外線への弱さとか、あたしら姉妹にはないの。両親に感謝しないとね」


 ローズウッドに比べると、クレアの肌は真っ白という訳ではないが、それは肌の露出がある衣装で剣士をしているからであり、170㎝近い身長と適度な筋肉で引き締まった身体は、長身の女性が少なくないヨーロッパでなければモデルになる事も出来たはずだ。


 「……やっぱりクレアさんは、財団を継いでセレブ生活を満喫した方が良かったんじゃないですか?」


 リンは悪戯っぽく微笑みながらクレアをからかう。

 

 リンはクレアに比べると筋肉は少なく、所謂文化系の女性らしい身体ではあるが、モデルの母親から受け継いだ美貌はやはり魅力的で、彼女自身にやる気さえあればモデルとしても成功していたのではないかと思わせる、そんなポテンシャルは十分に感じさせていた。


 「フランスの人って、香水ばっかり使ってあんまり入浴しないって聞くけど、リン達も兄妹揃ってモデル並のルックスだったのに、お兄さんは格闘ジムに入門しちゃうし、妹は魔導士になって素手で石割っちゃうし、実は両方武闘派で身だしなみには無頓着だったのね」

 

 クレアも負けじとリンをからかう。


 「私はちゃんと入浴しますっ! 香水なんか使うと、本の匂いも分からなくなっちゃいますし」


 ……リン、そういう事じゃないんだけど……。


 

 「皆揃ったわね。遅い朝食に行くけど、何か希望ある?」

 

 クレアはフランスやポルトガルに比べて大味なドイツ料理には余り感心していない様子で、自分の希望よりパーティーの意見に従う雰囲気がありありと見てとれた。

 

 「昼前に食事したら、もう社交会が終わるまで食事出来ないんだよね? ハンバーガーやパスタだとお腹が持たないな。ケンちゃん、がっつり食えるとこ無い?」

 

 バンドーはここぞとばかりに、大食漢のシルバの情報網を頼り、シルバは俄然瞳を輝かせ、ポケットからいつの間に調べたのか分からないメモ用紙を取り出し、アピールに精を出す。


 「ここから一番近いのが2丁先のケバブ店です! 社交会のホテルの近くにもアサモアお薦めのステーキ店がありますよ!」


 「……あ、朝からケバブはちょっと……」

 

 リンは中華料理店の娘だ。決して食が細い訳でも、脂っこい料理が苦手な訳でもない。

 

 昨日の書店や、今朝のシャワーで崩壊した自身のイメージ保守の意味合いの強い抵抗だ。


 「シルバ君は一番若いし、元軍人な訳だし、食べ物に関しては今まであたし達に合わせて我慢してきた事もあるのよね、きっと……。よし! 朝からケバブ行きますか!」

 

 結局の所、またクレアが仕切ってしまったものの、男性陣はがっつり肉が食える事に喜びを露にする。


 

 5月13日・11:50


 「……お前ら、朝からケバブ食って来ただろ……」


 やはりバレた。


 仕事に備えた体力の為とは言え、がっつり肉食の美味しさを女性陣を含めて皆が堪能した、その足でセレブの待つホテル入りである。

 

 服にケバブの匂いが染み着いてしまっては、皆で入浴してきた意味も無い。

 

 しかも一緒に警備を担当する警察官から尋問されたので、妙に罪深さを感じる。


 

 「警備担当の皆さん、お早うございます。わたくし、当ホテル支配人のヨルグ・ハーンです。本日1日、宜しくお願い致します」


 警備担当者が全員揃った時点で、会議は10分繰り上げて始められた。

 この辺りの仕事熱心さはいかにもドイツらしい。


 支配人のハーンさん当人は、高級ホテルというセレブ相手の商売とはいえセレブ感ゼロの、収入に比例した仕事量が必要な、所謂ビジネス最前線の人間という印象だった。

 

 日々の仕事に相当疲弊しながらも、顔に出た疲れを徹底したヘアメイクと一流ブランドスーツで必死にカバーする人生は、尊敬こそすれ、出来る事なら経験したくないと、今からホテルの警備に当たる全員が思っていたに違いない。


 「ミュンヘンの中心街では、サッカークラブの優勝パレードと報告会が間もなく行われ、例年、その喧騒に便乗して金品を窃盗する者が若干名現れます。しかし、それは日用品や食料品、貴金属店等の問題です。皆さんは今日、それらの警備に助太刀する必要はありません。しかしながら、社交会出席者に不測の事態が及ぶのを防ぐ為に、ホテル周辺での暴力行為だけは厳しく取り締まって下さい」


