「そういえばリズンスターって、三者面談とか嫌いそうな顔してるわね」
「いいかい? そもそも補佐官は、正式な職員ではない」
「……どういう、意味ですか」
若手たちの質問に対し、司令官はしばらく黙ったまま腕を組んだ。
「うーーーん……。ま、映像を出そうか。見た方が早い」
操作音。
壁面モニターが切り替わる。
映し出されたのは、相談室の内部だった。
白いパネルで区切られた、小さな空間。
その奥に、ひとりの小さな女の子が座っている。整った顔立ちで、将来はさぞ美人になるだろうと思わせるような、可愛らしい子だった。
着ているのは、淡い色のパーカーに、膝丈のスカート。袖はほんの少し長く、手首のあたりで余っている。
椅子は明らかに大人用で、腰掛けた彼女の足は床に届かず、宙に浮いていた。
そして、女の子は疲れているのか、机に伏せて、時折こっくりこっくりと舟を漕いでいる。
次の瞬間、ランプが音を立てて点灯する。
女の子はすぐに目を開けて背筋を伸ばすと、真剣な表情に切り替わり、マイクに向き直った。
「――はい、相談を受け付けます。次の方、どうぞ」
落ち着き払い、年齢を感じさせない低い声。
さきほどまでの幼い姿と、あまりにも釣り合わない声色だった。
「補佐官の正体は――都倉莉名」
聞き返す者はいない。
理解できない、という沈黙だけが広がる。
「年齢は、10歳」
「リズンスターの――実の娘だよ」
「……でも、リズンスターさんは『娘はいない』って言ってなかったか?」
「いや、司令官が言うなら、娘なんじゃ……?」
「え? どういうこと? 娘なのに、娘じゃないって言った?」
若手たちの間で、ひそひそとした声が漏れ始める。
批難のこもった視線は自然と、リズンスターへと集まっていった。
腕組みをしたまま、彼は、微動だにしない。
だが、同時に部屋の中には、別の種類のざわめきも広がっていく。
「いや10歳!?」
「だってあんなにいつも相談に乗ってくれて……いつも、相談室は開いてて」
「夜中にメールを送っても、すぐ返事をくれたのに……? あれも……」
誰も続きを言えなかった。
誰かが息を吸いかけ、途中で止める。
夜中に送った相談。
愚痴のような弱音。
戦いに出る前の不安。
誰にも言えなかった情けない本音。
それらすべてを受け止めてくれていたのが、
小さな机に向かい、足も床に届かないまま座っていた子供だったなんて。
喉の奥が、詰まったように痛む。
視界の端が滲むのを、必死に瞬きで誤魔化す者もいた。
会議室の空気は、重力を持ったように沈み……誰の肩にも等しくのしかかっていた。
「で、さ。補佐官さんを復活させてほしい、という君らの希望なんだが……」
「いえ! それより俺、この子にお礼が言いたいです! 会わせてもらえませんか!?」
すぐに声が上がった。
それに続き、そうだそうだ、と賛同の声が重なる。
「いや、彼女、いなくなっちゃったからさ」
――空気が、凍りついた。
若手たちの視線が、一斉に彼へと突き刺さる。
原因がどこにあるかなど、誰の目にも明らかだった。
「なんで、リズンスターさんは、娘じゃないなんて」
「……必要なことだったからだ」
低く、短い返答。
普段なら、それで通った言葉だった。
だが今は違う。
周囲からの視線は止まず、むしろ鋭さを増していく。
そこへ呆れたように、司令官が口を挟んだ。
「今ので説明終わりなの? すごいね君。……えーっと、ということで、莉名ちゃんは行方不明中だから。そもそも、色々片付くまでは彼女を復帰させるつもりはない」
「なんで司令は、10歳の子を働かせてたんですか? あんな、小さな子を」
押し殺すような声で、質問が上がった。
すると、司令官は頭を掻く。
「私は彼女を大人だと思ってるからね。それに彼女、本気出したらたぶん君らより強いよ」
「いや10歳でしょ!?」
会議室に、抑えきれない感情が渦巻き始める。
「10歳の子に頼り切ってた君らに言う資格があるの? というのはともかく。君ら、壊滅した悪の組織”ヘイルトゥリーズン”の目的、知ってるかい?」
前半は、耳の痛い話題。
