2010/06/17 6:38
◆2010/06/17 6:38
「おじいちゃん、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
「どこでもいいぞ? 今日は鈴が主役だからね」
「おじいちゃんと久々のお出かけだから、どこでも嬉しい!」
晴天。青い空が一面に広がっている。夏の匂いを感じる風が優しく吹く。休日の朝と言う事もあり、車や人の行き来は多くない。それが季節の変わり目を強く感じさせる。
車の行き来が少ないのは高速道路も然り。その中の一台に老人と少女がいた。運転席にいる老人は高価なスーツを着こなし、皺をくしゃっとさせ笑っている。その風格漂う姿に子どものような笑顔は落差がある。しかし助手席に乗っている鈴と呼ばれる少女はその落差に驚くことなく笑みを返している。
「眠くないかい、鈴?」
「うん! だいじょーぶ! おじいちゃんは?」
「老人の朝は早いと決まっておるんだよ」
「まだまだ若いよ。なんせ車を運転して若い女の子とデートしてるんだから」
「がっはっは! そうだな、じいちゃんこれから青春!」
老人は豪快に笑った。車の中にはドライブに合うような疾走感のある音楽が流れている。少女もご機嫌なようで口笛を吹きながら老人と会話している。
「誕生日プレゼントは何がいいんだい?」
「いいよ、そんなの。おじいちゃんが長生きしてくれるのが一番!」
「今年もそれか。本当にいいのかい?」
うん、という消え入りそうな声がしたが、老人はそれを聞き逃しはしなかった。助手席の少女は外を見ていた。老人には少女は何を思っているのか分からない。向けられた華奢な背中を見て老人は、まだ守ってやらねば、これは当分死ねないなと思った。
「そうだ、腹が減っただろう。朝御飯も食べないまま出発したからな」
老人はパーキングエリアの看板を見つけ、ウインカーを点灯させて曲がる。最近ハンドルすら重くなってきたなと老人は自分の衰えにため息を漏らした。細くなる腕や骨だけになりゆく手を見て苦笑いをした。
パーキングエリアにも車や人がいなかった。しかしお食事処の明かりはついていたため、きっと何かしらのご飯は食べられるだろうと思い老人は車を停めた。
「さ、着いたぞ。じいちゃんは一服してから行くから先にいって待っててな」
「……煙草?」
「だめか?」
「だめじゃないけど……長生きして欲しいから……」
この子が素直じゃないのは昔からだ。老人は少女のおずおずとした視線に勝てず、手にしていた煙草をポケットの中に押し込めた。
「じゃあこれが今年の誕生日プレゼント。きじいちゃんは禁煙いたします」
「嬉しい! じゃあ先に行って待ってるね!」
少女は満面の笑顔を見せ、はしゃぎながら車を出てお食事処へ向かう。ドアを閉める音がいつもよりも大きかった。きっと浮かれているのだろう。
「全く。煙草一つで名家のお嬢様があんなに浮かれて」
ぼやくような口調であったが、老人の顔からそれは伝わってこない。
あの笑顔を守るのが自分の使命なのだ。鈴は自分のようにずる賢くもないし、上手く世を渡っていく術をしらない。両親も名家の務めをこなすので精一杯で、あの子を一人にしがちだ。だったら尚更、麒麟島の為に自分が出来るのは、麒麟島鈴という宝物を守る事なのだ。
老人は自分に言い聞かせるように、物想いに耽っていた。ふと時計を見るといつの間にか時刻が変わっていた事に気がつく。よし、行くか。そう意気込み、車のドアに手をかけた。
