林惠
晋国夫人は呆れ顔になり、こめかみを抑えながら陛下を呼ぶように宮女へ指示した。そこに宮女と入れ替わるかのように胡服姿の見慣れぬ顔が現れた。宦官にしては女っぽく、色白であるから胡服で男装した宮女か女官のどちらかであろう。彼女は盆を両手に携えて太后の御前へとやってきた。
「太后さま、ご機嫌麗しく。陛下からの贈り物でございます」
彼女の声は凛とした、それでいて心地の良いものであった。孫皇后は彼女に目をやった。不思議なことに、どこかで見た顔である。皇后として会ったことがないだけの顔ならば、誰であろうか。しかし、後宮佳麗三千と言われるほどの女たちがひしめくなかで見覚えのある顔などあっただろうか。
「陛下から?」
太后は彼女が持っている盆を見つめた。金細工が施された箱に真珠があしらわれている。太后はゆっくりと宝座を降りると、その箱に手を伸ばした。蓋を開けると中には丸薬が入っていた。
「お前、これは?」
「はい。陛下が太后さまのお心が穏やかになるように自らお作りになった丸薬でございます」
「陛下が自ら?」
「さようです」
太后は皇帝お手製と言われただけで自分が特別であるという簡単な優越感に浸る。この優越感は丸薬よりも強力で先ほどの怒りなど、どこかに消え失せていた。
「皇帝陛下のおなり」
宦官の声がした。袍をたゆたわせながら皇帝がにこにこと現れた。
「母后、ご機嫌麗しく。その丸薬がお気に召されているようで息子は嬉しく思います」
「陛下、聞けば陛下のお手製とか。母は嬉しいですよ」
「それはようございました。しかしながら、なぜ皇后と伯母上が?」
「あ、それは…」
太后が言葉を濁した隙に胡服の女がすかさず言う。
「恐れながら内命婦の意見を聞いていたのでございます」
「ほう…ならば、朕は口出しできぬな。母后、ずっと部屋にいて息が詰まったでしょう。少し、散歩でもいかがですかな?」
「えっ…ええ」
皇帝に手を引かれて太后は部屋を後にした。晋国夫人と孫皇后は安堵のため息をついた。そして晋国夫人は突然、現れた胡服の女を見つめた。
「あなたのお陰で太后が癇癪をおこさなくて済んだわ、あなたの名前は?」
「ありがたきお言葉でございます。私めは林惠と申します」
林惠が拱手をする。皇后は彼女の顔をじっと見つめた。林惠の面立ちが従姉妹に似ていたからである。しかし、その従姉妹は桂揚という地にいるはずだ。おまけに父親が罪人になってしまったから、都には入れない。
「恐れながら皇后さま、私めに何か?」
「いえ。惠は誰にお仕えなの?御前侍女かしら?」
「尚正さまに仕えていますが、尚正さまから皇后さまに真心を尽くすようにと言われました」
「皇后さま、尚正さまのご推薦なら間違いありませんよ。林惠、しっかりと皇后さまにお仕えしなさいね」
「はい」
その返事に安心した晋国夫人は部屋を後にした。皇后は外の空気が吸いたくなりに林惠を伴って芙蓉園へと出かけた。