プロローグ
桜の花片が舞っていた。蒼然とした世界を仄かな光を放ちながら舞い昇っていく。
綺麗だと思った。それ以外の感情は湧いてこない。花片が光を発することも、空に向かって散っていることも疑問には思わなかった。
瞳は花片以外の映像を捉えてはくれない。花片は光っているのに、照らしだされる物は何もない。自分の身体さえも見ることが出来なかった。
手を動かして顔を触ってみるが、触れた感触どころか手を動かした感覚すらも無かった。本当に動かせたのか、却って不安になる。
しばらく花片を眺めていると、琴を爪弾くような小さな音が聞こえてきた。その音に反応するかのように花片が消えていく。凪いでいた感情に不安が湧き上がり波紋を拡げていく。音以外の情報が無くなっていくのが怖い。必死に手足を動かし、触れられる何かを求め続けた。
「あら、気が付いたみたいね」
すぐ近くから女性の声がした。とても綺麗な声音で、まるで女神様のようだと思った。
「早いな」
今度は男性の声だ。暗く冷たい感じがする。どちらも聞き覚えのない声だ。
「私の声、聞こえてますか?」
返事をしようと口を開いたけれど、声を発することが出来たのか分からなかった。
「聞こえてはいるみたいだけれど、声は出ないみたいね。目は見えている?」
発音が出来ないようなので、首を横に振って返事をする。
「そう、戻っているのは聴力だけなのね。大丈夫よ。直に分かるようになるからね」
頭を動かした実感は無かったけれど、どうやら動いていたらしい。そんな些細な事で安堵している自分が不思議だった。
瞳は何も映さず、喉は声を発せず、身体からは感覚が失われている。出来る事といったら音を感じるだけ。それらは只事ではない事態が起こった証しなのだろうに、今の状態が当たり前のような気がしてしまう。まるで、この状態が自然のものであるように。
「もう大丈夫みたいね。そろそろ逝きましょうか」
「ああ、分かった」
女性が男性を促した。どこかに行ってしまうらしい。何も分からない状態で居なくなられては困ってしまう。このまま回復しなかったら大変なことになってしまうだろう。しかし意思を伝える方法が思いつかない。自分がどこにいて、どの様な姿勢をしているのかすら分からないのでは、無闇に動く訳にもいかない。なんとか声が出せないかと口を開く。
「……………ぁ……ぅ…あぁ…あーーーー」
微かな音が喉から漏れ始めると、次第に大きく明瞭な声になっていった。声の回復と共に、暗闇だった視界に光が戻ってくる。身体は未だに感覚の無いままだけど、視力さえ戻ればなんとかなるだろう。
「あら、この子覚醒が早いわ」
視界は濃いサングラスを掛けた様な感じだった。鮮明には見えないけれど、ここが浴室であるのは分かった。どうやら浴室の中央に佇んでいるらしい。
そこは豪奢な浴室だった。壁の二面はガラスがはめ込まれ、囲垣が繞らされた枯山水風の庭園が一望できる。温泉旅館の浴場と見紛う浴室だった。どこかから水琴窟の奏でる澄んだ音色が響いてくる。琴の音色かと思ったのは、これだったようだ。
見覚えがあって、よく知っている場所のような気がするけれど、思い出そうとしても記憶は見当たらなかった。それなのに置いてある物の位置や、ボディソープやシャンプーの銘柄などは憶えていた。
「……どうして。憶えているのに、何も思い出せない」
「それで良いのよ。過去は重しになるだけ。今後必要なのは新しい記憶なのだから」
呆然としていると、背後から話しかけられた。あわてて振り向くと、全身が黒い服装に包まれた女性と、同じく黒い服装の男性が立っていた。その様相は、まるで舞台衣装のようだ。悪魔や死神がいたら、こんな感じなのだろうと思う。
「あなた達は誰?」
