後悔
そこそこ長めの短編です
4/14
どうやら小ジャンルの方を間違えて異世界にしてしまっていたようで…直しました。
深夜の二時を過ぎると、東京はようやく自分の本当の顔を見せ始める。車の音が遠くなり、隣人の気配が消え、この部屋だけが世界に取り残されたような静けさが訪れる。私はその静けさの中で、三時間前から同じ原稿の同じ段落を眺めていた。
眺める、というのは正確ではないかもしれない。読んでいるわけでも、考えているわけでもなかった。ただそこに文字があって、私はその文字の前に座っていた。それだけのことだ。
グラスの中の氷はとうに溶けていた。薄まったウイスキーを一口飲んで、私は画面から目を離した。書けないのではない、と自分に言い聞かせる。これはいつものことだ。深夜になると思考が濁る。明日の朝になれば、また書ける。私はそう思うことにしている。そう思わなければ、別のことを考えなければならなくなるから。
別のこと、というのは、たとえばこういうことだ。私がこれまでに書いてきた七冊の小説の中に、本当のことを書いたものが一行もない、という事実について。
七冊、というのは多いのか少ないのか、自分では判断がつかない。デビューから九年で七冊。大きなヒットはないが、それなりに読まれている。文芸誌に名前が載るようになって、インタビューを受けるようになって、書評が出るようになった。作家として、一定の場所には立っている。しかしその場所が、自分の場所だという気がしない。
原稿の画面を、また見た。
書いている小説の登場人物は、私に似ている。年齢も、職業も、物の考え方も、私に似ている。しかし決定的な部分で違う。彼は私よりも勇敢で、私よりも正直で、私よりも自分の感情に素直だ。私は彼を書きながら、彼になれない自分を確認している。七冊分、ずっとそれをやってきた。
テレビをつけたのは、沈黙に耐えられなくなったからだった。深夜の情報番組が映し出されていた。司会者が何かを喋り、スタジオの客が笑う。私はその音を部屋に満たしながら、またグラスに口をつけた。画面は見ていなかった。ただ音が欲しかっただけだ。
だから最初、私はそれに気づかなかった。
テロップが流れた。新進気鋭の若手女優・――――。私は何気なく画面に目をやって、そのまま動けなくなった。
彼女だった。
いや、正確には、彼女ではなかった。画面の中の女性は、私の知っている彼女よりも洗練されていて、どこか遠い場所にいる人間のような光を纏っていた。髪型が違う。化粧が違う。笑い方が少し違う。それでも私には分かった。輪郭の作り方が、首の傾け方が、視線の落とし方が——全部、彼女だった。
司会者が何かを訊いた。彼女は微笑んで答えた。その微笑みを見た瞬間、私の胸の中で何かが静かに音を立てた。壊れる音ではなく、長い間閉じていた戸が軋む、そういう音だった。
リモコンに手を伸ばしかけて、やめた。
私はソファに深く座り直して、画面を見続けた。彼女は楽しそうに喋っていた。自分の役のことを、撮影現場のことを、これからやってみたいことを。インタビュアーが「女優を目指したきっかけは?」と訊いた。彼女は少し考えてから、「ずっとそうなりたかったんです」と言った。「他のことは考えたことがなかったかもしれない」
そうだ、と私は思った。そういう人間だった。
迷いのない言い方だった。他のことは考えたことがなかった。そう言える人間が、世の中にはいる。私はそういう人間が昔から不思議だった。不思議で、羨ましかった。何かに向かって一直線に生きていける人間を、私は遠い場所から見ていた。
番組が終わった。私はしばらくそのままでいた。画面はまた別の番組に変わっていたが、何が映っているのか見ていなかった。
あの夏のことを思い出していた。
大学三年の夏、私はまだ作家になるつもりなど微塵もなかった。文学部に在籍してはいたが、それは消去法の結果であって、文学への情熱などというものは持ち合わせていなかった。将来については、考えないようにしていた。考えると、自分が何者でもないという事実と正面から向き合わなければならなくなるからだ。
私は昔から、そういう人間だった。不都合なことは見ないようにする。見なければ、存在しないのと同じだ。少なくとも、そう思い込むことはできる。問題は、そうやって見ないようにしたものが、消えるわけではないということだ。見ないようにしたものは、どこかに積み重なっていく。そしてある日、積み重なったものが崩れてくる。私はそれをまだ知らなかった。
友人の木村に誘われて演劇サークルの公演を観に行ったのは、六月の終わりだった。木村はそのサークルに知り合いがいて、チケットが余っているから来ないかと言った。私は特に予定もなく、断る理由も思いつかなかったので、承諾した。それだけのことだった。
会場は大学の構内にある小さなホールで、客席は半分も埋まっていなかった。演目はチェーホフの翻案だった。私はプログラムをぼんやり眺めながら、終わったら木村と飯でも食おうと考えていた。プログラムには出演者の名前が載っていた。私はそれを読んだが、顔と一致させるつもりもなく、ただ文字として目を通した。
照明が落ちた。
舞台の上に、彼女が現れた。
私は今でも、あの瞬間を正確に言葉にできない。七冊の小説を書いてきて、それなりに言葉というものを扱ってきたつもりだが、あの感覚だけは、書こうとするたびに指の間からすり抜けていく。
うまい、とは思わなかった。いや、うまかったのかもしれないが、そういうことではなかった。彼女はそこにいた。舞台の上で、役を演じながら、それでも完全に彼女自身としてそこにいた。隠しているものが何もないように見えた。恐れているものが何もないように見えた。喜びも悲しみも怒りも、全部そのまま外に出ていた。
私はそれが眩しかった。
眩しい、というのも正確ではないかもしれない。眩しいというより、恥ずかしかった。自分が恥ずかしかった。何かを常に隠しながら生きている自分が、隠すことを当たり前だと思っていた自分が、急にひどく滑稽なものに思えた。あの舞台の上の人間は、隠すことを知らないように見えた。あるいは、隠すことを恐れていないように見えた。
公演が終わった後、木村が何かを言っていた。私は生返事をしながら、舞台から出てくる人々の顔を眺めていた。彼女の姿を探していた。見つけた。彼女は仲間らしき人間たちと笑いながら話していた。舞台の上とは少し違う顔だったが、やはり同じ人間だと分かった。
声をかける、などということは考えなかった。ステージの上にいた人間と観客席にいた人間の間には、建物の外に出た瞬間に埋めようのない距離が生まれる。私はその距離を当然のものとして受け入れ、木村と一緒に会場を出た。
彼女のことは、たぶん忘れるだろうと思っていた。
忘れられなかった。
七月になっても、八月になっても、時折あの舞台の光景が頭の中に戻ってきた。彼女が舞台の上で泣いた場面。笑った場面。ただ立っていただけの場面。私はそれらを反芻しながら、自分がなぜこんなにもあの公演のことを考えているのか、よく分からなかった。恋をしている、という感覚ではなかった。もっと別の何かだった。あの舞台を見た後から、自分の中に小さな棘のようなものが刺さっていて、それがずっとそこにある感じだった。
棘、というのは痛いものだ。しかしその棘は、不思議なことに、痛みだけではなかった。何かを思い出させる棘だった。忘れていた何かを、あるいは最初から持っていなかった何かを、思い出させようとしている棘だった。
九月の初めに、私は図書館に行った。特に目的があったわけではない。冷房が効いていて静かだから、という理由で、その夏は週に何度か図書館で時間を潰していた。
適当に本を選んで、窓際の席に座った。カミュの『異邦人』だった。何度か読んだことがあったが、また読む気になったのは特に理由がなかった。ムルソーという男の、感情を持ちながら感情を持てないような生き方が、何となくその夏の自分に近い気がして、手に取った。
三十分ほど読んだところで、隣の椅子が引かれる音がした。
私は本から目を上げなかった。図書館では誰かが隣に座ることなど珍しくない。ただ、かすかに香る何かが気になった。柑橘系の、しかし甘すぎない香りだった。
しばらくして、その人間がため息をついた。
思わず横を向いた。
彼女だった。
あの舞台の上にいた彼女が、私の隣の席に座っていた。舞台の上とは違う、普通の大学生の格好をしていた。カバンを膝の上に置いて、困った顔をしていた。
彼女は私の持っている本と、カバンの中を交互に見ていた。私が何も言わずにいると、彼女は少し躊躇ってから、小声で言った。
「それ、返却されたばかりですよね」
私は自分の持っている本を見た。『異邦人』。
「探してたんですか」と私は訊いた。
「一週間待ってて、今日やっと返ってきたって表示されたので来たんですけど」
彼女はまた本と私を見比べた。私はしばらく考えてから、本を閉じた。
「読んだことあるので、どうぞ」
「でも」
「今日は気分じゃなくなったので」
それは嘘だった。なぜ嘘をついたのか、自分でもよく分からなかった。ただ何かを言わなければならない気がして、そう言った。本当のことを言えば、「なぜ気分じゃなくなったのか」と訊かれる。そうしたら、「あなたがいたから」と言わなければならなくなる。それは言えなかった。
彼女は少し間を置いて、「ありがとうございます」と言った。受け取った本を開いて、読み始めた。私は別の本を取りに行くふりをして、書架の前でしばらく立っていた。心臓が少しだけ速く打っていた。
適当な本を抜いて、戻った。彼女はまだそこにいた。今度は本に集中していた。横顔が、舞台の上とは違う角度で見えた。
それが始まりだった。
図書館での再会は、最初は偶然だった。しかしそのうち、私は以前よりも頻繁に図書館に行くようになった。彼女が来るかもしれない、と思いながら、来なくても別にかまわない、という顔をして本を読んでいた。自分の中の計算を、自分で認めたくなかった。
計算、という言葉は正確ではないかもしれない。計算というよりも、期待だった。期待していると認めれば、外れたときに傷つく。外れたときに傷つきたくないから、期待していないふりをする。しかし期待していないふりをしながら、期待していた。それが私のやり方だった。
彼女の名前は、二度目に会ったときに知った。
真壁莉子、と彼女は言った。図書館の静けさに合わせるように、小さな声で。私も自分の名前を言った。彼女は「小説みたいな名前ですね」と言った。私は「そうですか」と答えた。その会話はそれだけで終わった。
