第18章 — 橋の夜
夜というものは、いつも静かに始まるわけではない。
気づかぬうちに心の隙間へ染み込み、境界を曖昧にし、
「ここにいる理由」を奪っていく。
ひかりは知らなかった。
目を開けた瞬間から、選択が始まっていたことを。
拒むことも、立ち止まることも許されない場所へ、
すでに足を運ばされていたことを。
これは、優しさが刃に変わる夜の話。
そして、二つの意識が同じ世界を見つめる物語。
目を開けた瞬間、ひかりは自分が「立っている」ことに気づいた。
足裏に伝わる、硬く冷たい感触。
アスファルトの微かな凹凸。
風が、やけに強く、肌を撫でていく。
「……ここ……」
視線を上げると、橋だった。
高くも低くもない、街と街を繋ぐだけの無名の橋。
だが、夜景に照らされて、現実感が薄れている。
川面には無数の光が揺れている。
街灯の白、信号の赤、遠くのビルの青。
それらが歪み、溶け合い、まるで別の世界の入口のように見えた。
「……どうして……私は……」
問いは、空に溶けていく。
答えが来ることを、ひかりはすでに知っていた。
「ここは、静かでしょう?」
声は、背後から。
振り向くと、そこにりんがいた。
影が立体になったような存在。
橋の手すりの上に、当たり前のように立っている。
「……りん……」
「起こしちゃった?」
その口調は、穏やかで、親しげで、
まるで長年の友人のようだった。
「……ここで……何をしてるの……」
ひかりは、自分の声が震えているのを感じた。
りんは、街の光を見下ろしながら答える。
「待ってるの」
「……誰を……?」
「来るべき人を」
胸の奥が、ひやりと冷える。
「……やめて……」
「何を?」
「……分かってるでしょう……」
りんは、ゆっくりとひかりを見る。
その瞳には、感情があるのかないのか、判別できない光が宿っていた。
「君は、まだ全部を拒んでる」
「……拒むよ……当たり前でしょう……!」
ひかりは一歩、後ずさる。
「……私には……決める権利なんて……ないの……?」
りんは、橋の手すりから降り、ひかりと同じ高さに立つ。
「あるよ」
「……え……?」
「あるから、苦しいんでしょう」
その言葉に、ひかりは言葉を失った。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
「……?」
取り出すと、画面が光っている。
見覚えのない名前。
見覚えのない会話。
《今、橋の上だよな》
《話がある》
「……これ……」
ひかりの指が震える。
「……私、こんなの……」
「でも、返事はしてる」
りんは、静かに言った。
「……私じゃない……」
「でも、君の指で打ってる」
その瞬間、足音が近づいてきた。
革靴がアスファルトを叩く、乾いた音。
男が、街灯の下に姿を現す。
煙草をくわえ、落ち着かない様子で周囲を見回している。
「……あんたが……」
男の視線が、ひかりに止まる。
「……ひかり……だよな……?」
ひかりの喉が、詰まる。
「……違……」
言い切る前に、りんが前に出た。
「覚えてるでしょう」
男の顔が、一瞬で強張った。
「……何を……」
「君が、忘れたこと」
男は後ずさる。
「……違う……そんな……」
「忘れたんじゃない」
りんの声は、低く、静かだった。
「見ないふりをしただけ」
男の呼吸が荒くなる。
「……やめろ……」
「やめるのは、簡単」
りんは一歩、近づく。
「でも、終わらせるのは、難しい」
ひかりは、必死に叫んだ。
「やめて! お願い! そんなこと、しても……!」
「……君は、まだ優しい」
りんは振り返らずに言った。
「だから、見えない」
男は、手すりに背中をぶつける。
「……来るな……!」
夜風が強く吹き、街灯が揺れる。
視界が、歪む。
ひかりは、自分の身体の感覚が遠のいていくのを感じた。
――まただ。
りんが、主導権を握っている。
「……返して……」
「今は、無理」
気づけば、男は手すりに掴まり、体を支えている状態だった。
足は、地面を探して宙をさまよっている。
「……助けてくれ……!」
男の声は、恐怖で震えていた。
ひかりの心が、悲鳴を上げる。
「……お願い……やめて……!」
りんは、男の指を掴む。
その瞬間、ひかりは感じた。
――迷い。
ほんの、わずかな躊躇。
「……今なら……」
「遅いよ」
りんの声は、はっきりしていた。
指が、ゆっくりと、確実に、離される。
男の姿が、闇の中へと消えていく。
遠くで、水の音が響いた。
ひかりの意識が、内側で崩れ落ちる。
「……どうして……こんな……」
涙は、流れなかった。
泣く身体は、もう自由ではない。
りんは、橋の中央に立ち、夜景を見つめる。
「これでいい」
「……よくない……」
ひかりの声は、かすかだった。
「……私は……こんな世界……望んでない……」
りんは、少しだけ、首を傾げる。
「でも、世界は変わらない」
「……だから……壊すの……?」
「……整える」
遠くで、サイレンの音が近づいてくる。
赤い光が、夜を切り裂く。
ひかりは、その光を見つめながら、思った。
――私は、まだここにいる。
――まだ、終わっていない。
橋の上には、二つの影が重なっていた。
支配する者と、見続ける者。
夜は、まだ深かった。
夜は、何も語らない。
ただ、起きたことをそのまま抱え込み、
朝になれば、すべてをなかったことのように包み隠す。
川は流れ、街は動き続ける。
失われたものの重さを知る者だけが、
その場所に、見えない影を残す。
ひかりは問い続けるだろう。
自分が見たものは現実だったのか、
それとも、心が作り出した逃げ場だったのか。
だが、りんは知っている。
選ばれなかった未来も、
確かにここに存在していたことを。
夜は終わる。
しかし、橋の上で重なった影は、
次の夜まで、静かに息を潜めている。