 要するに、不審者をホテルに入れなければ良いのだ。

 今日は既に、ホテル側から設備点検等は一切予定されていないと報告されており、敢えて非常階段等を使う様な人間は怪しいと考えて間違いないだろう。


 「皆さんご苦労様です。ここからは私、EONポリスミュンヘン支部副所長、ベルント・シュナイダーが皆さんの指揮を執らせていただきます。今日はクレア財団代表代理のローズウッド様のご希望もあり、賞金稼ぎの一団も警備に参加しておられますが、アニマルポリスやEONアーミーからの情報提供があり、彼等賞金稼ぎのメンバーは、我々警察だけでは遂行出来ない任務にも対応出来る事が判明致しました。チーム・バンドーの皆様にも、心より感謝を申し上げます」


 スラリとした長身に、若い頃はさぞかしイケメンであったであろうナイスミドルな副所長様が登場し、無類のイケメン好きなクレアは瞳をハート型にして話を聞いている。

 

 ミュンヘン警察の副所長自らが指揮を執ると言う時点でこの社交会の重要性も窺えるが、そんな緊張感とは裏腹に、パーティー一行に話し掛ける彼の口調はフレンドリーなものであった。


 「ケン・ロドリゲス・シルバ君は、先日までEONアーミーの若手のホープだったそうだね。君には社交会会場の隣の部屋で、警察の精鋭部隊とともに警備に当たって貰うよ。そして、ジェシー・リン君には、魔法が使えるという長所を活かして、屋上からの見張りと不審者の逃走を阻止する警備に当たっていただく。剣士としてヨーロッパ屈指と噂のティム・ハインツ君とクレア財団の長女であるマーガレット君の仕事は、非常階段や裏口からの強行突破の阻止だ。宜しく頼むよ」


 パーティーの分散という、予想外の方向に向かう事態にやや戸惑う様子を見せる一行だったが、元軍人のシルバが警察と連携する事には今更何の不安も無く、ハインツとクレアの任務も剣士らしくシンプルなもの。

 リンの任務に関しても、強いて不安を挙げるとすれば暇な時に警察官からナンパされるかも……と言う程度の問題である。


 やはり、最後に残されたバンドーの任務内容に皆が注目していた。

 

 美味しいのか哀しいのか、キャラ的にオチに使われてしまう可能性も十二分にある。


 と言うか、オチに使われて欲しい空気すら感じさせていた。


 「アニマルポリスからの情報によると、レイジ・バンドー君は動物の扱いにとても長けているそうだね。今日はサッカーファンの盛り上がりで路上の飲食が盛んになって、この辺りにも野良猫が集まってしまうんだ……。君はホテルの中庭と通路の周辺を見張って、野良猫の捕獲と保健所やアニマルポリスへの連絡、後、申し訳ないが糞尿の清掃とかもやっていただけると有り難いのだが……」


 ハイハイ、オチに使われましたよ!


 バンドーはどうせこんなオチだろうとは予測出来ており、故郷でお隣の酪農家を手伝っていた頃の平常任務のやりやすさを感じて、任務を満面の笑みで快諾するのであった。


 

 「結局、メディカル・ストフの関係者は探せなかったわね」

 

 クレアはホテル内の探索も出来ずに外に放り出された自らの任務を嘆いている。

 

 「まだ社交会開始まで1時間もあるからな。入口で待ってりゃ、これからセレブの皆さんがぞろぞろ来るだろ……おい! お前ら何してる?」


 ハインツはクレアと軽口を叩き合っていた最中、ホテル周辺で何やら2人の若者が喧嘩している現場に遭遇した。

 

 ミュンヘンのサッカークラブ優勝に沸く街のお祭りムードに水を差す、ごく僅かの問題児達。

 赤いレプリカユニフォームを着たバイヤンサポーターと、黄色いレプリカユニフォームを着たドルトムンダーサポーターらしいが、昨日の試合の結果に関して口論が始まり、ドルトムンダーサポーターの中指立てパフォーマンスが、喧嘩の直接的原因となった様子である。


 「ハインツどうしたの? 大丈夫?」


 「お前は裏口を見張れ! ただの喧嘩だ。俺ひとりで大丈夫」


 ハインツはクレアの協力を断り、単身喧嘩するサポーターの中に突入した。

 

 「お前ら! 悪いが喧嘩はよそでやってくれ。このホテルにこれから偉い奴等が来るんでな」

 

