ブルームーン
バーカウンターに置かれた、すみれ色のブルームーンを眺めながら、どうしてここにいるのかを考えてみる。起った出来事を思い出し、問題点を探すことは大切なことだと思う。
今日は私の三十二回目の誕生日。誰に祝ってもらいたいわけでもないけれど、年に一度必ずやってくる記念日だ。産み育ててくれてどうもありがとう、などの感謝の言葉を両親に伝えようにも、この世にいない人とは会話はできない。人恋しかったのだろうか、私は。恋人に電話をかけてマンションに呼び出した。
電池が切れ掛かっていたせいか、インターフォンが間延びした音を立てた。その音に笑いながら彼は玄関に入り、迎えた私を抱き寄せた。二週間ぶりに合う彼はいつものたばこの甘い香りがしなかった。
「どうして、たばこの匂いしないの」
「かみさんが禁煙、禁煙うるさくてね。これから自動販売機で買うのも面倒になるしさ、やめようと思ったんだ」
その言葉の直後にご破算かな、という考えが頭をかすめた。会って一分の間に愛人である私に対して奥さんの話をした無神経さにではなく、自動販売機で買うためのカードの申請すらを面倒臭がる男のものぐささに、嫌気がさした。
願いましては~、そろばん教室に通っていた頃の先生の声を思い出した。出会いから、セックスに至るまで、美術館に行ったこと、プレゼントをもらったこと、楽しかった良い思い出をそろばんのリズムで足していっても、嫌気の塊が私の脳内を右へ左へ高速移動している。
部屋に入るなりスカートの中に手を入れてきた。わたしはピッタリと両足を閉じてうそをついた。月の日なのよ……。どうしてそんな嘘が口から飛び出したのかは分らないが、少し彼を試そうとしたのかもしれない。下から彼の顔を見上げると明らかに苛立っているのがわかった。右目の筋肉が少し痙攣したようにピクリピクリとしてる。
心より、体が先に反応する感情がある。彼はセックスできない私に対して、「今日は用無し」だと瞬間的に感じたのだ。そしてその瞬間を私は見逃さなかった。
私は自分の誕生日であることを黙っておいた。彼からのおめでとうの一言がうれしく感じるとは思わなかった。おざなりにキスをしてから奥さんの元へ彼を返した。
「今度は、体調のいいときに会おうよ」
彼は暢気にそういって玄関のドアを閉めた。御破算!願いましては~。さて、どうしようか。彼には何の未練も無かった。足しても引いてもゼロになる。そんな関係だったのだ。
でも、人恋しいことにかわりは無かった。行きつけのバーに行き、そしてマスターにブルームーンを頼んだ。整理すると、大した事も起ってないし、問題点も見つからない。自然淘汰、まさしくそれだったのだ。
女はずるい。自分に好意を寄せている男を寂しいときに利用しようとする。そして年下の男ならなおのこと、急の呼び出しにもフットワークが軽いことを、経験から知っている。
携帯のメモリから会社の後輩の高橋啓太を探し出し、発信した。
「きょう、私の誕生日なんだけど。会いたいな」
息を切らして大荷物でやって来た彼は、着くなりウーロン茶を注文し、一気に飲み干した。バーで、お茶。
「ごめんね。急に呼び出したりして」
「いいんです。飯田さんからの電話はいつ掛かってきても、うれしいですから」
さらりとかわいいことを言うな! こういうセリフに私は弱い。弱い私は今までに幾度か彼と夜を共にしてしまった。八歳年下の高橋は私を独占したがっている。そんな感情を私は素直にうれしいと思っている。それでも彼の愛情に応じられないのは直ぐに結婚と口にする、ロマンチストすぎる彼に対してほんの少し物足りなさを感じているからだと思う。
「その、大荷物はなに?」
イスの脇に置かれた小汚い大袋。このバーの雰囲気にはそぐわないし、私へのプレゼントだとも思えなかった。
「これはね、前に約束したことですよ。今日にしましょう。下限の月が綺麗でしたよ」
