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バンドー  作者: シサマ
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第1話 アース・ワン・ネイション 旅立ちのバンドー



 

 西暦2045年、地球全土を襲った未曾有の自然災害により、同時多発的な地震・津波・火山噴火で人類を始めとする多くの生物の命が奪われ、その人類が造り上げた軍事兵器や科学兵器が地球に更なる悲劇と破壊をもたらした。

 

 生き残った人類はそれまでの傲慢な生き方を改め、国家間の無益な争いを控えて自然環境との共存を重視した「アース・ワン・ネイション・プロジェクト(略称EONP)」をスタートさせる事となる。


 だが、この災害で本当に地球全土は破壊されたのであろうか?


 そうではない。

 

 災害の規模に左右される運・不運はあったが、実際に被害が多かったのは核兵器の管理を怠っていた国、政情不安の国とそこに隣接していた国など、限られていたのだ。


 西暦2045年まで世界のリーダーシップを取っていたアメリカは、増えすぎた兵器を本土で爆発させ、アメリカ・カナダの国土の大半を失ってしまう。


 しかしながら、生き残って難民となったアメリカ・カナダ人をまとめて受け入れる国は規模的にも思想的にも存在せず、富裕層はUAEやシンガポール、原油利権組はサウジアラビア、庶民は自らのルーツを頼って中南米や英語圏のアフリカ諸国、イングランドやアイルランド、イタリア等に渡る事となった。

 また、一部の政治的富裕層はイスラエルに渡って活動中とも言われている。

 

 その中に於いて、とりわけ一部のアメリカ人の行動は決して悲劇のヒーロー・ヒロインのものではなく、飽くまで国家の復権と自己のアイデンティティ奪還の意志を感じさせる、自らが脇役に甘んじる素振りすら見せない逞しいものであった。


 それが良いか悪いかは、別問題であったのだが……。


 

 アジアに目を向けると、兵器の管理そのものに疑問を拭えなかった北朝鮮は、災害でまともに爆発した兵器こそ数発だったものの、韓国を巻き込む様に崩壊し、過去の原発事故の収拾が遅れていた日本とともに、故郷を捨てざるを得ない状況に陥った。

 

 だがしかし、アジアは人口密集傾向にあり、当然他国にも被害が及ぶ中、日本人や朝鮮人が安易な経済的希望で中国やインドに新天地を求める事は出来ない。


 

 アメリカの崩壊により、EONPにおける表面上のリーダーシップを握ったのはロシア。

 当時は世界的な発言力を失っていたロシアが統一国家のリーダーとなれた理由は、広大な国土の損壊が少なく、資源と油田、各種兵器が丸ごと残されたからである。


 だが一方では、統一された国家が資本主義を導入し、公用語として英語を採用する等、ビジネスモデルやインフラ整備に於いては姿なきアメリカ式の影に影響されざるを得なくなってしまったのだ。


 

 統一貨幣「CP」(コストパフォーマンスが語源か)の制定、国名の地域化(EONロシア地域、等々)、言語・物価・社会保障の調整、軍隊・警察組織の再整備による治安の維持など、50年以上もの歳月を経て得たものと失ったもの、あらゆる進化と矛盾を内包しながら、EONPは歩みを止める事無く今日に至っている。


 そして西暦2099年。

 

 

 EONニュージーランド地域・カンタベリー。

 

 54年前、大災害で故郷を捨てざるを得なくなった日本人や朝鮮人にとって、移住先として最も人気があったのは、オーストラリアとニュージーランドであった。


 EONPの公用語に決まった英語だけで生活出来るという点は勿論だが、イメージから来る気候や治安の良さと言ったおおらかな環境が、潜在的な抑圧の多かった、かつての両国民の深層心理に訴えたのであろう。


 先の災害時、比較的被害の規模が小さく、領土と人口との比率でも余裕があった南半球の地域は、故郷を失った難民の受け入れに寛容ではあったが、そこには当然、地域の利益との兼ね合いが隠されていた。


 オセアニアの地域が提示した難民受け入れの条件はまず、「2045年までに10年以上オセアニアに居住していた親族がいる者」、続いて「第一次産業、或いは自動車産業で成果を挙げた者」、「第一次産業、或いは自動車産業に就労する意志を持つ者」である。


 今世紀とともに停止していた、ニュージーランドでの自動車産業再開の為に、以前から縁の深かったアジア人の力を取り入れる狙いもあったのであろう。


 

 カンタベリーと姉妹都市の間柄にあった、日本の岡山県・倉敷市で農場に就労していた青年、ヒロシ・バンドーは、大災害で家族を失い、かつて研修で訪れていた縁を頼って単身ニュージーランドに移住する。

 

 農業経験を買われた彼は移住と就労には成功したものの、勝手の違いや言語の違い、潜在的な人種差別などに苦しみ、耐える日々が続いていた。

 

 そんな彼に転機が訪れたのは2047年、ニュージーランド出身でサモア系の女性、エリサ・ローウェンと結婚した時。

 

 エリサは先の大災害後、オセアニアの人々の希望となった格闘技女王で、更なる富と名声を得る為にヨーロッパ進出が期待されていた。


 だが、欲に眼が眩んだマネージャーにファイトマネーと賭博金を持ち逃げされ、イベント開催と騙されて交通機関も復旧していない当時のカンタベリーに無一文で放り出されてしまったのである。

 

 大災害で身内を失っており、身分証明に関するもの全てをマネージャーに預けていた為に、放浪後カンタベリーで行き倒れてしまったエリサ。

 

 そんな彼女を偶然介抱したのがヒロシで、格闘技への未練を持ちつつも生活の為に農業に就労したエリサと交流を深め、二人は人種の壁を越えて結婚。

 後にエリサの所在がヨーロッパに知れ渡り、格闘技界への復帰を要請された時も、彼女の決意は揺らがなかった。


 二人はやがて長男、レイ・バンドーを授かって独立し、カンタベリー地方カイアポイに「バンドーファーム」を設立。

 

 不器用だが誠実なヒロシの人柄と、エリサの大衆人気もあってバンドーファームは好調なスタートを切り、やがてニュージーランドの日系農場としてトップクラスに成長した。

 

 後に長男レイは、同じく日本からニュージーランドに移住していた自動車業界の家族の娘、ミカ・ヤマモトと結婚し、ヒロシとエリサにとって孫にあたる長男、シュン・バンドーを授かる。

 

 シュンは母親のミカに似た色白で繊細な風貌で、奨学金を得て進学する程の秀才に成長したが、2年後に授かった次男は、エリサの血を隔世遺伝で受け継いだのか、やや浅黒い肌と強靭な肉体を持った人懐っこいキャラクターを擁していた。

 

 レイは次男を見て、自身との共通点を感じたのか、彼をレイジ(礼次)と名付けた。

 

 

 バンドー一族は、農業ならではの紆余曲折を経ながらも健やかに成長し、シュンの大学卒業を機に腰痛持ちのヒロシは農作業の現場から引退、代表の座はレイが引き継ぐ。

 

 学問に深い興味は無く、自分が農業を仕事にする事に何の疑問も抱かなかったレイジは、兄シュンが大学進学から卒業、オークランドの商社に就職した後も農場を支え続け、間もなく25歳を迎えようとしている。

 

 一方でレイは、農業そのものの将来性や、息子達の人生に微かな不安を持っていた為、長男シュンが商社で物流を学び、26歳の若さでエリアマネージャー見習いとしてカンタベリーに帰ってくるこのタイミングで、次男レイジに農業以外の人生経験を積ませようと考えていた。