それからの数週間で、私たちは少しずつ言葉を交わすようになった。どんな本が好きか。どんな授業を取っているか。どこの出身か。会話はいつも静かで、図書館の雰囲気に溶け込んでいた。外で話すよりも正直になれる気がした。どこかに行くわけでもなく、ただ隣に座って、ときどき言葉を交わす。その距離が、私には心地よかった。
心地よかった理由を、今になって考えると、いくつかのことが思い当たる。図書館という場所が、それ自体に一種の守りを持っていたからかもしれない。静かにしなければならない、大声を出してはいけない、長居してもいい。そういうルールが、私を守っていた。会話がぎこちなくなっても、本を読めばいい。本を読みながら、隣にいればいい。それだけでよかった。
莉子が演劇サークルにいることは、初めから知っていた。しかし、あの公演で見たことは言わなかった。なぜ言わなかったのか。今になって考えると、いくつかの理由が思い当たる。あの夜の自分の感情を説明できる気がしなかった、というのが一つ。それから——これは認めたくないことだが——あの公演のことを話せば、自分が何かを隠して生きているという事実を、彼女の前で認めることになる気がした。まだ、その準備ができていなかった。
十月の半ばに、私たちは初めて図書館の外で会った。
雨の日だった。私が図書館を出ると、莉子が入り口の軒下で傘を持たずに空を見上げていた。雨は本降りで、傘なしではどこにも行けそうになかった。私は少し迷ってから、傘を差し出した。莉子は「でも」と言った。私は「近くに住んでいるので」と言った。それも半分は嘘だった。
そのまま二人で雨の中を歩いた。傘は一本しかなかったから、自然と距離が縮まった。莉子の肩が時々私の腕に触れた。私は真っ直ぐ前を向いて歩いた。
近くの喫茶店に入って、コーヒーを飲んだ。雨の音を聞きながら、二人で話した。図書館の中ではない場所で話すのは、少し違った感触があった。莉子の声が、少しだけ大きくなった。図書館では見せない表情があった。
その日、莉子が女優になりたいと思っていることを初めて聞いた。
「難しいとは思う」と莉子は言った。「でも、他のことをしている自分が想像できないんです」
私はコーヒーカップを持ったまま、莉子の顔を見た。迷いがなかった。少なくとも、その言葉を口にするときだけは。
「すごいですね」と私は言った。
「そうですか」と莉子は言った。「あなたは?」
「私は」と私は言いかけて、止まった。
何も浮かばなかった。他のことをしている自分が想像できない、などという感覚を、私は一度も持ったことがなかった。私にとって将来とは、選ぶものではなく、なんとなくそうなるものだった。いや、正確には、選ぶことを避け続けてきた。選べば、間違えるかもしれないから。
「まだ、よく分からないです」と私は答えた。
莉子は少し考えてから、「それはそれで正直ですね」と言った。馬鹿にしているのではなかった。ただそう言った。
その言葉が、不思議なほど長く残った。正直であることを、莉子は責めなかった。分からないことを、分からないと言うことを、それはそれで正直だと言った。私はそれまで、分からないと言うことを弱さだと思っていた。しかし莉子は、そうは思っていなかった。
十一月になると、図書館の窓から見える銀杏が一斉に色を変えた。黄色というよりも、もう少し濃い、燃えるような色だった。私はその木を眺めながら、隣に莉子がいない日でも図書館に来るようになっていた自分に気づいていた。気づいていたが、それについて深く考えないようにした。
私たちは週に二、三度は顔を合わせた。いつも示し合わせるわけではなく、気がつくと同じ場所にいた。莉子は几帳面な人間で、読んだ本には必ず付箋を貼った。付箋には何も書かれていなかった。ただ気になった場所に、色のついた紙を挟む。その習慣の理由を訊いたことがある。
「後で読み返すとき、何が気になったのか自分でも分からなくなってるんです」と莉子は言った。「でも付箋を見ると、そのときの気持ちが少しだけ戻ってくる気がする」
「付箋が栞の代わりになってるんですね」
「栞じゃないんです」と彼女は言った。「栞は場所を覚えるためのものでしょう。これは気持ちを覚えるためのものだから」
私はその区別を、しばらく考えた。場所を覚えるのではなく、気持ちを覚える。私にはそういう習慣がなかった。気持ちは記憶しなくていい、と思っていたのかもしれない。記憶すれば、後で取り出さなければならなくなるから。
莉子が使う付箋は、いつも四色あった。黄色、青、ピンク、緑。ある日、それぞれの色に意味があるのかと訊いてみた。莉子は少し考えてから、「特にないです」と言った。「気分で選んでる」。そういうものか、と思ったが、しばらく観察していると、莉子が感動した場面には黄色が多く、引っかかりを覚えた場面には青が多いような気がした。指摘すると、莉子は驚いた顔をして、「言われてみればそうかもしれない」と言った。「無意識だった」。
無意識でそういうことができる人間を、私は少し羨ましいと思った。私は何をするにも、意識的になりすぎる。自分の行動の理由を、常に後から検索している。なぜ今笑ったのか。なぜ今そう言ったのか。そのせいで、表情が一拍遅れる。言葉が一拍遅れる。莉子はそういう遅れがなかった。感じたことが、そのまま外に出てくるような人間だった。
莉子と話すと、自分がこれまで考えないようにしてきたことに、不意に触れることがあった。それが心地よくもあり、怖くもあった。
ある日、莉子が読んでいた本の表紙が目に入った。カフカの『変身』だった。
「カフカ、好きなんですか」と私は訊いた。
「好きというより、気になる」と莉子は言った。「演劇でカフカをやることになって、それで読み始めたんです」
「どの作品を」
「審判。でも変身も読んでおこうと思って」
私はカフカについて、何か気の利いたことを言おうとした。しかし思いついたことを口にする前に、莉子が先に言った。
「グレゴールって、変身する前から虫だったんじゃないかと思うんですよね」
私は手を止めた。「どういう意味ですか」
「家族のためだけに働いて、自分というものを持たずに生きていた。それって、もう人間じゃないというか」莉子は少し考えながら続けた。「変身は結果であって、原因は前からあったんじゃないかって」
私はその解釈を、しばらく転がした。変身は結果であって、原因は前からあった。そういう読み方を、私はしたことがなかった。私はグレゴールの変身を、突然の出来事として読んでいた。しかし莉子の言う通りかもしれなかった。少しずつ、気づかないうちに、人は変わっていく。あるいは、変わらないままでいることで、別の何かになっていく。
「舞台で演じるとき、そういうことを考えるんですか」と私は訊いた。
「考えます」と莉子は言った。「登場人物がなぜそうなったのかを考えないと、どう動けばいいか分からないから」
「でも舞台の上では、その考えは見えないですよね」
「見えないけど、滲み出ると思う」と莉子は言った。「考えていることは、言葉にしなくても伝わることがある」
私はその言葉を聞きながら、自分のことを考えた。私が考えていることは、滲み出ているだろうか。私は自分の内側を隠すことに慣れすぎていて、何も滲み出ない人間になっているかもしれなかった。それが正しいことだと、これまでは思っていた。しかし莉子を見ていると、滲み出ることを恐れない人間の方が、どこか強いような気がしてくる。
「あなたが書いたもの、読んでみたいですね」と莉子はその日も言った。
「書いていないと言いましたよ」
「そうでしたね」と莉子は言った。微笑んでいた。それ以上は言わなかった。
十一月の終わりに、莉子が珍しく暗い顔をして図書館に来た。
隣に座って、しばらく本を開いていたが、読んでいないのが分かった。視線が動いていなかった。ページが、ずっと同じところで止まっていた。
私は何も訊かなかった。訊けなかったのではなく、訊かなくていいと思った。莉子が話したければ話すだろう、と思った。それは正しい判断だったのか、それとも踏み込むことを恐れた臆病さだったのか、今でも分からない。
一時間ほど経って、莉子が本を閉じた。
「稽古がうまくいかないんです」と莉子は言った。訊いてもいないのに、自分から話し始めた。
「どういうふうに」
「役に入れない感じがして」莉子は窓の外の銀杏を見ながら言った。「台詞は覚えてる。動きも分かってる。でも、なぜかそこにいる気がしない」
「そこにいる気がしない、というのは」
「舞台の上にいるのに、自分が舞台の外から見ているみたいな感じ」莉子は少し間を置いた。「こういうとき、どうすればいいのか分からなくて」
私には演劇の経験がなかった。だから技術的なことは何も言えなかった。ただ、莉子が困っているということは分かった。そして莉子が困っているのを見るのは、初めてだった。それまでの莉子はいつも、自分の場所をちゃんと知っているような人間に見えていた。
「役に入れないとき、どんな気持ちになるんですか」と私は訊いた。アドバイスをしようとしたのではなかった。ただ、知りたかった。
「怖いです」と莉子は静かに言った。「本番が近いのに、このままだったらと思うと」
「怖い、ということは、うまくやりたいということですよね」
莉子は少し考えて、「そうですね」と言った。
「うまくやりたいと思っているなら、今はただうまくいっていないだけで、おかしくなったわけじゃないと思いますけど」
莉子は私を見た。何かを確かめるような目だった。
「そういう言い方、するんですね」と莉子は言った。
「変でしたか」
「変じゃないです」莉子は少し笑った。「慰めるでもなく、励ますでもなく、ただ整理する感じ」
私は特に意識してそうしたわけではなかった。ただ、思ったことを言っただけだった。しかし莉子にとっては、その整理の仕方が何か意味を持ったらしかった。
その日、莉子は帰り際に「ありがとう」と言った。何に対してのありがとうなのかは言わなかった。私も訊かなかった。
図書館を出た後、しばらく夜道を歩きながら、私はその「ありがとう」について考えていた。私は何もしていなかった。ただ隣にいて、少し話しただけだった。しかしそれが、莉子にとって何かになったらしかった。
ただそこにいることが、誰かの役に立つことがある。そういう単純なことを、三十分ほど歩きながら考えた。
十二月に入って、図書館が年末の雰囲気を帯び始めた。
学生の数が少し増えた。試験前になると、普段は来ない人間まで図書館に来る。私はそれが少し苦手だった。静かなはずの場所が、微妙に落ち着かない空気になる。鉛筆を走らせる音が増えて、ため息が増えて、どこか焦った気配が漂う。
莉子は試験前でも、普段と変わらなかった。
「試験、大丈夫なんですか」と私は訊いた。
「大丈夫じゃないけど、焦っても仕方ない」と莉子は言った。「焦ったら余計に頭に入らないから」