疑問を口にするも、動揺していない自分が不思議だった。
「私達は案内人よ。あなたを送り届けるために来たの」
「送り届ける……私を? どこに?」
「今は忙しい。質問は後にしてくれ。それに、どうせ忘れるんだ。無駄なことはしたくない」
「忘れる…」
意味が分からなかった。こんなに不可思議なことを記憶に留めないわけがない。忘れる筈がないだろう。ましてや状況も分からずに、黒尽くめの人たちに付いて行けるほど幼稚ではない。普通に考えれば誘拐などの犯罪絡みが想像できる。
……そうか、誘拐か。
ここに至って初めて犯罪に巻き込まれた可能性に気が付いた。
しかし、非常に危うい筈なのに、全くと言って良いほど危機感が湧いてこない。付いて行くのが当然の様な気さえする。
「そろそろ此処から離れないと危ないわ。さあ、逝きましょう」
「そうだな」
男が返事をすると同時に、二人の前に巨大な鎌が現れた。男の鎌は柄から刃が直角に伸びており、女の鎌は鋭角に伸びていた。二人は鎌と腕とを掴むと、ゆっくりと浮かび上がる。遅れることなく身体が浮かび上がった。
それで理解した。記憶は思い出せないけれど、自分がどうなってしまったのかを。この二人が何者で、どこに連れて行こうとしているのかを。
可笑しかった。
神など信じたこともなく、神話や死後の世界などは作り話だと馬鹿にしていた。しかし、そんな世界が実際に在って、いま正に自分を連れて行こうとしている。
そんな馬鹿らしい状況を、素直に受け入れている自分が可笑しかった。
背後を振り返ると大きな浴槽が見えた。桃色をしたお湯がなみなみと張られていた。わざわざ湯元から取り寄せた温泉を、さらに炭酸泉に加工した贅沢な湯船だ。入浴した記憶は無かったけど、何故か知っていた。
その浴槽の中に自分が浮いていた。入浴が目的ではないのは一目で知れた。服を着たまま入浴する日本人は皆無であるか、絶滅危惧にまで追い込まれているからだ。
思った通り、浴槽縁にはナイフと薬瓶が置いてあった。薬を飲み、ナイフを手首に突き刺した映像が脳裏に浮かんだ。乳白色だったお湯を濃い桃色にまで染め上げるのに費やした血液量は如何ほどだったのだろうか。薬のお陰なのか、それほどの痛みは感じなかったと思う。ナイフは放り出したのではなく、ちゃんと置いてあった。顔は苦痛で歪んではいない。静かに眠っているかのようだ。
自分が死んでいるのを見るのは奇妙な感覚だった。
温泉の効能なのか、肌が僅かに上気しており、とても死んでいるとは思えない。呼べば起き上がるのではないかとさえ思えてしまう。
しかし、自分は正しく死んでいるのだ。もはや動き出すことも叶わない。
少女は恐怖で震えた。自らの手首にナイフを振り落とす絶望感を思うと、胸が圧迫されて息が苦しくなる。
「落ち着いて。あれはもう、あなたではないの。もうすぐ全てを忘れられるのよ。それまでは眠っていて」
女に抱きかかえられる。温度など感じないのに、何故か暖かい感じがした。やっぱり女神様に違いない。
男の瞳が少女を冷たく見下ろしていた。暗紅に濁る瞳からは生気が感じられず、まるで死人のようだった。
「しばらく寝ていろ。次に起きた時、貴様の贖いが始まる。それまでは何も考える必要はない」
男が話し終わった途端、瞼が重くなって開けていられなくなった。
意識が混濁に飲まれて消えていく。
薄れゆく意識の中、必死に言葉を紡ぎ出した。
「…さようなら…」
何に対しての別れなのか分からなかったけれど、最後にどうしても言っておきたかった。
家族、友人、親戚、世界、将来の自分。
そんな置いていくもの達に、別れの言葉を掛けておきたかったのかもしれない。
案外ロマンチストだったのかと、少し恥ずかしく思いながら、少女は深い眠りに落ちていった。