 ハインツはやや躊躇しながらも、取りあえず威嚇の為に剣を構える。

 

 剣術に特化した才能と努力を積み上げた彼には、バンドーやシルバの様な格闘戦は出来ない。

 武器を持たない相手が怯まずに向かって来た場合、峰打ちで戦意を喪失させる以外に打つ手は無かった。


 「何だお前? 偉い奴等に金で雇われたのか? 権力の犬か、金の亡者か? 黙ってろ! 俺達は自分の生き様を懸けて戦ってるんだ!」

 

 その一言にカチンと来たハインツは自ら喧嘩に飛び込み、剣を捨てて両サポーターの頭を両手で抱えて思い切り頭突きに導く。

 

 不意を突かれた激痛によろめくサポーターの背後から足首をキックで払うと、地面に仰向けに倒れた彼等の腹にジャンプして乗り、更に数回ジャンプしてボディ攻撃を繰り返した。


 「ふざけるなバカ野郎! 試合の結果に文句があるんならリーグに電話でもしろ! 審判買収したのかってな! お前らはゴミだよ! 権力の犬や金の亡者以下のゴミだよ!」


 家族の為に剣士として死んだ父親の背中を見つめて来た経験と、その剣との出会いが無ければ、差別や貧困で今の自分もこうなっていたかも知れない。

 

 ハインツはそんな悔しさを滲ませつつ傍若無人にサポーターを締め上げ、警備の警察官からやり過ぎを注意されながらも、警察への引き渡しを済ませる事で落ち着きを取り戻すのであった。


 

 やがて社交会の時間が近づき、ホテル前には送迎の高級車が続々と集まる。

 

 この時ばかりはクレアやハインツだけではなく、バンドーや警察官も大挙してセレブ達の護衛に当たり、クレアの姿を確認して安堵の笑顔を見せるローズウッドや、予想に反して長身でもイケメンでも無かった彼女の元彼、メディカル・ストフの企画部長補佐マクシム・イリエフの姿も確認する事が出来た。

 

 しかしながら、規定では会社の重役ではないイリエフは社交会の部屋には入れない。

 クレアは携帯電話のメールでローズウッドにイリエフの来場確認を知らせはしたが、2人が旧交を温める瞬間は訪れるのであろうか?


 

 5月13日・16:00


 社交会は華々しく幕を開けたものの、隣の部屋で警備と作戦会議に当たるシルバ以外のパーティーメンバーからはその様子は分からない。

 

 その一方で、バイヤンFCの優勝パレードと報告会を一目観ようとする、熱狂的ではないファンや一般人もホテル周辺に増えてきた。

 

 とは言え、高級ホテルは意図的に他の施設とは距離を置いた立地になっており、お祭りムードに便乗して近くの商店で窃盗を犯す様な気配は、今の所感じられない。


 

 屋上にテントを張り、優勝パレードを含めたミュンヘン熱狂の全貌をコーヒー付きで眺められる、リンを始めとした屋上部隊はある意味、最も役得な仕事と言えるだろう。

 

 配置されたメンバーも女性警察官が多く、時折見せるリンの魔法練習に周囲は驚愕しながらも、互いに和気あいあいと半生や趣味を語り合っている様子だ。


 ホテルは9階建てで、イベント用の部屋は最上階の9階と中央の5階に用意されているのだが、セレブに好まれる高層階の部屋は通りに面しており、向かい合う建物からの狙撃や屋上からの襲撃に備えて、社交会は5階の部屋を利用する事となっている。

 

 ちなみに9階の部屋には、セレブ風の扮装をした警察官がダミーとして配置され、5階の社交会会場は中庭に面した部屋になっていた。

 セレブ達が商談を行う傍らで、野良猫対策に励むバンドーを上から眺める事も出来るのだ。


 

 バンドーは野良猫捕獲用の檻に餌をセットし、猫のサンプル写真を拡大コピーして鳥籠から出したフクちゃんに見せ、似た生き物を見たら中庭に追い込む様に身ぶり手振りで指示をする。

 

 果たしてこの行動に何の意味があるのかは分からないものの、バンドーはこのやり方で今まで動物とともに生きてきたのだ。


 

 社交会開始から1時間が経過したが、怪しい動きは全く見られず、リン達が屋上から眺めるバイヤンFCの優勝パレードにも特に悪質な乱入者は無い。

 

 パレードを見て軽食片手に帰路に着く人の姿が目立ち始め、ハインツが不安視していたドルトムンダーサポーターも、ビール片手にバイヤンサポーターと肩を組んでサッカーを讃える姿があちこちで見受けられている。