 

 この物語は、24歳で未だ出生の地・カンタベリーを出た事の無い農業青年レイジ・バンドーと、これから出会うその仲間達の物語である。


 

 

 西暦2099年・4月1日・11:00

 

 「オーライ、オーライ……兄貴! そこまで丁寧に入れなくても大丈夫だって!」


 5年ぶりの帰省の挨拶もそこそこに、シュン・バンドーは強烈な陽射しを苦にもせず、手慣れたハンドル捌きで「会社から借りている」キャンピングカーを農場の車庫に収納する。

 

 農業の規模からして、車庫のスペースにも余裕はあるのだが、これは直接農作業には使わない大型車を車庫の左端にピッタリ収納させ、無駄無く左折で出ていくべき……という、彼の合理的な拘りが窺える行動なのだ。

 

 繊細で理知的な雰囲気があり、日系人男性としては色白な、180㎝・70㎏の体格である。

 

 兄弟らしく息の合ったやりとりで車の誘導を行うレイジ・バンドーは、いつも太字マジックペンで描いた様な、正直で無邪気な笑顔が売りの男だが、ちょっとくらい曲がって収納しても隣の車が出れれば良いと考える大雑把な性格でもあった。

 

 つまり一方で、兄のこの合理性とそれに対する真っ直ぐな努力が進学やスピード出世を叶えたものであると理解しており、表立って口にする事はあまりないが、兄を常に尊敬している。

 

 サモア系の格闘家だった祖母からの遺伝子が強いのか、やや浅黒い肌に175㎝・80㎏という、がっしりとした体格だ。


 「よっしゃ! 完璧!」

 

 自画自賛しながらキャンピングカーから降りてきたシュンの隣には、既にマイカーを車庫入れした金髪長身の彼のパートナー、ニッキー・バンドーが微笑む。

 

 

 ニッキーはシュンの大学時代、シドニーで出会ったミュージシャンで、一時はプロとしても活動していた。

 しかし、音楽ビジネスに馴染めずに路上歌手に転向、その歌声に魅せられたシュンが何度も彼女の元を訪れ、大学祭に招いた事から交際が始まったのである。

 

 シュンより2歳歳上で、賢く、行動力もあり、実家は小さな雑貨屋と、人生の苦労を知っているニッキーは、才能を努力で伸ばしてはきたが、大きな挫折はまだ知らないシュンにとって、無くてはならない「先生」だ。

 

 意を決したシュンが2年前、プロポーズ後に彼女の実家を訪れた時は、東洋人への差別もなく、両親から歓迎を受ける。

 

 シュンの勤める会社がオセアニア有数の商社だった事もあるが、両親としては娘が地に足を着けてくれる事を期待していた様だ。

 

 ちなみに、ニッキーはかつて路上歌手の傍ら、農場のアルバイトも経験していた「即戦力」でもあり、バンドー一族からも歓迎されている。

 

 

 「ニッキー、ウチの実家は初めてだよな。どうだ、田舎だろ」

 

 口調とは裏腹な、どこか誇らしげな表情で辺りを見回すシュン。懐かしい我が家だ。

 

 どこからが農場で、どこからが自然なのか分からない雄大な景色。

 川はかなり遠いのに、澄んだ空気を伝って聞こえるせせらぎ、遠くまで見渡せる水平線が突然途切れた様に見えるのは、地球が丸いからか……。

 

 そんなおかしな事を考えてしまう、美しい風景だ。

 

 ニッキーはシュンに釣られる様に辺りを見渡し、深呼吸して、瞳を上げる。

 

 「私、プロだった時代に、一度だけロンドンに行った事があるの。言葉は同じだし、ミュージシャンとしての成功に拘りたければ、ロンドンにしがみつく事も出来たと思う」

 

 レイジが二人に駆け寄る。

 更に車の音を聞いて、足腰の弱い親族や近隣の農業仲間も集まってきた様子だ。

 

 「でも、それは出来なかった。シドニーが田舎とは言わないけど、ヨーロッパとオセアニアとでは空気が違うの。きっと当時の私は、ミュージシャンになりたいんじゃなくて、馴染みの土地で、馴染みの人の前で、好きな事をしたいだけの娘だったんだと思う」


 親族で最初に駆けつけたのは、シュンとレイジの母親、ミカ・バンドーだった。

 

 ミカは色白の美人で、普段は穏やかだが、仕事中毒の父親に嫌気が差して、災害後の国策として復興した自動車業界を飛び出した過去を持つ。

 

 やがて日系人経営の親しみやすさだけで選んだという、バンドーファームで住み込みのアルバイトに挑み、父親とは正反対の、まさに「気配りのひと」タイプだったレイと恋に落ち結婚と、思い立ったら一直線の熱血漢……いや、熱血乙女。

 

 そんな背景があるだけに、レイとミカの結婚に関しては、当然賛否両論が吹き荒れた。

 

 カイアポイの近隣都市、クライストチャーチを代表する自動車会社の、日系人初の役員にまで上り詰めたミカの父、タクミ・ヤマモトが良い顔をする訳がなく、レイが娘を騙して強引に連れて行ったと誤解していたのである。

 

 しかし、婚約当時のレイはまだ23歳。

 ひとつ歳上のミカ側が主導権を握っていた事が判明すると、タクミは冷静にバンドーファームの資産価値やレイの人柄、将来性、ミカへの気持ちを確認し、苦虫を噛み潰しながらも盛大な披露宴を開催してくれた経緯があったのだ。

 

 好き嫌いは別として、海外で成功する人間にはそれなりの器の大きさがあったと言えるだろう。

 

 

 「お帰り、シュン。ニッキーさんも、これから宜しくね」

 

 ミカは基本的に、高圧的な態度の人間や理不尽な仕打ちに我慢が出来ないだけなので、普段は皆から信頼され慕われる、良い母親である。

 

 どちらかと言えば、風貌を含めて長男のシュンが母親似、次男のレイジが父親似と言えた。

 

 「何か車が増えちゃったわねぇ……」

 

 ミカにとっては、車=父親のイメージであるため、長男夫妻のマイカーと社用キャンピングカーが収納された車庫の景色にはやや不満がある様子である。


 レイジが何やらニッキーに話しかけようとした瞬間、彼の足元を馴染みの野良猫が通りかかり、そのままジャンプした野良猫がレイジの頭上にピッタリと、生まれつき一体化していたかの様に乗っかった。


 幼い頃から、何故か動物に好かれていたレイジの日常ではよくある事である。

 

 「農場の仕事はあるけど、馴染みの土地で、馴染みの人と好きな事をやるなら、ここでも出来るよ」

 

 レイジは頭上に野良猫を乗せたまま、いつもの太字スマイルでニッキーに微笑みかけ、ニッキーもその笑顔と野良猫に釣られる様に、思わず頬を緩めていた。

 

 「ぷっ……ここはシドニーとは違うし、シュンの会社のあるオークランドとも違うけど、私はここも大好きになるわ。やっぱり、オセアニアの空気が一番なの」

 

 

 いつの間にか親族、農場仲間が勢揃いし、バンドーファームの車庫前はちょっとした市民ホールの様な賑わいを呈している。

 

 高齢と腰痛で農作業の現場から引退していた創業者・ヒロシの車椅子を、70歳をとうに過ぎていながら全く衰えの兆しすら見せない、元格闘技オセアニア女王・エリサが押していた。

 

 「じいちゃん、歩けなくなっちゃったのかぁ?」

 

