炎暑の逃げ水
季節は夏だ。まだ初夏だというのに、毎日暑い。
私――大矢千夏は、夏に生まれたのであるがだからといって
夏の全てが好きという訳でもない。
まあ暑い夏もそれで季節の風物詩ではあるのかもしれ
ないんだけどね。
お気に入りの白い姫袖のワンピースが着られるのも夏
だけだし。
白いリボンと合わせたりもしてる。
さすがに春や秋や冬だと涼しすぎなんだよね、季節的に。
なのに、うちにはクーラーという物が存在しない。
扇風機だってない。田舎育ちの母や父が人工の風は嫌い
だと言って、子供の頃から何度せがんでも買ってはくれな
かったのだ。
唯一の冷房は、うちわくらいなのかな。
私はうちわでぱたぱたと自分を仰ぎながら、縁側に座って
少しでも涼を取ろうとしているんだけど、窓が開いている
のにも関わらず風は入って来ない。
あ、蚊取り線香に蚊がやられて落ちて来た。
「――お母さん、やっぱりクーラー買おうよ!」
「何言ってんの、千夏! クーラーなんて高いし、何より
体に悪いわよ! 我がまま言うんじゃないの!」
気分がくさくさして、洗濯物を干そうと縁側から外に出
ようとする母に声をかけるも、怒られてしまった。
自分だってクーラーや扇風機が嫌いという我がままで買
ってくんない癖に、何で私ばかりが怒られるんだろう。
せめて扇風機でも、って申し出てもまた「我がまま言う
んじゃないの!」って言われるだろうしなあ。
扇風機はクーラーよりは格段に安いはずなのに。
大体、私が貯めたお小遣いやお年玉を出す、って言っても
駄目なんだよね。
確かに親や親戚や祖父にもらった分もあるけど、バイト
して稼いだ分だって入ってるはずなのに。
私はふくれながらも、とりあえずクーラーは諦める事に
して家の中へと引っ込んだ――。
確か、まだ冷蔵庫にアイスが入ってるはずだった。
日々バイトをしている自分にご褒美として買った、少しお
高めな有名なアイス屋のアイスクリーム。
母と父も買ってきてくれるんだけど、リーズナブルと
いうか安いアイスだけなんだよね。
アイス、アイス~♪と鼻歌を歌いながら私は浮き浮きと
した気分で冷蔵庫を開け――愕然とした。
アイスが、ない。私のためだけに買った、私が大事に大
事に食べていたアイスが。
「あ、姉貴~。アイスもらったから」
小学生の弟の和志が嬉しそうにこっちに報告してきた。
こいつ……人の物勝手に食べるなんてどういう根性してるん
だ。
「ちょっと、和志! 何で人のアイス勝手に食べるの!?」
「だって、冷蔵庫にあったんだからいいじゃん」
「よくない! ――大体、食べる前に一言声かけるべき
でしょ!?」
「うっさいなあ、だったら冷蔵庫になんて入れておく
なよ」
逆切れ!? 怒りたいのはこっちだっつーの。
結局弟は謝ってすらくれなかった。
人のアイスを勝手に食べたのに。
しかも、弟と私の言いあう声を聞いた母までもが「また
買えばいいじゃない」などと弟を擁護する発言をした
ので、私はもうむしゃくしゃして家を出る事にした――。
とはいっても、もう子供じゃないんだから家出なんて
しない。
ちょっと出かけてくるだけだ。
日焼け止めをしっかりと塗り、虫が寄って来ないように
虫よけスプレーもちゃんと振り掛けてから、私は麦わら
帽子をかぶって家を出た。
外はまるで炎暑というにもふさわしい暑さだった。
でも、家にいたって私が余計に苛々(いらいら)するだけだ。
クーラーも扇風機もなく、しかも風通りが言い訳でも
ない家にいたって暑いだけなんだし。
私はふと、気のない様子で道路に目をやった。
アスファルトの地面が熱されて、凄まじい事になっている。
きっと、素足であそこにのったら熱いだろうなあ、と私は
つい考えてしまった。
もちろん私は素足ではない。
きちんとサンダルを履いているのだが。
ああいうのって、逃げ水って言うんだっけ、と私は思い返
した。
この暑い中だ。雨も降っていないというのに、
アスファルトの地面に、水があるように見えた。