「久しいな、じじい」
ドアに手をかけた時、後部座席から、声がした。車に人がいる。そんなわけない。この車には自分と鈴だけしか乗っていなかったはず。しかし車内を満たす男性の低い声。その声は人の耳を舐めるような不快感があった。老人はその声に、覚えがあった。
「……まさか、龍也か?」
「その名で呼ぶな、糞が」
老人の体がいつの間にか震えている。息が早く、口の中が砂漠のようになる。しかし額は汗まみれである。老人はルームミラーで後部座席を見る。そこで初めて声の主、龍也と呼ばれる人物を目にした。それとともに後ろにいるのが一人ではないことを知った。
「よう、麒麟島のじいさん。久々だな。元気かい?」
「ちょっとアタシの事も紹介して下さいよぉ。初めまして!麒麟島凛さん。お会いできて光栄ですぅ」
初老の男を真ん中に、青年と少女が両脇に座っていた。
龍也と呼ばれた青年は、長い金髪から鋭い三白眼で凛を鏡越しに睨んでいる。視線で人を殺してしまいそうである。また腕を組み、脚を組んでいる姿は不気味な威圧感があった。蛇がとぐろを巻き、俺はいつでもお前を喰い殺せる、そう言わんばかりの威圧感を発していた。
また茶髪の少女は女としての魅力を全面に出し、凛に話しかけている。先程助手席にいた鈴とは真逆の少女である。しかしそこには魔性の美しさがあった。
「蜚。五月蝿い」
「えぇー、そんな事言わないで下さいよぉ、饕餮さん」
「お前ら騒ぐなっつーの。ワリィな、じいさん」
「三年ぶりか……」
「おっと、今は渾沌って呼んでくれよ」
青年の名は饕餮、少女の名は蜚。
そして麒麟島凛に親しげに話すのは、初老の男、渾沌。伸びた黒髪、無精髭、ボロボロのジャケット。浮浪者と言われても仕方ない格好である。しかし大きな体躯と眼鏡の奥の瞳には言い得ない力が伺える。
「じいさん、痩せたなぁ。ちゃんと食ってんのか?」
「……貴様はかわらんな。何もかも」
「そう? ありがとさん。あー、何か久々過ぎて色々話してぇな。じいさん、一緒に飯行こうぜ、飯」
渾沌はへらへらと笑う。対して凛の体の震えは止まない。言葉を発しようにも、喉につっかえて出てこない。息すら上手く出来ない。表情を変えられない。ずっと無表情のままである。この無表情が何よりも、凛の心情を強く表している。
「ちょっとぉ、渾沌さん、飯を食べに来たんじゃないんですよぉ?」
「おーすまんすまん。なんだか懐かしくてさ。なぁ今日じいさん一人なん?」
蜚に注意されても、渾沌の掴みどころがなく、のらりくらりした様子は変わらない。
凛は麻痺した思考回路を置き去りにし、本能的に答えた。
「ああ、一人だ」
この言葉を言うのに凛は永遠の時間がかかったように感じた。それと同時に、一瞬で全てを察した。自分の置かれた状況を。この言い表せない絶望感の正体を。
「自分がどんな立場にあるか再認識したか?じじい。だが遅いんだよ、莫迦が」
「饕餮さん、口悪すぎぃ」
「いやぁ、じいさんが一人で助かったぜ」
渾沌は無邪気な笑顔を凛に見せた。初老に邪気が無いわけあるのだろうか?いや、この渾沌という人間には本当に邪気が無いのかもしれない。人間として、ありえない。そう思わせる、吐き気のする笑顔だった。
「じいさん、『四凶』に来てくれよ。麒麟島の力、【境界者】の力を貸してくれ」
麒麟島家の元当主。そして【境界者】。凛が察した通りのものであった。そして凛は次の渾沌の事もたやすく想像できた。