 

 社交会では、ローズウッドを代表代理に据えたクレア財団と、財団の援助を受けて東欧有数の医療器具メーカーに成長したメディカル・ストフとの間に、3年目の投資契約が順当に締結。

 そもそもこれは財団代表のディミトリーの意思でもあり、ローズウッドは取りあえず最低限の仕事を終えた事になる。

 

 だが、現在緩やかな下降線を辿っているクレア財団の将来に関しては、余り好ましくない憶測や噂話も飛び交っていた。

 

 心無い人間は、財団の後継者とも言われている代表補佐のディック・ワーグナーが今回ローズウッドに同行していない事から、勝手に「2人の破局でクレア財団は終わり」といった見解を持っている。

 

 父親の右腕としてのワーグナーには信頼を寄せているクレア一家ではあるが、剣士の道を選んだ長女の様に、娘の将来を財団が縛る様な事はしない。

 ワーグナーにとっても、社交場で時折共同作業をするだけで、自身の半分近い年齢のローズウッドと政略結婚の噂を流されるのは良い気分ではないはずだ。


 ローズウッド本人はあくまで、家の手伝いで時折セレブになるだけの大学生と言う認識であった為、性格の悪いセレブには毅然とした態度で批判する。

 

 メディカル・ストフのストフ社長からは時折態度を改める様に頼まれてはいたが、それは会社側が金の為に他のセレブとも仲良くしたいと言う本音でしかないと考えており、メディカル・ストフとの契約締結の後、彼女はセレブ集団に馴染めず孤立した状況に追い込まれていた。


 

 その頃、軽食片手に帰路に着く人々の恩恵を受け、野良猫達もミュンヘンの街中で地味に増殖を始める。

 空の見回りに出ていたフクちゃんが野良猫をつつきながら数匹連れて来ると、バンドーが見守る中、安全で餌もある捕獲用の檻に野良猫達は自ら進んで入って行く。


 「フクちゃんありがとう! これで糞尿の掃除も檻の周りだけでいいからな。やっぱ俺って天才だわ!」

 

 自画自賛するバンドーの背後から、何やら拍手の様な音が聞こえる。

 中庭まで誰にも咎められずに来る事が出来るのはホテルと警備の関係者か、社交会に参加するセレブや企業の人間だけだ。

 

 「クレアかい?」

 

 バンドーがゆっくり振り返ると、そこには意外な人物が立っている。

 

 「初めまして、私メディカル・ストフの企画部長補佐、マクシム・イリエフです。交渉資料を持ってきたのですが、私重役ではないので社交会に参加出来ず、暇でしたので野良猫と遊ぼうかなと考えてお邪魔させていただきましたが、いや、お見事ですね!」


 ローズウッドの高校時代の先輩で元彼のイリエフは、現在は当然23歳か24歳のはずだが、飛び級出世の天才故なのか、バンドーに名刺を差し出すその仕草にも、若さに似合わない妙に達観した雰囲気が備わっていた。

 

 長身でもイケメンでもなく、東欧人としてはやや浅黒い肌とバンドーに近い体格、何やら親しみやすい3枚目オーラに満ちている。


 「あ、こちらこそ初めまして。賞金稼ぎのレイジ・バンドーです。確かイリエフさんは、ローズウッドさんのご学友と聞きましたが……」

 

 バンドーは無礼が許されそうなイリエフのキャラに釣られる様に砕けた挨拶を返し、その質問を聞いていたイリエフは愛想笑いを浮かべて恥ずかしそうに昔を回想した。

 

 「懐かしいですね。私の家はさほど裕福でもないのに、親が無理して私をセレブ学校に通わせていたんですよ。セレブな子息さんは高校生にもなると、自分の家系でマウントを取れる限界が分かってしまうので、私は随分馬鹿にされましたね」


 初対面の相手にも臆すること無く、自分の事を積極的に話すイリエフにやや面喰らうバンドー。

 だが、スピード出世する様な人間は、常に自らの才能を信じて自己アピールし続ける貪欲さが無くてはいけない。

 彼もそう言うタイプの人間なのである。


 「ローズウッドさんについては、あのクレア財団の次女という事で入学前から噂になっていたんですが、彼女はセレブの傲りもなく、純粋に動物を愛する方でした。私はその頃から既に医療器具のアイディアを年齢を伏せて企業にアピールしていたんですが、そのアイディアで瀕死の動物を救う事が出来たんです。彼女と親しくなったのはそれがきっかけですね」