「それは正論ですが」
「正論だから言ってる」莉子は笑った。「あなたは試験前、焦るタイプですか」
「焦ります」と私は正直に答えた。「でも焦ったまま何もできなくなるタイプです」
「それは損ですね」
「損ですね」
莉子は少し笑って、「一緒に勉強しましょうか」と言った。「その方が集中できるかもしれない」
一緒に勉強する、というのは、特別なことではなかった。図書館に来れば自然と隣に座ることになるのだから、それは普段と変わらない。しかし莉子が「一緒に」と言ったことが、その言葉そのものが、私には少し特別に響いた。
その日から試験期間が終わるまで、私たちは毎日図書館で並んで座った。莉子は教科書を開いて、私は本を読んだ。ときどき莉子が「これ知ってますか」と訊いてきた。私が知っていれば説明した。知らなければ一緒に考えた。
試験が終わった日、莉子が「終わった」と言って机に突っ伏した。私は本を閉じた。
「お疲れ様です」
「疲れた」と莉子はうつ伏せのまま言った。「終わったら何か食べたい」
「何が食べたいですか」
「ラーメン」と莉子は即答した。起き上がって、「付き合ってもらえますか」と訊いた。
私は断る理由がなかった。というより、断ろうとは考えなかった。
寒い夜に、二人でラーメン屋に入った。莉子は醤油ラーメンを頼んだ。私は塩を頼んだ。莉子は「この一杯のために生きていた気がする」と言って、勢いよく食べ始めた。私は少し笑いながら、自分の麺をすすった。
暖かくて、うるさくて、他の客の声が飛び交う店の中で、私は妙に落ち着いていた。静かな場所でなくても、莉子が隣にいれば落ち着けるのかもしれなかった。そのことに気づいて、少し驚いた。
十二月の初め、私たちは初めて夜に酒を飲んだ。
莉子が演劇の練習だと言っていた日、私はキャンパスの近くの書店で時間を潰していた。特に理由はなかった。ただ、その辺りをうろついていた。自分がなぜそこにいるのか、認めないようにしていた。
九時を過ぎた頃、莉子から連絡が来た。練習が終わった、近くにいるなら夕食でもどうか、という内容だった。私は三秒考えて、返信した。
居酒屋に入った。莉子は練習着のままで、少し疲れた顔をしていたが、席に座った途端に表情が緩んだ。生ビールを一口飲んで、「演劇の練習の後のビールが一番好きです」と言った。私は日本酒を頼んだ。
その夜、私たちはいつもより長く話した。図書館の中ではない場所で話すのは、少し違った感触があった。莉子の声が、少しだけ大きくなった。笑い方が、少し違った。図書館では見せない表情があった。照明が暗くて、音楽が流れていて、周りに酔った人間がいる空間の中で、莉子は少しだけ別の人間のように見えた。しかし別の人間ではなかった。同じ人間の、別の面だった。
二杯目を頼んだところで、莉子が「訊いていいですか」と言った。
「何を」
「小説、書いたことありますか」
私は少し驚いた。そんなことを訊かれるとは思っていなかった。
「なぜそう思うんですか」
「なんとなく」と莉子は言った。「本の読み方が、普通じゃない気がして」
「普通じゃない、というのは」
「物語を楽しんでいない感じがする」彼女は少し考えながら言った。「分析してるわけでもない。ただ、何かを探してる感じ。自分に関係するものを探してる、みたいな」
私はグラスを持ったまま、彼女の顔を見た。正確だった。自分でも気づいていなかったことを、彼女は三ヶ月で見抜いていた。
「書いたことはないです」と私は言った。「でも」
「でも?」
「昔から、頭の中に物語みたいなものがあります。言葉にしたことはないけれど」
莉子はそれを聞いて、少し微笑んだ。責めているわけでも、褒めているわけでもない微笑みだった。
「なぜ書かないんですか」
私はその質問に、すぐ答えられなかった。なぜ書かないのか。書けばいいじゃないか、という話だ。しかし、それができなかった。
「書いたものが、自分に似てしまう気がして」と私はようやく言った。「自分に似たものを人に見せるのが、怖い」
莉子はしばらく黙っていた。私は余計なことを言ったかもしれない、と思い始めていた。
「それはたぶん」と莉子は静かに言った。「あなたが自分のことを、見せてはいけないものだと思っているからじゃないですか」
私は何も言わなかった。
「見せてはいけないものなんて、たぶんないと思う」と彼女は続けた。「少なくとも私は、あなたの話し方とか、考え方とか、好きですよ」
好きですよ、という言葉は、恋愛的な意味では使われていなかった。それは分かった。しかし、その言葉が刺さった。好きですよ、と誰かに言われることが、こんなにも痛いとは思っていなかった。受け取り方が分からなかった。そういう言葉を素直に受け取る練習を、私はずっとしてこなかった。
褒められると、すぐに「でも」と言いたくなる。「でも私は本当はこういう人間で」と言いたくなる。その癖を、私は長い間持っていた。しかし莉子の「好きですよ」は、「でも」を言う隙を与えなかった。あまりにも静かに、あまりにも確かに言われたから、反論の言葉が出てこなかった。
店を出たのは十一時を過ぎていた。外は冷えていた。莉子は白い息を吐きながら、「また図書館で」と言って、反対方向に歩いていった。私はしばらくその背中を見ていた。
背中が角を曲がって見えなくなってから、私は歩き始めた。
アパートに帰ってから、私はノートを取り出した。何かを書こうとした。何も書けなかった。ただノートを開いたまま、一時間ほど座っていた。
それでも、ノートを開いた、ということは、その夜初めてのことだった。
年が明けた。
新年を、私は実家で過ごした。両親と、年老いた犬と、特に何もしない三日間だった。テレビを見て、食べて、眠って、また食べた。それは毎年同じで、毎年同じであることに特に不満はなかった。
ただ今年は、東京に帰ることを、少し急いでいた。
なぜ急いでいるのか、自分に問わないようにした。問えば答えが出てくる。答えが出てくれば、認めなければならなくなる。
一月四日に東京に戻った。その日の午後、図書館に行った。正月明けで、まだ人は少なかった。莉子はいなかった。私は二時間ほど本を読んで、帰った。
翌日また行った。莉子はいた。
「明けましておめでとうございます」と莉子は言った。
「おめでとうございます」と私は言った。「いつ戻ったんですか」
「今日の朝」と莉子は言った。「帰省先から直接来ました」
「図書館に?」
「なんとなく」と莉子は言った。少し笑っていた。
私も笑った。なんとなく、という理由を、その日は二人とも深く掘り下げなかった。
一月の中頃から、私たちの間の空気が少しずつ変わった。
変わった、というのは正確ではないかもしれない。もともとそこにあったものが、少しずつ表面に近づいてきた、という感じだった。莉子は相変わらず莉子で、私は相変わらず私だった。ただ、以前よりも沈黙が怖くなくなっていた。
隣に莉子がいて、二人とも本を読んでいる。その沈黙が、かつては少し緊張を含んでいた。何か話さなければ、という焦りがあった。しかし今は違った。黙っていていい、ということが、自然に分かるようになっていた。
黙っていることを許してくれる人間は、思ったより少ない。
たいていの人間との会話には、沈黙を埋めなければならないという暗黙の義務がある。沈黙は気まずくて、気まずさは失礼で、だから何かを言わなければならない。私はその義務感が苦手だった。何かを言いたいわけでもないのに、何かを言い続けなければならない場所が、疲れた。
莉子との沈黙には、その義務感がなかった。
それがなぜなのか、考えたことがある。莉子が黙っていることを苦にしない人間だから、というのが一つ。しかしそれだけではない気がした。莉子と一緒にいると、沈黙の中にも何かがある感じがした。空っぽではなかった。言葉がないだけで、何かが流れていた。
そういう沈黙を、私はそれまで経験したことがなかった。
一月の末に、二人で映画を観た。莉子が観たがっていたフランス映画で、私には少し難解だった。終わってから喫茶店に入って、二人でその映画について話した。莉子の解釈は私のものとまったく違っていて、私は自分が見落としていたものの多さに少し恥ずかしくなった。
「あなたは主人公に感情移入しすぎてる」と莉子は言った。
「してないと思いますが」
「してるんです」と彼女は断言した。「だから主人公が間違えたとき、一緒に間違えてる。もう少し外から見ればいいのに」
「莉子さんは外から見られるんですか」
「舞台に立つと、自分を外から見る癖がつくのかもしれない」と彼女は言った。「自分がどう見えているかを、常に意識しながら演じるから」
私はコーヒーをかき混ぜながら、その言葉について考えた。外から見る、ということ。私にはそれができなかった。いつも内側にいた。内側から自分を眺めて、気に入らないものを見つけて、見ないようにした。外から見れば、また別のものが見えるのかもしれなかった。
「でも外から見続けたら、自分を見失いそうじゃないですか」と私は訊いた。
「見失うくらいの方が、役にはなれる」と莉子は言った。「自分をしっかり持っているうちは、役に完全には入れない」
「それは怖くないですか」
莉子は少し考えた。「怖いです」と言った。「でも怖い方が、面白い気がする」
怖い方が、面白い。
その感覚が、私には新鮮だった。私にとって怖いということは、避けるべきことの合図だった。怖ければ近づかない。怖ければ引き返す。それが私の習慣だった。しかし莉子は怖さを、進む理由にしていた。
「あなたが書いた小説、読んでみたいな」と莉子は不意に言った。
「書いていないと言いましたよ」
「そうでしたね」と彼女は言った。「でも、いつか書くでしょう」
断言だった。私が書く、ということを、彼女は疑っていなかった。私自身はそれを一度も信じたことがなかったのに。
「なぜそう思うんですか」と私は訊いた。
「頭の中に物語がある人間は、いつか書きます」と莉子は言った。「書かずにいられなくなる日が来る」
「来なかったら」
「来ます」と莉子は言った。断言だった。「そういう顔をしてる」
そういう顔、とはどんな顔なのか、私には分からなかった。しかし莉子がそう言うなら、そうなのかもしれないと思った。莉子は人の顔を、私よりもずっとよく見ていた。
二月に入って、私たちは恋人になった。
特別な告白があったわけではない。ある夜、図書館の閉館時間に追い出されて、二人で外を歩いていたとき、莉子が私の手を取った。私は何も言わなかった。莉子も何も言わなかった。ただ、そのまま歩いた。
手をつないで歩く、ということが、あれほど自然な行為だとは思っていなかった。何かを決めたわけでも、何かを誓ったわけでもなかった。ただ彼女の手の温度が私の手に伝わって、それが当たり前のことのように感じられた。