「んでさ、一緒に世界壊そうぜ。世界再生させようぜ。世界創ろうぜ。世界支配しようぜ」
破壊。再生。創造。支配。この言葉を渾沌が発した時、凛は、自分の意識が一瞬途切れたのが分かった。死んだ。そう思ってしまった。
こいつらは自分の力を欲しがっている。だが、知っている。三年前、こいつらが自分に、そして世界に何をしたか。しかし、拒絶の言葉が出ない。3対1の状況は勿論、言い得ない恐怖が自分の【魂】を縛り付けているみたいだ。このまま勢いに任せて頷いてしまいそうだ。
いや、そうしよう。それがいいのだ。楽に、なろう。この年で、まだ死ねない。死ねないのだ。自分にはまだやることがあるのだ。
「断る」
凛はいつの間にか、ごく自然にこの言葉を発していた。自分のやるべきこと。そう思った時、凛の頭は驚くほどすっきりした。靄が晴れるように、何かから解放されたように。
凛の言葉を聞き、渾沌は大きなため息をつき、項垂れながら不衛生な頭を無作為に掻いた。
「貴様らに力は貸さん」
凛の瞳が新緑色に染まる。【境界者】としての能力を解放した。全身に雷を帯び始める。自分の成すべきことを成すために凛は戦う。己の全てをかけて、守る為の戦いを挑む。
「ここで貴様らを……」
「正直乱暴な事はしたくなかったけど、仕方ねぇか。すまんな、じいさん」
しかし、凛の体は動かない。凛は自分の体に命令する。動け、後ろの3人を殺せと。
正確には動かないのではなく、動かせないのだ。座席から立つことも、体に帯びた雷を放つ事も出来ない。凛ははっとルームミラーを見た。渾沌の目も、自分の瞳と同じように新緑色になっていた。
「一緒に来てもらうぜ、じいさん。帰ったら旨いもんでも食おうぜ!それじゃあ、蜚、頼むぞ」
「はーい!」
能力の差。それは歴然だった。今でさえ凛はなんとか体を動かせないかもがいている。だが、もがけばもがくほど、渾沌の能力の完璧さと己の無力さを噛み締めなければならなかった。戦闘に必要な部分はもはや自分の支配下にはなかった。
「……がは、がっはっはっは! 笑わせる!」
もう何も出来ないのか。そう思った時、凛は自然と笑いが込み上げてきた。可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
渾沌は豪快な笑い声に一瞬キョトンとしたが、すぐにへらへらした笑みを浮かべた。その脇の二人は、瞳の色を変えた。確実なる殺意を凛に向けながら。その殺意に気付きながらも凛は続ける。
「お前は昔から何でもできる奴だったな! この能力だってそうさ! この能力があればなんだって出来よう! 今、俺を操っているみたいに、誰だって何だって思い通りさ! だがな、能力を使っても出来ないことがある!」
「ねぇ、凛さん? 今の状況分かってんのぉ? それともぉ、死にたいのぉ?」
「蜚、いいよ。じいさん、そりゃなんだってんだい? 俺の【帰属】に出来ない事なんかねぇって。ほら、言ってみな?」
両脇の殺意をよそに渾沌は気味の悪い笑みを崩さない。車は止まっているはずなのに、渾沌の体はゆらゆら右に左に動く。
その笑み、本当に変わらないな。自分に出来ない事はないという笑み。世界が自分を中心に回っていると思っている笑み。だからこそ、言ってやりたい。ずっとお前が出来なかった事を。お前には絶対に手に入れられないものがあるという事を。
「それは誰かの【魂】を震わす事さ」
誰かの心を奪う。それをお前に出来るのか?