何を言っているのか分らなかった。黙っていると高橋は続けた。
「野宿用の寝袋ですよ。の、じゅ、く。前に、その、そうい事になった時に僕がその話をしたら、是非してみたいって、いったじゃないですか」
ブルームーンを一口飲んで記憶の糸を手繰った。霞かかった頭の中で、ボンヤリと思い出した。満天の星の下で寝るのはいいものなんですよ、自然と一体化できて、ストレスが吹っ飛びます。そんなような事を聞いて、確かにわたしはやってみたいと言った。言ってしまった。
「でも、この格好じゃ」
「いいんですよ。なんでも。寝袋被っちゃうんだから。誕生日野宿なんて、最高ですよ」
せかされて店を出た。サマーニットにフレアースカート。皺になりにくい素材なのが救いだ。風が吹き渡り気持ちのいい静かな夜だった。このまま私のマンションへ誘えば考えを改めて彼は私の後についてくるだろうか、と考えが過ぎったが、彼に手を曳かれてどこか知らない場所に行くのもまた一興ではないか。
彼の車に乗り中央道を走る。車に乗るなら、バーに荷物を持ってくる必要はなかったのではないか、と思ったのだが言うのをやめた。一時間ほど彼の好きな音楽を聴きながらドライブをして、広い草原で降りた。ここがいいんです。人目につかないし静かです。それに星が降ってきそうなほど空が大きく見えるんですよ。八ヶ岳周辺だろうか、地理は詳しくないが高原っぽい雰囲気が漂っている。
缶コーヒーを飲みながら、星を見る。流れ星なんて何年ぶりだろうか。夜は暗いなんて、誰が決めたのか。星を眺めていると十分明るい。
「まぶしくて眠れなさそうですが」
「それは。それでいいじゃないですか? 綺麗でしょ」
サッサと寝袋に体を沈めて、おやすみなさい、おめでとうと二言だけはっきりと発音して、寝息をたててしまった。なんだ、この展開は。声をかけても返事が無いので、私もスカートの皺を気にしながら寝袋にすっぽりと納まった。赤い寝袋に自分の顔が白く浮いているのを想像して、テレビの「たーらこー」と繰り返すパスタソースの宣伝を思い出して、一人で声を立てて笑ってしまった。星が降ってきそうで怖い。三十二歳、一日目はある意味エキサイティングだ。
生まれて初めての野宿で熟睡はできない。図々しい性格だと自覚をしていたが、そこまで神経が太くはないようだった。ウトウトしたり、星を眺めたりして時間が過ぎる。星は動くのだな、いや地球が動いているのか、小学生の頃に天体観測をしたことを思い出した。周りの草花が露を湛えて、その露が時どき私の頬にかかる。朝がすぐそこまできている。空の色は昨夜のカクテルと同じスミレ色。はじめてみる天然のブルームーンの色だ。その色を見ていたらはしたなくも隣で眠る高橋に愛欲を覚えてしまった。
「もしもし、空が綺麗なので起きてください」
うーん、寒い。と声を出して彼は目を開けた。
「おはようございます。寒いですね」
「あたしは温かいよ」
「そっちの寝袋は性能がいいんですよ」
「じゃ、こっちにおいでよ」
「狭いから無理ですよ」
そう言いながら、自分の寝袋のチャックを外している。
「無理やりでも、いいじゃない。誰も来ないうちに、どうぞ」
私もタラコのチャックを開けて彼をまった。彼の広い胸の中でなるべく小さく、小さく納まろうと体を縮めた。自分の体と彼の体の大きさの違いを意識するたびに濡れた。
帰りのドライブで彼はよく話した。昔話から最近の芸能ネタまで。途中でケーキがおいしいお店だといって、喫茶店に立ち寄りホールケーキを買ってくれた。
「家に、くる?」
「もちろん、そのつもりでしたが」
勝手に彼氏面しているのには失笑したが、わたしは彼を部屋にあげた。
「ちょっと待ってね」
そういってから、私は元彼に電話をして、さようならと告げた。横で見ていた高橋は、まっすぐに私を見ている。
「高橋は? 電話する先は無いの?」