 久し振りに実家に帰って来たシュンが驚きの声をあげる。

 

 5年前までは、腰痛に悩みながらも片手杖だけで歩けていたのだ。

 その姿を、ニッキーも心配そうに見つめている。

 

 「ちょっと距離があるから、エリサのトレーニングに協力しているだけだ! 家の中ならまだ杖で歩ける!」

 

 声を荒らげて衰えの否定に躍起になっているヒロシだったが、80歳近い日系人男性としては体格は良い方であり、声のデカさも単身ニュージーランドに来た頃から変わってはいない。

 頭髪はかなり寂しくなっているが、日本伝統の頑固親父的な風貌も健在だ。

 

 大災害を生き延び、単身ニュージーランドに移住し、元格闘家の嫁さんをもらう男であるからして、何をか言わんや。

 

 「……まあとにかく、シュンもニッキーさんも、よく帰ってきてくれた。生まれ育った土地や地方、国……今はワン・ネイションになったが、そこに戻ると落ち着くものだ。俺の生まれ育った国、日本はもう、人が住める状態ではなくなってしまったけれど、今はニュージーランドが故郷だと言えるよ」

 

 ヒロシの隣で話に深く頷いていたスンフン・クォンも、幼い頃に災害で故郷・韓国を失い、ニュージーランドに移住した経緯の持ち主だ。

 

 

 東アジアの被害拡大は、災害だけではなく北朝鮮の核爆発や日本の原発事故の後遺症も要因とされている。

 その為、同じ朝鮮系移民でも、出身地による互いへの差別意識を捨てられず、日系農場に移っても朝鮮系移民は農業では成功しないと偏見を持たれていた。

 

 クォンは両親と供に移住後、学業で頭角を顕し、一流大学奨学生、一流商社経由で物流を学び、今はバンドーファームを始めとするニュージーランドのアジア系農場とインドや中国とを結ぶ商売を行っている。

 

 キャリア形成が近いシュンにとって、クォンは身近なお手本となる存在であった。

 

 「シュン君の様な有望な若者が来たら、もう私も定年退職だな」

 

 「そんな、まだまだクォンさんにはお世話になりますよ! エリアマネージャーと言っても、俺の管轄はカンタベリーの小さな街だけで、デカいクライストチャーチには先輩が就いてくれている、まだ見習いですから。ぶっちゃけ、実家の農作業の手伝いと半々の業務内容ですよ」

 

 クォンとシュンのやりとりに、農業を熟知した労働者や親族は大爆笑していたが、祖母のエリサだけは、何やら神妙な表情を浮かべている。

 彼女と幼い頃からいつも一緒だったレイジは、ひとりその様子に気付いていた。

 

 「……俺がいない間、ウチを支えてくれてありがとう、レイジ。お前は今の自分に満足しているかも知れないが、折角の家族からの薦めだ、自分だけの人生を経験して、何かを掴んで帰って来い! ついでに嫁さんも連れて来い!」

 

 シュンに両手で大きく背中を叩かれ、驚いた野良猫はレイジの頭上から逃走し、農地の脇の草むらに消えていく。

 

 苦笑いしながらもやや後退りするレイジ。

 両親からこの話は聞いていたものの、そこそこに成功している農家の次男という立場に安住していた感のあるレイジにとっては、少々ありがた迷惑な話でもあったのだ。


 

 そもそものきっかけは、EONPによる世界統一思想の下、生活の手段としての農業の不透明感に加えて、長男シュンがいつまで農業とカンタベリーに関われるのかという不安から、次男レイジにも農業以外の就労経験をさせて将来に備えさせたいと言う、レイとミカの親心から始まったものである。

 

 しかし、ニュージーランド内では「バンドーファームの次男」という肩書きと、大学進学をせず、農業以外のアルバイト経験もないという経歴が邪魔をして、レイジが今から農業以外の職業には就きにくいという現実もあった。

 

 そこで一族が考え付いた策は、今後農業を続けるにしても、オセアニアとアジアだけの狭い世界から脱却した、まさにワン・ネイション的なビジョンをレイジに身に付けさせる為に、彼をオセアニア・アジア以外の地域に送り込むというものである。

 

 期間は最大で3年間。

 農業に戻る決意があれば、3年以内に配偶者か若い労働力としての仲間、或いはその両方を連れてくるという約束。

 

 3年を過ぎれば、農業以外の新しい人生を見つけたものと判断し、最低限のサポートはするが自立したと見なす……というルールが決められている。

 

 オセアニアから出るという事は、当然海を渡る事を意味しており、その渡航費用、新天地で仕事が見つかるまでの生活費など、本人の貯金以外にも家計に響くとあって、レイジ本人は後ろめたさを感じ、結論を今日まで先伸ばしにしてきた。

 

 しかしながら、今こうして兄にまで背中を押されては、旅立ちもやむ無しという空気になりつつある。


 「今は陽射しが強いから、皆作業時間をずらしてお茶でも飲んで行きなさい」

 

 ミカの後ろに隠れる様にしてひっそりと佇んでいたバンドーファーム代表、レイ・バンドーが一声かけると、野菜農家のバンドーファーム、お隣の酪農家タナカ農園、そのまたお隣のワイン農家シルバセラーの面々が集う休憩時間が始まった。

 

 

 タナカ農園はバンドーファームに遅れること5年、日系人のタナカ夫妻を中心に設立された酪農家で、家族ぐるみの付き合いがある「お隣さん」である。

 

 設立当初は農地や牛の管理を巡るトラブルもあったが、互いの家族が増える度、とりわけ動物とすぐに馴染めるレイジが生まれてからは一気に関係が改善し、現在も非常時にはレイジが臨時職員になる程であった。

 

 ちなみに、設立者の孫娘サヤ・タナカとレイジは同世代で仲が良いのだが、浮いた話は一切ない。

 

 

 シルバセラーは、ブラジルからの移民であるパウロ・サントス・シルバと、日系移民ハルナ・カナザワ夫妻が立ち上げたワイン農家で、2人の間に生まれたケン・ジュニオール・シルバはレイジの親友として交流を深めていた。

 

 しかし、2088年、南米地域へ里帰りしたシルバ一家は謎の無差別テロに巻き込まれ、当時12歳のケンは両親と死別してしまう。

 

 自らの不注意でテロを許してしまったと責任を背負っていたEONアーミーのウルグアイ系軍曹ロベルト・ロドリゲスは、両親の仇を伐ちたいと願うケンを養子に引き取り、その後ケン・ロドリゲス・シルバと改名したケンは、22歳の若さで中尉まで昇進するエリート軍人となった。

 

 だが、軍で昇進した所で両親の仇が討てる訳でもなく、正義の意味に悩み続けた結果、つい先日、「シルバ中尉」は上司の承認を得られぬままEONアーミーを除隊する。

 

 幼馴染みとして、親友として、レイジは常に「ケンちゃん」の事を気にかけてきたが、除隊後の消息は今日まで不明のままであった。

 

 経営者を失ったシルバセラーだったが、ケンとEONアーミーの援助を受けて昔の職員が3年前に再建、今でも名前と南米系移民の経営を受け継いでいる。


 

 「バンちゃん、やっぱり修行しに行くの?」

 

 冷房の効いたバンドーファームの居間で、流れる汗も気に留めず、職員達が適当に握った大きさバラバラのおにぎりを頬張りながら、もう一人の幼馴染みであるサヤ・タナカがレイジに話し掛ける。

