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白銀は廊下に佇んでいた。
待ち始めた数分前は不安と期待が綯い交ぜとなり、多少の緊張感が心を縛っていたのだけれど、持ち前の集中力を持続できない性分が時間を持て余し始めていた。そうして『ゆとり』という名の隙間が心に出来ると、そこに静寂という名の退屈が入り込んできた。
辺りをきょろきょろと見回しても興味を引かれる対象が何も無かったのか、窓から空を見上げていた。
ここは教室棟の廊下だった。さっきまで白銀と一緒に居た教師は、紹介するからここで待っててと言い残して教室へと消えていった。
それにしても、一体いつまで待たされるのだろうか。まさか忘れられているんじゃないかと思ってしまうくらいは待たされている。
廊下は静かだった。自身の心音や血流の音さえ聞こえてきそうだった。
もとより死神に心音などある筈も無いのだけれど、人間だった時の感覚はそう簡単に忘れられるほど易くはない。お腹が空かなくても食事がしたくなるし、息をする必要はないのに走れば息切れしてしまう。
音のない世界は白銀を不安にさせた。
世界は自分だけを残し、他の人を何処かに隠してしまったのではないだろうか。微かに既視感にも似た恐怖が湧き上がってくる。
この時、教室内では粉塵爆発が起きていたのだけれど、教室に施されている防音結界が内外の音と振動を完璧に隔てていた為に、廊下に爆発音が聞こえることは無かった。結界は教室内でどれ程騒ごうが、隣の教室に迷惑が掛からないように施されており、それは廊下へも影響を及ぼしている。だから生徒の消えた廊下には、音を発する要因が何も無かった。
白銀は長い廊下に視線を戻し、学校の廊下らしくないなと改めて思う。
広い廊下には高価そうな絨毯が敷き詰められており、まるで豪邸か一流ホテルのようだった。
毛足は短いけれど密度が高いおかげで、ふわふわな弾力があった。靴がカーペットに沈み込む感触が何とも言えず、「裸足で歩いたら気持ち良いだろうな」とか「寝転んで端から端まで縦断してみたい」などと思ってしまう。
そんな事を考えていると、最初こそは楽しそうに感じたものだけれど、すぐに飽きてしまった。
することもないので仕方なく外を眺めようと振り返ると、教室の扉が開いて騒音と共に人が出てきた。
見ると三人の生徒が得体の知れない何かを引きずっていた。その何かが絨毯に引っ掛かって難儀している。
白銀が手伝おうと近寄ると、その内の一人が先ほど屋上で出会った黒銀という名前の少女だと気付く。
「クロちゃん!」
白銀は思わず呼び掛けてしまった。ビックリしたように黒銀が見詰めてきた。
「えっ?」
黒銀には理解できなかった。言葉の意味ではない。天使科の少女が死神の教室棟にいる意味がだ。
「あなた……、なぜここにいるの?」
「先生がここで待っていなさいって。あれ? これって先生に似てる」
白銀は知幸を指差すと、屈み込んで突き始めた。
白銀の返答は黒銀の望むものではなかったけれど、聞こえてきた声に動揺して聞き直す余裕がなくなってしまった。
「クロちゃん?」「クロ…ちゃん…?」
沙希と杏子が不思議そうに呟いていた。
――しまった。と黒銀は思ったものの、今更後の祭りである。
「ふ~ん、クロちゃんなんだぁ。わたしが言った時は斬りかかってきたのにねぇ」
「ええっ、そうなんですか!」
沙希が揶揄するように言うと、白銀は素直に驚いた。
クロちゃんと呼ばれた事に怒って斬りかかった黒銀と、そのNGワードで呼んでしまった自分に対しての驚きだ。
「そうよ。あの時は死んだと思ったんだから。ねぇ、杏子」
「うん…本気だった…。わたしが止めてなかったら…、沙希は本当に斬られてた…。でも悪かったのは沙希だから…」
「あ~~。まあ、そうかも」
沙希は肯定したけれど、悪いなどとは思っていないようだった。
「かも。じゃないから」黒銀が呆れたように呟いた。
「何かあったの?」
「からかったら斬りかかってきたのよ。本気でね」
白銀の質問に沙希が答える。けれど、それ以上の説明をする気にはならなかったようだ。今度はわたしの番だとばかりに質問を返す。
「そんなことより、あなた天使候補生よね。なんでこんな所にいるの」
「天使の筈がないよ…。世話係じゃないかな…」
沙希の決めつけを杏子が否定する。全身を白で塗り固めたような白銀が、死神候補生である筈がない。ましてや、ここまでこれる天使候補生もいないからだ。
たとえ明るい色調の服装が好みでも、学園の中にまで着てくるのは規則違反だった。だとしたら、死神候補生と天使候補生以外の者でしかあり得ない。