黙って私を抱きしめてきた高橋の力は強かった。これでロマンチスト過ぎなければいいのに……、いやロマンチストだから私は落ちたのか。願いましては~、彼との足し算は野宿の空から。この先にいくつ足し算と引き算があるのか分らないけれど、私は彼の耳元で、野宿はもういいから、と囁いた。
野宿をしたのち、高橋はわたしの家で一晩を過ごした。その後は当然のような顔をして、仕事が終わるとわたしの部屋にやってくる。
必ず手には何かお土産を持ってくる。ワインの時もあれば、コンビニで買ってきた板チョコの日もあるし、先日はUFOキャッチャーで捕ったYES/NO枕だった。その日は一晩中わたしは高橋にNOを突き付け、高橋はその枕を奪いYESをわたしの顔に押し付けた。馬鹿げた小さなまくら投げは、いちゃついては枕を投げ、枕を投げてはいちゃつき、翌朝まで続き、会社でうたたねをしてしまった。
「何が好きか知りたいから」
高橋は、どうしていつも何か持ってやってくるのかと尋ねたわたしにそう答えた。
「こんな枕、好きだと思ったの?」
呆れて聞くと、高橋は「今まで贈ったもので、一番楽しんでたくせに」と笑った。
わたしも、笑った。
下らない。
でも、楽しい。
高橋がまるで犬っころのようで、面倒だなと思う時もあるけれど、ついつい、笑顔で玄関扉をあける。
手に何を持っているのか想像しながら。
高橋はその日、郊外に新しくできたアウトドア専門店の広告を持っていた。
「寝袋がね、安いんです。このメーカーの『ツインピークス』という寝袋はね、とてもいいんですよ」
その日、ビールを飲みながら高橋は熱弁をふるった。
「さっそく明日、行きましょう。朝から並びます」
わたしは、高橋に付き合い、生まれて初めてアウトドア専門店にゆくことになった。
そういえば、あの日の寝袋はどうしたのだろうか。
そもそも、高橋はどうして二つも寝袋を持っていたのだろうか。
今まで付き合ってきた女性は、一緒に山を登ったりする娘だったのかもしれない。テントを張って、朝日とともに起きて、雄大な景色を見ながら朝食を摂ったりしたのだろうか。鳥のさえずりなんかに耳を澄ませて、緑の葉の揺れる音を一緒に聞いたのかもしれない。
湖畔では波打ち際で、小魚のはねる音を聞いたのかもしれない。
わたしはビールを飲み干して、YES・NO枕を投げつけた。狙いが外れて高橋の横をかすめてベッドに落ちた。枕はNOの顔を天井に向けていた。
「あ、『NO』ですけど、じゃ今日は辞めておきますか」
高橋はわたしの肩に手をおきながら「ね」と笑った。
わたしは黙って彼の肩に頭をもたげた。
アウトドア好きな人は多いのだと、店舗の行列に並び実感した。
来ている客層の服装を見れば、圧倒的にスポーツメーカーやアウトドアメーカーの物が多い。
「虹のマークの、なんだっけ」
わたしは高橋に聞いた。
昔、ダウンジャケットがとても流行ったメーカーだった。生まれて初めて買ったダウンは、あのマークがついていた。
「ノースフェースですよ。ツインピークを売っているメーカーです」
そういう高橋の服装を見れば、ポロシャツにサーフブランドのマークがついている。サーフィンなんて、やらないくせに。
わたしは、胸元にあるその小さなマークを指でつまんだ。
開店と同時の人の波は「開店サービス 有名スポーツメーカーTシャツ980円コーナー」の巨大なワゴンへと流れて行った。広告の一番の目玉商品だ。
わたしと高橋はそのシャツのワゴンとは逆方向へ歩いた。
寝袋が売られているのを初めてみた。色も、素材も、重さも、形も様々なのだ。
以前、高橋と星を見たときは赤い寝袋だった。テレビシーエムが頭から離れなかったのだ。
今度は青か緑がいい。自然と一体になった感じがする。
そんなことを考える自分が滑稽だった。興味がなかったのに。バーでお酒を飲んで、カウンターの男の子と他愛のない、薄っぺらい話をして、薄っぺらい男と寝ていれば満足だったのに。それなのに、野宿用の寝袋を物色している。