その夜、私は莉子を駅まで送って、改札の前で別れた。莉子は「またね」と言って、改札を通った。私はそれを見届けてから、来た道を引き返した。
歩きながら、自分の手を見た。もう莉子の手はそこにない。しかし温度が、まだ残っているような気がした。残っていない、とは分かっていた。それでも、残っているような気がした。
その夜から、私の中で何かが少しだけ変わった。
正確には——何かが許可された、という感じだった。何が許可されたのかは、うまく言えない。ただ、これまで蓋をしていたものを、全部蓋をしなくていいわけではないが、少し隙間を開けておいてもいい、そういう許可が下りた気がした。
莉子は私の弱い部分に、決して驚かなかった。
ある土曜日の昼、私たちは公園のベンチに並んで座っていた。二月の公園は人が少なかった。枯れた木が並んでいて、空が広かった。鳩が足元を歩いていた。莉子はコーヒーを飲んでいた。私はホットの缶コーヒーを持っていた。
私は珍しく、自分のことを話し始めた。
きっかけは些細なことだった。以前、授業で発表をしたとき、あがってしまってうまく話せなかった話をした。たいしたことではない、誰にでもある経験だ。しかし私にとってはその失敗が、何ヶ月も頭の中に残っていた。
「くだらないですよね」と私は言った。「いつまでも引きずっていて」
「くだらなくないですよ」と莉子は言った。
「でも、大した失敗でもないのに」
「大した失敗かどうかは、その人にとってどれだけ大事だったかで決まると思う」と莉子は言った。「あなたにとっては大事だったんでしょう」
私は少し黙ってから、「人に見られることが怖いんだと思います」と言った。
「人に見られることが、怖い」
「変に思われたくない。失敗した姿を見られたくない。だから何かをやる前から、うまくいかないかもしれないと思って、本気でやらない癖がある」
言いながら、こんなことを話していいのかと思っていた。しかし話し始めたら止まらなかった。
これまで何をやっても中途半端だったこと。努力が報われないのが怖くて、本気で何かに取り組んだことがないこと。自分の中に醜いものがたくさんあって、それを誰かに見られることが恐ろしいこと。
莉子は黙って聞いていた。途中で遮ることも、慰めることも、アドバイスをすることもなかった。ただ聞いていた。
「醜いって、具体的にどういうこと?」と彼女は最後に訊いた。
「嫉妬とか」と私は言った。「すぐ諦めるとか。自分を守るために嘘をつくとか」
「それ、醜くないと思う」と莉子は言った。
「でも」
「醜いのは、それを知らないふりをすることじゃないかな」と彼女は静かに言った。「あなたは知ってるんでしょう。自分のことを」
私は何も言えなかった。
「知ってて、それでも生きてるなら、それは強さだと思う」
強さ、という言葉を、私はこれまで自分に向けて使ったことがなかった。弱さなら、何度でも使っていた。弱さは私の中で最も馴染んだ言葉だった。しかし莉子はその同じ場所を指して、強さと言った。
私はしばらく、その言葉を持て余した。受け取り方が分からなかった。しかし受け取らないでいることも、できなかった。
その日の帰り道、私はひとりでアパートに戻りながら、泣きそうになった。泣かなかった。でも、泣きそうになった、ということは覚えている。なぜ泣きそうになったのかは、うまく説明できない。悲しかったわけではなかった。何か長い間閉じていたものが、少し開いた感じがした。開いた瞬間に、中に溜まっていたものが出てこようとした。それだけのことだったと思う。
春になって、私はノートに文章を書き始めた。
小説というほどのものではなかった。ただ、頭の中にあるものを、言葉にして並べてみた。最初はひどいものだった。文章になっていなかった。感情が先走って、言葉がついてこなかった。書いたものを読み返すと、恥ずかしくて消したくなった。それでも書いた。書くと、少しだけ楽になった。
何が楽になるのか、うまく説明できない。ただ、頭の中にあるものを外に出すと、頭の中が少し空くような感じがした。空いた部分に、また別の何かが入ってくる。それがまた言葉になって、また外に出る。そういう繰り返しが、少しずつ、私の中に何かを作っていった。
莉子に話すと、「見せて」と言われた。
「まだ見せられるようなものじゃない」
「別にうまくなくていいのに」
「うまくないじゃなくて、恥ずかしい」
莉子は少し考えて、「じゃあ、恥ずかしくなくなったら見せて」と言った。「急がなくていいから」
急がなくていい、という言葉は、その頃の私にはとても重要だった。私はいつも、何かに急かされている感じがしていた。もう若くない、もう遅い、もう間に合わない。そういう声が頭の中にあった。その声は、どこから来るのか分からなかった。親から言われたわけでも、誰かに言われたわけでもなかった。気がつけばそこにあった。内側から鳴り続ける、小さなアラームのような声だった。
莉子はその声を黙らせることはできなかったが、その声と別の声を、同じ音量で私の中に置いてくれた。
急がなくていい。
そういう声を、私はそれまで持っていなかった。
莉子と過ごした時間の中で、私が受け取ったもので一番大きかったのは、たぶんその声だったと思う。今の私があるのは、その声のおかげだ。そして今も私は、その声を使っている。
急がなくていい。
今もまだ、その声が私の中にある。
六月の終わりに、莉子が「沖縄に行きたい」と言った。
唐突だった。二人で近所のカフェにいて、莉子はアイスコーヒーのストローを噛みながら、何かを考えている顔をしていた。私は文庫本を読んでいた。その沈黙の中に、莉子の声が落ちてきた。
「沖縄」と私は繰り返した。
「離島がいい」と莉子は言った。「人があまりいないところ」
「暑いですよ」
「夏だから当然じゃないですか」
私は暑いのが苦手だった。子供の頃から、夏が来るたびに身体が重くなった。気温が三十度を超えると、思考まで溶けていく感じがした。しかし莉子が「行きたい」と言ったとき、断ろうとは思わなかった。断る理由を探したが、見つからなかった。見つけようとしていなかったのかもしれない。
「いつ行くんですか」と私は訊いた。
莉子は少し笑って、「じゃあ行くんですね」と言った。
その笑い方が好きだった、と今になって思う。相手の返事から、相手の意図を先に読んでしまう笑い方。私がまだ決めていないうちに、莉子は私の答えを知っていた。それが嬉しかったのか、悔しかったのか、よく分からなかったが、どちらでもよかった。
七月の中頃、私たちは那覇に飛んだ。
飛行機の中で、莉子はずっと窓の外を見ていた。私は通路側の席で、持ってきた本を開いていたが、ほとんど読めなかった。莉子の横顔を時々見ていた。彼女は旅をするとき、いつもより少し無口になった。演じることをやめて、ただ自分として存在している、そういう顔だった。
雲の上を飛んでいると、時間の感覚が変わる。地上の時間とは切り離されて、どこでもない場所に浮かんでいる感じがする。私はその感覚が嫌いではなかった。どこでもない場所にいる間は、東京での自分でなくていい。何者でもない自分でいられる。
那覇で一泊して、翌朝フェリーに乗った。
港に着いた瞬間、熱気が壁のように私を押してきた。日差しが痛かった。アスファルトの照り返しで、目を開けているのが辛かった。莉子は平然としていた。むしろ嬉しそうだった。
「大丈夫ですか」と莉子が訊いた。
「大丈夫じゃないです」と私は正直に答えた。
莉子は笑って、私の腕を引いた。
フェリーの甲板に出ると、風があった。海の色が、本州では見たことのない色をしていた。青というよりも、青と緑の間のどこかにある色。透明度が高くて、遠くの海底まで見えそうだった。私は手すりにもたれて、その色をしばらく眺めた。暑さのことを、少しだけ忘れた。
「きれいですね」と莉子が隣に立って言った。
「きれいですね」と私も言った。
それだけの会話だったが、同じ言葉を同じ景色に向けて言える人間が隣にいる、ということが、その瞬間に妙に胸に響いた。うまく説明できない感覚だった。孤独ではない、という感覚とも少し違った。もっと具体的な何か。この景色を、私はこの人間と見ている。それだけのことが、どういうわけか特別に感じられた。
フェリーが沖に出ると、陸地が遠くなった。後ろを振り返ると、那覇の街が小さくなっていた。前を向くと、海しかなかった。海と空の境界線が、水平線として一本引かれていた。その線の向こうに、島があるはずだった。
莉子は風に髪を揺らしながら、その水平線を見ていた。何かを考えているのか、何も考えていないのか、私には分からなかった。ただそこにいた。風の中に、ただそこにいた。
私はその横顔を、盗み見るように見ていた。
島に着いたのは昼過ぎだった。
小さな島だった。集落があって、民宿があって、あとはほとんど自然だった。観光地として整備されているわけではなく、看板も少なく、人もまばらだった。莉子が事前に調べて選んだ宿は、島の北側にある小さな民宿で、おばあさんが一人で切り盛りしていた。
宿に荷物を置いて、私たちはビーチに向かった。
宿のおばあさんに教えてもらった道を歩いた。舗装されていない細い道が続いていた。両側にガジュマルの木が茂っていて、日差しを遮っていた。葉の隙間から光が落ちて、道の上に複雑な模様を作っていた。莉子はその模様を踏みながら歩いた。子供みたいだった。
「莉子さんは」と私は歩きながら言った。
「何ですか」
「旅をするとき、いつも少し変わりますね」
「変わりますか」
「無口になる」
莉子はしばらく考えた。「演じなくていいから、かもしれない」と彼女は言った。
「普段は演じてるんですか」
「多少は」と莉子は言った。「誰でもそうじゃないですか」
私は何も言わなかった。そうじゃない人間もいる、とは言えなかった。私は普段から演じているのかどうか、自分でも分からなかった。演じている自分と、素の自分の区別が、どこかの時点でつかなくなっていた。
ビーチに出た。
人がいなかった。砂浜が続いていて、波が静かに打ち寄せていた。海の色はフェリーから見たよりもさらに鮮明で、砂の白さと対比して、信じられないほど青かった。
莉子は靴を脱いで、砂浜に裸足で立った。波打ち際まで歩いていって、海水に足を入れた。振り返って「冷たい」と言った。嬉しそうだった。
私も靴を脱いで、砂の上を歩いた。砂は熱かった。
しばらく泳いだ。莉子は泳ぎが上手かった。私はそれほど得意ではなかったが、海の透明度が高いせいで、水の中にいることが怖くなかった。足の下に砂が見えた。小さな魚が通り過ぎた。
ビーチの端まで泳いでいったとき、岩場があった。岩が積み重なって、小さな半島のようになっていた。莉子がその岩場の向こうに何かを見つけた。