 黒髪ショートカットの、明るく世話好きな、お互い何の遠慮も必要ない間柄の女性だ。

 

 「……何その修行って……今まで楽な人生送ってきたと思ってるんでしょサヤ様。でも正直、今の自分が行っても、ただの長い貧乏旅行になりそうで心配なんだよね」

 

 元来裏表のない性格のレイジが、今の気持ちを正直に話す。

 

 「まあ農業やってるし、体力勝負とか、叱咤激励に耐えるとか、そんな事なら出来るんだろうけど、父ちゃん達が望んでいるのはそんな仕事の経験じゃないみたいだし……。もうすぐ25なんだから、のんびりしてないで嫁さんでも探せって事なのかな?」

 

 レイジが間髪入れずにそこまで話すと、突然サヤの身体の動きが止まった。

 

 「……何、嫁さんって……。こんな出会いのない田舎で私をひとりにするつもり?」

 

 字面では如何にも複雑な恋心っぽいが、レイジも真っ青の太陽みたいな太字スマイルで返されると、何やら漫才の一環なのかと少々返す言葉に詰まる。


 極端な話、レイジにとって、カンタベリーから出ない限りはサヤくらいしか将来を考えられる女性はいないし、サヤにとってはレイジが将来の旦那様「でも」仕方ないか、程度の心境。


 ただでさえ厳しい農家の結婚事情に加えて、彼らはオセアニアの日系人という、圧倒的マイノリティーなのである。

 

 幼い頃は、サヤから見たレイジはただの、「動物と仲良くなれる面白いお兄ちゃん」でしかなく、イケメンかつ真面目な同い年のケンの方が魅力的であったであろう事は、如実にサヤの態度からも窺えたものだ。

 

 だが、あれから時が流れても、毎日動物から絡まれる面白いお兄ちゃんのままでいられる人間には稀少価値があるはず。きっとあるはず。

 

 「まあとにかく、バンちゃんとこもウチも、いずれは世代交代しなきゃ続けられないんだし、歳の近い、出来れば金髪イケメンの職員さん連れてきてよね。私は3年待つから」

 

 色々と含蓄がありそうなサヤの一言ではあるが、自分の本音を理解してくれた上で応援されている様で、レイジの気持ちは軽くなる。

 

 世間的な成功を収めた兄からの期待は時折重荷に感じるが、案外周囲の皆がサヤと同じ気持ちなのかも知れない。

 

 ここで、男レイジは決断する。

 

 「父ちゃん! 今まではっきり答えなかったけど、俺、ここを出て色々挑戦してみるよ!」

 

 自分の側を通りかかったレイにすかさず大声で決意を伝えるレイジに、居間全体が一瞬の沈黙の後、無意味に沸いた。


 レイジは更に続ける。

 

 「俺は今の暮らしと自分に満足していたけど、それは皆の支えがあるから維持出来る訳であって、仮にウチらの経営がグラついた時、今の俺なら逃げ出して山奥でなんか動物にまたがってキノコ食べたりする隠居生活でも満足してしまうかも知れない。それではいけないかとも思うんですよね」

 

 「……レイジちゃん、そこまでぶちまけなくてもいいのよ」

 

 母親のミカは感心を通り越して動揺している。

 

 「よっしゃあ! レイジも旅立ちが決まったぁ! 奨学金は自分の力とは言え、俺だけ大学に行かせてもらったのが何か申し訳なくってさあ」

 

 兄のシュンも満面の笑顔で握手にやってきた。

 

 (……何だ、誰も上から目線で自分に要求する奴なんていなかったんだ。一歩踏み出す事には勇気が必要だったけど、踏み出せば皆、意外な程温かいんだな……)


 皆の為に、もっと早く決断すれば良かったと胸を撫で下ろしたレイジの元に、早速シュンが何やら伝えようとしている。

 

 「お前が決断した時の為のプレゼントだ」

 

 シュンは忍者の様なスピードでレイジに身体を寄せ、驚く弟を尻目にそそくさとセカンドバッグから取り出したのは、何と航空券だった。

 

 「シドニーから……ポルトガルのリスボン行き?」

 

 手にしたレイジは再び驚いた。

 

 同じオセアニアのシドニーについてなら、シュンやニッキーから情報をもらっていたが、ヨーロッパは全くの無知。

 

 加えて、EONPの中心部であるロシアや、ヨーロッパ系以外からの移住者受け入れにも比較的寛容なドイツではなく、地続きとは言えロシアから最も離れたポルトガルなのだ。

 未知なる旅の序章としても、いささかハードルが高い様に思える。

 

 「……兄貴、航空券まで用意してくれていたなんて嬉しいけど、何でポルトガルなの?」

 

 周囲の視線は、決意表明したレイジから航空券を手渡したシュンへと移った。

 シュンは皆の視線を一身に受けても全く動揺する素振りも見せず、自信満々の表情で口を開く。

 

 「レイジ、幼なじみのシルバ君は先日EONアーミーを除隊した。とは言え、ニュース等を見る限りまだ正式に除隊を許可されていない様子だ。納得の行かないシルバ君は出来るだけ軍本部のあるロシアからは離れたいだろう。民間の旅客機を使う空路は軍に監視されている可能性があるから、陸路から各地に潜伏しながら、自分のルーツであるブラジルの言葉、父親から学んだポルトガル語が公用語に隠れて使える地域に身を置いて休息したいんじゃないか、と俺は考えている」


 

 アース・ワン・ネイションというコンセプトとは皮肉なもので、アメリカという大国が既に存在しない中での英語の公用語設定、社会主義的政策を施行する選択権を与えた上での資本主義政策への統一など、多くの地域の反発を招く妥協案が重なった事で、かえって各地域のナショナリズムを刺激する結果となった。

 

 大災害を生き延びた人々は、例え祖国を失ってもその言語、文化、宗教等を忘れまいとし、今や自らのルーツを体験した事のない世代も、公用語の英語以外に先祖の言語や文化、宗教等を身に付けている事が当たり前になったのである。

 

 例えば、バンドー一族ならば英語に加えて、祖父ヒロシが講師となって後の世代に日本語を継承しているし、シルバ一家ならば英語、母親が継承している日本語、父親が継承しているポルトガル語の3言語をケンが身に付けている事になる。


 ちなみに、バンドー一族でポルトガル語が少し話せるのは、ケンと兄弟の様な間柄だったレイジだけだ。


 レイジの旅立ちの話題の中で、シルバ君こと「ケンちゃん」の名前が出てきた事で、幼い頃の彼を良く知るシルバセラーの職員からざわめきが聞こえる。

 

 シュンは更に続けた。

 

 「その航空券は明後日の出発予定だが、お前がリスボンに着く頃には恐らく、シルバ君もポルトガルのどこかに到着していると予想する。お前の旅立ちに、シルバ君が力を貸してくれるかも知れないし、お前の語学力や農業経験でシルバ君に力を貸してやれるかも知れない。もし、シルバ君に会えなくても、オセアニアやアジアだけを相手にするより、ワン・ネイションの中心部であるヨーロッパと何らかのパイプを作るべきだと俺は思っている。どうだ、行ってみないか?」


 まるで演説の様に力のこもった話ぶりに、再び一瞬の沈黙が訪れた後、シルバセラーの職員を中心に場違いな拍手が、ただの休憩中の居間に沸き起こる。

 

