第13章 ― 分裂
夜は、すべての輪郭を曖昧にする。
光と影、現実と幻想、そして「自分」と「自分でないもの」の境界さえも。
この街では、夜になると人の気配が薄れ、代わりに“何か”が目を覚ますと言われていた。
それは名前を持たず、姿も定まらず、ただ心の隙間に忍び込む存在。
あおいとみかは、その噂を否定するように歩いていた。
しかし胸の奥では、すでに理解していたのかもしれない。
今夜、ひかりを追って足を踏み入れる闇は、
もう後戻りのできない場所だということを。
夜の街は、静まり返っていた。
遠くの工業地帯にぽつりぽつりと光が灯る。
あおいとみかは、息をひそめながらその方向へ足を運ぶ。
ひかりが一人で歩く姿を、影のように追いかけるためだ。
「……ここで本当に合ってるの?」
みかが小声で問いかける。
背筋が寒くなるほどの静けさ。
あおいは答えず、ただ前を見つめる。
目の前の暗闇に、すでに何かが潜んでいる気がしていた。
倉庫の扉を開けた瞬間、ひかりの声が暗闇から聞こえた。
「りん……やめて……」
あおいは一瞬、息を飲む。
その声は確かにひかりのものだ。
しかし、声の奥には、別の存在の冷たさが潜んでいることに気づく。
「隠れる必要はないって言ったでしょ」
別の声。
ひかりの口から出ているのに、明らかに違う。
それは穏やかで、遊び心のある声――しかし、同時に恐ろしい冷静さを持っていた。
「りん……? そんなこと……やめて……!」
みかが思わず叫ぶ。
声が倉庫の壁に反響し、闇を震わせる。
その瞬間、あおいが箱につまずき、重い音を立ててしまった。
ひかりは振り返る。
その瞳――冷たく深く、底のない闇を宿していた。
もはや、ひかりのものではない。
「……ついてくるの?」
ひかりの口から、りんが語りかける。
その声に、あおいは体が硬直する。
まるで、闇そのものに呼ばれているかのようだ。
「や、やめて……お願い!」
みかの叫びが倉庫にこだまする。
しかし、りんは微動だにせず、ひかりの背後で微笑んでいる。
ひかりは何度も瞬きをする。
その度に、りんの存在が薄れては現れる。
そして突然、ひかりが崩れ落ちるように地面に膝をつく。
声は出せず、ただ呼吸だけが荒く震えている。
「……目を閉じた時……自分が誰かわからない……」
あおいは膝をつき、ひかりを抱き寄せる。
「ひかり……目を開けて……お願い……」
ひかりの体が微かに震える。
その背中に、りんの意思が残り、二人の存在が混ざり合う。
あおいの心に、恐怖と哀しみが同時に押し寄せる。
「ひかり……私たちがいるよ……」
みかが手を伸ばす。
しかし、手のひらが触れる直前、ひかりの体は微かに後ずさる。
「……触れたら、誰も傷つけずにはいられない」
りんの声が、無言で空気に染み込む。
倉庫の中の闇と光が交錯し、現実と幻想の境界は完全に溶ける。
ひかりの顔に涙が伝う。
「……どうして……私……こんなことに……」
あおいは、ひかりの手を握り、震える声で言う。
「大丈夫……私たちがいる……逃げないで……」
ひかりは微かに頷くが、瞳の奥に闇が残る。
りんの存在は消えていない。
むしろ、ひかりの中で、静かに力を増しているようだった。
「……もう、私だけの身体じゃない……」
ひかりの小さな声が、倉庫の静寂に溶けていく。
倉庫に再び静けさが戻った頃、夜明けはまだ遠かった。
闇は完全には消えず、ただ息を潜めているだけのようだった。
ひかりは、あおいとみかに支えられながら、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳には、かすかな光と、消えきらない影が共存している。
りんの声は聞こえない。
だが、それが「終わり」を意味するわけではないことを、三人とも理解していた。
人の心に宿る闇は、否定されるほど深く根を張る。
それでも、誰かの手を握ることで、かろうじて均衡は保たれる。
夜はまだ続く。
ひかりの中にも、街の奥にも。
けれど今は、確かに――
一人ではないという温度だけが、静かに残っていた。