そして急に変わった後半の話題に、戸惑う若手。
やがて1人が、おずおずと口を開く。
「確か……。他の世界の存在を呼ぶんですよね? 世界を越えて現れた存在は強大な力を得るから、だったような。結局、夢物語でしたけど」
「いや、私が知る限り……1度だけ、実験は成功してる。ま、対象は選べなかったみたいだが」
「はい?」
「奴らにはくじ運がなかったみたいだね。普段の行い、ってやつかな」
「司令官! ちゃんと説明を……!」
気色ばむ若手を半ば無視して、司令官は、ひょいとリズンスターに向き直った。
「ところで。君、前世とか、生まれ変わりって信じる?」
リズンスターは、即座に首を振った。
「そんなことが、あるわけないでしょう」
「じゃ、他の君達は?」
「…………」
会議室を軽く見回して、司令官は軽く肩をすくめる。
「ほらね。……それより、若手の君らに手伝ってほしいことがあるんだ」
その瞬間。
沈黙を引きずったまま、全員が前に出た。
取り戻せるものがあるなら。
今度こそ自分たちの手で。
「補佐官さんを探すんですね!? もちろん手伝いますよ!!」
「いや先に言っとくと、莉名ちゃんはいちおう見つかったんだ」
「どこですか!?」
「なんかね、悪の組織の生き残りに誘拐されちゃったみたい」
「……誘、拐……?」
「さっき脅迫動画が届いてさ。指示に従わなかったら莉名ちゃんを殺すって。ああ、これも見た方が早いな」
再び、モニターが切り替わる。
画面に映っているのは、高笑いする悪の組織の生き残り。
そして、控えめに助けを求める、小さな女の子の姿の姿が、何度も映し出された。
若手たちは、声を失い、泣き、絶望した。
床にうずくまり、嗚咽する者もいた。
遠い画面の向こうに手を伸ばしても、彼女に届くことはない。
想像が一歩踏み込んだ途端、若手たちは誰一人、息ができなくなった。
今この瞬間、あの子はいったい何を言われ、何を強いられているのだろう――。
* * * * * * * * * * * *
悪の組織、秘密基地。
ニシャプール様、マシロさん、俺の3人は、深刻な顔をして向かい合っていた。
議題は、次の要求である「夜は6時間以上寝ること」をどう切り出すか。難題であった。
「せっかくだからカッコよく言いたいわよね! 知的な感じで攻めるのも悪くないけど」
「ニシャプール様! 『闇』とか『夜』とか言いませんか? ほら、なんだか悪の組織っぽいですし!」
「莉名さんが中二男子みたいなこと言ってるのです」
……はっ。いかん、思わず過去の俺が顔を出してしまった。俺は前のめりになっていた自分を抑え、座り直す。
その後も、3人であれこれ意見を出し合ってみたけど、これというものは出なかった。
「とりあえず始めましょう。ニシャプール様のセンスに任せますです。たぶんいい感じに収めてくれるはずですから」
「丸投げされた上になんかハードル上げられたわ……!」
ということで、テイク2。
俺がソファーに横たわりながら見上げると、ニシャプール様は口元に手を当て、じっと考え込んでいる。今、たぶん頭の中ではさっきまで出た様々な意見が駆け巡っているものと思われた。
マシロさんが手を振って合図すると、ニシャプール様はハッと気づいたように視線を上げる。
「……リズンスターって、そういえばいつも戦ってるわよね? あれってちゃんと寝てる? 労働基準法とか守られてるのかしら?」
「カットです。攻撃するのはリズンスターであって、正義の味方の上層部じゃないのです」
……その後もニシャプール様は様々な角度から要求を繰り返したが、マシロさんのチェックを通り抜けることはできず。
そして、テイク79。
ニシャプール様は、真剣な顔で、撮影しているマシロさんのスマホを見つめた。
「リズンスターって、夜も活動してるわよね? 不愉快だわ。夜は闇、すなわち悪の時間であるべきなのに! 正義の味方なんだから夜は寝なさいよ! ……そうだ! これから、夜は6時間以上寝ること! 目障りだからね。守らなければ娘を殺すし、ついでにあなたの勤務状況が法に触れている可能性があると、動画サイトに証拠動画つきでアップしてあげる」