 「凄いなシュンちゃん! そこまで考えていたなんて。親御さんを亡くした怒りと悲しみで、もう俺達からは遠くに行っちまったと思ったケンちゃんだけど、元来軍隊なんて似合わない優しい子なんだ。俺達は皆、ケンちゃんに会いたい、レイジ君も会いたいだろ? 俺がものを頼める立場じゃないのは承知しているし、今更ワイン作りを継げとは言えないけれど、ケンちゃんをまたカンタベリーに連れてきて欲しいよ!」

 

 ケンの父親、パウロの親友で、シルバセラーの現代表・ガブリエウは熱く訴えていた。

 

 

 彼は先の無差別テロが起こった時、真っ先にケンを養子に引き取ろうとしたが、復讐に燃えるケンを説得出来ず、落ち込んだ気分のまま酒に溺れてシルバセラーを再建する機会を逃した過去がある。

 

 幸運と言うべきか、皮肉と言うべきか、軍人として出世したケンの援助と、軍隊仲間への口コミが広がり、シルバセラーは軍の関係施設への販売から事業の再開を実現出来た。

 

 しかし、ケンの除隊がいずれ正式に決定するであろう今、シルバセラーは遅かれ早かれ、軍とのパイプは失う事になる。

 

 「……そうだね、俺もケンちゃんに会いたい。ポルトガル語をもう一回思い出して現地でも活かせれば、ただの旅人レベルじゃない信用が得られるかも知れないし、ガブリエウさん達の熱い想いも今、伝わって来たよ。明後日はちょっと急だけど、俺、ポルトガルへ行こうと思ってる!」

 

 レイジの決意新たな一言に、居間はますますヒートアップした。

 表向き穏やかに状況を見守っていた父親レイも、ようやく安堵の表情を見せている。

 

 「レイジ、よく決心してくれた。俺は正直、お前が幸せなら一生ここで暮らしても良いと思っている。だが、俺が母さんと婚約した時のゴタゴタとか、親父の農場設立とか、シュンのシドニーでの大学生活とか、若い時しか経験出来ない何かが、その後の人生を支えるとも考えていたんだ。シルバ君を探す事は勿論だが、ヨーロッパで新しい友達や仕事を見つけてくれたら嬉しいし、その経験をウチに還元してくれたらより嬉しい。お前は間違いなく良い子だが、だからこそ俺は正直少し心配もある。困った時は一族を頼ってくれ。頑張れよ!」

 

 レイの激励を、母親のミカは黙って頷きながら聞いていた。

 母親として、言いたい事は山程あるはずで、特に嫁さんの話題とかは既に毛穴から漏れてでも話したい様に感じるが、一族や仕事仲間達の前で必死に堪えていたに違いない。

 

 これもまた、親心である。

 

 レイの言葉を最後に居間は静寂を取り戻し、職員達は再びそれぞれの仕事へと戻って行った。



4月1日・19:00

 

 日が沈み、昼間の暑さが嘘の様な涼しさに包まれるカンタベリー。

 

南半球では、4月現在の気候は春ではなく秋に近い。

 澄みきった空気に広がる星空は筆舌に尽くしがたい美しさで、観光的にも最高の眺めのひとつである。

 

 この景色を普段から見馴れてしまった立場のレイジにとっても、明後日には違う空の下で暮らすという現実が、星ひとつひとつの大きさと輝きの違いを鮮明に映し出す郷愁を呼び起こしていく。

 

 「レイジ、あたしゃ寂しいよ。あんたのいない毎日なんてね」

 

 祖母のエリサと、こうして2人で夜道を歩くのは久し振りだった。

 

 幼い頃は片時もエリサのもとを離れない「おばあちゃん子」だったレイジとの想い出を、彼女は噛み締めている様にも見える。


 

 レイジが生まれた時、一族は皆驚いた。

 サモア系のエリサの遺伝子を直接受け継いだレイよりも肌の色が濃く、体格も身体能力もエリサそっくりに成長したからである。

 

 エリサにとって、レイジはまさに目の中に入れても痛くない程の可愛い孫で、肌の色が原因で東洋人小学校時代に虐められた話を聞かされた時、すぐさま格闘技を伝授し、その練習風景を見たいじめっ子が恐れを為して距離を置く様になったという、今となっては微笑ましいエピソードも残されていた。

 

 「3年は長いわ……あたしも80歳近くなるし、旦那と揃って車椅子になるかもねぇ……」

 

 エリサはそう呟いてうつむき、ため息をつく振りをしてみせるものの、ピンと伸びた背筋に、普通の男性なら今でも一撃でK.O.出来るパンチとキック、瞬発力で大男も転倒させるタックル……車椅子なんて、ないない。

 杖すら必要ない。

 

 「また3年後までには会いに来るから、お別れの言葉は言わないよ、おばあちゃん。だけど、おばあちゃんには誰よりも感謝している。今の俺がいるのは、全部おばあちゃんのお陰だから」

 

 レイジはそう言って、エリサに正面から向き合った上で、深く頭を下げる日本式のお礼をした後、再び夜空を見上げる。

 

 「いつでも明るく生きる事、家族や友達に感謝する事、動物や植物を蔑ろにしない事、そして、笑顔に嘘をつかない事。この教えが、今の俺を作ったんだよ」

 

 全ての教えを守れない時もあるだろう。

 だがその時こそが、再び成長するチャンスなのだと、落ち込む度にエリサから励まされて来たのだ。

 

 「あんたはあたしの孫だ。不屈の農場主と、格闘技女王の孫なんだよ。やるからには、些細な事でも本気で挑戦するんだよ。寂しくなったとか、貧しくなったとか、そんな理由で帰って来るんじゃないよ」

 

 エリサの言葉に、これまでの人生と美しい夜空が溶け合い、その光景が互いを感極めようとしていたその瞬間……。


 

 「泥棒だぁ! 誰か捕まえてくれっ!」


 静寂を切り裂く怒号の主は、シルバセラーのガブリエウ代表だった。

 

 駆け出す足音は、恐らく2人。

 ガブリエウを除けば単独の現行犯と思われ、すかさずバンドーファームからもレイとシュンらしき男性2人の影が玄関から見えている。

 

 足音の流れから行くと、レイジとエリサに接近する可能性が高く、2人は感傷を一旦封印して臨戦体制に備えた。

 

 「行くよ!」

 

 エリサの合図で悪党退治……レイジが成人してからは、このコンビで何度も表彰されている、言わば地域の小さな自警団である。

 

 オセアニア人、もしくは土地勘のある者であれば、この2人に単独で挑むとは思えない。

 自暴自棄になった旅人と言った所か。

 

 農場の侵入防止柵に沿って移動すれば、バンドーファームはほぼ一本道で、この道に沿わなければ外灯の明かりはない。

 

 エリサはジェスチャーで自らの右側にレイジを移動させ、泥棒の武装状況に対応出来る様に両者の間隔調整を、少々迷った挙げ句5メートルから4メートルに狭めた。

 

 外灯に照らされ、近付いてくる黒い影は輪郭と色彩を徐々に露にする。

 泥棒も、自分の前に立つ人間が2人いると分かり、強行突破を思い止まって歩みの速度を落としていく。


 そこには、異様な風貌の男が立っていた。

 

 無造作に伸ばした頭髪、眼光鋭く痩せこけた頬、180㎝以上の長身だが、顔程は痩せていなく引き締まった肉体と、ここまではよくある「経験を積んだならず者」である。

 

 彼の右肩には、本革製らしき頑丈なたすき掛けのバッグが左側に向けて掛けられており、盗品であろうワインのボトルが5、6本見えていた。

 