あの人が、それを知ったらきっと顔を顰めるだろう。誕生日すら反故にするつまらない男の顔が浮かんだ。つまらない男だったが、わたしなりに愛していたのだ。
「せつないなぁ」
わたしは、小さく漏らした。高橋といるのに、楽しいのに、あの男を思い出した。壁一面に広げられた状態で展示されている寝袋を眺めながら、目が熱くなった。
ふと、一つ大きな寝袋に目が止まった。
他の寝袋と比べると倍近い横幅がある。二人用だろうか。二人で仲良く眠るための寝袋。
「高橋っ、あの寝袋、緑の大きなやつ。あれ二人用ね?」
わたしは、ポロシャツの裾をつかみながら尋ねた。
「そうですね」
興味なさげに高橋は答えた。
「使ったこと、ある?」
「ないです」
ツインピークから目を離さずに彼は答えた。
「あれ、買いましょう」
わたしは、近くの店員に声をかけて、在庫を出してもらった。
お会計を済ませて、わたしは明日の仕事をさぼる決心をしていた。
「高橋、明日の仕事は忙しいの?」
「うーん、どうだろう。あ、事務処理ばかりの日だから、特に大事な約束は無いです」
駐車場へ戻る道すがら、わたしはまた、あの場所に連れてって、とお願いをした。高橋は、暫く考えてから、準備をしてから家に迎えに行きます、と答えた。
「この新しい寝袋使おうね」
わたしは、高橋が肩から掛けている大きな紙袋を指さし、念を押した。
部屋で、高橋が来るのを待つ間、わたしはネットで「簡単アウトドアクッキング」の項目を読みあさっていた。
料理が不得意なわたしは、何も作れる自信がない。
大きな鉄鍋を使ったり、アルミホイルで何かを包んで、炭火の上に置いたり。
そもそも、炭ってどこに売っているのだろうか。火の始末はどうしたらいいのか。子供のころ花火をやった時のように、バケツを用意して水を入れておけばいいのだろうか。しかし、わたしのこの部屋にはバケツも、ない。
ふと、卓上コンロがあることを思い出した。
鍋をするときのためのガスコンロがあったはずだ。キッチンのガス台の上には出しっぱなしのカフェケトルがある。
大急ぎでサンダルをつっかけて、近所のスーパーに走った。
普段飲まないような、少し高級なコーヒー豆を買って、ドリップしよう。
それくらいなら、わたしにも簡単にできるはずだ。少し冷たい空気の中で、夜と朝、二回コーヒーを飲むのだ。
吟味した結果、レインフォレストコーヒーを選んだ。もっと高級で美味しそうな豆もあったけれど、少し湿った感じのネーミングが、朝もやの中で飲むコーヒーに適している。そんな気がしたのだった。
買い物袋を手に家に戻ると、カギのかかった玄関扉の前で高橋が待っていた。
「お買い物でしたか」
高橋は、合鍵を渡してもすぐに返してくる。
「あなたのいない部屋にいても、意味ないですから」
そう笑って、合鍵を返してくる。そんな高橋の笑顔がわたしは好きで、何度でも見たくて、なんども合鍵を渡そうとする。
「ちょっと着替えるから待ってね」
わたしは大急ぎでカギを開けて、スモックシャツとスキニーパンツに着替えた。
スカートで眠った時は翌朝が大変だった。皺だらけのスカートを脱がされたときの気恥ずかしさが、今でも消えない。
高橋を驚かせたくて、彼の見ていない隙に、大きなストローバックに、コーヒーとカフェケトル、家でいつも使っているペアマグカップを入れた。
「ガスコンロ、持っていきたいんだけどな」
そう言うと高橋は「僕、持ってきてますよ」と答えた。
虫よけスプレーを左手に持ち、右手で高橋の手を引っ張った。
早く行こう。
日が暮れてしまう前に、到着したいの。
わたしの声に
「分かりました」と答える。
高橋は、いつも余計なことを言わない。駆け引きのない言葉が、わたしを優しくしてくれる。