「お父さん、助けて……!」
マシロさんが指で〇を作る。かくして脅迫動画第2弾がついに完成し、モッちゃんが飛び立った。
さすがニシャプール様のお気に入りというだけあって、モッちゃんは厳重に敷かれた警戒網を華麗に潜り抜け、父の元に脅迫動画を届けるという困難な任務を無事に達成した。
即日、父に対して、午後10時には寝るように上層部から指示が入った。ニシャプール様の脅迫文句が功を奏したのかもしれない。
映像の中で、むすっとした不機嫌な顔のまま、父は布団に入った。そして、しばらくの間、まばたきもせずに天井を睨みつける。
「なにこいつ。そんなに寝るのが嫌なの? それとも目を開けて寝るのがこいつの基本スタイルなの? 魚なの?」
「眠いはずなんですけどね……だって、お父さん、いつも午前4時ころまで仕事してたので」
「莉名さんは、なんでそんなこと知ってるんです?」
「朝食と家事の準備でわたしがその頃起きるんですけど、大抵まだ電気がついてるんです」
すると、ニシャプール様とマシロさんは、何か言いたそうな表情で顔を見合わせた。
「……あなたたち父娘は、両方とも生活サイクルを見直した方がいいわ。とりあえず、莉名は、朝7時以降まで寝ること。それが脅迫者としての責任よ」
その日から、俺も午前7時まで起きることを禁じられた。次の日の朝、4時ころに目が覚めた俺は、そのまま布団の中でひたすらに寝返りを繰り返した。昨晩の父の気持ちが、少しだけわかった気がした。
その後も、ニシャプール団から父に対し、血も涙もないような要求が繰り返された。
「家族に挨拶しなさい!」
すると翌朝、父は、玄関から出て行こうとする兄の横から突然ぬっと顔を出した。
『……ハイランドリール。おはよう』
『うわ気持ち悪っ。いきなり出てくんなよ!』
「実の息子から、気持ち悪いって言われてるわ……あとなんでヒーロー名で呼ぶの……」
「お兄ちゃん、低血圧だから朝は機嫌悪いんです。名前の件はわからないですけど」
「週に1度は休みを取りなさい! ……あら? マシロ、これ見て? 国のページに、『使用者は少なくとも毎週1日の休日か、4週間を通じて4日以上の休日を与えなければなりません』って……」
父に対して、即日、週に1度の休暇が言い渡された。
父は、休みになった日は近所をふらふらと徘徊したり、公園で朝から晩までひたすらブランコの上でゆらゆらと揺れ、公園には「不審者に注意」という看板が新しく3つも立てられた。
しかし、順調にいくと思われた脅迫活動も、ある日、1つの壁に突き当たった。その主な原因は、次にやってきた脅迫の項目にあった。
ニシャプール様が、お願い事リストを広げ、「週に1日は休みを取って、ゆっくり体を休めてほしい」の横に〇をつけ、満足そうに頷いた。
「よーしよしよし。もう、リズンスターは私たちの支配下にあると言っても過言ではないわね。……えっと、次は?」
「順番的には、三者面談に来てほしい、ですね」
「行きなさいよ! 脅されなくても行きなさい!」
「お父さんは忙しいので」
「公園で空を眺めるのを忙しいとは言わない!!」
そして、いつものように、脅迫動画の撮影が開始された。
ニシャプール様は、ワイングラスを片手に、黒猫を膝の上に乗せてソファーに座った。ちなみにグラスの中身は予算がないのでグレープジュースであり、猫は近所の野良猫であった。猫にはどうやらノミがいるらしく、ニシャプール様はもぞもぞと膝をこすり合わせている。
「アハハ! 見たわよ? 公園でゆっくりするなんて、優雅なこと。もう正義の味方じゃなくて、ただのパパね! そうだ、パパと言えば……リズンスターって、三者面談とか嫌いそうな顔してるわよね」
「カットです。どんな顔ですか」
テイク2。
「そういえば、私のお父さんも言ってたわ。親が一番辛いのは、わが子が授業参観で間違った答えを堂々と発表してるのを見た時だって」
「カット。授業参観になってますし、辛い理由は幼いころのニシャプール様がバカだったからなので一般的ではありませんです。やり直し」
……テイク65。