まるで、本当に水たまりがあるかのようにゆらゆら動いて
みえるそれに、私は何故だか魅かれた。
不思議とそれを追いかけて見たくなったのだ。
どうせ暇だし、逃げる水を追ってみようと私は考えたのだっ
た――。
この暑いのにそんな事をしている私の行動は、あんまり
褒められた事ではないのかもしれない。
しかも、幼い子供ならともかく、私は高校生だ。
でも、ハタから見たら私がただ散歩しているだけにしか見
えないだろうから、問題はない。
逃げ水の原理については小学校の頃父に聞いた覚えが
あるので知っている。
一見、地面が濡れているようにも見えるのだが、近づく
と本当に濡れている訳ではなく乾いているのだ。
だから、私は道路に近づきすぎないように水を追うよう
にしながら歩いていた。
近くにあるコンビニも、アイスクリームショップも、まるで
目に入らないかのように私は夢中になって歩いていた。
「――あれ? 大矢?」
そんな声が聞こえてきたのは、ふと私が汗をタオルで拭う
ために立ち止まった時だった。
聞き覚えがある声だけど、一体誰だっただろうか。
「あ~、やっぱり大矢じゃん!」
私に声をかけて来たのは、私より少しだけ背が高い男の子だっ
た。
まあ男の子って言っても、高校生の私と同い年くらいだけどね。
誰だっけ?と訝しげな目を私がしていると、彼は俺だってば!
俺俺!と電話なら俺俺詐欺と疑われそうな事を言ってきた。
そういえば、こんな風に小学生の頃ふざけていた男子がいたような。
名前は確か――田橋譲君。あっ……。
「ひょっとして、田橋君?」
「そうだよ! ってか今思い出したのかよ~……」
田橋君はあんまり小学生の頃と変わってないようだ、性格が。
あの時と同じようにふざけたような口調で、すねたような演技を
したり、そんなに怒っていない癖に私に怒って見せたりしている。
当たり前だけど、背はかなり伸びたようだ。
あの時はほぼ同じくらいの背丈だったのに、今は私が見上げる
態勢にならないと彼の顔が見えない。
「でさあ、大矢何やってんの? こんな暑いのに外出てさあ」
「田橋君には言われたくないんだけど……」
「はははっそりゃそっか~!」
「……あのさ、笑わない?」
「ん? 何で?」
「いいから、私が何話しても笑わないでよね?」
「うん、笑わない」
「逃げ水を……。逃げ水を、目で追ってたの」
「逃げ水? ――なーんだあ俺も同じだよ! 俺達気が合うんだな!」
少しドキッとなった。
高校生になって、私は父以外の男性とはあまり親しくする事がなか
ったので、こんなにあかすけに言われてしまうとちょっと照れて
しまう。
「田橋君も、逃げ水を見ていたの?」
「うん、なんか、目で追いたくなっちゃうんだよな~」
にやり、と幼い少年のように田橋君が笑う。
私もなんだかおかしくなってしまって、久々に男性と一緒に笑った。
「そうだ、アイス食おうよアイス! 俺買って来るよ!!」
「あ、ありがとう。田橋君」
田橋君とは中学校に上がる頃になって、別の中学に行ってしまっ
てからはすっかり交流もなくなっていた。
引っ越していたらしいけど、戻って来たのだろうか。
そう思って彼に尋ねると、こっちの高校受けるから戻って来た~と
返された。
アイスクリームショップに元気に駆け込んで行った田橋君が、少
ししてから戻ってくる。
バニラのソフトクリームのアイスだった。
私がお金を渡そうとすると、いいよいいよ奢る、と言われてしまっ
たので仕方なくお財布にしまった。
プラスティックの蓋を取り、私は田橋君と話しながらソフトクリ
ームを食べた。
弟には腹が立っていたけれど、こんな出会いがあるのなら弟に感
謝するべきかもしれない。
そう思いながら、私は出来たらまた田橋君に会いに行こうかなと
考えたのだった――。
※エッセイ村掲載作品です。
夏祭り企画で、夏の季語をお題に
出していただいてシャッフルして
そのお題に従って書くという物
でした。
逃げ水がキーワードになって
います。