 そして右手には、ニュージーランドではおいそれと見かける事のない、ナイフやノコギリとは違う「剣」が握られており、簡易的な鞘も右側の腰に真横に結ばれている。

 

 更に、胸部・腹部・下腹部には、まるで中世の騎士の様な防具までが装備されており、外灯の効果もあって、傍目には映画の撮影とすら思わせる出で立ちだったのだ。


 「おいおい何だよ、独りでワイン泥棒って。そりゃあ野菜よりは金になるし、保存も利くけどさぁ、その見た目に似合う、武士の誇りとか持ってないの?」

 

 レイジは距離感こそ意識しながらも、わざと大袈裟なジェスチャーを交えながら泥棒に話しかける。

 

 普段なら、エリサから「戦う前に余計な事を喋るな」と叱咤されそうな状況だが、この正体不明な男に対しては少々観察の時間を稼ぐ必要があった。


 エリサの短時間による分析で、この男の実力を最大限に評価しておくならば、右側の鞘が真横に結ばれている時点で、この男が右手一本で剣を扱える事が推測出来る。

 

 そして、左側にワインが来る様にバッグをたすき掛けした意図は、剣の太刀が右寄りになる時の左側の重量バランスを意識しており、ワインの1本や2本は、非常時に左手の武器として使用する覚悟と腕力がある事と関係しているだろう。

 

 更に加えて、長身かつ上半身に偏った防具の存在から、下半身への攻撃を敢えて誘える剣術やキック力の持ち主である可能性がある事も推測出来ていた。

 

 勿論、ただのヘタレた酔っぱらいであれば、それに越したことはないのだが。


 「あたしから行くからね!」

 

 エリサからのこの合図は、相手の足を取りに行く作戦だ。

 

 格闘技に関しては年齢を感じさせない彼女ではあるが、相手との身長差から顔面へのパンチや動きの止まるハイキックはリスクが大きい。

 剣の存在がある中、実際に相手の右足を取りに行くかどうかは、勿論未定である。

 

 「おばあちゃん、ギリ! ギリでいいから!」

 

 レイジのこの合図は、足を取りに行く直前で左側に逃げる事を意味していた。

 自分が相手の左側に回って左足を取ったり、背後に回り込んでの攻撃も、2人なら可能であるからだ。

 

 「!」

 

 相手の防御のタイミングをずらす為、モーションや声もなく駆け出すエリサ。

 泥棒は素早く剣を両手で構え、敢えてレイジの動きは意識しない素振りを見せていた。

 

 「……そらっ!」

 

 レイジが妨害もなく泥棒の左横に到達出来そうな様子を確認し、エリサは自身の左側へ横っ飛びする形でその場から離れる。

 

 「……よし! やれる!」

 

 自分が近付いているにも関わらず、泥棒の左側は隙だらけで、左手に至っては剣を離れて宙を舞っているかの様にさえ見えた。

 

 自分の利き足ではない左足でも、相手の左膝を狙えば必ず転倒する。

 

 「うらぁっ!」

 

 レイジがキックモーションに入った瞬間、微かな光とともに、それまで穏やかだった空気が突然、突風に変わり、その風が泥棒ではなくレイジを地面に転倒させた。

 

 「……!?」

 

 転倒の痛みもそこそこに、自分の身に何が起こったのか理解出来ないレイジは、慌てて後ろに飛び上がりながら泥棒との間合いを空ける。

 

 「何やってるんだい!」

 

 孫の信じられないミスに呆れた様子で、レイジに対した瞬間に背中を見せていた泥棒へ、背後からの裏拳を喰らわせようとするエリサだったが……。

 

 「!? 何だいこれは?」

 

 またしても微かな光とともに、謎の突風が局地的に舞い上がり、エリサも地面に転倒する。


 泥棒はその様子を眺め、自分の思惑通りに事が運んでいる事を確認したのか、初めて満面の笑みを見せた。

 

 その笑顔だけを見れば、あまり不快感はなく、根っからの悪党には見えない。

 

 「ふふ……やっぱ田舎は凄ぇわ。こんなに気持ちよく転ばせるなんて、大自然のパワー様々だぜ」

 

 「……何なんだよお前、魔法でも使ったのかよ!」

 

 状況が未だ飲み込めず、やや後退りしながらのレイジの疑問に、泥棒は高笑いで応えた。

 

 「ハッハッハッ! 魔法だって?オセアニア人ってのは本当に田舎者なんだな! 知らないのか? そうだよ、これが魔法だよ!」


 

 EONPがスタートした時点で、科学的根拠には乏しくても、大災害を招いた最大の要因は人類の自然破壊であるという事は、誰もが認識している。

 

 人類は自然との共存・共生を計り、各国固有の利益の為の無駄な開発やエネルギー利用を控え、失われた自然の回復に努めて来た。

 

 そんな働きが実を結んだと、安易には言い難いものの、人類、特に大災害以降に生まれ育った世代の中に、これまで以上に自然と共鳴出来る者が確認され始める。

 

 彼ら、彼女らは人類以外の生物とも相性が良く、やがては風や水といった自然物も僅かに操れる様になり、地域の第一次産業でも欠かせない「神の子」と認定されていた。


 同じ頃、ロシアに本部を置くEONPは、戦争やテロリズムを抑制する為に、銃器を始めとする兵器を国家権力である軍と警察「EONPアーミー・EONPポリス」に集中させる政策を施行する。


 軍人や警官の職権濫用は厳しく取り締まりながら、軍需産業の利益を特定の国や財閥に集中させず、ついては軍需そのもののサイクルを低下させようと言う動きは、一時的に世界から歓迎されたが、圧倒的戦力差を背景に国家に対する思想的・政策的テロリズムが激減した結果、一部の人間の歪んだ欲望は近隣への暴力や略奪に取って替わられる形となってしまった。

 

 自分の命を自分で守る意識が高まり、元来ロシアを中心としたEONPへの懐疑論が途絶えなかった近隣のヨーロッパ地域は、欧州太古の伝統であった「剣術」を護身術として復興させる。

 

 その結果、銃器に代わる剣や防具等の「剣術産業」の需要が高まり、ビジネスの匂いを嗅ぎ付けた旧アメリカ合衆国の末裔とイスラエルに潜んでいた旧ユダヤの豪商が、新たなビジネスモデルとして「剣術学校」「魔法学校」を欧州各地に開校する事となったのだ。


 EONPはこの動きに早速反応し、剣術と魔法を兼ね備えた「最強のテロリスト候補」の育成を阻止する為、剣術学校と魔法学校への入学をあくまで片方だけの選択制とし、21歳以上の人間からは受験資格も剥奪する。

 

 だが皮肉にも、その年齢制限が若者からの「青春の記念」「就職したくないが為のモラトリアム」的な人気を招き、実力を問わない剣士・魔導士候補の増大と、彼ら・彼女らの就職先として新たに生まれた、庶民からの要請で悪党を退治する「賞金稼ぎ」という職業の氾濫を招く事となった。


 それに加えて、学費の収益で他地域とのパワーバランスを崩しかねない旧アメリカ・ユダヤ豪商勢力の成長という問題が、未だ大規模化には至らないものの、ロシア〜ヨーロッパを中心としたEONP内に於いて、確実に潜在化していたのである。


 

 大災害での被害が比較的少なく、元来豊富な自然環境に甘える事なく環境保護に取り組んでいたオセアニア地域では、移住者に条件を付けていた事もあり、噂に聞く程度の剣術や魔法の存在は大した話題にもならず、ビジネスにならない事から武具・防具店や学校の類いも存在しなかった。

 