「世話係は全員メイド服よ。それに教室までは来られない規則でしょ」
「けれど…天使の方が来られないよ…」
「ん~、でも、格好は天使側なのよね。――ねぇ、あなた天使の人なんでしょ。こんな所にいると大変よ」
天使候補生側に所属している者が死神候補生の領域に入る事は禁止されていた。それは教師であっても同様で、下手をすれば退園処分になってしまう程に厳酷だった。
「ち、違います。天使じゃないです」
白銀はあっさりと否定した。
――天使候補生でなければなんなのだ。と、その場にいた全員が思う。
「えっと…、じゃあ死神なの…?」
「ちょっと杏子。まっ白な死神なんていないわよ」
今度は沙希が否定する番だった。
死神の資性は闇に属している。それ故に闇から力を取り出し易いように、黒色の物を身に着けているのが普通だ。
黒は全ての波長の光を吸収し、無を作り出すのに最適な色だ。そこから神力を取り出し、蓄えてから使っているのが死神だった。
触媒は面積が大きいほど神力を取り出し易く、早く神力を蓄えることが出来る。
触媒を持っていない時と比べると、その速度は遥かに違う。例えば、白い服を着ている時に十の神力を取り出せるのだとしたら、黒の制服を着ている時は百以上にもなる。
全ての死神候補生が律儀に制服を着ているのは、偏に授業で失った神力を早く回復させる為だった。
「うぁー! 姉さんやめてー!」
突然、知幸が叫びながら飛び起きた。
「それは食べられない……って、あれ? 姉さんはどこに?」
どんな夢を見ていたのか、知幸は夢と現実がごっちゃになって混乱し、周囲を見回しては千歳の気配を探して怯えていた。
「教授、大丈夫ですか。遅いので様子を見に来たら、教授が廊下で倒れていたんですよ」
沙希のあまりに堂々とした嘘に、黒銀は素直に感心していた。このくらいの機転が自分にもあれば、学園長の言い成りにならずに済むのだろうかと思ってしまう。
「沙希さん……。僕は廊下に倒れていたのですか? ああ、良かった。姉さんが手料理を作っていたのは夢だったのですね。……あれ? 服が焦げている?」
「疲れてるんですね教授。保健室でお休みになってはいかがですか」
下手な事を言い出す前に話題を変えてしまおうと、沙希が優しげな声色を使って会話を誘導する。
あまりの気色悪さに黒銀は身震いしてしまうけれど、杏子は慣れているからなのか顔色一つ変えなかった。
「お心遣い、ありがとうございます。ですが授業を行わなければ為りません。僕は大丈夫ですから、教室に参りましょう」
「……チッ」
あわよくば自習にしてしまおうと企んでいた沙希は、労りの言葉を素直に受け取った知幸から顔を背けて、気付かれないように舌を鳴らしていた。
知幸が立ち上がると、ブチッというノイズが廊下に響いた。天井に張り付いている魔方陣が輝いており、そこから微かにノイズが漏れている。放送用の魔方陣が活性化したようだ。
本来は魔方陣を急に活性化させてもノイズなど乗らないのだけれど、スイッチを入れた時にはノイズが出るものだという放送委員会の拘りで、ワザとノイズが乗るように調整されていた。
『あー、テステス。毎日が晴天なり』
学園長の声がスピーカーから響いてきた。
「昨日は雨だったよね。黒銀」
「頭の中が晴天なんじゃないの」
『廊下で騒いでる五人の凡暗ども。なにをサボってるんだ。とっとと教室に戻れ』
廊下での騒動が学園長にばれていたようだ。学校中に監視網が巡らせてあるという噂は本当のようだった。
「ひょっとして、凡暗ってわたし達のことかな」
「そうだと思うけど、答えづらいから杏子に聞いてよ」
沙希が質問し、黒銀が答えた。そして、知幸は驚いていた。
「五人って、僕も含まれてる!」
『うるさいぞ、知幸。黙って速やかに教室に戻れ。言うことを聞かないと夕飯に招待するぞ』
学園には幾つかの伝説があった。
その中の一つに、学園長の食卓に招待された者は精神を病んで帰ってくるという伝説があった。
一体何があったのか、何をされたのかは、誰もが堅く口を閉ざして決して語ってはくれない。
多数の生徒が真相を知るべく、学園長の弟である知幸に質問しているけれど、知幸は引き攣った笑顔を浮かべて、顔色を真っ青にしながら逃げてしまうそうだ。
「君達、早く教室に入って下さい。はやく」
知幸は沙希と杏子の背中を押しながら、教室へと入っていく。
「ちょ、ちょっと。分かりました。分かりましたから、背中を押さないで下さいよ。セクハラで訴えますよ」
「楽ちん…」
「ほら、黒銀君も早く教室に戻りなさい。そうそう、白銀君はちょっと待ってて下さいね」
黒銀は白銀と少しだけ顔を見合わせると、教室へと急いで入っていった。