「どうして早く行きたいの? どうして日が暮れたらだめなの?」あの人なら、そう言っただろう。
「どうして急に、明日会社なのに、野宿なんて」
きっと、スポーツ用品店から駐車場にゆく道すがら、わたしの小さな願いは潰えていた。
ここまで考えて、可笑しくなってきてしまった。
そもそも、スポーツ用品店も、野宿も、あの人にはなかったではないか。そして、もちろんわたしにも。
高橋が後部座席のドアを開け、わたしの荷物を積み込んだ。
わたしは助手席に滑り込み、運転席に座った高橋の横顔をそっと見た。
運転をしているときの、彼の指も顔も、愛おしいと思う。
「そんなに見られると緊張します」
久しぶりに運転するから、緊張させないでほしいと高橋は少し眉を顰めた。そして、かけたエンジンをすぐに止めて「忘れ物をしたので、カギ貸して」とわたしの部屋のカギを持って走り去った。わたしは、エンジンのかかっていない静かな車の中で目をきつく閉じた。
後部座席に何か積んで、高橋は運転席に戻った。
シートベルトを締めながら「安全運転が一番の近道ですから」と言ってアクセルを強く踏んだ。
中央高速を、彼は常に30キロオーバーで走った。
「30キロオーバーって、罰金半端ないのよね」そう言うと、高橋は少しアクセルから足を離し、スピードを下げた。
思い出の場所と言うには広すぎる。
だだっ広い草の海に、暫く見とれていた。緑の草が風に揺れて、夕陽の光を反射するとオレンジ色に染まる。
「すいません。どのあたりだったかがはっきりしなくて」
高橋は、たくさんの荷物を両肩に担ぎながら、北へ南へと歩きまわった。
「もういいわよ、ここのどこかなんだから」
わたしは、そう言ってついて歩くのを辞めて、草の上に座った。
高橋は少し不本意な顔をしながらも、わたしの横に腰かけた。
平らになった場所を見つけて、キャンプ用のプラスチック製のテーブルと椅子を二脚組み立てた。
テーブルの上にガスコンロを乗せて「コーヒーを飲みませんか」とミネラルウオーターのペットボトルを取り出した。
高橋も、コーヒーを淹れる道具を持ってきていたのだった。
「ところで、ガスコンロを何に使う予定だったんですか」
高橋は小さなアルミの鍋にお湯を沸かしながら尋ねてきた。
「……おなじ。コーヒーを淹れようと思ったの」
わたしはストローバックから買ったばかりの豆とドリップペーパー類を取りだした。
「ほら、ね」
高橋は少し困った顔をして、では二杯飲みましょうと歌うように言った。
そして、わたしの買ってきた豆を手にとって、名前を声に出した。
これは、夜明けに、草の匂いのするところで飲みたいですね、と笑った。
キャンプ用の堅い椅子に腰かけて、各々雑誌を眺めたり、本を読んだり、コーヒーを飲んだりして過ごした。
特に言葉も交わさない。
風が強く吹くと「少し強いね」とどちらかがいい、どちらかが頷く。
座っているお尻が少し痛くなると「少し痛いね」とどちらかがいい、どちらかが頷く。
こうして時間は流れてゆくのだと知る。
時々、お互いの指先に触れる。どちらかが抓る。どちらかがくすぐる。凸ピンのように弾いてからかう。
あたりがすっかり暗くなり、オイルランプを灯してから、高橋は寝袋を出した。
「ねえ、どうして大きなのを買ったんですか」
高橋は笑いをこらえるように言った。
「だって、二人用で寝たら……あたたかいんじゃない」
わたしはしどろもどろに答えた。
前の彼女としてない形で野宿してみたい。そんな勝手な妄想を話すわけにはいかない。
「僕ね、初めてですよ。二人用の寝袋って」
先に新しい寝袋に滑り込んだ高橋は大きな声を出した。
「あったけ、早くこっち来なさいよ」
手招きをしてから「あと、ランプ! ランプ持ってきてくださいね」とわたしを使った。
わたしは残っていたコーヒーを飲みほして、ランプを手に高橋の横に体育座りをした。