「リズンスターの弱点って何なのかしら? せっかくだからまたこの子に聞いてみましょ」
「お父さんは無敵です!」
俺も急遽、手を縛られて出演した。そういえば脅迫動画なのに、さっきまでは人質が全く映ってなかったもんな。
「いや、無敵って言っても、何か避けてることくらいあるでしょ」
「そういえば、この前、なぜか小学校の三者面談に来てくれませんでした」
「……へえー。それはいいことを聞いたわ。きっと学校に何か苦手意識があるのね。じゃないと行かないなんて選択肢ないものね。たぶん忘れ物ばっかりしてたのよ。私も、忘れ物したら名前の横にシール張られる表みたいなのが教室の後ろにあったんだけど、私のためだけに2枚目の表が作られたもの」
ちょっとリアクションに困り、目をそらす。でもわかったことがある。ニシャプール様は、幼少期からこんな感じであられたらしい。
「きっと忙しいんだと思います」
「それが、私達の組織って半年前に壊滅してるのよねえ。どうせ、人目を集めるから嫌だ、とかの理由でしょ。くっだらない! よし、いいこと考えたわ。今度、また三者面談があるらしいじゃない。そこにリズンスターも出なさい!」
マシロさんが一瞬首をかしげ、指で丸を作った。
「ま、OKとしますか。なんで人質と学校の話してるのかっていう疑問はありますが、なくはないでしょう。……ところで、です」
「どうしたの? 上手にできたでしょ! マシロ、ほめて!」
「これって、この子が家に帰らないと実現しなくないです?」
ニシャプール様は、笑顔のままでぴしりと固まった。……確かに。
俺たちは顔を寄せ、再び緊急の作戦会議を行った。
「三者面談じゃなくなっちゃうものね。……その日だけ、おうちに帰る?」
「また来るのは不可能でしょ。誘拐犯の所に帰るんでって言って、放してくれるんです?」
ニシャプール様はしばらくの間、沈黙した。
しかし、不意に、ぱぁっと顔を輝かせる。
「そうだ! もう1度、家出してきたらいいじゃない」
「絶対ガードきつくなりませんです?」
「関係なくない? だってこの子が共犯者なんだから。でもそうね……」
ぱたぱた、と飛んできた大きな蛾が、俺の肩にとまる。そして、身を縮ませ、ごそごそとポケットに潜り込んでいった。
「モッちゃんをつけてあげる。私からの指示もできるし、脱出も楽勝でしょ」
そっとポケットを触ると、身を折りたたんで信じられないくらい小さくなったモッちゃんは、キュー、と鳴いた。飛び出している頭を撫でてみると、手触りはとても柔らかで、毛糸のようにもふもふだった。
さて、かくして悪の秘密基地から、家に帰ってきた俺。
しかし、父は、帰宅した俺の顔を見ても、なんと、何も言わなかった。信じられないことだが、誇張なしに、一言もなかった。え? そんなことある?
俺は迷った結果「ただいま。迷惑かけてごめんなさい」とだけ伝えた。すると父は顔を歪めて、これまた何も言わないまま、足早に自室に戻っていった。うっそだろお前。
一方、兄はというと、廊下で遭遇した瞬間、俺の襟首を掴み、ずるずると部屋まで引きずっていった。ポンとクッションの上に放り投げられ、両肩を掴まれる。比喩じゃなく、目の前5センチくらいまで顔が寄せられた。
……いや近っ。というかめちゃくちゃ怒ってる。
「おまっ、お前! なに普通の顔して歩いてんだよ!? 誘拐されたんじゃなかったのか!?」
「そうなんだけど、三者面談があるからって言ったら放してくれた」
「はぁ!? は? 何言ってんだお前!? とうとう本物のバカになったのか!?」
とうとう、という部分に引っかかるものはあれど。父と比べるとまっとうな反応であると思う。
その後も、体は大丈夫なのか、どこにいたんだと問い詰められたけど、何も分からないし覚えていないということで通した。だって俺は悪の組織のNo.3。悪い子なので。
だがそのまま兄に引きずられ、俺は基地で連日検査を受けさせられた。当然何も出なかった。
そして、やってきてしまった三者面談の日。
俺は、廊下で椅子に座って正装で待機している親子たちを眺めながら、ニシャプール様に連絡した。嫌な予感は当たってしまい、あと3人で俺の番だというのに、まだ父は姿を現していない。