「あっちに何かある」と莉子は言った。
「岩じゃないですか」
「違う。洞窟みたいなもの」
私は莉子の指さす方向を見た。岩の陰に、確かに暗い開口部があった。
岩場を越えると、洞窟の入り口があった。
大きくはなかった。大人が腰を少し曲げて入れるくらいの高さで、横幅は二人並べば埋まる程度だった。入り口から見ると、中は暗かったが、奥に向かって光が差し込んでいるのが見えた。
「入ってみましょう」と莉子は言った。
「何があるか分からないですよ」
「だから入るんじゃないですか」
莉子は先に入っていった。私は少し躊躇って、後に続いた。
洞窟の中は、外よりも涼しかった。岩の表面が湿っていて、足元が滑りそうだった。頭上から、細い光の束が落ちていた。天井に割れ目があるのかもしれなかった。その光の中に、小さな虫が舞っていた。
奥に進むと、空間が少し広がった。天井が高くなって、立って歩けるようになった。
そこに、祠があった。
石を積み上げて作った、小さな祠だった。高さは膝ほどで、幅は両手を広げたくらい。その前に、錆びた香炉が置いてあった。香炉の中に、誰かが最近線香を立てた痕跡があった。灰がまだ崩れていなかった。
莉子はしゃがんで、祠を眺めた。
「何の祠だろう」と彼女は言った。
「分からないですね」と私は言った。
洞窟の空気は外とは違った。潮の香りがしながら、何か別の匂いも混じっていた。土の匂いとも違う、岩の匂いとも違う、うまく言葉にならない匂いだった。静かだった。波の音が遠くに聞こえた。洞窟の外の世界が、遠くに感じられた。
莉子が手を合わせた。
自然な動作だった。躊躇いがなかった。旅先で祠を見つけて手を合わせる、それだけのことだったかもしれない。しかし莉子が目を閉じたとき、その顔は公演のときに似た、何かを隠していない顔をしていた。
私も手を合わせた。
目を閉じると、洞窟の静けさがより深く感じられた。何かを願わなければならない気がした。旅先の祠で手を合わせるなら、何かを願うべきだ。私は何を願うか、しばらく考えた。
莉子のそばにいたい、という言葉が浮かんだ。
しかし私はその言葉を、心の奥に押し込んだ。そういうことを願うのは、みっともない気がした。そういうことを神に頼むのは、弱い人間のすることだと思った。あるいは——今になって思えば——そういうことを願えば、それが本当に叶わなかったとき、傷が深くなる。願わなければ、失っても、最初から望んでいなかったことになる。
私は作家になることを願った。
いつか小説を書いて、それが認められるようになりたい。それだけを願った。
手を下ろして、目を開けた。莉子はまだ目を閉じていた。その横顔を見ながら、私は彼女が何を願っているのか、考えた。女優になること、かもしれない。あるいは、私には想像もできない何かかもしれない。
莉子が目を開けた。
「何を願ったんですか」と私は訊いた。
莉子は少し考えて、「秘密」と言った。
笑っていなかった。
その一言が、洞窟の静けさの中に落ちた。私はそれ以上訊かなかった。訊けなかった。莉子の「秘密」という言葉には、それ以上踏み込ませない何かがあった。
洞窟を出ると、日差しがまた戻ってきた。
来た道を戻りながら、私たちはあまり話さなかった。莉子は何かを考えている顔をしていた。私も何かを考えていた。違うことを考えていたと思う。
宿への帰り道、集落の中を歩いていると、前から老婆が歩いてきた。小さな体で、杖をついていた。莉子が軽く会釈すると、老婆は立ち止まった。
「どこから来たね」と老婆は言った。島の訛りがあった。
「東京です」と莉子が答えた。
「観光か」
「はい」
老婆はそれから私の顔を見て、「ビーチに行ったか」と訊いた。
「行きました」
「洞窟も」
私は少し驚いた。「行きました」と答えた。
老婆は小さく頷いた。「あそこは滅多に出会えない場所だよ」と言った。「地元の人間でも、知らない人間が多い」
「どういう場所なんですか」と莉子が訊いた。
老婆はしばらく沈黙した。杖の先で地面をつついた。
「願いを叶えてくれる場所と言われとる」と老婆は言った。「昔からそう言い伝えられとる」
「本当に叶うんですか」と私は訊いた。
老婆は私を見た。皺の多い目で、まっすぐ見た。
「叶うよ」と老婆は言った。「ただ、一つだけ」
「一つだけ」
「一度だけしか、叶えてくれない」老婆の声は静かだった。「そして」
老婆はそこで少し間を置いた。
「願ったこと以外の幸せは、何も得られないとも言われとる」
私は笑おうとした。そういう話は、観光地によくある言い伝えだ。気の利いた民話だ。そう思おうとした。
しかし笑えなかった。
老婆は私の顔を見たまま、何も言わなかった。莉子も何も言わなかった。集落の中を、猫が一匹横切った。
「気をつけて帰りなさい」と老婆は言って、また歩き始めた。
私たちはしばらくそこに立っていた。
「怖い話ですね」と莉子がようやく言った。
「そうですね」と私は答えた。
それ以上、その話はしなかった。
宿に帰って、夕食を食べた。宿のおばあさんが作った料理で、海のものが多かった。莉子は美味しそうに食べた。私も食べた。外が暗くなってから、縁側に出て、二人で海を眺めた。星が多かった。本州では見たことのない密度で、空に星が散っていた。
「いい場所ですね」と莉子は言った。
「そうですね」と私は言った。
莉子の肩に、私の肩が触れていた。莉子は動かなかった。私も動かなかった。
波の音だけがしていた。
私はあの洞窟のことを考えていた。手を合わせた瞬間に浮かんで、しかし押し込んだ言葉のことを考えていた。莉子のそばにいたい。なぜそれを願わなかったのか。なぜそれを神に願うことを、弱いと思ったのか。
弱い、ということの意味が、その夜は少し違って感じられた。弱いとは何か。弱さを見せることが弱さなのか。それとも弱さを隠し続けることが弱さなのか。莉子は「知ってて、それでも生きてるなら、それは強さだと思う」と言った。ならば願うことも、強さになりうるのかもしれなかった。願えることが、強さなのかもしれなかった。
答えは出なかった。
莉子が「眠い」と言って、立ち上がった。私も立ち上がった。部屋に戻る前に、莉子は一度だけ振り返って海を見た。それから部屋に入った。
私は少しだけ縁側に残って、暗い海を眺めた。
老婆の言葉が、耳の中でまだ鳴っていた。
願ったこと以外の幸せは、何も得られない。
私はその言葉を、その夜はまだ、ただの言い伝えとして聞いていた。
三月は、終わりの匂いがする月だ。
桜が咲く前の、まだ空気が冷たい時期。街のあちこちで荷物を抱えた人間が動いていて、どこかに向かう人間と、どこかを離れる人間が、同じ道を反対方向に歩いている。私はその季節が昔から好きではなかった。何かが終わることへの予感が、空気そのものに染み込んでいる気がして、息をするたびにそれを吸い込む感じがした。
四年生の三月は、特にそうだった。
就職先は決まっていた。都内の中堅出版社で、編集の仕事をすることになっていた。文学部出身者が就く仕事として、それほど不自然ではなかった。しかし私がその会社を選んだ本当の理由は、本が好きだからでも、編集という仕事に興味があったからでもなかった。出版社にいれば、小説に近い場所にいられる。それだけだった。小説を書くつもりがあるのかどうかも分からないまま、ただその場所を選んだ。
莉子は、卒業後も演劇を続けることを決めていた。小さな劇団に所属が決まっていた。給料が出るわけではなかったから、アルバイトをしながら舞台に立つことになると言っていた。不安定だった。しかし莉子はそのことを、不安定だとは思っていないようだった。それが当然の道だと思っている顔をしていた。
私はその顔を見るたびに、胸の中で何かが動いた。羨ましいのか、怖いのか、あるいはその両方なのか、うまく分けられなかった。
羨ましいのは、進む方向を迷わない人間への羨望だった。怖いのは——今になって考えると——莉子がどんどん先に進んでいく、ということへの怖さだったのかもしれない。莉子が進めば進むほど、私との距離が開いていく。追いつこうとすれば、自分も本気で何かを選ばなければならなくなる。それが怖かった。
卒業式の二週間前、莉子と会った。
いつもの喫茶店だった。莉子はコーヒーを頼んで、私は紅茶を頼んだ。窓の外に、まだ葉のない木が見えた。
最初はいつもと同じように話していた。近況を話して、読んだ本の話をして、くだらない冗談を言い合った。莉子はよく笑った。私も笑った。
しかし、その日の空気には、最初から何かが混じっていた。言葉の隙間に、言われていない何かが挟まっていた。私はそれを感じながら、気づかないふりをしていた。
コーヒーが半分ほど減った頃、莉子が窓の外を見た。
「卒業したら、どうなるんでしょうね」と莉子は言った。
私は紅茶のカップを持ったまま、莉子の顔を見た。横顔だった。
「どう、というのは」
「私たちが」と莉子は言った。窓から目を離さずに。「これまでと同じようにはいかないでしょう」
「なぜですか」
莉子はようやくこちらを向いた。
「あなたは会社に入る。私は劇団に入る。生活のリズムが変わる。住む場所が変わるかもしれない。今みたいに、ふらっと会える距離じゃなくなるかもしれない」
私は何も言わなかった。
莉子の言っていることは正しかった。環境が変われば、会う頻度は減る。それは当然のことだった。しかし莉子が言いたいのは、そういうことではない気がした。会う頻度の話をしているのではなかった。
「続けたい、という気持ちはありますか」と莉子は言った。
その質問は、私の予想よりも直接的だった。
続けたい。当然ではないか、と思った。当然だ。私は莉子といたい。それは自明のことだ。なぜそんなことを訊くのか。
しかし私の口から出てきたのは、「莉子さんは?」という言葉だった。
質問を質問で返した。自分でも気づいていた。気づいていながら、止められなかった。莉子が「続けたい」と言えば、私も「続けたい」と言える。莉子が何か別のことを言えば、私はそれに合わせられる。自分から先に答えることを、避けた。
莉子は少しの間、私を見ていた。
何かを見ていた。私の顔の、どこか奥の方を。
「私は」と莉子は言った。そこで止まった。
窓の外で、風が木の枝を揺らした。
「私は、あなたのことが好きです」と莉子は言った。「それは変わらない。でも」
でも、という言葉の後に、また間があった。
「一緒にいるためには、お互いがそれを選ばないといけない。私だけが選んでも、あなたが選ばなければ、一緒にはいられない」
「選んでいますよ」と私は言った。
「本当に?」
莉子の声は責めていなかった。ただ、静かに訊いていた。
本当に?