 ちなみに、アジアでは中国とインドに剣術・魔法学校がそれぞれ一校ずつ存在していたが、魔法の為の自然環境の問題や、富裕層の子息が欧州の学校を目指してしまう事情等もあり、利益が出ずに短期間で撤退している。


 この泥棒が、オセアニアを田舎と呼んだ理由は間違いなくこれなのだ。


 

 「……そうかい、初めて見たけど、これが魔法って奴なのかい……」

 

 エリサが自らに言い聞かせる様に呟く。

 

 この状況では魔法への対策などあったものではないが、こちらには二人いる。

 応援を頼めば、シュンやレイ、ガブリエウも来てくれるはずだ。


 不思議に感じるのは、泥棒の方から剣を振り回したりしない事である。

 こちらが迂闊に近づけない現状を利用して、まず片方を襲おうという様な素振りも見せない。

 

 レイジは泥棒との距離間を意識しながらも、この男の本職は魔導士で、剣術はハッタリなのではないか? 魔法を知らない相手が恐怖で逃げ出すのを待っているのではないか? と疑い始めていた。

 

 その時、背後から足音とともに、シュンの叫び声が聞こえる。

 

 「レイジ、ばあちゃん、気を付けろ! そいつの左手、何か光るぞ!」

 

 シュンのその一言で、謎の全ては理解出来た。

 

 泥棒の左手には剣もワインのボトルも握られていないし、腕時計の様な金属物も装着されていない。

 その為、外灯の光を反射する術はない。

 

 彼は自然からの力を左手に受け、その力を左手から光とともに魔法として放出していたのである。

 

 「サンキュー! 兄貴!」

 

 レイジの言葉にエリサも状況を同時に理解すると、孫が行動を起こしやすくする為に、左に大きく膨らんだコースを取って泥棒の背後に回り込む振りをして見せた。

 

 泥棒は、エリサの動きを警戒して右手の剣を進行方向予測に合わせて構えていたが、左手は相変わらず宙を舞う様な位置取りをしている。

 

 「……コイツっ!」

 

 レイジは素早く自分の上着を脱ぐと、泥棒が自分に背中を向けた瞬間、その上着で彼の左手を指先からぐるぐると巻き込んだ。

 

 「……しまった!」

 

 泥棒の左手は、肘から下が呼吸出来ない状態に陥り、微かな光も消え失せていく。

 

 「おばあちゃん、離れて!」

 

 泥棒が最後の悪足掻きで剣を前後左右に振り回すと予想したレイジは、自分の為に時間稼ぎをしてくれたエリサを現場から引き離し、泥棒の左側にぶら下がったバッグに入ったワインの重さを利用する形で、彼の左腕を抱えたまま強引に前方へと押し倒した。


 ビタン!

 

 容赦なく押し倒したので、当然音はデカい。

 泥棒としてもイタイ。

 でも音は「ガチャン!」じゃない。

 ワインは割れていない。

 何だか安心。

 

 「この野郎!」

 

 駆けつけたシュンが、すかさず泥棒の右手の上にジャンプで乗っかり、エリサがその手元から剣を蹴り飛ばす。

 冷静に剣を見てみると、随分と歯こぼれの目立つ安物だ。

 

 「畜生! 放せ、その服をどけろ!」

 

 顔を地面に伏せたまま暴れる泥棒の悔しがり方を見ると、この男は左手の先を隠されると魔法は使えなくなる様だ。

 真冬でも革の手袋は履けないな……等と、つまらない事を考えられる余裕も出てくる。

 

 「レイジ、石頭でとどめだよ!」

 

 「うりゃっ!」

 

 泥棒からは見えないが、レイジは無邪気な太字スマイルのまま強靭な頭突きを相手の後頭部に繰り出し、泥棒は巨大なたんこぶと少々の鼻血を出してぐったりした。

 

 「やった! ありがとう皆さん! こいつ、道を訊ねる振りをして強引にワインセラーに押し入って来たんだ! リーズナブルな価格設定で細々営業しているウチのワインを盗むなんて、許せん!」

 

 後から全速力で駆けつけたガブリエウも、ビジネス云々ではなく真っ当な労働が気紛れな強奪に勝利した事を、何よりも喜んでいる。


 

 左手を過剰なまでにゴムバンドと革ジャンで包装され、この名前も知らない泥棒はバンドー一族に付き添われながら警察署に出頭させられた。

 

 道中で野性のリスが突然レイジの肩に乗って来るハプニングもあったが、一族はそれが日常茶飯事である為に一向に気に留める素振りも見せず、その様子を見た泥棒も巨大なたんこぶを抱えたまま何だかほっこりしている。


 「名前が割れました! この男の名はステファン・サビッチ、26歳。出身はクロアチアで、ドイツの魔法学校を優秀な成績で卒業するも、魔法を悪用する側に立ち、現地でセコい窃盗を繰り返して収監された後、2ヶ月前にオーストラリアのキャンベラからオセアニア入りしています。人殺しはしていませんが、クロアチアではかなりのワルという評判ですね」

 

 警官の調査報告に、バンドー一族は皆目を丸くした。

 そんなバックグラウンドを持つ人間が何故オセアニアに移住出来たのか?

 

 「……うむ……話しにくい事もあるのだが……」

 

 バンドー一族が無意識に向けていた、警察への疑いの眼差しを察知した巡査長らしき人物が口を開いた。

 

 「オセアニアの移住条件には、2045年までに10年以上オセアニアに居住していた親族がいる事というものもある。サビッチの祖父から上の親族は、20世紀からオーストラリアに根を張っていた東欧系マフィアだったんだよ。しかし、活動内容が殺人や麻薬売買といった重大な犯罪ではなく、大衆も参加していたギャンブルの元締めで、その資金が……何だ……大災害からの復興にも使われたらしく……その……彼らに直接的・間接的に恩のある企業等が、沢山オセアニアにはあるらしいんだ……」

 

 一族もげんなりする真実である。

 

 特に、オセアニア屈指の商社で順調に出世していたシュンにとっては、自分の会社がマフィアと関わっていたかも知れないと言う疑いそのものがショックであった。

 

 「心配する事は無いぜ。俺がこうなったのは、ご先祖様の栄光に甘えてオセアニアでも悪さを繰り返して、キャンベラから追い出されたからなんだ。つまり、俺が出会ったオセアニア人は皆、俺を利用しようとはせず、常識ってもんがあったって事なのよ」

 

 サビッチはいよいよ命運尽きたとばかりに己の生き様を自嘲したが、泥棒から励まされた所で一族に元気は出ない。

 

 バンドー一族・警察・サビッチによるやり取りは暫く続き、ヨーロッパでは身近な犯罪に対応する為の賞金稼ぎという職業に加えて、単純な悪党にとどまらず、賞金稼ぎからドロップアウトした剣や魔法を使う犯罪者の存在までがごく一般的に認知されている事実を知らされる。

 

 バンドー一族のみならず、この事実に改めて驚愕した巡査長は表情を引き締めて熱弁した。

 

 「今回の事件は放蕩息子の単独犯である可能性が高いが、親族や関係者も見放したサビッチ容疑者には厳しい処分が下されるはずだ。また、今回の件でオセアニアにもヨーロッパ的な価値観や社会問題が流入する可能性がある事も、ちゃんと上に報告する。現行犯逮捕に協力してくれた皆様には深く感謝致します」


 これは形ばかりの声明と言うか、正直これで安心しろと言われても納得出来ない結末ではあるが、レイジの旅立ちはもう明後日に迫っており、シュンも明日は普通に仕事である。

 