いったん持ち直した父の評価は、俺の中で、ジェットコースターもかくやと言わんばかりの著しい下降を見せていた。あいつほんと駄目だな……。
『……え? 来てくれてないの!? ほんとに? そんなことある?』
『信じられないんですが、ほんとです』
『今行くわ。……マシロ! 車出して!』
その言葉に嘘はなく、法定速度を彼方にぶっちぎったバイク(おそらくマシロさんが運転していたと思われる)から転がり落ちる形で、ニシャプール様は校庭に姿を現した。保護者と生徒の視線を一身に浴び、ふっ、と金髪をかき上げるニシャプール様。しかし、服はニシャプール様ほどの耐久力がなかったらしく、トラックに轢かれたみたいにズタボロになっていた。
そして、ズタボロではあったが正装(※ちなみにマントではなく、ちゃんとスーツだった)で教室に乗り込んできたニシャプール様は、母の妹だと名乗り(※父の親族だとは死んでも名乗りたくなかったらしい)、俺が家(※悪の秘密基地)でいかに手伝いを頑張ってくれているかを、力説してくれた。
「この前はみんなでホームビデオ(※おそらく脅迫動画のことであろう)も撮ったのよねー」
と俺に笑いかけるニシャプール様を見つめ、先生はほっとしたように微笑んでいた。
終了後、俺は、ニコニコしているニシャプール様と中庭のベンチで並んで、通知表を眺めた。風に乗って、微かな甘い香水の匂いが、俺の鼻をふわりとくすぐる。
「へえー、最近の小学校の通知表って、こんな風になってるのね。……莉名って◎ばっかりじゃない。すごいわ!」
「えへへ、ありがとうございます! ……それより、お父さんが来たらまずくないですか? 早く逃げた方が……」
「いいの。待ってるの」
ニシャプール様は、ピタリと笑うのをやめた。そして、無表情のままで俺をじろりと睨む。さっきまでの笑顔が嘘のようだった。
「ま、待ってる、とは……?」
「のこのこ現れたら、顔面ぶん殴ってやろうと思って」
「来ない可能性も相当ありますよ……?」
だって、もう三者面談は全員が終わり、先生も職員室に帰ってしまった。今来ても、もう間に合わないことはわかるだろうし……。
「来なかったら、あいつの家まで、グーで殴りに行くわ。負けたとしても3発は絶対殴る」
「いやいや! いいですって!」
しかしそのとき、俺の視界に、下駄箱でゆっくりとスリッパに履き替える、見覚えのある後ろ姿が飛び込んできた。……父だ。ぶっちぎりで遅刻だが、いちおう来てくれたらしい。いや、でもまずい。
ニシャプール様は立ち上がり、ずんずんと父に向かって歩いて行った。ああ……。
父も気配を感じたのか、振り返り、一瞬だけ目を見開く。そして腕を上げたかと思うと、光の帯が腕から肩、胸へと走り、瞬く間に戦闘スーツへと包まれる。……止めないと!
「やはりお前か。決着を……」
ニシャプール様の動きは見えなかった。
轟音と共に、次の瞬間には父が空を舞っていた。そして、地面を3回くらいバウンドして、地面に跡を引きながら転がり、仰向けにどさりと倒れる。
昇降口では、ニシャプール様が涼しげな顔をして、パンパンと両手を払っていた。
……正直、腕を振りかぶったところまでしか見えなかった。いや、ニシャプール様つよっ。
つかつかと足音を踏み鳴らして、ニシャプール様は、校庭で倒れている父の側まで歩み寄り、腰に両手を当てて見下ろした。
「なんで来なかったの?」
「…………」
「もう1度聞くわ。なんで来なかったの?」
ニシャプール様は、父を冷たい目で眺め、ふいっと目をそらした。そして仰向けになって動けない父の胸に、そっと俺の成績表を置く。
「……決着つける気も起こらないわ。そんなに弱かったなんて知らなかった。……それ、ちゃんと見といてね。1学期より良くなった教科が3つもあるんだって」
そして、ニシャプール様は、最後に俺に手をひらひらと振り、ずんずんと肩を怒らせて、校庭から姿を消した。
「……ほんと、最低」
風に乗って、ニシャプール様が最後に呟いた独り言が、聞こえた気がした。