私はその問いに、答えようとした。答えは出てくるはずだった。当たり前に出てくるはずだった。しかし言葉が、喉のどこかで止まった。
なぜ止まったのか。
今になって考えると、分かる。私は莉子を選ぶことが怖かった。選べば、全力で選んだことになる。全力で選んで、それでも失ったとき、言い訳ができなくなる。本気でなければ、負けても本気ではなかったからだと言える。本気であれば、負けたとき、それは純粋な敗北になる。
私は人生において、純粋な敗北を一度も経験したことがなかった。それはつまり、純粋な意味で何かに本気になったことが一度もなかった、ということだ。
莉子のことは好きだった。それは本当だった。しかし好きであることと、選ぶことの間には、私にとって越えられない何かがあった。
「選んでいます」と私はもう一度言った。
莉子は私を見ていた。
私の言葉を聞いて、莉子は小さく頷いた。しかしその目が、私の言葉を信じているとは思えなかった。信じたかったのかもしれない。信じようとしていたのかもしれない。
その日の会話は、それ以上その話題に戻らなかった。
別の話をした。笑った。喫茶店を出て、しばらく並んで歩いた。莉子の手が私の手に触れた。私はその手を握った。
駅で別れるとき、莉子は「またね」と言った。
またね。
その言葉は、さよならと同じ音をしていた。後から思えば、そうだった。しかしそのときの私は、またねをまたねとして受け取った。また会える、という意味で受け取った。そうしておけば、何も決めなくていいから。
卒業式は晴れた日だった。
式の後、莉子と会った。キャンパスの中庭で、桜がちょうど咲き始めていた。莉子は袴を着ていた。私はスーツだった。写真を撮った。笑った。
それが最後だった。
最後、という意識はその場ではなかった。あったのかもしれないが、認めていなかった。莉子は「また連絡するね」と言った。私は「うん」と言った。
しかし連絡はこなかった。私からもしなかった。
一週間が経った。二週間が経った。私は何度か、莉子の名前をスマートフォンの画面に出した。何も送らずに、画面を閉じた。
なぜ送れなかったのか。
怖かったからだ。送って、返信がこなかったとき。あるいは、そっけない返信がきたとき。それが怖かった。しかし本当に怖かったのは、たぶん別のことだった。
連絡すれば、続きが始まる。続きが始まれば、また選ばなければならない瞬間が来る。喫茶店でできなかったことを、またできないかもしれない。それが怖かった。
一ヶ月が経った。
一ヶ月経ってから連絡するのは、もう遅い気がした。遅い、という感覚は、事実ではなかったかもしれない。一ヶ月ごときで遅いわけがない。しかし私はその感覚を理由にした。もう遅い。だから連絡しない。連絡しないことを、タイミングのせいにした。
三ヶ月が経った。
三ヶ月経ってから連絡するのは、さすがに不自然だった。これは事実だったかもしれない。しかし私はその三ヶ月を、自分で作り出していた。連絡しない日を積み重ねて、連絡できない距離を自分で広げていた。
気づいていた。
気づいていながら、やめられなかった。
会社に入ってからの二年間は、奇妙なほど仕事に集中した。
編集の仕事は、想像していたよりも地味で、想像していたよりも面白かった。人の書いた文章を読んで、どこが良くてどこが悪いかを考える。それは私が得意なことだった。少なくとも、得意に感じられた。
人の文章を読んでいると、その人間が何を隠しているかが分かることがある。言葉の選び方に、文章の構造に、隠したいものの影が落ちている。私はそれを見つけることが得意だった。他人の文章の中に隠されたものを見つけながら、自分の文章には何も書かなかった。書けなかった、のではない。書かなかった。自分のものを晒すことと、他人のものを読むことは、まったく別の行為だった。
しかし夜、アパートに帰ると、ノートを開いた。
莉子のことを書いた。莉子との会話を書いた。図書館のことを書いた。洞窟のことを書いた。別れの日のことを書いた。書くたびに、自分がどこで間違えたのかが少しずつ見えてくる気がした。見えてきて、しかしどうしようもなかった。
書いた文章は小説ではなかった。日記でもなかった。ただの記録だった。しかし書くことで、私の中の何かが少しずつ整理されていった。整理、というよりも、沈殿、という方が正しいかもしれない。濁っていたものが下に落ちて、上澄みだけが残る。その上澄みを使って、私は初めて小説らしいものを書き始めた。
会社に入って一年半が過ぎた頃、私は一本の小説を書き上げた。
莉子とは直接関係のない話だった。しかしその小説の中に、私が莉子から受け取ったもの、莉子に言えなかったこと、莉子の前でできなかったことが、形を変えて入っていた。書いた本人には分かった。他の人間に分かるかどうかは、知らなかった。
新人賞に応募した。
結果が出るまでの数ヶ月、私は何も考えないようにしていた。考えると、落ちたときのことを想像してしまうからだった。落ちれば、また何かのせいにしなければならなくなる。そうしたくなかった。
受賞の連絡が来たのは、秋の夕方だった。
編集部から帰る途中、スマートフォンが鳴った。知らない番号だった。出ると、出版社の担当者だった。受賞です、という言葉を聞いて、私は路上で立ち止まった。周りで人が歩いていた。信号が青になった。私だけが動けなかった。
嬉しかった。それは本当だった。
しかし嬉しさの中に、別の感情が混じっていた。
莉子に知らせたい、という気持ちが、最初に来た。
その気持ちを、私はすぐに押し込んだ。もう遅い。もう遅すぎる。連絡できない距離は、もうどうにもならないほど広がっていた。そう思うことにした。
しかし本当のことを言えば、怖かったのだ。連絡して、莉子がすでに別の誰かといたら。連絡して、莉子が「おめでとう」とだけ言って、それで終わったら。その怖さの前に、私はまた立ち止まった。いつものことだった。
それから七年が経った。
七冊の本を出した。大きなヒットはなかったが、それなりに読まれた。文芸誌に名前が載るようになった。インタビューを受けるようになった。書評が出るようになった。
しかし書くたびに、同じ感覚があった。
自分の本当のことを、一行も書いていない。
登場人物たちは動いて、喋って、泣いて、笑った。しかし彼らは私ではなかった。私に似ているようで、決定的な部分で私ではなかった。私は彼らに、自分が言えなかったことを言わせなかった。自分がしなかったことをさせなかった。彼らは私と同じように、安全な場所に留まったまま、物語の中を生きていた。
それに気づいたのは、ずっと前だった。
気づいていながら、変えられなかった。変えるためには、まず自分が変わらなければならない。しかし私はどうやって変わればいいのかを知らなかった。知ろうとしていなかった、のかもしれない。
深夜のリビングで、私はテレビの消えた画面を眺めていた。
莉子の顔が、まだそこに残っている気がした。テレビの黒い画面に、莉子の微笑みの残像が薄く映っている気がした。もちろん気がするだけで、そこには何もなかった。私の目が勝手に作り出しているものだった。
私はウイスキーのボトルをテーブルに戻して、立ち上がった。
洗面台で顔を洗った。鏡の中の自分を見た。三十二歳の、それなりに疲れた顔の男がいた。この男は七冊の本を書いた。この男は一度も本当のことを書いたことがない。この男は大事なものを自分で手放しておいて、それを何かのせいにして生きてきた。
老婆の言葉が浮かんだ。
願ったこと以外の幸せは、何も得られない。
私は鏡の中の自分を見ながら、その言葉の意味を考えた。七年間、折に触れてこの言葉を思い出してきた。そしてそのたびに、私はこう解釈してきた。あの祠のせいだ。あのとき作家になることを願ったから、それ以外の幸せを失った。だから莉子を失った。だから私は今、ここにいる。
その解釈は、私にとって都合が良かった。
都合が良かった、ということに、今夜初めて気づいた。
莉子をテレビで見るまで、気づかなかったわけではない。気づかないふりをしていた。しかし莉子の顔を見た瞬間に、何かが崩れた。長い間かけて丁寧に積み上げてきたものが、その顔一つで崩れた。
本当のことは、こうだ。
私は莉子を失ったのではない。私が莉子を手放した。喫茶店で、莉子が「選んでいますか」と訊いたとき。私は選べなかった。選ばなかった。そしてその後、連絡することを選ばなかった。距離を縮めることを選ばなかった。
祠は関係ない。
老婆の言い伝えは関係ない。
全部、私がそうした。
鏡の中の男が、私を見ていた。私もその男を見ていた。しばらくの間、二人はそこで向き合っていた。
それから私は洗面台の電気を消して、寝室に向かった。
しかしベッドに横になっても、眠れなかった。
天井を見ながら、私はあの洞窟のことを考えていた。あの静けさを。あの、土とも岩とも違う匂いを。莉子が目を閉じていたときの横顔を。
もう一度行けば、と思った。
馬鹿げた考えだと分かっていた。祠が本当に願いを叶えてくれると信じているわけではなかった。しかし行きたかった。あの場所に戻りたかった。理由を言葉にするのは難しかった。ただ、あそこに行かなければならない気がした。
翌朝、私は航空券を調べた。
那覇行きの飛行機は、午前十時に羽田を発った。