凛は渾沌の体が止まるのを見逃さなかった。
「図星だろ? 貴様には出来んよ。脅した所で、操った所で、俺の【魂】は揺るがねぇ。何があっても俺の力は貸さない。三年前、そうだったようにな。俺が力を貸すのは俺の心を魅了した、近衛しゅう、ただ一人だけさ」
近衛しゅう。この名前が出た瞬間、渾沌の手は凛の頭を掴んでいた。
【鬼族】
渾沌の言葉と同時に、闇が生まれた。車内は闇で満たされる。夜の暗闇とも、瞼を閉じたときの闇とも異なる異質のものだった。その闇は深く、そして恐ろしいほど濃いものだ。
晴天の下、迸る闇はあっという間に繭状になり凛を包み込んだ。悲鳴もなく、抵抗の間もなく。そして繭の闇が凛に溶けてゆく。
「蜚」
【りょーかい。切り取り&貼りつけ】
蜚が目を瞑り、能力を発動すると車の後部座席に3人の姿はなく、いつの間にか車外にいた。誰もいない静かな駐車場に。そこには凛の姿はなく、彼は未だ車の中だった。
「饕餮、もういいや」
渾沌は未だ笑っている。無邪気に笑いながら子どもがおもちゃに飽きた時のような言葉を、あっけからんと発した。
【四壊龍王】
饕餮は右手を天にかざす。やれやれというように気だるそうである。しかし饕餮もまた笑みをこぼしている。凶器のような、狂気の笑顔。
凛のいる車が陽炎のように揺らめく。まだ涼しい季節で気温も高くない朝なのに、その光景をみると灼熱の砂漠に迷い込んだような気分になる。
凛は灼熱のごとき暑さを感じると同時に理性が吹き飛び始める。体に溶けた闇が、凛の体を、【魂】を蝕み始めた。頭の中が闇で覆われ、光が悲鳴をあげながら消えてゆく。記憶、思考、自我、本能。全てが一つの渦となり入り混じる。そして全てが闇に食われ、闇を加速させる。
その中で凛は、呟いた。すまない。鈴。しゅう。
【燭龍】
刹那、音もなく火柱が上がる。地面から車を呑み込み、蒼天へと突き刺さる。火柱は周囲に熱を放ちながら渦を巻く。龍のようにうねり、咆哮のように轟音を立てる。この殺意の炎を傍目に、饕餮は舌舐めすりをした。その姿は車と凛を喰い殺す火柱の龍の体現であった。
火柱は燃え盛る車を残し消え去った。もう車の原型すらとどめていない。運転席には、人影すらなかった。
「おつかれちゃん、饕餮」
「呆けが。麒麟島の力、どうするんだ」
「まあなんとでもなるって。麒麟島の人間は他にもいるし、皆に探してもらえばいいさ」
「無駄足でしたねぇ」
「ワリィワリィ。んじゃ帰るか」
人を殺した。3人は罪悪感など微塵も感じていないようである。まるで道端にあった小石を蹴って退かせただけ。歩いた時、足元に蟻がいて踏み潰してしまっただけ。
その時、3人の背後で音がした。そこには尻もちをついて放心している少女、鈴がいた。祖父があまりに遅いから呼びに来たのだろう。何時から見ていたのかは分からない。ただ、今自分の乗ってきた車が燃え盛っている所を見ているのは確かである。勿論3人の姿も。
「見ていたか。自分の不運を呪え、屑が」
饕餮は再び天に右手を上げようとする。目撃者を消すため、道端の小石をどけるために。
「饕餮、いい」
しかし火柱が上がることはなかった。渾沌が饕餮を止めたからだ。渾沌は鈴に向かって歩き始める。ふらふら、へらへら。鈴は成すすべなく、不気味な存在が歩いてくるのを見ているだけしかできなかった。
渾沌は鈴の元に着くと、凛にしたように鈴の頭を鷲掴みにする。
【帰属】
ぱたり、と鈴は糸が切れた人形のようにその場に倒れ込む。まるで寝ているかのように安らかな顔である。淡麗な顔を見て、渾沌はふっと笑う。それは初めて見せた、人間としての顔だった。
「何故殺さない?」
「気分。別にいいだろ?」
「えー、殺しちゃえばいいのにぃ。女の子だからって助けたなぁ?」
「お前の方が可愛いよ、蜚。ほら、帰ろうぜ」
むぅ、と頬を膨らませる蜚。舌打ちをする饕餮。いつの間にかまた不気味に笑っている渾沌。3人は再び、消えた。自分達の痕跡を残さず。
ただそこに、少女と燃え盛る車を残して。