第10話 彼女の計画 彼女が隠していた“もう一つの顔”
前回のお話、お読みいただきありがとうございます。
明後日。午後7時。駅前のカフェ「あおい」。
店の扉を開けると、ベルがかすかに鳴る。コーヒーの香りと、静かなジャズが流れる店内。客はまばらだ。窓際の老夫婦、奥の席で本を読む男、それに――
隅の席に、見覚えのある後ろ姿があった。
黒い髪。華奢な肩。手にしたスマホを弄る仕草。何度も見た、あの姿。
拓は、ゆっくりと近づいた。距離が縮まるにつれ、鼓動が早くなる。床を踏む足音が、やけに大きく聞こえる。
その人物が、顔を上げた。
「……純」
純は、微笑んだ。いつもの、あの、少し影のある笑顔で。カフェで仕事の相談をした時と同じ、変わらない笑顔。でも、その目が一瞬だけ、何かを計るように細められた気がした。
「こんばんは、拓さん」
拓は、向かいの席に座った。頭の中が混乱している。純が、新規アカウントの主? あの不気味な、何もないアカウントの?
「……あのアカウントの?」
「そうです」
「なぜ、こんなことを?」
純は、しばらく拓を見つめていた。その目は、まっすぐで、澄んでいた。でも、その澄み切った水面の下に、何かが潜んでいる気がする。
「直接聞きたかったことがあったからです。メールじゃなくて、ちゃんと顔を見て話したかった」
「何を?」
「瞳さんのことです」
拓の体が、一瞬で固まった。
「……ん、何を?」
「瞳さんと、続いているんですよね?」
拓は答えなかった。コーヒーカップの中で、かき混ぜるスプーンだけが小さな音を立てる。そのリズムが、やけにゆっくりに聞こえた。
純は微笑んだ。あの日、カフェで初めて裏アカウントを見せた時と同じ、影のある笑顔。でも、その目は少しも笑っていなかった。
「当たっているかどうかは、拓さんが決めればいいんです」
「私は、観察者ですから。当たっていようがいまいが、それを見ているのが私の役目」
拓は、ようやく口を開いた。喉の奥が、からからに乾いていた。
「……何を知りたい?」
純は、窓の外に目をやった。夕日が、彼女の横顔をオレンジに染める。その横顔は、ひどく静かで、それでいて何かを企んでいるようにも見えた。
「知りたいんじゃないです。ただ、見ていたいだけ」
「それが、私の存在証明なので」
その言葉に、拓は何かを思い出しかけた。さっきまで頭の中にあったはずの、大切な何か。でも、それが何かは分からなくなっていた。
沈黙が、二人の間に流れた。
コーヒーの湯気が、窓ガラスに曇りを作る。外では、ネオンが静かにまたたいている。
やがて、純が再び口を開いた。
「でも、一つだけ、本当のことを教えてください」
「……何?」
「あなたは、幸せですか?」
拓は、その質問に、しばらく考え込んだ。幸せ。その言葉の意味を、久しく考えていなかった。
「……分からない。でも、瞳といる時は、そう思える瞬間がある」
「それで十分じゃないですか」
純は、また微笑んだ。今度は、さっきまでと違う、もっと柔らかい笑顔だった。でも、その笑顔の奥に、ほんのわずかな翳りがあることに、拓は気づかなかった。
「私、応援しますよ。お二人のこと」
純は、また微笑んだ。今度は、さっきまでと違う、もっと柔らかい笑顔だった。
純は、心の中で呟いた。
「でも、私の物語は、まだ終わらない」
拓が、ようやく笑った。
「……ありがとう」
窓の外では、ネオンが静かにまたたいていた。
その夜、家に帰った純は、日記を開いた。
「今日、彼に会った。彼は、私のことが分からなかった。本当の私を、彼はまだ見ていない。でも、いつか見る時が来る。その時、彼はどう思うだろう。私を許すだろうか。それとも、憎むだろうか。」
「でも、それでいい。ただ、彼の中で生き続けられれば、それでいい。彼の言葉の中で、永遠になりたい。その願いが、私を突き動かす。」
「私は、この日記をいつか彼に読ませるだろうか。それとも、このまま誰にも知られずに終わるだろうか。」
「分からない。でも、書かずにいられない。それが、私の業だから。」
ペンが止まる。
「彼女の計画」は、まだ終わっていない。彼女自身も、気づかないうちに、新たな計画が動き出していた。
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