 なるほど。

 

 生活には困らないが、一生偏見から逃げられないが故に退廃的になりがちなセレブ集団の中、セレブ学校を通過点としか見ていなかった2人の真摯な努力が、結果として互いを惹き付けたという事になるのだ。


 「……ちょっと気になったんですけど、普通に大学とか卒業していたら、イリエフさんの年齢だとまだ新米のはずですよね? この出世のスピードは、まさか高卒で医療機器メーカーの企画部に就職出来たんですか?」


 バンドーはイリエフに、初めて自分から質問を浴びせる。

 

 正直、中小企業を短期間でこれだけ発展させる才能があればもっとゆっくり就職先を選んで、それこそドイツやフランスの一流企業を目指しても良かったのではないかと感じたからだ。


 「……実はですね、ウチの親父の会社が合併元に乗っ取られまして、親父は追放、大学どころじゃなくなっちゃったんですよ。恥ずかしかったからローズウッドさんには何も言えずに別れましたけど、企業にアイディアを送りながらブルガリアでひっそりとアルバイトしていたんです。そんな中、私の才能を認めてくれて、仕事をしながら大学にも通わせてくれたのがストフ社長だったんです。ありがたい事に、ぼちぼち大企業からも引き抜きの話も来ているんですが、私はもう他の会社に行く気は無いですね」


 「えっ? それじゃまさか、ローズウッドさんとは高校卒業以来会ってないんですか?」

 

 バンドーは驚きの余り、思わずイリエフに詰め寄る。

 

 「……ええ。クレア財団から融資を受けた2年前から、いつかお会いして色々と謝りたいと思っていたんですが、お互いのスケジュールも合いませんし、私自身がブルガリアにいる事が少ないので……だから、今回の社交会にディミトリー代表が来れない事が、私にとっては千載一遇のチャンスだと思い、ローズウッドさんの参加をストフ社長にも依頼したんです」


 バンドーは考えた。

 

 一刻も早く、ローズウッドにイリエフがここにいる事を知らせなければいけない。

 

 それこそトイレ休憩だと嘘をついて、ここにローズウッドを連れてきても良いのではないかと。


 何か良い手段は無いものか……あった!


 バンドーはフクちゃんを手招きして呼び寄せ、5階の社交会会場の部屋の窓に顔を出す様に身ぶり手振りで説明する。

 

 その様子を興味深けに眺めていたイリエフは、自分の足元に新たな野良猫が一匹現れた事に気付き、抱き抱えて餌を与え、野良猫がご機嫌なうちに捕獲用の檻に優しく投獄した。

 

 やり手のビジネスマンは時に冷酷なのである。


 「それっ! 頑張って飛んでくれっ!」


 最近都市型の生活に慣れてきたフクちゃんにとって、ホテル5階分の高さに飛ぶのは骨の折れる作業だとは思うものの、フクちゃんを一度まじまじと観察しているローズウッドならば、窓からフクちゃんの姿に気付き、更に階下にいるバンドーの姿も確認するはず。

 

 バンドーはそう確信していた。


 

 フクちゃんがホテルの5階に到達し、セレブの皆様にその存在をアピールする頃、ちょうど会場は夕食前の休憩時間に突入しようとしていた頃であり、比較的多くの参加者が窓際に来ている。

 

 夕暮れから夜へと空の色が変わりかける頃に突如出現した全身黒毛、顔だけ真っ白なフクロウの姿はインパクト絶大で、参加者が皆揃って驚きの声を上げていた。

 

 「わっ! フクロウだ! こんな都会に珍しいな!」

 

 「可愛い! でも余り見たこと無い種類ね」


 参加者の声に振り向いたローズウッドには、このフクロウが昨日書店で見たフクちゃんだと一目で分かり、保護者であるバンドーの存在も思い出した彼女はすぐさま窓の下を眺める。


 そこには、満面の笑みで手を振ってアピールするバンドーと、彼女にとっては忘れられない元彼、イリエフの姿があった。


 「もう夕食ですよね? 先に休憩に入って宜しいでしょうか?」

 

 ローズウッドは、今にも駆け出したい気持ちを抑えて支配人のハーンに声を掛ける。

 

 夕食の準備の指示に追われていたハーンはやや戸惑いながらも、護衛を付ける事、ホテルの敷地から出ない事を条件に彼女の要望を許可した。

 

 「ありがとうございます!」

 

