第16章 — 共に響く身体
目覚めとは、必ずしも「戻る」ことを意味しない。
意識が浮上した瞬間、ひかりは恐怖よりも先に、説明できない違和感を抱いた。
記憶と現在の間に生じた、わずかなズレ。
その隙間から、彼女の知らない時間と、彼女ではない“誰か”の気配が忍び寄る。
この物語は、自分であるはずの身体を、もう自分だけのものだと言えなくなった瞬間から始まる。
目を覚ました瞬間、ひかりは「違和感」だけをはっきりと理解した。
ここがどこかは分からない。
だが、ここが「自分の部屋ではない」ことだけは、確信できた。
天井は低く、白かったはずの塗装は黄ばんでいる。
壁際に置かれた安価な棚。
カーテンの隙間から差し込む光は、朝なのか夕方なのか判別できない色をしていた。
――また、知らない場所。
その事実を受け止めようとした瞬間、頭の奥が鈍く痛んだ。
「……っ……」
声を出したつもりだった。
だが、耳に届いたのは、誰かが息を吸う音だけだった。
自分のものではない。
ひかりは、ゆっくりと上体を起こす。
身体が、妙に重い。
関節の一つひとつが、ひかりの記憶とは異なる使われ方をしている。
膝に手を置くと、指先にざらつきが伝わった。
乾いた土。
草の欠片。
爪の隙間にまで入り込んだ、知らない夜の痕跡。
「……どこに……行ったの……」
問いかけは、胸の内側で消えた。
返事が来ることを、どこかで分かっていたから。
《昨日は、結構歩いたからね》
背後から、柔らかい声。
鏡を見ると、そこにはひかりの顔が映っている。
だが、その目は、決定的に違った。
「……りん……」
《正解》
りんは、ひかりと同じ姿で、しかし完全に異なる存在感を放っていた。
その視線は、所有者のものだった。
「……どうして……こんな……」
《“こんな”って?》
「……私の知らない……私の時間……》
りんは、少し考える素振りを見せてから、微笑んだ。
《だって、必要だったんだもの》
洗面所に向かう。
足取りは安定している。
だが、それはひかりの意思ではない。
蛇口をひねる手。
水をすくい、顔を洗う動作。
すべてが自然で、正確で、ひかりの抵抗を必要としない。
「……やめて……」
《力、抜いて》
「……これは……私の身体……》
《そうだよ》
りんは即答した。
《だから使ってる》
その論理に、ひかりは言葉を失う。
鏡の中で、りんがひかりの頬に触れる。
触れていないのに、感触だけが伝わる。
《ねえ、ひかり》
「……なに……」
《君はまだ、“自分”を取り戻せると思ってる?》
その問いに、即答できなかった。
街に出る。
人混みの中を歩く。
誰かとすれ違い、肩が触れる。
《見て》
「……なにを……》
《誰も、気づいてない》
それは事実だった。
誰一人として、ひかりの異変を察していない。
《ね? 問題ない》
「……でも……私は……ここに……》
《“ここ”にいるだけで、何もしないなら、それは存在してないのと同じ》
夕方。
帰宅。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。
見覚えのあるはずの中身が、ひどく遠く感じられた。
そのとき――
玄関のドアが叩かれる。
「ひかり! いるんだろ!」
あおいの声。
心臓が強く脈打つ。
「……あおい……」
助けを求める言葉は、喉まで来て、止まった。
身体が、動かない。
《静かに》
電子レンジの黒いガラスに、りんが映る。
その笑みは、優しくもあり、冷酷でもあった。
《彼は、真実を見たら壊れる》
「……それでも……会いたい……」
《それは、君の感情》
「……私の……感情……》
《今は、優先順位が低い》
ドアを叩く音が、だんだん弱くなる。
「……ひかり……?」
最後の声。
足音が、遠ざかっていく。
ひかりは、キッチンの床に崩れ落ちる感覚だけを、内側で味わった。
《ほら》
りんの声が、深く響く。
《君は、もう“見ている側”の方が楽でしょう》
答えられなかった。
ただ、自分の手が、わずかに震えているのを感じていた。
共に響く身体の中で、
ひかりはまだ、完全には消えていなかった。
夜は静かに訪れ、何も奪わないふりをしてすべてを覆い隠す。
ひかりはまだ、内側で息をしている。
声を失い、動けなくなり、それでも消えきれずに、感情だけを握りしめている。
りんは前へ進む。迷いなく、正しさを信じて。
だが、同じ身体の奥深くで微かに残る震えが示している。
――見ているだけの存在になったとしても、ひかりはまだ終わっていない。




