婚約破棄を望んだ者、受け入れる者〜申し訳ありませんが殿下、勝者は私です
淑女の足取りで、アイシスは鏡に寄った。
鏡の中の公爵令嬢は、悲しいほど綺麗に微笑んでいる。指先で、その柔らかな頬の輪郭をなぞった。
自分自身の肌なのに、まるで冷たいガラスを隔てて彼女に触れているような心地がする。
「ああ……。今日でようやく、終わりますね」
夢見心地よりも甘い吐息。待ち望んだ瞬間を思い、アイシスは静かにまぶたを閉じた。
部屋の扉が叩かれる。入ってきたのは、このジレオス帝国のセシル皇太子だった。優雅なカーテシーで出迎えたアイシスは、セシルと互いに挨拶を交わす。
そして、ゆっくりとした動作で両手を差し出して花束を受け取り、礼をした。
大ぶりの青い花に可憐な純白が従う、華やかな花束。以前のアイシスなら、上ずった声ときらきらとした目で礼を告げただろう。だが今は、メイドに用意させた花瓶に、黙ったままに活けるだけだった。
セシルに席を勧め、向かい側に腰を下ろす。
テーブルでは、角型のクッキーの香ばしい匂いと、淹れられた茶からの清々しい香りが漂っていた。
「殿下がお好きなクッキーを、久しぶりに焼きましたの。今もお口に合うといいのですけれど」
セシルは一瞥しただけで、手を伸ばそうとしなかった。俯いたまま、何度か手を握り込んでいる。
アイシスも、セシルを見つめるだけで決して話そうとしない。その青瞳は揺れることなく、彼の肩越しにある空虚を見ていた。
やがて、セシルは顔を上げた。ゆっくりと唇が開き、アイシスを睨み断罪を一息に言い切る。
「アイシス、そなたとの婚約を破棄する。私は、代わりにリーゼ伯爵令嬢と婚約する」
「畏まりました」
「何故だ」
「何故とは?」
間髪を入れないアイシスの了承。その問答で、語気を強めたのはセシルの方だった。
「私への不敬な言動、流すにも限度があるとわからなかったのか」
「思い当たるものはございません」
「それに、何故リーゼに嫌がらせをした? ドレスに傷をつけたり、公衆の面前で罵倒したり」
「気に入らなかったからです。それに、殿下が庇われたではありませんか。何がご不満ですか」
熱の籠った詰問は、氷のような鉄面皮を滑るだけだった。ガシャンと、茶器が音を立てる。
テーブルの上、セシルの握り拳が震えていた。
「それは、そなたの婚約者たる私が、そなたの醜い所業を正すべきだと思ったからだ。何故だ、そなたは一年前に倒れてから、変わってしまった」
――お願い。あなたにしか頼めないの。
アイシスが唇を噛み、手を握り込む。
だめだ、耐えなければ。病床に伏したあの顔。声。私は、大事なあの方に誓ったのだ。
顔を見られぬよう、アイシスはわざとそっぽを向く。
「だからこそ、リーゼ様が相応しいと思ったのでしょう?」
「……リーゼに謝罪し、悔い改めると今誓うのならば、私は破棄する気は無い」
「承服できかねます、殿下。あのような、ただ真っ直ぐに殿下を想うだけの小娘に、私が頭を下げるはずがありません。あれは、私から殿下の御心を奪った者」
「私は、そなたのものだっただろう! そなたが」
「今は違いますでしょう?」
一方の言葉が熱くなるほどに、もう一方は冷えていく。発言を指摘に遮られた瞬間、セシルははっとして婚約者を凝視した。
そこにあるのは、口許が微笑みながらも、一切の感情を伺うことが出来ない深い青。
セシルは天井を仰ぎ、やがて足元に視線を落とす。不意に立ち上がると、アイシスへ背を向けた。
「話は以上だ。破棄は私の都合とし、そなたの家門へは補償しよう。それを餞とする。……身体に気を付けよ」
「ご厚情に感謝いたします、殿下」
深々と行われる淑女の礼。アイシスは足音が聞こえなくなるまで、顔を上げることはなかった。
◇◇◇◇◇
私は、テーブルの上のクッキーを手に取った。
殿下は一口も食べなかった。お嬢様が愛した、あの蜂蜜たっぷりのクッキーを。
口に運び、飲み込む。一年前の記憶通りの甘さ。
殿下が食べたかったはずの味を、お嬢様が伝えたかった愛を、私だけが知っている。
「殿下、美味しいですわ。お嬢様が教えてくれた通りに、焼きましたもの」
こぼれた粉を丁寧に拭うと、遅れてくる違和感。
「……お嬢様、申し訳ありません。やはり少し焼きすぎました。少し、苦いですわ。殿下が召し上がられなくて、よかった」
私は花束を活けた花瓶を手に取り、窓際に運んだ。ここからなら、丘の先に霞む公爵家の墓所を見ることが出来る。
この花は、墓所で眠るお嬢様のものだ。
「ようやく、終わりましたよ」
皇太子妃に決まったが故に、影武者を持っていた公爵令嬢。お嬢様が私に遺した、最期の願い。
アイシス様は、死の淵で私の手を握った。
――殿下が私を嫌いになって、前を向けるように。あの方が、私の死で一生を立ち止まらないように。私を、最低の女として終わらせて。
「悪意の仮面を被った愛」を完璧に演じきるために、私は今日まで、殿下の心を何度もナイフで削ってきた。
お優しい殿下は、私に身体を強張らせたり、唇を噛んだりしても、今日まで側に立つことをやめなかった。
お嬢様の死を知ったならば、どれだけ悲しむことか。どれだけ長く引きずることか。
でも、もう大丈夫。宮廷でも、屈指の才女と名高いリーゼ伯爵令嬢がいる。あの誠実な令嬢は、思慕を懸命に隠して、淑女の一線を決して越えようとしなかった。
きっと、お似合いの二人になる。
「お嬢様の最期のお願い、今果たせました」
窓ガラスに映るお嬢様は、今も笑っている。私はお嬢様に向かい、カーテシーを行った。
瞼の裏には、抱きしめたくなるほどに弱々しくなられた、お嬢様の姿。
お嬢様は、私の前ではいつも笑っていた。
アイシス様だけが、私の本当の名を呼んでくれた。
――ねぇラナ、殿下の代わりに聞いてくれる?
『愛しています』。
私も、最後に口にしましょう。
「愛しています」
ああ、外は嵐なのかしら。陽でこんなにも明るいのに、視界が曇って何も見えない。
「貴女を。……殿下を」
終
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