第10章 ― 見すぎた者たち
静かな日常の中に、違和感はいつもひそやかに潜んでいる。
見てはいけないものを見てしまった者、
気づいてしまったがゆえに引き返せなくなった者。
影は、必ずしも闇から生まれるわけではない。
守るために、耐えるために、
そして――独りで生き延びるために。
これは、
**「見すぎてしまった者たち」**が、
もう元の場所へ戻れなくなる物語。
午後の図書館は、普段より静かだった。
机の上には、開きかけの本が一冊。
窓から差し込む光は柔らかく、埃の粒を浮かび上がらせている。
だが、ひかりの目は、光ではなく“影”に注がれていた。
あおいは、書棚の陰に身を潜め、ひかりの動きを観察していた。
幼い頃からの知り合い。
そして、嘘を見抜く能力だけは誰にも負けない。
ひかりは独り言をつぶやいていた。
言葉は微かで、音になっていない。
その声に、あおいは思わず息を呑む。
「……疲れた……もう……逃げられない……」
声の主は、ひかりだ。
しかし、窓ガラスに映る反射には、もう一人の少女――りんが立っていた。
ひかりの背後で、穏やかに微笑む影。
あおいは視線を固める。
この瞬間、確信した。
――ひかりは、もう一人じゃない。
心臓の鼓動が早くなる。
だが、身体は動かない。
嘘をつくことも、声をかけることもできない。
あおいの存在は、“傍観者”に変わっていた。
翌日。
白崎みかは、あおいと合流し、ひかりの行動を探る。
二人の視線は、互いに確認し合うように、ひかりを追う。
学校の廊下を歩くひかり。
足取りは軽くも、どこか慎重で、微妙な緊張が見える。
クラスメイトたちは、いつも通り笑って話している。
だが、ひかりの視線は、常に周囲の“隙間”に向けられていた。
「あれ……声が……聞こえるの?」
あおいが小声で問いかける。
ひかりは立ち止まり、呼吸を整える。
窓ガラスの向こう、りんはひそやかに囁く。
「もし言えば……彼らは苦しむ」
言葉は冷たく、現実を凍らせるように重かった。
ひかりの肩が小さく震える。
声は出ない。
ただ、目だけであおいを避ける。
放課後。
三人は学校の裏門から出る。
人通りの少ない道。
影が長く伸び、夕日の光が赤く染める。
「……ひかり、私たち……」
あおいの声は震えていた。
みかも、慎重に距離を保つ。
ひかりは、足を止める。
背後で、影の存在が微かに揺れる。
りんが、ひかりの意思とは独立して行動している感覚。
「……ただ疲れただけ」
ひかりは呟く。
しかし、その声は、微妙に二重に響く。
一つは彼女自身。
もう一つは、りんの意志が混ざっている。
あおいは歯を食いしばる。
――信じられない。
しかし、目の前の現実は否定できない。
「……やっぱり、私たちは……知らなすぎた」
みかの声が震える。
二人は、ひかりに介入する決意を固める。
その瞬間。
空気が、微かに振動する。
影が揺れる。
りんの存在が、視界の端で動いた。
「……危ない」
あおいは体を前に出す。
みかも続く。
ひかりは一歩後ずさる。
りんの瞳は冷たく、しかし守護者のように安定している。
「……触れたら、誰も傷つけずにはいられない」
りんが、低く囁く。
それは、忠告ではなく、絶対の事実。
あおいとみかは、一瞬立ち止まる。
世界が静止したように感じる。
目の前のひかりは、もう単なる友人ではない。
沈黙が、数秒、数分に感じられる。
「……ひかり……お願い……話して……」
あおいの声が、絞り出すように聞こえる。
ひかりの視線は落ちる。
胸の奥で、決断が迫る。
――誰を守る?
――誰を傷つける?
影の力は、既に現実に介入している。
しかも、彼女の意思を超えて。
そして、ひかりは口を開く。
「……もう、私だけの問題じゃない……」
窓ガラスに映る影が、わずかに笑う。
りんの笑み。
「その通り。私たちは、共に生きる」
言葉は柔らかいが、重みは鋼のようだった。
夕日が沈む。
三人の少女。
一人は影を抱えた少女。
二人はそれを見守る者。
それぞれの目に、恐怖と理解が交錯する。
あおいとみかは知っていた。
これから何が起きるか、誰も知らない。
ただ一つ分かっているのは――
――ひかりは、もう以前のひかりではない。
――そして、りんは決して消えない。
二つの存在の共存は、始まったばかりだった。
静かに、夜が街を包み込む。
影と光の間で、少女たちの物語は、新たな章へと進む。
その夜、誰も声に出しては語らなかった。
だが、沈黙の中で、三人は同じ事実を理解していた。
ひかりは選ばれたのではない。
追い込まれ、分かたれ、
それでも生きるために“共存”を選んだのだ。
りんは消えない。
影は、もう隠れる存在ではなくなった。
そして、見てしまった者たちもまた、
傍観者ではいられなくなる。
理解は、救いになるとは限らない。
だが――知らないままでいるより、残酷な真実はない。
静かな夜の底で、
光と影は並び立ち、次の選択を待っている。
物語は、
ここから本当に動き出す。