 一族はサビッチを警察に預け、事情を説明した上で左手のゴムバンドと革ジャンは外さない様に伝言した。

 

 「……銃器が規制されている中、剣が武器になる理屈はまあ分かる。だが、魔法ってのだけは、俺にはちょっと信じられないんだが……本当に左手を空気に晒してはいけないのか?」

 

 巡査長の戸惑いをよそに、サビッチは皮肉混じりの表情でこう呟く。

 

 「あんたらが職務中に隠し持っている缶ビール、ここから魔法で開けてやってもいいんだぜ。プシュッとな」


 「……それじゃあ、後は厳しくお願いしますね」

 

 帰路に就く為に、リスを頭に乗せたまま深くお辞儀をするレイジを始めとするバンドー一族。

 転落の危機を迎えたリスは、レイジの頭上で両手足を広げて耐えていた。


 突然、サビッチがレイジを呼び止める。

 

 「おい、そこのリス乗せた奴! お前ヨーロッパに行ってみろよ。お前は腕っぷしも強いし、魔導士になれる素質もある。オセアニアで農業なんかやるより稼げるぜ」


 ……泥棒なんかに言われなくても、レイジの出発の日はもう迫っていた。


 

 4月3日・11:00、シドニー空港。


 ポルトガルへの旅立ちの日、レイジの見送りに付き添ったのはタナカ農園のサヤのみ。

 

 レイジ自身が大袈裟な見送りを拒んだ事もあるが、先日の泥棒騒ぎで農場全体の危機管理意識が高まり、出勤した職員は出来るだけ職場を離れない体制を敷いた事も背景にあった。

 

 幼馴染みで遠慮の要らない関係にあるサヤの望みは、レイジが立派に成長して自分を迎えに来るか、自分を迎えに来てくれる白馬の王子様候補(出来れば金髪イケメン)を連れて来てくれる事である。

 

 これは男としては暫く忘れていたい感じの宿題であるものの、ギリギリに思い出して片付けられる宿題でもない。悩ましい所だ。

 

 シドニー空港は、シュンとニッキーの結婚式の時に訪れて以来2度目で、レイジもサヤも、ここから先の大陸に出た事は無かった。

 

 出発への不安、助言ひとつ出来ないもどかしさをともに抱えた待ち時間が過ぎていく。

 手持ちぶさたになった二人は、お互いに空港内をただ見渡している。

 

 

 テクノロジーは随分変わったものだ。

 

 祖父のヒロシが若かった頃、大災害が起こる2045年までは、一般人が携帯電話とパソコンが一体になった様な端末を肌身離さず使用していたと言う。

 

 空港で航空券や現金を持ち歩く事も無く、誰もが欲しい情報にアクセス出来たらしい。

 

 世界中の誰とでも分かち合える趣味や善意、人格や健康を害する程の悪意も存在していたらしく、歳を取ってから世の中が不便になるのは初めてだと嘆きつつも、それも悪い事ばかりじゃないと笑う世代の苦労の上に、自分達が立っていると実感出来た時、レイジは初めて何かを掴んで帰って来れるのかも知れない。

 

 2099年の情報網は、EONPの理念のもと、大部分を自治体や警察、軍隊に管理されている。

 

 選択の自由が無いと言うよりは、それほど必要とされていないと言っても良い。

 携帯電話はあるが、通話と契約者同士のメール程度で、一家に一台、タナカ家を代表して今、サヤが持たされているに過ぎない。

 

 2045年以前に興味はあるかと言われれば、無いとは言わないだろうが、もっと他に知らなければならない事が、今ここに、そしてこれからのポルトガルにある様にも感じる。


 「……でもさぁ……バンちゃんは幸せだよ。満足出来る人生があるのに、最後の冒険に出られるチャンスも貰えたんだから……」

 

 サヤは心底、羨ましそうな眼差しをレイジに向ける。

 

 タナカ農園の跡取りに、男はいない。

 

 若い世代そのものがサヤしかいない中、家を捨てて自分だけの人生を探す訳にも行かない。

 勿論、自分の好きな人と家庭を築き、タナカ農園を継ぐ事が幸せな事なのかどうかも分からない。

 

 「私も出来るなら、ポルトガルとか行ってみたい。女一人で危ないとか言われるかも知れないけどね……」

 

 今のレイジには、サヤのその気持ちが痛いほど分かる。

 いや、多分3日前には分からなかったはずだが。

 

 シュンが帰って来なかったら、ケンちゃんがずっとカンタベリーに残っていたら、一昨日の夜、泥棒のサビッチと出会っていなかったら……。

 

 些細な事で大きく変わる運命や、初めて知る物事がこれほどまでに多いとは……。

 

 「サヤ、今日は来てくれて本当にありがとう。俺、自分の力でサヤや農場の人達を幸せに出来るとは言えないけれど、少なくとも楽しい話や幸せな気分は届けるよ。それが3年分積み重なったら、何か違うプレゼントに換えて持ってくるから、待っててくれ」

 

 自分でも恥ずかしい語彙力だったが、今のレイジの精一杯の決意に、サヤも無言で頷く。


 出発の時間が近づき、リスボン行きの便への搭乗を促すアナウンスが流れ出した。

 EONPの思想に反して、英語に加えてポルトガル語のアナウンスも流れている。

 

 表向きはひとつの国家でも、旅立つ人と故郷に帰る人の誇りを、民間の空港は覚えていたのだ。


 「じゃあね!バンちゃん、元気で戻って来てね!」

 

 ちぎれる程大きく手を振るサヤに手を振り返し、レイジはエスカレーターから搭乗口に消えて行く。


 

 昨日の夜、付き添いが決まった時に、レイジとサヤは少し話を交わしている。

 その内容は、何故サヤがレイジの事を「バンちゃん」と呼ぶのか、というものであった。

 

 サヤは始め、「レイジを短くしてレイちゃんにするとお父さんの名前になるから」と笑ってはぐらかしていたものの、やがて初めて出会ってから、幼馴染みとして長い付き合いを重ねる事で、レイジがサヤにとってバンドー一族の代表になったからだと、その理由を話してくれている。

 

 レイジがカンタベリーのバンドーファームに留まる限り、レイジ・バンドーは「レイジ」でしかなかった。

 

 しかし今、ポルトガルへ旅立つ彼を、レイジと呼ぶ者はひとりもいない。

 

 彼はこれから、オセアニア人代表、日系人とサモア人のクォーター代表、はたまた農業青年の代表として「バンドー」と呼ばれなければいけないのである。


 「バンドー様、お席は後ろから6番目、こちらから見て右端です」

 

 客室乗務員の言葉に、迷わず頷くバンドーがそこにいた。



  (続く)

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[気になる点] 『災害の規模に左右される運・不運はあったが、実際に被害が多かったのは核兵器の管理を怠っていた国、政情不安の国とそこに隣接していた国など、限られていたのだ。』 という設定で、核兵器等で米…
[良い点] ・世界設定とその広がりに興味を持ちました ・主人公が快男児であることに嬉しさを感じました ・登場人物たちの会話の風景を、とても楽しく思います [気になる点] ・立て続けに人物が登場するので…
2021/10/10 12:54 退会済み
管理
[良い点] はじめまして! 近未来の世界と剣術や魔法を組み込んだ作品って珍しいですね。 世界観や人物の背景をすごく練り込んだ作品ですね。 一話一話が少し長いですが、面白いのでゆっくりと読み進めていきま…
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