梅雨の晴れ間だった。雲が少なく、離陸してしばらくすると、眼下に海が広がった。私は窓側の席を取っていたが、景色を見る気になれず、シートのポケットから雑誌を取り出してぼんやり眺めていた。読んではいなかった。文字が目の上を滑っていくだけだった。
隣に誰かが座った。中年の男で、すぐに眠り始めた。その寝息を聞きながら、私は自分が今何をしているのかを、改めて考えた。
沖縄に行く。離島に渡る。あの洞窟に行く。
それで、どうする。
答えは出ていなかった。出ていないまま、航空券を買って、スーツケースに荷物を詰めて、タクシーに乗って、空港に来た。考える前に体が動いていた。いや、正確には、考えると動けなくなるから、考えることを後回しにしていた。それはいつもの私のやり方だった。
しかし飛行機の中では、考えるしかすることがなかった。
私はあの祠に何を願うつもりなのか。
莉子と結ばれることを願う。そう思っていた。しかし今こうして座って考えると、その言葉の形がぼんやりしてくる。莉子と結ばれる、とはどういうことか。七年ぶりに連絡して、会って、かつての関係を取り戻す。それが願いの内容か。
そうだとして、それを祠に願えば叶う。老婆の言い伝えが本当なら、叶う。
しかしそのとき、作家であることは失われる。老婆はそう言っていた。一つしか叶えてくれない。願ったこと以外の幸せは得られない。つまり、今度は莉子を選べば、作家でいられなくなる。
私はしばらく、その論理の中にいた。
それからある瞬間に、気づいた。
おかしい。
何かがおかしい。
莉子を失ったのは、祠が作家になることを叶えたからではない。それは昨夜、鏡の前で気づいたことだ。私が手放したのだ。連絡することを選ばなかった。距離を縮めることを選ばなかった。それが理由だ。
だとすれば、今回も同じではないか。
祠に願えば、莉子と結ばれる。しかしそれは、私が選んだことになるのか。祠が叶えてくれたことになる。私が選んだのではなく、何かの力が結び付けてくれたことになる。
それは本当に、欲しいものか。
雑誌をシートのポケットに戻した。窓の外を見た。雲の上を飛んでいた。雲が白く輝いていた。その白さが、何も答えてくれなかった。
眠れなかった。眠ろうとしなかった。
飛行機の中で、私は七年間のことを順番に思い出した。
莉子がいた。莉子は私を見ていた。莉子は私の弱さを見て、それを強さと言った。莉子は私に、急がなくていいと言った。莉子は私の手を取った。莉子は私に訊いた。本当に選んでいますか、と。
私は選ばなかった。
それが全部だった。祠でも老婆でもなく、私が選ばなかった。その事実だけが、雲の上の飛行機の中で、はっきりと見えていた。
那覇の空港に降り立つと、熱気が来た。
七年前と同じだった。壁のような熱気。目が痛くなるような日差し。私は空港の外に出た瞬間に顔をしかめて、それから苦笑した。この感覚だけは変わらない。私が暑さを嫌いなことも、南の島が私の体に合わないことも、七年経っても変わらない。
那覇には泊まらなかった。フェリーの時間に合わせて、港に向かった。
港で待っている間、私は売店でペットボトルの水を買って、ベンチに座った。水を飲みながら、行き交う人間を眺めた。観光客と、島の住民と、働いている人間が混じっていた。それぞれの目的を持って、それぞれの方向に動いていた。
私はここに何をしに来たのか。
その問いは、飛行機の中からずっと続いていた。答えが出ないまま、フェリーの時間が来た。
フェリーは、七年前に乗ったものよりも小さかった。
島への便は便数が少なく、乗客も多くなかった。私は甲板に出た。風があった。海の色が、記憶の中の色と同じだった。青と緑の間の、名前のない色。
私はその色を見ながら、七年前のことを考えていた。莉子と並んでこの色を見た。同じ言葉を言った。きれいですね、ときれいですね。その言葉の単純さが、今になって胸に刺さった。あんなに単純なことが、なぜこんなに遠くなったのか。
単純なことが遠くなるのは、複雑にしようとするからだ。私は何事も複雑にした。単純な感情に、いくつもの条件をつけた。好きだ、でも失うのが怖い。いたい、でも選ぶのが怖い。伝えたい、でも拒絶されるのが怖い。条件をつけるたびに、単純なものが遠ざかった。
フェリーが進むにつれて、島の輪郭が見えてきた。
記憶の中の島と、同じ形をしていた。
当たり前のことだが、その当たり前が妙に感慨深かった。七年経っても、島は同じ形をしている。私だけが変わった。いや、変わったのかどうかも分からなかった。変わったような気がしながら、本当に変わったのかどうか、確かめる方法を持たなかった。
島に着いたのは昼過ぎだった。
七年前に泊まった民宿は、まだあった。おばあさんが出てきた。顔を見ても、七年前のことは覚えていないだろうと思っていた。しかしおばあさんは私の顔を見て、「また来たね」と言った。
私は少し驚いた。「覚えていましたか」
「忘れるわけないさ」とおばあさんは言った。「あのとき一緒にいた子、今テレビに出てるね」
胸の中で何かが動いた。莉子のことを、ここでも知っている人間がいた。莉子はここにも届いていた。
「そうですね」と私は言った。
「あなた一人?」
「一人です」
おばあさんは何も言わずに、部屋に案内してくれた。
部屋は七年前と同じ部屋だった。窓から海が見えた。七年前にも、この窓から海を見た。莉子と並んで見た。今は一人だった。同じ海が、同じように光っていた。
荷物を置いて、私はすぐにビーチへ向かった。
七年前に歩いた道を歩いた。ガジュマルの木が茂った細い道。葉の隙間から光が落ちて、道の上に複雑な模様を作っていた。七年前に莉子がその模様を踏んで歩いていた。子供みたいだった。
私は模様を踏まなかった。
踏まなかった理由は分からない。踏みたくなかったのか、踏む気になれなかったのか。あるいは、莉子がいないのに踏むことが、何か違う気がしたのか。
暑かった。汗が流れた。それでも歩いた。この道を歩かなければならない気がした。どこかに急いでいるわけでも、誰かを追いかけているわけでもなかった。ただ歩いた。
木々が切れると、急に空が広くなった。
ビーチが見えた。
七年前と同じ砂浜が続いていた。波が静かに打ち寄せていた。人はいなかった。
私は砂浜に足を踏み入れた。砂が熱かった。靴越しにも熱さが伝わってきた。波打ち際まで歩いていって、立ち止まった。海を見た。
水の色が、相変わらず名前のない色をしていた。
私はしばらくそこに立っていた。波が来て、引いて、また来た。その繰り返しを眺めながら、私は自分がここに来た理由を考え続けていた。
祠に願いに来た。
しかし何を願うのか。
莉子と結ばれることを願っても、それは私が選んだことにならない。作家であることを捨てて莉子を選ぶことを願っても、それは祠が叶えてくれることであって、私が選んだことではない。どちらを願っても、それは私の選択ではなく、何かに委ねることになる。
私はずっと、何かに委ねてきた。
莉子に最初に会ったときから。図書館で本を譲ったとき、それは計算だったが、計算だと認めなかった。莉子が手を取ったとき、私から手を取らなかった。莉子が「選んでいますか」と訊いたとき、質問を質問で返した。連絡しなかった。距離を自分で広げた。そして全部を、祠の言い伝えのせいにした。
波が来た。
今度は少し大きな波で、靴の先を濡らした。私は後ろに下がらなかった。濡れるままにした。
そのとき、ビーチの端に人影が見えた。
岩場の近く。洞窟のある方角。一人の女性が、海を見て立っていた。
距離があった。顔は見えなかった。後ろ姿だけが見えた。
私の心臓が、一度だけ大きく打った。
莉子だ、と思った。
思った瞬間に、違うかもしれないと思った。七年前に見た莉子と、今テレビで見た莉子は、同じ人間でありながら少し違う人間だった。あの女性がどちらに近いのか、この距離からは分からなかった。
髪の長さが、莉子に似ていた。立ち方が、莉子に似ていた。海を見る角度が、莉子に似ていた。
私の足が、動こうとした。
駆け出せば、すぐに分かる。あの女性のところまで行けば、莉子かどうか分かる。莉子であれば、七年ぶりに顔を見られる。声を聞ける。
しかし私は動かなかった。
なぜ動かなかったのか。
動きかけた足が止まった瞬間に、私の中で何かが起きていた。言葉にするのは難しい。しかし確かに何かが起きていた。
あの女性が莉子であっても、莉子でなくても、私が今ここでしなければならないことは、あそこに駆けていくことではない、という感覚だった。
あそこに駆けていけば、また委ねることになる。偶然に委ねることになる。運命に委ねることになる。祠に願うのと、構造が変わらない。
私が七年間できなかったことは、自分で選ぶことだった。
莉子に連絡する、という選択を、自分でする。会いたいと言う、という選択を、自分でする。あのとき喫茶店で言えなかった言葉を、言う、という選択を、自分でする。それらを、何かに委ねるのではなく、私が選ぶ。
たとえ拒絶されても。
たとえ遅すぎても。
たとえ、もう取り返しがつかなくても。
それでも、選ぶことと、選ばないことは、違う。
波が来た。また靴を濡らした。私は動かなかった。ビーチの端の女性は、まだそこにいた。海を見ていた。
私はその女性を見ながら、スマートフォンを取り出した。
莉子の名前を探した。七年間、消さずにいた連絡先が、そこにあった。
