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園長室から退出した黒銀は、廊下に立ち尽くしたまま左右を窺った。誰もいないことを確認し、廊下に置いておいたバスケットを持って教室棟とは反対方向に歩き出す。
「何よ、あの偉そうな態度。……まぁ、偉いんだろうけど」
黒銀は命令を押し付けてきた学園長を腹立しく思いながらも、抗いきれない自分に落胆していた。
黒銀は学園長が苦手だ。
どの様な倫理武装を装備しても、いとも容易く引き剥がし、喉元にナイフを突き立ててくる。そこには躊躇や容赦などは一切なく、おまけとばかりに抉る時さえあるのだ。伊達に長生きはしていないと思う。
むしゃくしゃする時は屋上で昼食をとるのがいい。
少なくとも黒銀の場合はそうだ。
昼休みに屋上まで来る生徒は皆無だ。あるのは洗濯物ばかりで、こんな場所にまで足を伸ばすのは黒銀くらいなものだろう。だからこそ一人になりたい時には最適な場所だった。
無駄に長い廊下を歩き、階段を上る。程なく踊り場に到着し、中と外とを隔てる扉を越えた。明暗の激しさに目が眩むけれど、その網膜への刺激が心地よい。
広い屋上一面に白いシーツがはためいていた。誰がいつ干しているのか、頻繁に来ている黒銀ですら知らなかった。いつの間にか干してあり、気付くと取り込まれているのだ。
空は雲一つ無く、全天が蒼で塗りつぶされている中で、頂点付近に疑似太陽が書き込まれていた。
疑似太陽自体は光を発しておらず、世界を包み込んでいる結界陣が光を発している。だから影は真下にしか出来ず、日時計は何の役にも立たない。
眩しさを我慢して目を凝らすと、重なり合う三本の円が虹色に輝いており、その円から様々な方向に白い線が走っているのが確認できる。結界陣をもっとよく見たければ、夜になるまで待てばいい。光量を落とされた結界陣を鮮明に見る事ができる。
この世界は栞坂学園の校舎を中心に広がっている。幾何学模様を描く結界陣が世界を丸く包み込み、学園から500キロも離れれば世界の果てに突き当たる。
完全な閉鎖空間である学園は、気象などの自然現象とは無縁で、温度や湿度に悩まされる事も無ければ、四季という季節も存在してはいなかった。
しかし、人は安定よりも変化を望むものらしい。
停滞した気候は穏やかで過ごし易い半面、体や精神に刺激が無くてつまらない。そんな退屈窮まった先人達が太陽や雨などの気象を作り出して四季を生み出した。半ば趣味で作られた天候は、福祉の名目で正式に採用されて、今では環境調整課が管理する仕事にまでなっている。
今日は夏特有の眩しくて熱い光が降り注いでいた。魔方陣の放つ光に熱は含まれていないのに、直射日光が肌を刺す感覚までもが再現されている。それでも気温は低く設定されているらしく、光から受ける感覚とは違っていた。そよ風まで吹かせているから、日差しは夏なのに、春の陽気としか感じられない。
明らかに設定を間違えているのだけれど、黒銀には満足できる気候だった。
黒銀は夏が嫌いだ。夏にするなと、自治会の目安箱に投書する程に嫌いだった。せっかく暑くも無く、寒くも無いのだから、余計なシステムを作るなと言いたい。
四季が織り成す景色の変化が楽しいのだそうだけれど、黒銀には何が楽しいのか理解できなかった。そもそも景色だけを変化させれば十分で、温度や湿度まで変えてしまうのはやり過ぎだと思っている。
シーツを避けながら縁まで進んで下を覗き込む。フェンスなどの安全設備は無く、膝の高さまでの段差が有るだけなので、近づくと結構怖い。
職員棟から真っ直ぐ伸びた通路の上には疎らに散蒔かれた黒ゴマが蠢いており、ずっと先にある正門まで続いていた。職員棟からこちら側が死神候補生の学び舎であり、反対側が天使候補生の学び舎だ。
ここは俗世間から切り離された世界を更に二分し、死神候補生と天使候補生がお互いに牽制し合いながら暮らしている。その境目が職員棟であり、唯一の死神候補生と天使候補生が出会ってしまう可能性を秘めた場所だった。
この世界は死神と天使を育成する為だけに作られた飼育小屋だと黒銀は思っている。その意見はあながち間違いとは言えない。住み処と餌をふんだんに与え、外敵から守る事を名目に柵の中に閉じ込める。そんなのは家畜と変わらない。
栞坂学園以外にも様々な学園があり、学園によって教えている学科が異なっているらしいけれど、この学園に在るのは天使科と死神科だけだった。
黒銀は立派な死神になる為にここにいる。
ここは死後の判決で天国にも地獄にも行けなかった者達が住まう世界。その者達の中から、闇の属性を授かった者が死神候補となり、光の属性を授かった者は天使候補となる。
大半の者は光と闇の属性が混在しているか、それともまったくの無属性であり、町で暢気に暮らすか、どこかの学園に所属して、そこで学んだ知識と経験を活かす仕事に就くことになる。
基本的には何もしなくても構わないのだけれど、真面目に暮らして徳を積むと、天国に昇れる確率が上がると言われている。だから大抵の者は天国を目指して勤めを果たしているのだ。
ただし、死神は幾ら務めを果たそうと、決して天国に昇ることは許されない。その代わり、もう一度人間へと転生し、やり直す機会が与えられるのだ。
黒銀は見るべきものも無い景色に飽きて、いつもの場所へと向かう。そこは滅多に人が来ない屋上の、更に人の来ない場所だった。
屋上の中程に大きな時計棟が建っている。その向こう側が目的地だ。
時計塔は千歳が学園長に就任すると同時に増築されたのだが、見る者によって指示す時間が変わって見えてしまうのだ。誰が見ても正しい時間を刺さない時計に存在意義は無く、今では誰も見上げなくなっていた。
何故その様な時計が選ばれ、設置されたのか。そんなこと黒銀は知らないし、興味も無かった。あの学園長の考えなんて知りたくもないし、絶対に理解できるはずがない。
実用性がなく、見る者に時間を誤解させかねない時計を放置するだけでなく、立ち入り禁止にしてまで保護するなんて、黒銀にはとても理解できない思考だ。
通路が狭くて分かりづらいけれど、時計棟の反対側にも屋上は続いていた。時計棟の裏から行けるその場所は、狭過ぎず広過ぎず、じつに中途半端で落ち着ける空間だった。
そこは黒銀だけの特等席だ。ここには誰も来ないから、気分よく昼食を食べたい時や、授業をサボる時はいつもここだった。