「入らないんですか? 早く入って、チャックを閉めましょう」
上を見上げると、あの時と同じように星が降ってきそうなほどの夜空。
違うのは、あの時と見える星座が変わっていることくらいだろうか。そもそも、星を見ても、どれが何座かなんて、わらかない。
高橋はわたしの手を引っ張った。その力が強かったので、わたしは照れくささもなくなって、安心して隣に滑り込んだ。
「思ってたより、狭い」
わたしは高橋の胸に顔を押しつけながら呟いた。
「ねぇ、二人用の寝袋って、仲良しのため、とか仲良くするためって思ってませんでした?」
高橋はわたしの髪を撫でながら尋ねてきた。
「……そうでしょう。そうじゃないの?」
そう答えると高橋は大きな声で笑った。
「あのね、二人用はね、たとえば子供が一緒にキャンプするときに、親子で入ったりね、雨がすごい時に、自分の荷物を抱えて入れるんですよ。濡れないようにね。そういう風に、一般的には使うんですよ。仲良くするためじゃないんです」
と苦しそうに、とぎれとぎれに教えてくれた。
恥ずかしくて、声も出ない。
わたしは足をばたつかせて高橋の足を蹴っ飛ばした。
高橋はそのわたしの足を両足に挟み込んで「でも、僕たちは仲良くすればいいじゃないですか」と腰に強く両手を回してきた。
ランプの明かりが、高橋の顔を照らしている。少し高橋のまつ毛の影が、頬に落ちている。指先でそっと触れると、影が揺れる。
「それにしても、狭い」
そうぶっきらぼうな声をだすと、高橋は自分の背中に手を回し、枕を取りだした。
「これが、結構邪魔かも」
高橋はYESの面をわたしの顔に押し付けて「今日はNOは無しです」と低い声を出した。
馬鹿げている。そう思う。いや、正真正銘の馬鹿だ。いい年をした男女が、野宿で仲良くなろうとしている。
「ランプ、何に使うの」
わたしは持ってきたランプの明かりを消そうとしながら聞いた。
「枕の文字が見えないと困ると思って」
それだけのために、わざわざ寝袋の脇にランプを持ってこさせたのだった。
わたしは、上を向いて空を眺めた。
高橋はわたしの頭の下に自分の腕をねじ込んでから、一緒に空を眺めた。
「綺麗ですね」
「そうね。昔行ったプラネタリウムみたい」
わたしは、スキニーパンツに隠し持っていた部屋の合いカギを取り出して、高橋の手を取った。
そっと大きな掌に乗せて、カギを掴ませる。
何かいいかけて大きく息を吸った高橋の口に手を当てる。
「わたしが、居てほしいの。わたしのいない部屋に、高橋が居てくれたら、うれしいの」
そう言って両手で高橋の手を強く握った。
高橋はランプにカギをひっかけて明りを消した。
「これから脱ぐ服の中にカギを入れていたら失くしちゃうから」
空を見上げると、星の明かりがますます強く見える。
「綺麗ね」
「うん」
枕を寝袋から放り出して、高橋は腕に力を込めてわたしを抱く。
唇を重ねると、コーヒーの香りがした。
「誰かが見てたらどうしよう」
「見えませんよ。寝袋の中だもん」
「また、スミレ色の時間になったら、あの時と同じに起こしてね」
わたしは、彼の耳元で囁く。
「もしもし、そらが綺麗だから起きてください」
あの彼の声が、わたしの耳から離れない。
お酒の色の空を見たら、わたしはレインフォレストコーヒーを淹れよう。
きっと、強い香りがするだろう。この湿った草の香りにも似ているかもしれない。
身をよじると、ランプからカギが草の上に落ちる音が聞こえた。
明日の朝は、カギ探しに追われるかもしれない。
小さくため息をついて、高橋の頭を両手で抱きしめた。
「僕の、可愛い荷物みたいなもんです。あなたは。山でも川でも海でも、どこへでも連れてゆきます」
そういう小さな声が聞こえて、わたしは安心して目を閉じた。
読みにくかったらすいません。大分前に書いた作品が出てきたので、ついうれしくて投稿してしまいました。