消さずにいた、ということに、その瞬間初めて気づいた。七年間、一度も連絡しなかったのに、消さなかった。なぜ消さなかったのか。消せなかったのかもしれない。消せば、本当に終わる気がしたのかもしれない。
私は画面を見た。
これまでに何度、この名前を画面に出して、何も送らずに閉じただろうか。数えたことはなかったが、多かったと思う。そのたびに、何かのせいにして閉じた。タイミングが悪い。今は忙しい。もう遅すぎる。祠のせいだ。
今日は、何のせいにもできなかった。
言い訳を全部使い切っていた。
私は文章を書いた。長くなかった。長くする必要はなかった。七年分の言葉を全部詰め込もうとすれば、また書けなくなる。それは分かっていた。だから短くした。
莉子さん。突然ごめんなさい。会えますか。話したいことがあります。
送信する前に、もう一度読んだ。
みっともなかった。七年ぶりに送る言葉として、みっともなかった。しかしみっともないことを恐れて送らないのは、これまでと同じだった。
送った。
スマートフォンをポケットに入れた。
ビーチの端の女性は、まだそこにいた。波が来るたびに、髪が少し揺れた。顔は見えなかった。私はもう、その女性が莉子かどうかを確かめようとしなかった。
確かめなくていい、と思った。
莉子かもしれない。莉子ではないかもしれない。しかしそれは、もう今この瞬間に決めなくていいことだった。私がしなければならないことは、もうした。
波が来た。今度は大きな波で、足首まで濡れた。私はそれでも動かなかった。冷たかった。七月の沖縄の海は、思ったより冷たかった。あるいは、私が思っていたよりも、まだ自分の中に冷えたものが残っていたのかもしれない。
ビーチの端の女性が、動いた。
岩場の方に向かって、歩き始めた。洞窟の方向だった。その背中が、少しずつ小さくなっていった。
私は見送った。
追いかけなかった。
宿に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
おばあさんが夕食を出してくれた。七年前と同じように、海のものが多かった。私は食べながら、スマートフォンを確認した。返信はなかった。当然かもしれなかった。今日送って、今日返ってくるとは限らない。今週返ってくるとも限らない。返ってこないかもしれない。
それでも、送った。それは変わらなかった。
食事を終えて、縁側に出た。七年前に莉子と並んで座った場所だった。あの夜は星が多かった。今夜も星が出ていたが、あの夜ほどではなかった。雲がいくらかあった。
私はそこに座って、暗い海を眺めた。
波の音だけがしていた。
ポケットからスマートフォンを出して、メモのアプリを開いた。何かを書こうとしていた。何を書くのかは決まっていなかった。ただ、書きたかった。
指を動かした。
最初の一文を書いた。
消した。
また書いた。
今度は消さなかった。
それがどんな一文だったかは、ここには書かない。しかしそれは、これまでに私が書いてきたどの一文とも違っていた。登場人物の言葉ではなかった。物語の設定でもなかった。私の言葉だった。私が七年間、書けなかった言葉だった。
みっともなかった。
正確には、みっともないかどうかを、考えなかった。考える前に書いた。考えれば止まることが分かっていたから、考えなかった。
波の音が続いていた。
私は書き続けた。
スマートフォンの画面が暗くなるたびに、タップして明るくして、また書いた。どれくらいの時間が経ったか分からなかった。背中が少し冷えてきた頃、ふと手を止めた。
返信の通知が来ていた。
私はしばらく、その通知を見ていた。開くのが怖かった。開けば、何かが決まる。開かなければ、まだ何も決まっていないままでいられる。
しかし今夜の私は、開かないことを選ばなかった。
通知をタップした。
莉子からの返信は、短かった。
びっくりした。話、聞きます。
それだけだった。
私はその文章を、何度か読んだ。びっくりした。話、聞きます。感情の色は分からなかった。嬉しいのか、迷惑なのか、懐かしいのか、怒っているのか。その短い文章からは読み取れなかった。
しかし、返信が来た。
それだけのことが、今の私には十分だった。十分以上だった。
私は返信を書いた。今度も短くした。
ありがとう。また連絡します。
送って、スマートフォンをポケットに入れた。
海を見た。
暗くて、何も見えなかった。波の音だけがした。星が雲の切れ間から見えた。多くはなかったが、確かにそこにあった。
私はメモのアプリを、また開いた。
書きかけの文章が、そこにあった。
続きを書いた。
どこに向かっているのかは、まだ分からなかった。終わりがどこにあるのかも、分からなかった。しかし書いていた。書き続けていた。
これが何になるのかは、分からない。
小説になるかもしれない。ならないかもしれない。莉子に読んでもらえるかもしれない。読んでもらえないかもしれない。莉子と会えるかもしれない。会えないかもしれない。
しかし今夜、私は初めて、本当のことを書こうとしていた。
それは確かなことだった。
波が来て、引いた。また来た。その繰り返しが、夜の中で続いていた。私は縁側に座ったまま、背中が冷えるのを感じながら、書き続けた。
あの洞窟には、結局行かなかった。
行く必要がなかった。
願いを叶えてくれるものが、あそこにあるとは限らなかった。しかし今夜、私は初めて、自分で何かを選んだ。それは祠には頼めないことだった。祠に頼めば、私が選んだことにならないから。
選んだことの結果は、まだ分からない。
それでいいと思った。
分からないまま選ぶことが、選ぶということなのかもしれなかった。
波の音が、続いていた。
三週間後、私は莉子と会った。
場所は東京の、どこでもない喫茶店だった。待ち合わせをして、先に着いて、窓際の席で待った。
五分、十分と過ぎた。莉子が来るかどうか、実はまだ確信が持てなかった。「話、聞きます」とは言ったが、来ない可能性もあった。来なかった場合にどうするか、考えていなかった。考えないようにしていた。
莉子が来た。
七年分、変わっていた。しかし同じだった。歩き方が同じだった。視線の落とし方が同じだった。席に着いて、メニューを見る角度が同じだった。
変わっていたのは、たたずまいだった。何かを身につけた人間の、静かな重さのようなものがあった。それは莉子がこの七年間、舞台の上で積み重ねてきたものだろうと思った。
コーヒーを頼んだ。私は紅茶を頼んだ。
最初は、ぎこちなかった。七年の空白は、最初の数分に重くのしかかった。私は何から話せばいいか分からなかった。莉子も同じだったと思う。
窓の外を、車が通った。人が歩いた。東京の日常が、何事もないように流れていた。
しかし莉子が、「島に行ったの?」と言った。
私は少し驚いた。「なぜ分かるんですか」
「なんとなく」と莉子は言った。「あの島で書いたような文章だったから」
私が送ったメッセージのことを言っていた。短い文章を、莉子はそこまで読んでいた。
「行きました」と私は言った。
「祠は?」
「行かなかった」
莉子は少し間を置いた。「そう」と言った。
その一言に、何かが含まれていた気がしたが、何かは分からなかった。
「莉子さんは」と私は訊いた。「あのとき、何を願ったんですか」
莉子はコーヒーカップを持ったまま、少し考えた。窓の外を一度見て、また私を見た。
「女優になることを願った」と莉子は言った。
「そうですか」
「あなたと同じだよ」と莉子は静かに言った。「私も、本当に願いたいことを、願わなかった」
私は何も言えなかった。
本当に願いたいことを、願わなかった。莉子も、あの洞窟で、私と同じことをしていた。莉子も、何かを押し込んでいた。
莉子は微笑んだ。テレビで見た微笑みとは違う、もう少し小さな、もう少し本物の微笑みだった。
「遅かったけど」と莉子は言った。
「遅かったですね」と私は言った。
「でも」
「でも」
二人で同じ言葉を言って、少し笑った。続きは言わなかった。言わなくても分かった。あるいは、言葉にしない方がいいこともある、ということを、二人ともいつの間にか知っていた。
コーヒーが来た。紅茶が来た。
私たちは飲んだ。話した。七年分の話をするには、一日では足りなかった。しかしその日は、一日あった。
話しながら、私は莉子の話し方が変わっていないことに気づいた。考えてから話す。急がない。言葉を選ぶ。それは図書館で初めて話したときから同じだった。七年経っても、それは変わっていなかった。
変わったのは、私だったかもしれない。
七年前の私は、自分のことを話せなかった。莉子に訊かれても、質問を質問で返した。しかし今日は、自分のことを話していた。みっともないことも、間違えたことも、言い訳にしてきたことも。それを話すことを、恥ずかしいとは思わなかった。
恥ずかしくなかった、というのは正確ではないかもしれない。恥ずかしかった。しかし恥ずかしさは、もう止まる理由にはならなかった。
窓の外で、風が木を揺らしていた。
葉が光を受けて、白く輝いていた。
莉子がその光を見て、「きれいですね」と言った。
私は莉子を見た。
「きれいですね」と私は言った。
それだけの言葉が、あの夏のフェリーの上で言った言葉と重なった。同じ言葉を、また言っていた。七年経っても、同じ言葉を言える人間が、向かいにいた。