 ローズウッドは感謝もそこそこに駆け足で会場を飛び出し、エレベーターの存在すら忘れてドレスのまま階段を駆け降りようとしている。


 「ローズウッド様が出てきたぞ!」


 この動きは当然、会場の隣の部屋で警備とプランニングに当たっていたシルバ達の目にも止まる事となった。

 

 「自分が護衛に付きます!」

 

 シルバはすかさず護衛に立候補し、軍隊時代の実績から彼の護衛に反対する者はいない。


 「貴方は誰? 付いて来なくても大丈夫です」

 

 ローズウッドは、突然隣の部屋から飛び出して自らをマンマークするシルバの存在を煙たがっている様子で、左手の5本指を開いて前に突き出す制止のサインを送る。


 「自分はケン・ロドリゲス・シルバと申します。チーム・バンドーでマーガレットさんにはいつもお世話になっています!」


 「……分かりました。警察の方で無ければ宜しいです」

 

 ローズウッドにとって、シルバが姉やバンドーとの関係がある事が安心感に繋がっていた様子だ。


 シルバを引き連れたローズウッドが中庭の入口に辿り着くと、バンドーとイリエフに大きく手を振り、続いてやや大袈裟なジェスチャーで2人を中庭の入口に手招きした。

 自らが中庭に入ってしまうと、5階の窓からセレブ達に行動がバレてしまうからである。


 彼女の意図を理解したバンドーとイリエフは、カムフラージュの為に4匹の野良猫が入った捕獲用の檻を担いで中庭入口に運び出す。

 これで5階の窓からは、バンドーが仲間の手を借りて野良猫を運び出しているだけの作業に見えるのだ。


 「マクシム! 会いたかった……!」


 ローズウッドは流石に、全力で元彼の胸に飛び込むドラマの様な真似はしなかったものの、これは2人にとってほぼ5年振りの再会である。

 

 日系のバンドーから見れば気恥ずかしい程の、ヨーロッパ人らしいダイナミックな抱擁で会えなかった長い時間を急速に埋めている様な想いと空気が伝わり、普段色恋沙汰に余り縁の無いシルバも素直に感動していた。


 「どうして何も言わずにいなくなったの? せめて大学や住んでいる街の名前だけでも教えてくれたら、時々は会いに行けたのに……」


 ローズウッドがイリエフに積年の想いをぶつけている間に、バンドーはクレアの携帯電話に連絡を入れ、警備をひとまずハインツに任せて中庭に顔を出す様に要請する。


 「親父が会社を乗っ取られて、大学どころじゃ無くなっちゃったんだ。ガソリンスタンドとかファーストフードとか、君が絶対来ない様な所でアルバイトしていたんだよ……恥ずかしくて言えなかった。今の会社にアイディアが採用されて、ストフ社長に大学にも行かせて貰えたんだ。働きながらだったから、君と会う時間も無かったよ。ごめんね」


 バンドーの前では3枚目のお兄ちゃん風だったイリエフが、セレブ美人のローズウッドをなだめる今、やたらイケメンに見えていた。


 ……イケメンがモテるのではない、モテた奴がイケメンなのだ!


 「ローズ! イリエフさん! 久しぶりね!」


 バンドーから連絡を受けたクレアが中庭に姿を現す。

 防具の上から更に一枚上着を羽織っている所を見ると、警備の仕事は暇で身体が冷えているのであろう。

 

 また、シルバはこのタイミングで、屋上のリンにローズウッドとイリエフ、クレアが揃って顔を合わせている事を電話で報告していた。


 「……お姉ちゃん! 最近家にも連絡入れないで何やってたの? パパも私も大変だったんだからね!」

 

 心を許せる姉と再会した解放感からなのか、ローズウッドはつい先程までのセレブ感ゼロな本来のキャラが全開となる。


 「ごめんごめん……あたしもひとりで剣士やるのしんどくなって来たから、仲間を集めていたのよ! 稼ぎも良くなって来たし、今度何かおごってあげるから許して」


 妹に媚びを売ってまでも、家の問題に背を向けて生きられないクレアの長女としての運命を横目に、バンドーは自分が次男である幸福をじんわりと噛み締めるのであった。


 「まあまあ、ローズ、空を見てごらんよ。もうすぐ満月になるから月が綺麗だよ」

 

 かつてはローズウッドと付き合っていたイリエフだけに、当時から姉妹喧嘩の仲裁はしていたのであろう。絶妙のタイミングで話題を逸らしている。

 

 もう少し暗くなれば更に美しくなるのだが、それでも十分に美しい月。完全な満月になる数日後が楽しみであった。


 だがここで、思わぬ事態が発生する。

 

 野良猫の檻の上で月の光を浴びたフクちゃんが、急に体勢を崩して卒倒したのだ。

 

 慌ててフクちゃんをキャッチしたバンドーがローズウッドとともにフクちゃんの様子を確認した所、特に異常は無い様子であったが、今日は無理して高く飛ばせてしまった反省もあり、鳥籠に戻して安静にさせる事をバンドーは皆に約束する事となる。


 

 「ローズ、今日は君にようやく謝る事が出来て本当に良かったよ。ありがとう」


 長年の胸のつかえが取れたような、晴れ晴れとした表情のイリエフを見て、ローズウッドも満足気な微笑みを浮かべている。

 この瞬間の為だけでも、今回の社交会参加に意味があったと言えるはずだ。


 「私も順調に行けば、来年から獣医の研修生になれる予定なの。貴方はヨーロッパ中を飛び回っているって聞いたから、余り会う時間は無いかも知れないけど、いつかまた、獣医の為の発明にも尽力して欲しいな……」


 ローズウッドはイリエフの肩にもたれ、懐かしい恋人気分に回帰していた。

 イリエフは少々照れ臭そうにしていたものの、満更でも無い様子である。


 「家庭の事情もあるけど、また近い内に会えたらいいなって、僕も思うよ……」


 ん? 家庭の事情?


 こういった危険なワードに敏感な女性陣だけではなく、バンドーとシルバにも何やら引っ掛かる一言であった。

 

 ローズウッドとクレアの表情が微妙に変化している事にバンドーとシルバは気付いていたが、才能1本勝負タイプのイリエフに、こういった機微は備わっていないらしい。

 

 「……マクシム、家庭の事情って何? ご両親と一緒に住んでいるって話? それとも……?」


 ローズウッドは、それ以上の現実を追及する事を心の底では恐れてはいたものの、少しでも不安のある疑問は解明しなければいけなかった。


 イリエフ以外の男性との交際経験が無く、セレブの財力とルックスに関心を示さない鋼鉄の意志を持つ女、ローズウッドにとって、例え古いタイプの女性と笑われようが、イリエフは将来を考えたい男性の1番手なのだから。


 「……え? も、もうすぐ子どもが生まれるんだけど……言って無かったっけ?」


 恐らくイリエフは、話した相手を勘違いしているのだろう。

 別に不倫した訳ではないし、好きだった人に5年ぶりに会う人全てが昔の恋の続きをしたい訳でもない。


 だが……。


 「……奥さんがいるのね? 誰? 何処で会ったの?」


 流石のイリエフも、ローズウッドのこの追及が祝福に基づいたものではないと言う現実には気付いた様子だ。彼は恐る恐る口を開く。


 「……ス、ストフ社長の娘さんだよ……。凄くいい人だし、僕の運命を変えてくれた恩人の娘さんなんだから、大切な人だよ……」


 「みゃあ〜、みゃあ〜……」


 捕獲用の檻に収容された野良猫までが、この不穏な空気に耐えられず鳴き声を漏らす。

 バンドーとシルバも野良猫をなだめたり餌をあげたりして、必死に現実逃避に励んでいた。


 「ふーん、社長さんの娘かぁ……。キャリア固めに入ったのね……。この、スケールのちっさい、チンピラセレブがああぁぁっ!」


 ローズウッドの怒りの理由には、自分に似合わないセレブ生活への疲れや不満もあったのであろう。

 だが、かつてセレブ学校のムードにともに風穴をあけた元彼の思想的裏切りは許しがたく、姉のクレアも今から起こるであろう惨劇を止めるべきかは未だ躊躇している。


 「ローズウッド様! ここにおられましたか。早く戻らないと夕食が冷めてしまいますよ!」

 

 ローズウッドが休憩からなかなか戻らない事を不安視した、ハーン支配人が中庭に駆けつけた。


 「うっさいんじゃ、ボケ!」

 

 ローズウッドは鬼神の如き表情でハーン支配人を振り返って一喝し、イリエフに靴やアクセサリーを投げつける。


 「わっ! ご、ごめんローズ! でも、5年も会ってなかったし、話すことにも順番があるだろ……ぎゃっ! 痛っ!」


 「と、とにかく止めなきゃ!」

 

 バンドーには、ローズウッドの気持ちもイリエフの気持ちも理解出来た。

 

 これが社交会の警備の仕事でなければ、心ゆくまで喧嘩させてやりたい所であったが、内部で騒ぎを起こせば報酬にも影響してしまう。


 クレアにもこの状況の危険度は理解出来ていたが、イリエフは剣を抜かなければならない様な悪党では全くない。

 ましてや事態の収拾の為とは言え、実の妹に剣を抜く理由もない。


 バンドーはローズウッドを、シルバはイリエフをそれぞれ互いから引き離し、自らの立場も忘れてこう叫ぶのであった。


 「誰か〜! 警備の人、誰か来て〜!」


 

 5月13日・21:00


 社交会は特に危険も無く、例年通りの成果をあげて終了した。

 敢えて不審者と呼べるのは、ホテルの前で喧嘩をしてハインツに成敗されたサッカークラブのサポーター2名と、中庭で痴話喧嘩を繰り広げたローズウッドとイリエフの計4名だけである。


 バンドーは騒動の後も捕獲した野良猫計6匹をアニマルポリスに引き渡し、ローズウッドの親友でもある遊び人シンディに、誰か男の子をローズウッドに紹介してあげる様に頼んだらしい。


 結局、ローズウッドの暴れっぷりはハーン支配人を通じて参加者に知れてしまい、彼女は謝罪と社交界からの引退を表明する事となった。

 

 だが、これは悪いことではない。


 ヨーロッパのセレブ界に「クレア財団の娘は2人ともヤバい」という定説が流布される事により、世襲不足のクレアの両親も財団から引退しやすくなったからである。

 

 クレア財団は後継者にディック・ワーグナー氏を擁立し、ローズウッドが獣医としてひとり立ちした時点で財団の実権をワーグナーに移譲する事を正式に決定した。

 

 クレア財団という名称は、伝統を重んじて今後も継承される予定ではあるが、現実として後数年で、財団はクレア一族の手を離れる事となったのである。


 クレアの両親は残された業務を整理しながら、屋敷をワーグナー氏に預けて新たな家族の拠点探しを計画し始めた。

 

 近い将来、クレアがそこに夢である剣術道場を開ければ、それが最高の親孝行になるのであろう。


 ローズウッドはセレブと完全に訣別し、髪の毛も地の赤茶色に戻して、今は獣医を目指す学業に専念している。

 彼女の容姿と真っ直ぐな努力を以てすれば、仕事でも家庭でもすぐに幸せを掴めるはずだ。


 

 今回の警備の報酬は多額である為、既に組合から銀行の口座に移されており、パーティーは解散時に500万CPを各々の口座に100万CPずつ振り込まれている事を確認して帰路に着く。


 遅い朝食のケバブ以来の食事だったが、パーティー一行は空腹でも様々な思いで胸が一杯だった為、夕食はシンプルなパスタ料理となった。


 「クレアも財団のお嬢様って肩書きがもうすぐ取れちまうな。お嬢様でいられる今のうちに相手探したらどうだ?」

 

 ハインツは手元のパスタをフォークに巻き付けながらクレアをからかっていたものの、外見は可憐でも内面は激情家だったローズウッドと比較するならば、クレアが剣を捨てて本気で女性的な部分をアピールした時点で、かなりモテるだろうと男性陣は認識している。


 「贅沢に浸かっていたら悲しいだろうけど、あたしはもう何年も貧乏剣士なんだから平気よ。今は5人のパーティーで仕事の幅も収入も増えて幸せだわ。皆これからも宜しくね」

 

 クレアにとっては財団を名乗れなくなる寂しさよりも、再び孤高の貧乏剣士に戻る恐怖の方が大きい様子であった。

 

 一方で、リンは何やら複雑な表情を浮かべている。

 

 「今回の仕事はセレブ繋がりで特別に楽だったとは思うんですけど、屋上に立っているだけで100万CPも貰えちゃうのは、やっぱりおかしいと思うんですよね……。早く金銭感覚を取り戻さないといけないと感じています」


 リンの感覚は極めて真っ当なものではあるが、賞金稼ぎの収入とは元来そういうもので、10の時もあれば1の時もあるのだ。

 

 真っ当な金銭感覚を求めて、リンが7月に図書館司書に戻る様な事になれば、彼女に好意を寄せるシルバのみならず、パーティーにとっても大打撃である。

 

 賞金稼ぎで順調にお金が稼げている為に、他の仕事に関しての意欲や興味を少しずつ失いかけているバンドーやシルバも、ローズウッドやイリエフの生き様から自分を見つめ直す必要性に迫られる、そんな2日間であった。


  

  (続く)

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